マーシャル・プラン

 このページは、マーシャル・プランについて研究者が詳細に解説したページである。マーシャル・プランの作成過程や影響について論述している。マーシャル・プラン解説の決定版。さらにトルーマン・ドクトリンについて知りたい方はこちら

 第一項 マーシャル・プランの起源

 

 トルーマン・ドクトリンは、ギリシアとトルコへの援助をとりあえず議会に認めさせることを主目的としていたが、実はその陰でギリシアとトルコ以外の国々に対する戦略的対外援助も同時に検討されていた。他の援助対象国が同時に検討されていたのは、ギリシアやトルコの問題が両国だけにとどまる問題ではなく、本当はアメリカの世界戦略の中に位置付けられる問題であるとアチソンが考えていたからである[i]

 この節で分析するマーシャル・プランはトルーマン自身が提唱した案ではないが、トルーマン・ドクトリンに引き続き重要な宣言であることは間違いない。後述するが、実はマーシャル・プランはもともとトルーマン自身が発表するはずであった。またトルーマン・ドクトリン作成の主要関係者も多く関与している。さらにトルーマン自身もその重要性を認めていることから、マーシャル・プランに関するレトリック戦略を分析することは本論文にとって不可欠である。

194735日の国務・陸・海三省調整委員会の席上で、アチソンは、「[ギリシアとトルコに対する援助と]類似の財政的、技術的、そして軍事的支援を必要とする世界のあらゆる場所の状況」を研究すべきだと提言した。この提言を受け入れた国務・陸・海三省調整委員会は、311日、特別委員会を設置し、どのような国々がアメリカの援助を必要とする可能性があり、アメリカはどのような目的で援助を行うべきかを検討した[ii]。こうした検討はマーシャル・プランの下地となった。

1946年から1947年にかけて、欧州は、戦争による荒廃に加え、例年にない厳しい冬を迎えていた。燃料となる石炭は不足し、電力も滞りがちで、パンを作る小麦にも不自由し、バターさえも満足に入手できない程であった。さらにアメリカからの借款も底をつきかけていた[iii]

1947年にヨーロッパの経済状況を視察したウィリアム・クレイトン(William L. Clayton)経済問題担当国務次官補は、5月に次のような覚書を国務省に送付した。この覚書の日付については明確ではないが、少なくとも527日以前には国務省内で回覧されていた[iv]

 

 「合衆国による迅速かつ実質的な援助なしでは、経済的、社会的、そして政治的な解体が欧州を覆い尽くすことになるでしょう。それは、将来の世界の安全と経済にとって暗い見通しになり、我が国の経済にも甚大な影響が及ぶでしょう。何としてもそのような事態は阻止するべきです」[v]

 

 このクレイトンの覚書は、ヨーロッパに対する大規模な援助が必要であることをマーシャルに痛感させた[vi]。特にアチソンは、クレイトンの報告をマーシャル・プランの「実質的なアウトライン」[vii]と評価した。先述の国務・陸・海三省調整委員会の検討に加え、マーシャルはケナンを責任者とする政策企画本部を設置し、ヨーロッパに対する援助計画の具体策を検討させた。

マーシャル・プランの端緒は、公的にはアチソン国務次官が194758日にクリーブランドで行った演説である。この演説はもともとトルーマン自身が行う予定であった。しかし、演説を依頼したセオドア・ビルボ(Theodore Bilbo)上院議員は、議会の中でも悪名高い人種差別主義者だったので、トルーマンは国内の政治関係に悪影響を及ぼすことを憂慮して自ら演壇に立つことをとりやめた。そこでトルーマンはアチソンを代役として派遣した[viii]

58日の演説でアチソンは、欧州経済を立て直し、健全化することがアメリカの追求するべき基本的目的であると述べている。この演説で特に注目すべき点は、旧敵国であるドイツと日本の再建が欧州とアジアの再建には不可欠であると述べた点である[ix]。このアチソンの演説は、トルーマン・ドクトリンによって共産主義の脅威に完全にとらわれてしまった国民の目を、現実的な対外援助の重要性に向けさせる役割を果たした。アチソンの演説を聞いてヴァンデンバーグ上院議員は、議会の承認無く援助を約束することは、トルーマン・ドクトリンで示された超党派的な精神を損なうものだと批判した[x]

