職業経験(合衆国憲法成立以後)


連邦上院議員
 1790年11月9日、欠員に伴ってヴァージニア州議会がモンローを連邦上院議員に選出した。12月6日、モンローは初登院した。モンローは上院を一般に公開するように初めて提案している。モンローはハミルトンの政策を上院だけではなく、数多くのパンフレットや新聞の論説などで攻撃した。1792年には、ハミルトン元財務長官の公金運用問題に関する上院委員会の一員となっている。モンローは、ジェファソンやマディソンと連携して民主共和派を徐々に形成するようになった。
 1793年4月22日、ワシントン政権がフランス革命戦争に関して中立を宣言した。当初、モンローはこの中立宣言を支持していたが、次第に反対するようになった。大統領に中立を宣言する権限を認める前例を作ることによって、議会の宣戦布告する権限が侵害されると恐れたためである。また大統領が宣戦布告を正当化する前例として利用する危険があるとも考えられたからである。
 独立戦争後も残っている懸案事項を解決するために、ハミルトンがイギリスに特使として派遣されるという噂が流れた時、モンローはワシントン大統領に抗議の手紙を送っている。民主共和派は、ハミルトンを頭とする連邦党が過度に親英的であると疑念を抱いていたからである。
 1794年5月28日、モンローはフランス全権公使の任命を受けて上院議員を辞任した。ワシントンはモンローが民主共和派として現政権の諸政策に反対していること、そして親仏的であることを認識していたが、フランスとの関係改善を図るためにモンローを駐仏アメリカ公使に任命したのである。またジョン・ジェイを駐英アメリカ公使に任命する一方で、モンローを駐仏アメリカ公使に任命することにより中立宣言を批判する民主共和派を宥めるという目的もあった。

駐仏アメリカ公使
ラファイエット夫人を救出
 1794年6月19日、ボルティモアを出港したモンローは8月2日、パリに着いた。ロベスピエールの恐怖政治が終焉を迎えた直後であった。8月15日、国民議会はモンローを公使として接受した。接受は非常に華々しいものであったので、その報せを受け取った国務長官エドモンド・ランドルフは、中立国であるアメリカの公使として過度にフランスに肩入れするような姿勢を示すべきではないと説諭している。
 モンローの考えでは、恐怖政治の終焉による新政府の樹立は関係改善の好機であった。フランスとの友好関係を維持しながら、アメリカの中立を維持する方途をモンローは模索した。それと同時に、モンローの注意はフランス革命に関する悪い印象を払拭することに向けられた。モンローはアメリカに向けた多くの書簡の中でフランスが共和主義と安定に向かって進歩していることを強調している。
 モンローは、牢獄からトマス・ペインを解放するように働きかけている。『コモン・センス』の作者で知られるペインはパリに移住し、ルイ16世の処刑に反対したために収監されていたのである。ペインの他にもすべてのアメリカ市民も解放するように働きかけている。11月4日に解放された後、ペインは約1年半、公使邸に滞在し、ワシントン政権を非難する文章を発表した。特に、牢獄からすぐに解放されるようにワシントンが取り計らわなかったことをペインは槍玉にあげている。モンローはペインの活動を抑えようとしたが、悪評が本国に伝わることは避けられなかった。
 外交官の任務としてアメリカ市民を救い出すことはまだ容易であったが、フランス市民を救い出すことは用意ではなかった。モンローの友人であるラファイエットの妻が処刑の候補者として収監されたのである。夫人だけではなくラファイエット自身も異国の地で収監されていた。
 モンローは友人の妻を救出したいと考えたが、両国間の関係を損なわないために公的に介入することは難しかった。そこで妻エリザベスを外交官用の馬車に乗せてラファイエット夫人のもとへ行かせることにした。その話がパリ市民の間に広まって同情論が高まったお蔭で、モンローはラファイエット夫人を解放させることに成功した。
