職業経験(合衆国憲法成立以前)


陸軍将校
入隊
 1775年9月28日、モンローはヴァージニア第2連隊の中尉に任じられた。身長6フィート(約183cm)で広い肩幅に頑健な骨格を持つモンローはまさに軍隊向きであった。モンローがヴァージニア第2連隊に正式に入隊したかどうかは公式記録がないので明確ではない。しかし、ウィリアムズバーグの新聞がそれを伝えている。
 翌年2月、新たにヴァージニア第3連隊が編成されると同じく中尉として配属された。ウィリアムズバーグで教練を受けた後、1776年9月12日、700人の連隊兵とともにマンハッタン島に駐留していたワシントンの部隊に合流した。モンローは陸軍中尉の辞令を得た。
 その頃、アメリカ軍はイギリス軍とニュー・ヨークをめぐって攻防を続けていた。9月15日、イギリス軍はマンハッタン島のキップス・ベイに上陸を開始した。その周辺を守備していたコネティカット民兵は練度も戦闘経験も不足していたのでほとんど抵抗せずに撤退した。モンローが所属する部隊はキップス・ベイから離れた所に布陣していたので交戦する機会はほとんど与えられなかった。
 翌日、150名からなるコネティカットのレンジャー部隊が約1500名のイギリス軍と遭遇した。レンジャー部隊を救援するためにヴァージニア第3連隊から応援部隊が派遣された。その中にモンローは加わっている。戦闘の結果、コネティカットのレンジャー部隊と応援部隊の指揮官が戦死したが、敵軍を撃退することに成功した。約一ヶ月間、両軍は睨み合ったが、イギリス軍が側面を衝く構えを示したので、アメリカ軍は北方に兵を退いた。
 10月26日、モンローが属する部隊はイギリス軍に夜襲を仕掛け、自軍は全く戦死者を出すことなく損害を与えた。しかし、2日後の28日に起きたホワイト・プレーンズの戦いの主戦場には参加していない。ホワイト・プレーンズの戦いの後、アメリカ軍はイギリス軍の動きに備えるために大きく3つに分かれた。ヴァージニア第3連隊はワシントンに従ってニュー・ジャージーを横切ってフィラデルフィアに向かった。この行軍の最中、モンローの連隊の兵士達は次々と脱落し、僅かに200名を数えるほどになっていた。また将校の数も、11月初めには17名が任にあたっていたが、クリスマスの頃にはモンローを含め僅か5人の将校しか残っていなかった。
トレントンの戦いで活躍
 12月25日夜、トレントンに駐留するヘッセン傭兵部隊を急襲するためにアメリカ軍はデラウェア川を渡った。トレントンの戦いの始まりである。モンローは自分の部隊から離れて先にデラウェア川を渡っていた。そして、ウィリアム・ワシントン率いる先行部隊に将校として加わった。モンローは斥候としてトレントンに至る道を辿った。
 その途上、モンローは一人の医師と遭遇した。犬が吠える声で目を覚まし様子をうかがいに来たのである。モンロー一行の姿を認めると医師は自宅で食事を提供しようと申し出た。モンローはそれを断ったが、医師は自宅から食事を運び、さらに軍医として同行することを申し出た。この出来事が後にモンローの命を救った。
 そのままモンローは先鋒としてトレントンの町に北側から入った。ヘッセン傭兵が侵入してくるアメリカ軍に3ポンド砲2門を向けようとした。もし砲門が開けばアメリカ軍に甚大な被害が及ぶ恐れがあった。それを阻止するためにモンローはウィリアム・ワシントンの指揮下で強襲を仕掛けて大砲を奪取した。モンローは左肩に重傷を負ったが、先述の医師が幸いにも居合わせたために落命せずに済んだ。こうした活躍が認められて大尉への昇進が認められた。