 

第二項 マーシャル・プランの草稿作成過程とその内容

 

 一方で、アチソンの演説を見たジョセフ・ジョーンズ(Joseph M. Jones)は、アメリカが反共主義と帝国主義を展開しようとしているというソ連のプロパガンダに対抗するために、「外国の聴衆を主な対象とした魅力的で感情的、そして心理的なアピールに富んだ新しい演説を国務長官が行う必要がある」[xi]と考えた。そして、アチソンの演説をさらに発展させ、欧州は、アメリカの提示する復興計画の下に一つにまとまるべきだという考えを、マーシャルがウィスコンシン大学で行う予定の演説の草稿に盛り込んだ。

 ウィスコンシン大学での演説は予定変更で中止されることになったが、ジョーンズは他の演説の参考になるはずだと考え、草稿をアチソンに送付した。アチソンはジョーンズの草稿を読み、さらなる検討を加え、マーシャルにジョーンズの草稿に沿った内容の演説をするべきだと進言した。その一方で草稿作成を見ていたクリフォードは、この草稿はトルーマン自身で発表すべきであり、トルーマン・コンセプト、もしくはトルーマン・プランと呼ぶべきだとトルーマンに提言した。しかし、トルーマンは「もし我々が私の名前を冠したプランを共和党が支配する議会に送りつけたら、彼らは破り捨てるだろう。そのプランをマーシャル・プランと呼ぶことにしよう」[xii]と言ってクリフォードの提言を斥けた。トルーマンは、この草稿にトルーマンの名を冠するよりもマーシャルの名を冠するほうがよいと判断した。なぜならマーシャルは共和党員に大きな影響力を持っているので、プランに対する支持を集めやすいとトルーマンが考えたからである[xiii]

ジョーンズの草稿は、ケナンの案と多くの類似点があったが、ケナンの案よりも先に提出された。欧州が一つにまとまるべきだというマーシャルの考えはケナンの案によるものではない。最終的にはマーシャル自身が、ソ連専門家で外交官のチャールズ・ボーレン(Charles E. Bohlen)の助言を受けながら演説草稿を練った[xiv]

ジョン・ギンベル(John Gimbel)は『マーシャル・プランの起源』[xv]で、マーシャルが行った演説は、ケナンを中心にした政策企画本部の報告とアチソンが行った58日の演説、そしてクレイトンの覚書の寄せ集めであると論じている。さらにギンベルは、ケナンの案とクレイトンの覚書の根本的な違いを指摘している。ギンベルによれば、ケナンの案では欧州のイニシアティブが強調されているのに対し、クレイトンの覚書ではアメリカによる欧州の救済という姿勢が強調されている。結局、マーシャルはクレイトンの覚書を中心に据えて演説草稿を作成したという[xvi]

しかし、一方でマイケル・ホーガン(Michael J. Hogan)は『マーシャル・プラン―アメリカ、イギリス、そして西欧の復興』[xvii]で、ボーレンがケナンの案とクレイトンの覚書の両方に大きく依拠して草稿を練ったと指摘している。さらにホーガンはケナンの案がジョーンズを含め関係者に大きな影響を与えたと指摘している[xviii]。しかし、ジョーンズの場合は、ケナンの案よりも先に草稿を書き上げているので必ずしもそうとは言えない[xix]。ギンベルもホーガンもジョーンズの関与について明確には言及していないが、ケナンの案とアチソンの演説、そしてクレイトンの覚書に加えてジョーンズの草稿も、マーシャル・プランの草稿作成に大きく貢献したことを見逃してはならない。