その他の業務
 旅券の取り締まりは公使の重要な職務であった。この頃、フランスを旅行する外国人、特にイギリス人によるアメリカ旅券の不正使用が横行していた。モンローはそうした不正使用を減らすように努めた。
 その一方で、フランスの各港に配置された係員を監督して、アメリカ船の船長や船主がフランス政府に抑えられた貨物を取り戻す手助けをした。フランスに滞在しているアメリカ人の便宜を図った。またフランスで教育を受けているアメリカ人子弟にも気を配らなければならかった。
召還
 両国の関係は改善に向かいつつあるとモンローは信じていたが、その一方でフランス政府が不安定であるためにその友好関係は確かなものではないとも考えていた。そうした状況の下で、ジェイ条約締結に関する情報が広まった。それはフランスのアメリカに対する態度を硬化させた。
 フランス政府は、ジェイ条約が米仏同盟に付随する義務を何ら損なうものではないと保証する様にモンローに求めた。モンローは条約の内容を確認するためにジョン・ジェイに条約の写しを送るように依頼した。しかし、ジェイは、条約が米仏同盟に付随する義務を損なう条件を含まないと請合ったものの、上院に承認されるまで条約の内容は秘密であるとしてモンローの依頼を拒絶した。
 「ジェイ条約は、私がジェイの派遣で恐れていたものよりもはるかに恐ろしいものだ。本当に、それは私が今まで聞いた中でも最も恥ずべき交渉だ」と書き留めているように、モンロー自身もジェイ条約を快く思っていなかったが、駐仏アメリカ公使としてそれを公的に表明することはなかった。フランス政府は、アメリカが米仏同盟を破棄してイギリスと手を組むのではないかという疑いを強めたが、モンローにはそれを晴らすことができなかった。
 その一方で、ワシントン政権は、フランスの非難からジェイ条約を擁護する役割をモンローに期待したが、モンローはその役割をほとんど果たすことはできなかった。そのため、1796年8月22日、ワシントンはモンローの召還命令を出し、「フランス政府の思いのままになる単なる道具」と厳しく叱責した。11月、召還命令がモンローのもとに届いた。そのためモンローは12月30日、フランス政府に離任を伝えた。
 1797年1月20日から2月8日にかけて、オランダとベルギーを旅行した後、4月9日に、モンローを乗せた船はボルドーからアメリカに向けて出港した。

ヴァージニア州知事
帰国
 1797年6月27日、モンローはフラデルフィアに到着した。アダムズ政権下でモンローの居場所はなかったが、ジェファソンとマディソンを筆頭とする民主共和派からはまるで英雄の帰還のような歓待を受けた。
 フィラデルフィアに滞在している間、モンローはフランスにおける自分の行動を擁護し、召還命令を出した政権を批判するパンフレットの執筆にとりかかった。これは12月に「合衆国外交における大統領の指導に関する考察」という題で出版された。
ハミルトンとの衝突
 ハミルトンとの衝突の発端は『1796年のアメリカの歴史』という本であった。この本はハミルトンの不倫問題を暴露しただけではなく、それが汚職と関係していることを示唆していた。
 実は1792年12月15日に、モンローは2人の議員とともに汚職の嫌疑でハミルトンのもとを訪れている。その際に、汚職の嫌疑を晴らすため、ハミルトンは自らの不倫を告白した。モンローは他の2人とともにハミルトンの告白を口外しないことを誓った。そして、モンローは証拠文書の写しを預かった。
 こうした経緯から、ハミルトンは不倫の証拠文書をモンローが作者に横流ししたのではないかという疑いを抱いた。この問題をめぐるハミルトンとモンローの確執は決闘寸前まで紛糾したが、幸いにも決闘は立ち消えになった。モンローは生涯にわたって証拠文書を横流しした事実はないと一貫して否定している。