療養とその後
 1777年1月から3月にかけて、モンローはペンシルヴェニア邦バックス郡で療養した。傷が癒えた後、モンローはヴァージニアで新兵を募るためにキング・ジョージ郡の各地に赴いたが1人の新兵も集めることができなかった。他の将校達も同様で、集めることができた新兵は僅かに15人であった。これ以上の募集は無益だと考えたモンローは、8月11日、ワシントンの本営に帰還した。ワシントンはモンローを陣営に迎え入れたが、与えるべきポストが特になかった。
そのためモンローはウィリアム・アレグザンダー将軍の副官を務めることになった。アレグザンダー将軍の下でモンローは1777年9月11日のブランディワインの戦いBattle of Brandywineと10月4日のジャーマンタウンの戦いの戦いに参戦した。この間、モンローは少佐に昇進している。副官としての職務は、大規模な軍事行動について得難い経験をもたらした。こうした経験は後の1812年戦争に役立った。またこの頃、ラファイエットとの親交を深めている。
 1777年から翌年にかけて、ヴァリー・フォージの冬営地での厳寒も体験している。冬の間、アメリカ軍は多くの兵士を失ったが、フィラデルフィアを撤退してニュー・ヨークに向かうイギリス軍を追尾した。イギリス軍は、フランス遠征軍との戦いに備えてニュー・ヨークに兵力を結集しようと意図していた。1778年6月28日に起きたモンマスの戦いでは、両軍ともに損失は数百名程度であり、お互いに決定打とはならなかった。
 自分の部隊を指揮したいとかねてからモンローは望んでいたが、それはかないそうになかった。指揮すべき軍隊よりも士官の数のほうがはるかに多かったからである。一時的な措置だと思って引き受けた副官の地位は、恒久的なものとなりそうであった。
 ヴァージニア邦が新たな連隊を編成するようだという情報を知ると、モンローは1778年12月20日(発効は1779年1月12日)、大陸軍を退役した。ワシントンはモンローを「あらゆる場合に彼は勇敢であり、活発であり、分別のある将校だという評判を保った」と評価している。
 大陸軍から退役後、モンローはヴァージニア邦軍Virginia State Lineの大佐として念願の自分の部隊を編成する許可を得た。しかし、残念ながら連隊を編成するに足る兵員を確保できなかった。自分の部隊を指揮するというモンローの願いは最後まで実現することはなかった。
退役後
 1780年1月、モンローはウィリアム・アンド・メアリ大学に一旦戻り、ヨーロッパで学ぶ計画を立てたが便船がないために断念した。またこの頃から1783年まで、その当時、邦知事を務めていたジェファソンの指導で法律を学んだ。「時間の使い方と計画を私の友であり、最も賢明で徳操優れた共和主義者であるジェファソン氏に示した。彼の助言でこれまで何とかやってこられた」とモンローは記している。ジェファソンは生涯にわたってモンローに大きな影響を与えた。
 3月、リッチモンドへ赴くジェファソンに同行するためにウィリアム・アンド・メアリ大学を去った。また6月から8月にかけて、軍監としてノース・カロライナ邦に滞在した。