このような経緯を経て194765日にマーシャルは、ハーバード大学で「マーシャル・プラン」として知られるようになる演説を行った[xx]。マーシャルは、まず欧州の経済的崩壊について述べ、もはや欧州には食糧やその他の必需品を購買する余力が残されていないと演説した。さらにマーシャルは、「悪循環を断ち切り、欧州諸国と欧州全体の経済的未来に対する欧州の人々の自信を回復させることこそ改善策である」と述べ、「政治的安定と確かな平和なしでは成り立たない世界の経済的な健全性を取り戻すために」アメリカはできることをすえるべきであると公表した。そして、マーシャルは欧州の自発的意志が必要であると示唆している[xxi]。この点についてはケナンの案を取り入れている。

マーシャルの演説は、欧州の窮状に対して明白なアプローチを示したとして受け止められた。しかし、議会にプランを認めさせるようにトルーマン政権はさらなる働きかけをしなければならないと多くのコメンテーターが論じた[xxii]。また世論調査では、マーシャル・プランについて聞いたことがあるか、または読んだことがあると回答した者は半分に達しなかった。またその中でマーシャル・プランに賛成すると答えた者は57パーセントであった[xxiii]

 

第三項 トルーマンによるマーシャル・プランの位置付けとその評価

 

 マーシャル・プランの命名の経緯からも分かる通り、共和党に支配されていた議会とトルーマンは極度の緊張関係にあった。そのためトルーマンは一歩身を引いて、マーシャル・プランに関する世論を喚起する役割をアチソンに一任している。アチソンは全国的な遊説旅行を行い、マーシャル・プランの意義を国民に訴えかけた[xxiv]。もちろんトルーマンも手をこまねいていたわけではない。19471219日にトルーマンは、議会でマーシャル・プランに関して演説を行っている。その主要部分は以下の通りである。

 

「我々の決断は、ヨーロッパ大陸の多くの人民の未来を大きく左右するだろう。世界の自由諸国が、独立国家として希望に満ち溢れた平和と繁栄の未来を望むことができるか、それとも横暴な全体主義の侵略の脅威と貧困のうちに生きなければならないかは、我々の決断にかかっているのである。(中略)。もしヨーロッパが復興できないならば、ヨーロッパの人民は、自暴自棄の哲理に駆り立てられることになる。その哲理とは、全体主義の管理下に基本的権利を投げ出すことによってのみ基本的欲求が満たされうるという哲理である。そのような展開は、世界の平和と安定にとって強烈な一撃となるだろう」[xxv]

 

基本的な論理構造は、トルーマン・ドクトリンで展開された「自由か死か」という構造を踏襲している。この部分は、もともと経済的崩壊が全体主義をもたらすという単純な表現だったが、エルゼイがクリフォードに修正を提案した結果改められた[xxvi]

ヨーロッパを援助しなければならない理由を人道主義だけに結び付けるのではなく、世界の平和と安定、ひいてはアメリカ自体の安全と結び付けることによって、トルーマンはマーシャル・プランに対する議会と国民の支持を得ようとしている。援助するか、援助しないかという二者択一を提示し、後者を効果的に抹消することで、他の手段を選択する可能性を未然に排除し、かつ援助することに正当性を与えようとする手法である。

トルーマンが議会に伝えようとしていたことは、第一に西欧の民主主義国家の存続を脅かしているソ連が、結果的に、アメリカの安全保障も脅かすことになること、第二にマーシャル・プランが欧州の中でも西欧に限られるようになったのは、ソ連の妨害と拒絶が原因であること、そして第三にトルーマン・ドクトリンがもはやギリシアとトルコだけにとどまらず、西欧全体にも適用されることの三点であった[xxvii]

 特に第三点はマーシャル・プランがトルーマン・ドクトリンの拡大適用であることを認めている。これは、トルーマン・ドクトリン発表直後、トルーマン・ドクトリンはギリシアとトルコに対する限定的な措置にすぎないと拡大適用を否定した立場からの脱却を示している。それは、もともとマーシャル・プランの目的が、マーシャル自身の言葉にもあるように、世界経済の健全性、すなわち自由貿易を通じてアメリカが主導する国際経済に欧州を組み込むことであったにも拘らず、議会が関税障壁の緩和を認めず[xxviii]、その目的を前面に出すことができなくなったからである。もしマーシャル・プランが、アメリカが主導する国際経済に欧州を組み込むという目的を前面に押し出した計画であれば、トルーマン・ドクトリンの拡大適用とは言えない。しかし、その目的をあくまで追求すればマーシャル・プラン自体が議会の反対により頓挫する恐れがある。それを避けるためにはマーシャル・プランをトルーマン・ドクトリンの拡大適用として位置付けるほうが現実的だったのである。