ハイランドに移転
1798年8月、ヴァージニアに戻ったモンローは弁護士業を再開した。そして、1799年11月23日、完成したハイランド(現アッシュ・ローン)に移転した。ハイランドはシャーロッツヴィル近郊にあり、ジェファソンの設計に基づいて建設された。モンローの公職からの引退期間は、1799年12月5日にヴァージニア州知事に選ばれたことによって終わりを告げた。
外国人・治安諸法に対する抵抗
 州知事としてモンローは最初の州刑務所と兵器庫の建築を監督した。兵器庫の建築は、ヴァージニア民兵の兵装を近代化する計画の一環であった。モンローは新たな兵器の調達や製造契約に従事している。
 連邦政府を去ってヴァージニア州議会議員となっていたマディソンは、1800年1月7日、ヴァージニア州議会に外国人・治安諸法に関する報告書を提出した。マディソンの報告書はモンローの指示によって広く配布された。
ゲーブリエルの陰謀
 モンローの州知事在任中に起きた最大の事件であるゲーブリエルの陰謀である。ゲーブリエルの陰謀はアメリカ史上、最も大規模な奴隷反乱の1つである。その中心人物はゲーブリエルという名の1人の奴隷である。1800年8月30日、ゲーブリエルとその追随者達は武装して州都のリッチモンドの襲撃に向かった。武器庫を制圧し、州知事を拘束して奴隷解放を約束させるつもりであった。しかし、この計画に参加していた1人が一味から抜け出し、あらましを奴隷主に告げたことで事件が発覚したのである。
 翌日昼にはモンローのもとに事件の報せが届いた。モンローは州の非常事態を宣言したうえ、すぐにヴァージニア民兵を招集して一味を取り囲んだ。ゲーブリエルが行方をくらましたのでモンローは300ドルの懸賞金をかけた。結局、ゲーブリエルは仲間に裏切られて逮捕された。30人から40人の黒人奴隷が逮捕されリッチモンドの牢に投獄された。
 1800年10月10日、ゲーブリエルは死刑に処された。ゲーブリエルの他にも26人が処刑された。モンローはそうした処置に関して「この場合、慈悲と厳罰のどちらが良い方策かを言うことは難しいが、疑惑が残るのであれば前者を採るがよいだろう」と述べている。また12月5日、モンローは危機が過ぎ去ったことが、同じような危機は今後、またいつ起こるかは分からないとヴァージニア州議会に警告している。不幸にもモンローの警告は後に現実のものとなった。
奴隷制問題
 ゲーブリエルの陰謀は奴隷制問題を改めて認識させる契機となった。奴隷制をどう扱うべきかについてモンローとジェファソンは内密の書簡を交わしている。
 モンローはヴァージニア州の奴隷解放を促進するために、自由黒人を西部に移すべきだと主張した。そして、ジェファソンに解放した奴隷を移住させる土地を見つけることができるように協力を求めている。数多くの解放奴隷を移住させるのに適当な土地は見つからないとジェファソンは回答している。そして、もし適当な土地があったとしても、アメリカの周辺よりもできるだけ離れたアフリカのどこかにするべきだと述べている。両者の内密の書簡は1816年に再発見され、アメリカ植民地協会結成の重要な契機となった。
1801年の危機
 1800年の大統領選挙の結果、ジェファソンとアーロン・バーが同数の選挙人を獲得していることが判明した。そのような場合、連邦下院の裁定に委ねられることが憲法で規定されている。民主共和派は、下院がバーを大統領に選び、ジェファソンから大統領の椅子を奪うのではないかと恐れた。
 モンローはワシントンの情報を素早く知るために早馬を整備して動静を注意深く見守った。ジェファソンが選に漏れた場合に備えて民兵を招集するようにモンローに助言する者もいた。しかし、モンローは、ヴァージニア州議会の特別招集を準備するだけにとどめた。結局、下院の36回にも及ぶ決選投票の結果、ジェファソンが無事に大統領当確となり、モンローの危惧は杞憂に終わった。