ヴァージニア邦議会議員
 1782年4月4日、ヴァージニア邦議会議員に選ばれた。さらに6月7日、ヴァージニア邦議会によって行政評議会の一員に選ばれた。この時、ジョン・マーシャルも行政評議会の一員であった。同月、モンローはヴァージニアの法曹界に加入している。

連合会議
西部に対する権利を擁護
 1783年6月6日、連合会議のヴァージニア代表に選ばれる。そして12月23日、モンローは他の代表達とともにアナポリスで大陸軍総司令官を退任するジョージ・ワシントンを迎えている。
 モンローは1784年6月から10月にかけて、五大湖とカナダ周辺を視察している。北西部領地の視察が主な目的である。またネイティヴ・アメリカンと諸邦の間の交渉の立会人も務めた。モンローは、西部がアメリカの将来の発展に重要であることを認識すると同時に、既に西部に居住している人々の権利の代弁者としての役割を務めた。また西部の土地を独立戦争の退役軍人に与えるように働きかけている。
 モンローはジェファソンと西部の管理について多くの見解を共有していたが、視察をして現状を知った後、ジェファソンの「西部領地のための政府案に関する報告」の実現性に疑問を抱き、例えば人口増加を待って徐々に邦の加盟を認めるなど別の政策をとるように連合議会に勧めた。西部における準州設置に関してはモンローの貢献によるところが大きい。
 1785年、外務長官ジョン・ジェイはスペインとの条約案を連合会議に提出した。それは、アメリカがミシシッピ川の自由航行権を断念する代わりに、スペインが貿易特権をアメリカに与えるという骨子であった。ジェイは数少ない西部の居住者の利益を守るよりも東部の商人の利益を獲得するほうが賢明だと考えたのである。モンローは一貫してその提案に反対を唱えた。スペインは貿易相手として見込みは薄いとモンローは思っていただけではなく、ミシシッピの自由航行権なしでは西部の発展は見込めないと固く信じていたからである。
 ジェイの提案に反対を唱えたのは主に南部諸邦である。南部からすれば、それは単に北部が南部の成長を阻害する試みに過ぎなかった。一方で提案を支持する北部諸邦は、南部は西部における利益を守ることしか眼中にないと非難した。モンローは反対派の中心となって条約の承認を阻んだ。
憲法制定会議への道筋を開く
 モンローはより強力な政治体制を築くために、連盟規約の修正を望んだ。ただ急進的ではなく穏健な手法をモンローは好んだ。1785年3月28日に行った報告では、通商問題を規定する権限を連合会議に与える一方で、関税を課する権限は各邦に残しておくべきだと主張している。しかし、こうした主張を実現に移すために積極的な動くことはなかった。
さらにモンローは通商問題の解決を連合会議以外の場で行うことが必要だと考えるようになっていた。そのため、マディソンに「我々の問題の中で最も重要な領域」と述べているように、1786年のアナポリス会議の開催にモンローは積極的に協力した。ニュー・ハンプシャー邦がアナポリスに代表を送らないことを知ると、モンローは知事に会議の重要性を訴えて翻意を促している。
 アナポリス会議から、13邦の代表からなる会議、いわゆる憲法制定会議の開催を求める報告書を受け取ったモンローは、それを検討する委員会の設立を連合議会に早速提議した。その結果、10月11日に委員会が設立された。モンローが任期を終えてヴァージニアに帰る数日前であった。それが連合会議でのモンローの最後の仕事となった。

ヴァージニア邦議会議員
連合会議の任期終了
 1786年10月13日、連合会議での任期が終了した。ヴァージニアに戻ったモンローはフレデリックスバーグに居を定め、法律事務所を開所し、検事にも指名された。1787年4月、モンローはヴァージニア邦議会議員に選出された。さらに同年7月11日、フレデリックスバーグの町議会議員にも指名されている。
ヴァージニア憲法批准会議
 1788年6月2日から6月27日かけて、モンローはヴァージニア憲法批准会議の代表を務めた。憲法批准会議で、モンローは連盟規約の欠陥を十分に認識していたのにも拘らず、パトリック・ヘンリーやジョージ・メイスンとともに批准反対派に回り、賛成派のマディソンと袂を分かった。
 モンローは、会議に参加する1週間ほど前にモンローは「憲法に関する考察」と題する草稿を準備している。それには憲法案へのモンローの反対意見がまとめられている。
 モンローの反対論の要点はいくつかある。憲法が、大統領や連邦議会の権力濫用を防止するための対策が不十分な点、連邦と州の間で衝突が起きることが予想される点、直接課税を認めている点、そして大統領に無制限に再選が許されている点などである。そして、特にモンローが強く主張した点は、合衆国市民の基本的権利の擁護がほとんど明記されていない点であった。憲法批准に反対票を投じたモンローであったが、新政府が樹立されることになると一転、支持に回っている。モンローの反対はヘンリーやメイスンに比べると強固なものではなかった。ヴァージニアにおける反対が、新政府に必要な憲法修正を促す契機となるとモンローは考えていたのである。それは後に、マディソンの提案によって権利章典という形で実現した。
連邦下院選挙に落選
 翌1789年2月2日に行われた連邦下院選挙でモンローは、マディソンに972票対1308票で敗れた。モンローの出馬は象徴的なもので、当選を期待していたわけではない。選挙活動で権利章典の必要性を唱えることで、マディソンに権利章典の早期提案を約束させることが目的であった。

ジェームズ・モンロー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究