そのためトルーマン大統領は、マーシャル・プランを、単にヨーロッパを援助する人道的な計画ではなく、世界の平和と安定、ひいてはアメリカ自体の安全と結び付く計画として位置付ける作戦を代わりに採用した。議会はマーシャル・プランがどの程度の費用を要するのかという点を当然、問題にしたが、費用の見積もりを求められたケナンは、欧州への援助はお金の多寡の問題ではなく、政治的、かつ心理的な問題だと反論した。そして、欧州を援助するかどうかは、単に欧州だけの問題ではなく、我々自身の問題だと論じている[xxix]。ケナンは、マーシャル・プランの意義を議会が正確に理解していないのではないかと危惧していた[xxx]

後に回顧録の中でトルーマンは、マーシャル・プランの意義を「この計画こそ欧州を経済不況から救い、ソ連の共産主義の奴隷化から救ったのであった」[xxxi]と語っている。当時も名指しこそしていないものの、1948317日の聖パトリックの日の演説で「ある国が協力を妨害した。かの国は、弱い隣国がマーシャル・プランに参加するのを妨害し、マーシャル・プランが成功するのを邪魔しようと全力を尽くしている。それだけではない。かの国は着実にその手を隣国に伸ばしつつある。それは悲劇の歴史である」[xxxii]と暗にソ連を非難している。アメリカがソ連を非難する正当性を得るためにマーシャル・プランを利用した一面がある。

聖パトリックの日の演説でトルーマンは、マーシャル・プランをトルーマン・ドクトリンの所産であるとし、チェコスロバキアがマーシャル・プランに参加しようとしたのをソ連が妨害したと非難している。この演説でトルーマンは、欧州がなぜ平和の鍵となるのかを国民に説明し、平和は話し合いだけではなく、努力、すなわちマーシャル・プランによって達成されると国民を納得させようとした[xxxiii]

エルゼイは、クリフォードに対して「聖パトリックの日の演説において、大統領は、自身の威信と合衆国の威信のために、強い調子の演説をしなければならない」[xxxiv]と述べている。さらにエルゼイは、チェコスロバキアの共産化以後[xxxv]、より強い外交政策が求められていると主張した。そして、「大統領にとって最も強い演説はソ連関係についての演説である。この主題[を取り上げること]により、今回の演説が強い演説になる、おそらく唯一の最善の機会が生まれる」[xxxvi]と提言している。

 

第四項 「欧州の自由への脅威」演説

 

 1948317日にトルーマンが議会で行った「欧州の自由への脅威」演説はそうしたマーシャル・プラン実現を促す最後の呼びかけであった。1948123日のケナンのメモによると、ケナンはある記者から国務省がマーシャル・プランの戦略的重要性について議会に十分に説明しきれていないのではないかという指摘を受けた。ケナンは、既に重要性を判断するに足る事実を議会に十分に与えているが、議会はマーシャル・プランの重要性を十分に理解しているとは確かに言えないと答えている[xxxvii]

 しかし、19482月にチェコスロバキアで勃発した共産主義者のクーデターは、マーシャル・プラン実現を後押しする結果となった。マーシャル・プランに反対を唱えていたロバート・タフト(Robert A. Taft)上院議員が、クーデターの勃発を欧州の重大な危機だと判断し、マーシャル・プランを支持する側に転じたのである。タフトは共和党の中でも影響力のある議員であり、そのタフトが賛成に転じたことは超党派外交政策の実現を可能にした[xxxviii]

