政権の特色と課題


好感情の時代
民主共和党の一党支配
 1817年7月12日、ベンジャミン・ラッセルlがコロンビアン・センティネル紙で「好感情の時代」という言葉を始めて使った。1816年の大統領選挙後、連邦党は勢力を大幅に失い、実質的に民主共和党の一党支配となった。
 しかし、モンローは政策への支持を得るために党首としての影響力を議会に及ぼすスタイルはあまりとらなかった。それよりも個人的な接触や閣僚を通して影響力を行使するスタイルを好んだ。また閣議を活用してコンセンサスの形成に努めた。モンローは物事をあらゆる面から検討して結論を急がない性格であった。こうした手法は、政権末期に党派的な衝突が顕在化するまで有効に機能した。
 一時的な景気後退はあったが、アメリカの製造業は堅実な発展を示し、西部への移住も進んだ。この好感情の時代はミズーリ問題で一時期、中断され、さらに政権末期、次期大統領の選定をめぐる争いで完全に幕を閉じた。
慣例
 当時、大使達が出席する晩餐会に国務長官も同席することが慣例になりつつあった。他の閣僚達はその晩餐会に同席できないことを憤った。そのためモンロー大統領は閣僚達も同席できるように改めようとしたが大使達の反対にあった。大使達からすれば自分達が主賓であり、閣僚達の脇役にされたくなかったからである。そこでモンロー大統領は、閣僚達を交代で晩餐会に出席できるように方式を改めた。
 連邦議会の会期中、モンロー大統領は2週間に1度、接見会を行っている。正装をしていれば誰でもそれに参加できた。会はオーヴァル・ルームで行われ、大統領が立っている傍らに夫人と長女エリザが座っていた。そして、召使が軽食を配った。こうした接見会はジェファソンやマディソンの時代と比べて堅苦しいものであった。
巡行
 モンロー大統領はワシントン以来、初めて巡行を行った。巡行は1817年6月から9月かけて行われた。まずワシントンを出発し、沿岸部をメイン州まで北上した。さらに五大湖に沿って西の方デトロイトに向かった。それからオハイオ、ペンシルヴェニア、メリーランドを通って帰還した。巡行の目的は主に各地の要塞や港湾を視察することであったが、同時に地域的、党派的な緊張を和らげる効果もあった。こうした巡行は王による巡幸を思わせるものであったので批判もあったが、概ね好意的に受け入れられた。かつて連邦党が強い力を持っていたニュー・イングランドでも熱狂的な歓迎を受けた。ニュー・イングランドでモンロー大統領は各州の連帯を推進する演説を行い、アメリカ独立におけるニュー・イングランドの役割を称賛した。ボストンで独立記念日の祝賀会に参加し、ジョン・アダムズ元大統領と食事をともにしている。こうした一連の出来事を見てラッセルは「好感情の時代」という言葉を放ったのである。
 また1818年、チェサピーク湾周辺の軍事施設の視察が行われた。さらに1819年4月から7月にかけては南部と西部諸州の巡行が行われた。大西洋岸をジョージア州サヴァナまで南下した後、ナッシュヴィルに向かった。それから北方のケンタッキー州ルイヴィルに達するという旅程である。総距離は少なくとも約1800マイルにも及ぶ。

ホワイト・ハウス再建
 1812年戦争の兵火で焼失したホワイト・ハウスはまだ再建が完了していなかった。そのためモンロー一家はホワイト・ハウスの北東約1キロの所にある邸宅に約9ヶ月住んだ。
 1818年の新年祝賀会で、ようやく修復が終わったホワイト・ハウスのお披露目が行われた。新年祝賀会で一つ問題となったことは各国大使達の序列であった。もしそれを適切に決めなければ、国際的な緊張を引き起こすとモンロー大統領は危惧していた。そこでモンロー大統領は大使達を迎える新しい手法を導入した。一般客を迎える30分前に先着順で大使達を迎えることにしたのである。この手法は成功した。
 またモンロー大統領は兵火でほとんど失われていたホワイト・ハウスの調度品を整えた。議会が支出を認めた2万ドルはすぐに底を尽いた。こうした調度品を整えるための資金の管理についてモンローは非難を受けている。
フランスから調度品を取り寄せるためにモンローが作成したリストは、時計、銀食器、壁紙、コンソール・テーブル、ソファ、椅子、足載せ台、間仕切りなどに及んだ。モンロー大統領の嗜好は今でもホワイト・ハウス各所で認められるが、特にブルー・ルームに色濃く残されている。とはいえ、モンローが購入した調度品の量ではすべての部屋を飾るにはまだ不十分であり、幾つかの部屋はほとんど空であったらしい。
 1824年にはさらに半円形のイオニア式のポーチと階段が南側に増築された。ジェファソンをはじめ大部分の人々はこうした増築を大き過ぎるとして好まなかった。この増築により南が正面となり、リンカーン政権期まで訪問者は主に南から建物に入った。現在では、貴賓は北側から入り、それ以外の人々は南側から入る。