1802年12月9日、ヴァージニア州知事の任期が終了し、モンローは弁護士業を再開した。しかし、公職から離れていた期間は束の間のことであった。

駐仏特使
 1803年1月12日、ジェファソン大統領はモンローをニュー・オーリンズと西フロリダWest Floridaの購入交渉を行う特使に任命した。さらにスペインとも交渉を行う必要性から3月2日、モンローは重ねてスペイン特使に任命された。1803年1月13日付の手紙でジェファソンは、「すべての目とすべての希望が今、君に向けられている」と述べ、さらに「この任務に我が共和国の未来の命運がかかっている」とモンローを激励している。
 3月8日、ニュー・ヨークを発ったモンローは、4月12日、パリに到着し、ロバート・リヴィングストンと合流して交渉の任にあたった。
 モンローは、ナポレオンの申し出を受け入れるようにリヴィングストンを促した。ルイジアナ購入は本国の指令を逸脱する行為であり、越権行為ととられかねなかった。しかし、ジェファソンはモンローとリヴィングストンのルイジアナ購入を歓迎した。ルイジアナ購入の成功はモンローの名声を大いに高めた。

駐英アメリカ公使
 ルイジアナ購入を取りまとめた後、今度は駐英アメリカ公使としてモンローはパリを出発し、1803年7月18日、ロンドンに赴任した。モンローの使命は、強制徴用の停止と失効を迎えるジェイ条約に代わって新たな条約を、通商上、できるだけ有利な条件を付けて、イギリスと締結することであった。しかし、ヨーロッパでの戦争に没頭していたイギリスは、アメリカの主張にほとんど耳を傾けようとしなかった。イギリスとの交渉に見切りをつけたモンローはスペインに向かうことにした。
 1805年7月23日、モンローはマドリッドからロンドンに帰着した。翌1806年8月27日、モンローは、イギリスと通商条約締結交渉を開始した。交渉を支援するためにウィリアム・ピンクニーがモンローのもとに派遣された。交渉の結果、12月31日、両者はイギリスと、フランスの植民地と本国間の貿易にアメリカ船が従事することを認める通商条約を締結した。イギリスは新条約締結には乗り気であったが、強制徴用停止は頑として拒んだ。最終的にモンローは、強制徴用停止の確約を取り付けるように指示されていたのにも拘らず、アメリカ市民を傷付けないように最大限配慮して強制徴用の権利を行使するとイギリス政府に言明させたにとどまった。
 モンローとピンクニーは所定の目的を果たさずに条約を締結したことを十分に理解していたが、両国間の諸問題を解決する契機となることを望んで締結に同意したのである。さらにモンローにはヨーロッパ諸国間の外交関係に根差した思惑もあった。アメリカがイギリスに接近する姿勢をちらつかせれば、それを妨害しようと考えてフランスやスペインもアメリカとの交渉に応じるようになるだろう。さらに、フランスやスペインが交渉に応じるようになれば、イギリスもアメリカの気を引こうとして交渉に応じるようになる。 
 しかし、こうしたモンローの思惑をジェファソン大統領も国務長官マディソンも理解できなかった。そのため条約の草案を受け取った両者はそれを上院に上程せずに廃案とすることに決定した。その代わりに交渉を再開するようにモンローとピンクニーに指示した。
 モンローは交渉再開をイギリス側に要請したが拒否された。さらにチェサピーク号事件Chesapeake Affairsが勃発したために両国の関係は決裂した。最終的にモンローは両国の関係修復を断念し、1807年10月29日、母国に向けてロンドンを発った。そして、同年12月13日に帰国した。

スペイン特使
 1804年10月8日、ロンドンを発ったモンローは、10月24日、パリに到着した。そして、12月2日にノートル・ダム大聖堂で行われたナポレオンの戴冠式に出席している。その後、家族をパリに残し、12月8日、マドリッドに向けて出発した。スペイン特使としてモンローに課せられた使命は、スペイン人によって接収されたアメリカ人の船舶や貨物に対する補償を求めることと西フロリダを獲得することであった。フランスに1ヶ月以上滞在している間、モンローは、スペインとの交渉に関してフランスの支持を得ようとしたが失敗している。