 多くのアメリカ国民の間では、世界が混沌に飲み込まれるという不安と、それに対して大統領は何も有効な対策をとっていないという不満が広まりつつあった。また議会でのマーシャル・プランに関する審議がこれ以上長引けば、欧州の国々はアメリカの言動に対して不信感を強める恐れがあった。こうした事態を打開するために「欧州の自由への脅威」演説が行われたのである[xxxix]

 「欧州の自由への脅威」演説の中では共産主義の脅威を訴えるレトリックだけでなく、これまでにはほとんど見られなかった、ソ連の横暴を直接糾弾するレトリックが随所に鏤められている。この演説の草稿を作成したのは、前半がクリフォードとボーレンであり、後半がマーフィーとデイヴィッド・ベル(David Bell)ホワイトハウス特別補佐官である[xl]

 

「今日の世界情勢は、大戦に引き続く、数々の当然の難事の結果ではない。それは主にある国が、公正かつ信義ある平和を樹立するために協力することを拒むのみならず、あまつさえ積極的に妨害しようとしているという事実の結果である。議会は事の顛末をよく知っているはずだ。あなた方の知っている通り、誠実さと忍耐をともないつつ、民主主義国家は交渉と調和を通じて平和の礎を確かなものとしたのである。会談に次ぐ会談が世界のいろいろな場所で行われた。公正な平和を樹立しうる礎の上に、戦争から生じた諸問題を解決しようとしてきた。あなた方も、我々が直面した障害を知っているはずだ。歴史は、世界の民主主義国家の信念と高潔さの顕著な例を示している。我々が得た調和は、不完全かもしれないが、もし保たれていたならば公正な平和の礎を備えていた。しかし、調和は保たれてはいない。調和は一貫してある国により無視され侵害されてきたのである。議会は国連の発達についても知っているはずだ。世界の大部分の国々は国連に集って、力ではなく法に基づく世界秩序を打ち立てようと試みた。国連を支持する構成国の大部分は、誠実かつ率直に国連を強め、よりよく機能するように求めたのである。だがある国が拒否権の濫用によって国連の仕事を絶え間なく妨害している。その国は、わずか二年間で二十一の行動計画案に拒否権を発動している。しかし、それだけですべてではない。戦争の終結以来、ソ連とその工作員は、東欧の一連の国家の独立と民主的気質を破壊した。まさにこれは無慈悲な活動である。そして、その他のヨーロッパ自由諸国にこのような活動を広げる明らかな陰謀があり、今日のヨーロッパに重大な状況をもたらしている」[xli]

 

「ある国」とはもちろんソ連のことに他ならない。拒否権の濫用をした国はソ連以外にないからである。国連は、トルーマンが強調していたように、あくまで平和共存のための場であった。その国連で拒否権を濫用するソ連の行為の意図が、諸国家の普遍的な願いである平和共存を妨害することにあると聴衆に推論させるようになっている。さらに、平和共存を妨害しようとするソ連が、ヨーロッパ自由諸国に「無慈悲な活動」を行うために「明らかな陰謀」をめぐらすのも当然であると聴衆に納得させようとしている。陰謀説の根拠を説明したのが次のフレーズである。

 

「ソ連とその衛星国に、ヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)に協力するように要請した。彼らはその要請を断った。それどころか彼らはヨーロッパ復興計画に対して暴力的な敵意を示し、失敗に終わらせようと企てた。彼らの目には、この計画は、ヨーロッパの自由社会を服従させようとする陰謀の障害物として映ったのである」[xlii]

 

ここではヨーロッパ支配をもくろんでいるが故に、ヨーロッパ復興という人道的な試みを妨害しようとするソ連の姿勢が説明されているわけだが、そのヨーロッパ復興計画には、ソ連とその衛星国が参加を拒否せざるを得ないような条件が多く含まれていた[xliii]。ソ連によるマーシャル・プランの「妨害」は、ソ連が「西欧の民主主義国家の存在を脅かす侵略的な大国であり、それは合衆国の安全保障への脅威ともなる」[xliv]根拠として利用されている。もちろん「欧州の自由への脅威」演説の目的は、単にソ連の脅威を訴えることにあったわけではない。そのさらなる目的は最後の部分で明らかにされている。