第1次セミノール戦争
 かねてよりスペインは、メキシコや西インド諸島にある植民地を守るためにフロリダ半島を確保することが不可欠であると考えていた。その一方でアメリカはフロリダ半島を併合することを望んできた。また外国勢力によるフロリダ半島の領有はアメリカの安全保障に対する脅威だとも考えられた。
 当然のことながらスペインはアメリカの要求を容易に受け入れようとはしなかった。モンロー大統領もスペインとその同盟国との戦争になるのは避けたいと考えていた。南部ではフロリダを獲得するために直接行動をとろうとする機運が高まっていた。
 1812年戦争以来、ジョージア州のアメリカ人はスペイン領フロリダのネイティヴ・アメリカンと衝突を繰り返していた。1817年、アメリカの居住民とセミノール族との戦闘が勃発した。モンロー大統領はジャクソンに兵士を召集して騒動を鎮圧するように命じた。ジャクソンはセミノール族をフロリダ半島南部のエヴァーグレイズに追った後、スペイン領フロリダの首都ペンサコーラを陥落させた。 
 こうしたジャクソンの作戦行動が越権行為と見なし譴責すべきであるという非難が高まった。モンロー大統領はそうした非難を黙殺し、占領地を返還したものの、確かにジャクソンは命令を逸脱したが、それが必要であると判断するに足る情報に基づいて行動したと議会に報告した。それは、事前にモンロー大統領に報告して内密の認可を得たうえで作戦を行ったというジャクソンの主張と食い違っている。晩年にモンロー大統領はジャクソンの主張を明確に否定する手紙を書き遺している。

ラッシュ=バゴット協定
 1812年戦争終結後、五大湖周辺でイギリスとアメリカの間で小さな事件が何度か起きた。それがさらなる衝突の引き金とならないように両国政府は五大湖周辺の非武装化に同意した。モンロー自身、国務長官時代にこの交渉を進めていた。

1818年の米英会議
 ガン条約で未解決の問題を話し合うために米英間で交渉が行なわれた。まず1812年戦争でイギリスによって連れ去られた奴隷を補償することが決定した。またアメリカはニューファウンドランド沖とマグダレン諸島沖の漁業権を獲得した。
 大西洋からオンタリオ湖に至るまでの地域に関してイギリスとアメリカの間で明確な国境線は定められていなかったため、ガン条約に、国境線を画定するための会議を行う条項が盛り込まれていた。しかし、この地域の国境問題は完全に解決されたとは言えず、1840年代後半まで問題が未解決のまま残った。
 一方、西部の国境問題では同意が成立した。北緯49度線に沿ってミシシッピ川の源流のウッズ湖からロッキー山脈まで西に広げることが認められた。
さらにオレゴンの両国による共同管理も定められた。アメリカはより明確な条項の取り決めを求めたが、イギリスは毛皮貿易の利益を守るために譲歩を拒んだ。共同管理はアメリカが最終的に望んでいることではなかったが、オレゴンに対するアメリカの領土主張が正当であるとイギリスが認めたに等しかった。しかし、長い間の懸案であった強制徴用問題に関する進展はなかった。

アダムズ=オニス条約
 第1次セミノール戦争を好機と捉えたモンロー大統領は、スペインがアメリカに譲歩せざるを得ないと考えた。さらにスペインは国内の情勢不安に悩まされていた。アメリカ人がスペインに対して求めている総額500万ドルの補償を肩代わりし、アメリカとスペインの国境をサビーネ川Sabine Riverと画定することを条件に、スペインはフロリダをアメリカに割譲した。その結果、現在のテキサスにあたる領域はスペインの下にとどまり、オレゴンに対するスペインの領土要求は撤回されることになった。
 しかし、事は簡単に終わらなかった。スペイン国王フラディナンド7世が翻意し、条約の批准を拒んだのである。アメリカ議会は、戦争に備え、フロリダを即座に占領しようとしたが、モンロー大統領は議会に行動に移るのを待つように説得した。最終的にフェルディナンド7世はフロリダを保ち続けることが不可能であることを悟り、1821年、条約の批准に同意した。