 1805年1月1日にマドリッドに到着し、チャールズ・ピンクニーと合流した。アメリカ側の主張は、スペインがフランスにルイジアナを割譲した際に、西フロリダもその一部として含まれているはずなので、ルイジアナ購入の結果、西フロリダも当然、アメリカの領土と見なされるという論理である。もちろんアメリカ側もこの主張が通るとは思っていなかった。しかし、今後のスペインとの交渉に有利にはたらくと考えたのである。結局、スペインとの交渉は実を結ばず、1805年5月26日、モンローはマドリッドを後にした。

ヴァージニア州知事
マディソンとの衝突
モンローはイギリスとの通商条約を廃案にした件で、当時、国務長官だったマディソンを非難した。そのため4月頃には両者の仲は決裂した。両者の間の亀裂をさらに深めたのが1808年の大統領選挙である。
 ヴァージニア州の保守的な民主共和党員はマディソンの政権継承に不信感を抱いていた。
1808年1月21日、そうした一派がモンローを大統領候補に擁立しようとした。この時、モンロー自身は大統領の椅子が獲得できるとは全く思っていなかった。しかし、こうした動きはモンローにとってジェファソンとマディソンの外交政策に対する抗議の表明であった。その一方でモンローは、マディソンとの意見の相違は外交政策に関してのみであり、その他の問題についてはすべての点で一致していると述べている。最終的にはジェファソンの影響の下、後継者はマディソンに決定した。 
 ジェファソンも通商条約を廃案にした張本人であるが、マディソンに比べて目上という意識が強かったのでモンローは非難の矛先をジェファソンに向けなかったと考えられる。結局、両者を仲裁する労をとったのもジェファソンである。まずマディソンはモンローにルイジアナの長官職就任を打診した。その申し出をモンローは和解の証だと考えたが就任を断った。権力の中枢から離れた役職であり、国務長官ロバート・スミスの下風に甘んじるのを好まなかった。
私財の整理
 1808年夏、モンローは私財の整理のためにケンタッキーに向かった。もしモンローが大統領の椅子を真剣にねらっていたのであれば、2ヶ月間もヴァージニアを留守にすることはなかったはずである。独立戦争の報奨としてケンタッキーとオハイオにある土地がモンローに与えられていた。できればその土地を売却して利益を得ようとモンローは考えたのである。しかし、結局、適当な買い手を見つけることはできなかった。
 モンローは熱心に自分が所有する農園を管理していたが、公職のために、いつも自ら管理に携わることができたわけではなかった。さらに他のヴァージニアの農園主と同じく、旱魃、穀物価格の低迷、土地価格の下落などに見舞われ資金繰りに悩んでいた。そのため土地の売却益で何とか借金を返済する必要があった。こうした現象はその当時のヴァージニアでは珍しくなかった。
 さらに外交官としてモンローがヨーロッパに滞在している間、公使としての体面を保つために政府が支給する以上の費用を自費で賄う必要があった。これは当時では特に珍しいことではない。しかし、もともと財産があまりなかったモンローにとってヴァージニアの上流階級の生活を維持することは経済的に非常に負担となった。
3ヶ月間の在任
 モンローは1810年4月にヴァージニア州議会議員に選出された。その後、ヴァージニア州知事に選出され、1811年1月18日から着任した。州知事として4選目である。