 

「我々は戦争防止の手段としての軍事力の重要性を悟った。もし我々が平和を保ちたいのであれば、平和な時代でも、健全なる軍事システムが必要であるということが分かった。過去の侵略者達は、我々の明らかな軍事力不足につけこんで無思慮にも戦争に突入した。侵略者達は、我々の強さを見くびったために破滅することになったが、我々は備えがないことで手酷い代価を支払うことになった」[xlv]

 

この部分からすると、演説の目的は、マーシャル・プランの早期実現だけではなく、さらにアメリカの軍事予算の増額や自由主義諸国への軍事援助の必要性を議会に認識させることにあったと言える。フランク・コフスキー(Frank Kofsky)は、『ハリー・S・トルーマンと1948年の戦争の脅威』[xlvi]で、1948年前半にトルーマンがマーシャルとジェームズ・フォレスタル(James V. Forrestal)海軍長官とともに、軍事予算の増額を認めさせるために、ソ連が西欧に侵略し、第三次世界大戦を引き起こそうとしていると議会や国民に信じ込ませようとしたと指摘している。

 1948331日、マーシャル・プランは議会を通過した[xlvii]。その後、マーシャル・プランは1948年から1951年の四年間にわたって実施された。管轄省庁として相互安全保障本部の前身組織である経済協力局が設立され、総額1315000万ドルにも達する援助が行われた。援助の内訳は、原材料と半加工品が33パーセント、食糧、飼料、そして肥料が29パーセント、機械と乗り物が17パーセント、燃料が16パーセント、その他日用品が5パーセントであり、主に欧州の危機的状況を救済し、生産基盤を復興させるための援助であった[xlviii]

援助を与える条件としてアメリカは、工業生産と農業生産の促進、通貨の信用性の回復と維持、欧州域内および他の国々との貿易促進の三つの条件を提示した。マーシャル・プランの対象となったのは、オーストリア、ベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、フランス、イギリス、ギリシア、アイスランド、イタリア、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、スイス、トリエステ、トルコ、西ドイツの国々である。

アメリカが提示した条件からは、世界的な自由貿易を安定させるために、欧州の経済的安定と参加が不可欠であるとアメリカが考えていたことが窺える[xlix]

こうした条件の下、実施されたマーシャル・プランは一定の成果をあげた。マーシャル・プラン対象国全体で、対戦前比で工業生産高が35パーセント増大し、同じく農業生産高は10パーセント増大した[l]。経済状態の好転にともなって、欧州諸国の軍事支出が増大した結果[li]、ソ連の大陸侵攻を抑止するというアメリカが意図した暫定的な目的は達せられたと言える。しかし一方で、マーシャル・プランの下、アメリカの経済システムに欧州を恒常的に組み込むという長期的な目的は、先述したように、議会が輸入品に対する関税障壁の緩和を拒否したために達せられたとは言えない。そのためマーシャル・プランに代わる恒常的なシステムが必要となった。それが後の北大西洋条約機構である[lii]。北大西洋条約機構については後述する。

マーシャル・プランについては、オーソドックス派とリヴィジョニスト派の解釈において大きな相違がある。オーソドックス派は、ソ連に拒否される可能性が高いことを認識しつつも、アメリカは真摯な姿勢でソ連にマーシャル・プラン参加を呼びかけたとみなしている。一方、リヴィジョニスト派は、マーシャル・プランが完全にソ連封じ込めを意図したもので、ソ連に参加を呼びかけたのは外交的策略にすぎないと見なしている[liii]

国務省は、寛大な条件を提示することにより、ソ連がマーシャル・プランに進んで参加できるようにした場合でも、ソ連の警戒心を弱めて軍備を削減させることができると考えていた[liv]。こうした国務省内部の考えからすると、リヴィジョニスト派の考え方が正しい。アメリカが、マーシャル・プラン参加を呼びかけることでソ連を油断させ、その軍備を削減させることは、すなわちソ連封じ込めを目的とした一種の策略だと言えるからである。



 [i] Draft Outline Notes for Mr. Acheson's Speech before the Delta Council, May 8, April 23, 1947

   in Truman Library Online Documents.