 その頃、マディソン大統領は国務長官ロバート・スミスに不満を抱いていた。スミスはしばしば職務を遅滞させたので、マディソン自ら国務長官の職務を果たさなければならないほどであった。そこでマディソンはスミスを退任させモンローの助けを求めることにした。またモンローの国務長官就任は民主共和党内の派閥対立を宥める効果も望めた。連邦党の再興を抑えるために民主共和党内の調和は是非とも必要であった。マディソンの求めに応じるために、4月3日、モンローは州知事を辞任した。任期は僅かに3ヶ月間であった。

国務長官
対英関係
 1811年4月6日、モンローは国務長官に就任した。その頃、ヨーロッパでナポレオンは絶頂期を迎えていた。ナポレオン戦争によってアメリカの中立を脅かす様々な問題が生じた。
 モンローが国務長官に着任する前、議会はメーコン第2法を可決している。それは、フランスとイギリスのいずれかがアメリカの船舶を拿捕する命令を撤回しなければ、アメリカは通商断絶で以って報いる権限を大統領に与える法律であった。
 後に誤報であることが判明したが、ナポレオンがアメリカに対してベルリン勅令を破棄したという報せを受けたマディソンは、イギリスとの通商を停止することを宣言していた。こうした状況下で国務長官として最も優先すべき課題は対英関係の改善であった。
 モンローは新たに着任した駐米イギリス公使オーガスタス・フォスターと交渉を開始した。フランスに向かうアメリカ船舶の拿捕を停止するようにアメリカ側は要求した。モンローはフランスとイギリスを両天秤にかけて有利な条件を引き出そうとしたが、フォスターはフランスが実質的に通商規制を撤廃していないと主張した。またイギリス政府は、アメリカの考えをフランスに示すまではいかなる交渉にも応じないと返答した。
 最終的にモンローは、「[戦争をしても]現状よりも我々が被害を受けることはない」と述べているように、戦争が避けられないと悟るようになった。タカ派の中で人気が高いモンローが国務長官として在任していることで、マディソンは対英政策を円滑に進めることができた。イギリスとフランスに対してもっと強い姿勢を示すべきだという共通見解を抱くようになった。
 モンローは交渉の過程におけるアメリカ側の努力を一連の新聞の論説で発表した。さらにもし戦争になった場合もアメリカが迅速に勝利を収めるという見込みを示している。モンローは、当時の多くのアメリカ人と同じく、英領カナダの防備が脆弱で容易く制圧できると思っていた。さらに英領カナダの返還を条件としてアメリカの中立国としての権利の尊重と強制徴用停止を確約させることができるとモンローは考えていた。
イースト・フロリダ侵攻を黙認
 1811年、議会は、もしイースト・フロリダの総督が併合に合意するか、もしくはイースト・フロリダが他の外国勢力の手に落ちる可能性があれば、併合を試みる許可を与えた。そうした議会の承認の下、マディソン政権は元ジョージア州知事ジョージ・マシューズを西フロリダに派遣した。
 1811年6月28日と8月3日の2度にわたってマシューズは、スペイン総督がイースト・フロリダ併合に同意しないことをモンローに報告した。さらにマシューズは現地の住民がスペインに対して反乱を起こしそうだが、ほとんど支援を受けられずにいると報告した。マシューズの報告にモンローは返答を与えなかった。マシューズはモンローが自分の行動を黙認していると判断して、1812年3月18日にイースト・フロリダ侵攻を開始した。
 イースト・フロリダ侵攻を知ったモンローはマシューズを非難したが、撤退命令は出さなかった。モンローは「今や事ここに至っては、前進するよりも後退するほうが危険でしょう」と述べている。
1812年戦争
 戦争が始まると、在米イギリス人の登録や戦争捕虜の交換の他、主だった仕事はなかった。戦争遂行に関してもっと積極策をとるようにというモンローの進言はマディソンに受け入れられていないように思えた。閣僚の中での自らの役割にモンローは疎外感を強め、軍を指揮する役割を担いたいと考えるようになった。モンローを最高司令官に据えるという計画もあったがマディソンはそれを採用しなかった。