 [ii] John Gimbel, The Origins of the Marshall Plan (Stanford: Stanford University Press, 1976),

   pp.8-10.

 [iii] Herbert Feis, From Trust to Terror: The Onset of the Cold War, 1945-1950 (London: Anthony

   Blond, 1971), pp.233-34.

 [iv] Gimbel, The Origins of the Marshall Plan, p.13.

 [v] Joseph M. Jones, The Fifteen Weeks: February 21-June 5, 1947 (New York: The Viking

   Press, 1955), p.247.

 [vi] Legislative Reference Service, U.S. Foreign Aid: Its Purposes, Scope, Administration, and

   Related Information (New York: Greenwood Press,1968), p.35

 [vii] John Findling, Dictionary of American Diplomatic History (Westport and London:

   Greenwood Press, 1980), p.112.

 [viii] Clark M. Clifford, Counsel to the President : A Memoir (New York: Random House, 1991),

   p.143.

 [ix] Address by the Honorable Dean Acheson, Under Secretary of State, before the Delta Council

   of Cleveland, Mississippi, on May 8, 1947 in Joseph M. Jones File, box 1.

[x] Clifford, Counsel to the President, p.144.

[xi] Memorandum for the Files, The Secretary’s Harvard Speech of June 5, 1947 in Joseph M.

   Jones Papers, box 1.

[xii] Thomas G. Paterson,Presidential Foreign Policy, Rublic Opinion, and Congress: The

   Truman Years” in Diplomatic History, v.3 (1) Winter 1979, p.3.

[xiii] Ibid.

[xiv] Memorandum for Files, Re: The Secretary’s Harvard Speech of June 5, 1947 in Joseph M.

   Jones File, box 1.

[xv] John Gimbel, The Origins of the Marshall Plan (Stanford: Stanford University Press, 1976).

[xvi] Gimbel, The Origins of the Marshall Plan, pp.14-15.

[xvii] Michael Hogan, The Marshall Plan: America, Britain, and the Reconstruction of Western

   Europe, 1947-1952 (Cambridge: Cambridge University Press, 1987).

[xviii] Ibid., pp.41-43.

[xix] ジョーンズ自身は、「525日頃、ジョージ・ケナンが私の草稿といくらか似ているアイデアを

   含んだレポートを準備していると聞いた。ケナンのレポートが長官に届いたのは、私の草稿が届

   いた約一週間後のようだ。ケナンのレポートがどの程度、長官の演説に影響を与えたのか、私の

   草稿がどの程度、影響を与えたのかは分からない。ジョンソン(Joseph Johnson)は私に、長官は

   ケナンから欧州統合のアイデアを得たわけではないと請け合った」と述べている(Memorandum

   for the Files, the Secretary's Harvard Speech of June 5, 1947 in Joseph M. Jones Papers, box

   1)

[xx] ハリー・S・トルーマン『トルーマン回顧録』2、加瀬敏一・堀江芳孝訳(恒文社、1966)93-95

  頁。

[xxi] Speech by George C. Marshall, June 15, 1947 in Truman Library, Online Documents.

[xxii] Press and Radio Reaction to Secreatary Marshall's Harvard Address, June 5, 1947, June 13,

   1947 in Joseph M. Jones Papers, box 2.

[xxiii] Public Opinion News Service, July 23, 1947 in President Harry S. Truman’s Office Files,

   1945-1953 Part 1: Political File, Polls, 1945-1952.

[xxiv] Thomas Langston, The Cold War Presidency: A Documentary History (Washington: A

   Division of Congressional Quarterly, 2007), p.50.

[xxv] Special Message to the Congress on the Marshall Plan, December 19, 1947.

[xxvi] Memorandum for Mr. Clark Clifford, Draft of European Recovery Message, December 13,

   1947 in George M. Elsey Papers, box 19.