 戦争が進展する一方で、和平交渉の兆しが見え始めると、モンローは使節団に指示を与える責務を担った。1812年6月26日、モンローは駐英アメリカ公使ジョナサン・ラッセルに1806年枢密院令の撤回と強制徴用の停止を条件にイギリスと休戦を協議するように訓令している。譲歩として、アメリカ船舶によるイギリス水兵の雇用禁止とアメリカが被った損害賠償の取り決めを先送りすることを提示した一方で、モンローは、イギリスによる脅威がない限り、フランスと同盟する気がないことを示唆した。イギリスはこの申し出を拒否した。これにより早期休戦の道が絶たれた。
 1814年8月、イギリス軍がメリーランド州沿岸に上陸した。さらにイギリス軍はワシントンを攻撃する構えを見せた。かねてよりモンローはその危険性を陸軍長官に指摘していたが受け入れられなかった。そこでモンローは、8月20日、自ら数十名の騎兵部隊を率いてワシントンから偵察に出発した。22日、敵軍がワシントンを目指している可能性が高く、公文書類を移動させ、防備のために橋を落とす準備をしておくべきだとモンローはマディソンに警告した。
 24日、モンローはマディソンとともに、ワシントン周辺管区指揮官のウィリアム・ウィンダー将軍の本営にいた。敵軍がブレーデンズバーグに向かって進軍中との報を受けると、モンローは前線にいるスタンズベリー将軍のもとへ一足先に向かった。そして、軍の第2陣の配置を指揮官の許可無く変更した。こうした行為は越権行為であった。

陸軍長官
陸軍長官代理
 モンローは国務長官に在任のまま陸軍長官代理を2度にわたって務めている。1度目は1812年12月19日から2月5日にかけてである。陸軍長官ウィリアム・ユースティスは戦争遂行を続行する自信を失って辞職した。ユースティスの代わりにモンローが陸軍長官代理を兼ね、モンローの願望はかなうように思えたが、ジョン・アームストロングがすぐに後任に指名された。モンローはアームストロングの能力を評価していなかったので、苛立ちは強まる一方であった。
 またアームストロングも、ルイジアナ購入の功績をリヴィングストンから掠め取ったと信じてモンローに敵意を抱いていた。リヴィングストンはアームストロングの義理の兄弟である。
正式就任
 ブレーデンズバーグの戦いの後、アームストロング陸軍長官が辞職すると1814年9月3日から9月27日にかけて陸軍長官代理を務めた。さらに9月27日、マディソンはモンローをコロンビア特別区の司令官と陸軍長官に正式に任命した。そのためモンローは9月30日、国務長官を退任した。しかし、臨時国務長官として1815年2月28日まで留任したので、実質的に国務長官と陸軍長官を兼任していたと言える。
 陸軍長官としてモンローは徴兵を議会に提案したが失敗している。そのため土地を報奨として志願兵を募った。また陸軍省の再編を行い、滞りがちであった補給線が改善され、沿岸部の諸都市を防衛するための戦費も集まった。モンローの陸軍長官就任は戦争遂行の梃入れとなった。
戦争遂行の努力の一方で臨時国務長官としてモンローは、ベルギーのガンで行われていた和平会談で、強制徴用の公式な停止の要求を撤回するように伝える指示を起草している。

国務長官
 講和条約締結の報せが届いた後、モンローは国務長官に戻り、3月15日、陸軍長官を退任した。戦後の最優先課題は、戦争によって途絶したヨーロッパ諸国との外交関係を常態に戻すことであった。それに加えて、アメリカ人の国外での活動を支援するために領事制度の再建を図ることも重要な任務であった。他にもモンローは、1817年のラッシュ=バゴット協定に至る交渉に着手している。こうした閣僚としての目覚しい働きはモンローの衆評を高め、マディソンの後継者としての地位を不動のものにした。

ジェームズ・モンロー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究