[xxvii] Dennis Merrill ed., Documentary History of the Truman Presidency, v.14 (Bethesda:

   University Publication of America, 1996), pp.109-110.

[xxviii] Richard M. Freeland, The Truman Doctrine and the Origins of McCarthyism: Foreign 

   Policy, Domestic Politics, and Internal Security, 1946-1948 (New York: Knopf, 1972), pp.326-

   327.

[xxix] Effect upon the United States If the European Recovery Plan Is Not Adopted, January 22,

   1948 in Department of State, Policy Planning Staff Papers, 1947-1949, v.2 (New York and

   London: Garland Publishing, Inc., 1983), pp.77-79.

[xxx] George F. Kennan, Memoirs: 1925-1950 (Boston: Little Brown & Company, 1967), p.405.

[xxxi] トルーマン『トルーマン回顧録』295頁。

[xxxii] St. Patrick’s Day Address in New York City, March 17, 1948 in Public Papers of the

  President of the United States: Harry S. Truman, 1945-1953 (Online).

[xxxiii] St. Patrick’s Day Speech in George M. Elsey Papers, box 21.

[xxxiv] Memorandum for Mr. Clifford, March 5, 1948 in George M. Elsey Papers, box 21.

[xxxv] チェコスロバキアは第二次世界大戦後、ソ連によってカルパト・ウクライナ地方を奪われ、マー

   シャル・プラン参加を妨害されていた。その影響を受けて共産党の人気は低落していた。1948

   年の総選挙で敗北が必至であると予想したチェコ共産党は、ソ連の後援の下、実力行使により一

   党独裁体制を樹立した(猪木政道「チェコスロバキアの悲劇―自由化と軍事占領」『それでもチェ

   コは戦う』(番町書房、1968)151-178)

[xxxvi] Information Committee, Department of State, Weekly Review, March 3, 1948 in George M.

   Elsey Papers, box 21.

[xxxvii] Kennan, Memoirs, p.405.

[xxxviii] Langston, The Cold War Presidency, p.50.

[xxxix] Proposed Program of Action by the President, undated in President Harry S. Truman’s Office

   Files, 1945-1953 Part 1: Political File, Strategy-General, 1948-1950.

[xl] Untitled Note in George M. Elsey Papers, box 21.

[xli] Special Message to the Congress on the Threat to the Freedom of Europe, March 17, 1948 in

   Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1948 (Washington:

   Government Printing Office, 1964), p.183.

[xlii] Ibid., p.184.

[xliii] 斉藤勝称「トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン―G.F.ケナンの『封じ込め』構想を中

   心として―」『大阪外國語大學學報文化編』v.431979年、56-57頁。

[xliv] Proposed Program of Action by the President, undated in President Harry S. Truman’s Office

   Files, 1945-1953 Part 1: Political File, Strategy-General, 1948-1950.

[xlv] Special Message to the Congress on the Threat to the Freedom of Europe, March 17, 1948 in

   Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman,1948, p.184.

[xlvi] Frank Kofsky, Harry S. Truman and the War Scare of 1948: A Successful Campaign to

   Deceive the Nation (New York: St. Martin’s Press, 1993).

[xlvii] Langston, The Cold War Presidency, p.50.

[xlviii] Legislative Reference Service, U.S. Foreign Aid: Its Purposes, Scope, Administration, and

   Related Information, p.41

[xlix] Lorna Morley and Felix Morley, The Patchwork History of Foreign Aid (Washington:

   American Enterprise Association, 1961), p.21.

[l] Ibid., p.22.

[li] Hogan, The Marshall Plan, p.393.

[lii] Freeland, The Truman Doctrine and the Origins of McCarthyism, p.319.

[liii] William Cromwell, “The Marshall Non-Plan, Congress and the Soviet Union” in The Western

   Political Quarterly, v.32 (4) December 1979, pp.422-43.

[liv] Untitled Report, June 12, 1947 in Joseph M. Jones Papers, box 2.


ハリー・トルーマン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究