1819年恐慌
 1819年恐慌は、1780年代以来、最初の全国的な金融恐慌と言われる。それは第2合衆国銀行が土地投機を抑制するために西部の銀行への与信を過度に引き締めたことが引き金である。
経済に対して連邦政府は介入すべきではないという考え方が当時は一般的であったために、モンロー政権は1819年恐慌による景気後退を改善する策をほとんどとることができなかった。議会も債務者の救済のために公有地購入の関する支払い期限が延長する措置をとった他は抜本的な策を打ち出さなかった。
 モンロー自身はこうした景気後退は定期的に起こり得る自然な現象であり、国家経済は景気後退を乗り越える活力を十分に備えていると考えていた。各州の数々の試みもあって、1822年までには景気後退は回復した。しかし、恐慌による歳入現象のために、モンローが既に進めつつあった大規模な沿岸防備計画の縮小を余儀なくされた。

ミズーリ妥協
 1819年、奴隷州としてミズーリが連邦の加盟を申請すると、勢いを増しつつあった奴隷制反対論者達はそれに強く反対した。モンロー大統領は最初、そうした反対が政治的動機に基づくものだと思っていた。つまり、連邦党が奴隷制問題を利用して党を復活させようと目論んだと考えたのである。
 モンロー大統領はミズーリ問題に直接的に干渉することは控えたが、奴隷制廃止を条件としてミズーリに連邦加盟を認める法律には拒否権を行使すると言明した。州内で奴隷制を認めるかどうかを決定する権限はミズーリ州自体にあるとモンロー大統領は考えていたためである。しかしながら、最終的にはアメリカ全土で奴隷制が廃止されることをモンローは望んでいた。その一方で、モンローが最も恐れていたことは、奴隷制の是非をめぐって連邦自体が解体の危機を迎えることであった。
 それ故、メイン州を自由州として認める一方でミズーリに関しては規制を設けないという妥協、いわゆるミズーリ妥協をモンロー大統領は承認した。しかし、モンローは内心では、北緯36度30分以北で今後、新たな州が連邦に加盟した場合は、奴隷制を禁止することは憲法上、疑義があるのではないかと思っていた。この点は閣議でも話し合われた。ほとんどの閣僚はモンローと同様の疑義を抱いていた。最終的にモンローはこの点を未解決のままで触れないことに決定した。
 1821年8月10日、大統領の宣言によりミズーリは正式に連邦に加入した。ミシシッピ川以西における奴隷制全面禁止が回避され、議会での勢力均衡が保たれた。行政府による立法府への干渉という非難を受けないように、また妥協を支持することで自らの支持者を失わないように行動することは高度な政治的感覚を必要とした。

国内開発事業
 1824年3月30日、保護関税政策を擁護する演説の中で下院議長ヘンリー・クレイは「アメリカ体制The American System」という用語を使った。それは、主に2つの手段を通じて国家を強化することを目指した。第1に、西部開発を促進するために新しい運河と道路を建設といった国内開発事業を推進する。第2に、国内市場を育成し、北部の製造業の発展を促すために保護関税政策を採用する。
 国土の拡大と発展する経済を支えるために交通網を整備する必要があることは多くの人々が同意する共通認識であった。しかし、連邦政府の国内開発事業についてモンロー大統領は憲法の厳密な解釈に基づく疑義があると考えていた。こうした考え方はジェファソンやマディソンと同じである。1817年12月2日の第1一般教書で早くもその考え方を明言している。そして、連邦政府に国内開発事業を行う権限を与える修正を憲法に加えるように議会に勧告している。
 議会の大部分の議員達は憲法修正に難色を示したが、1822年にカンバーランド道路の修復と料金所の設置を認める法案を可決した。5月4日、モンロー大統領は同法案に対して拒否権を発動した。拒否通知書には長大な「国内開発事業問題に関する見解」が付されている。これはモンロー大統領が拒否権を行使した唯一の機会であった。
 「国内開発事業問題に関する見解」の中でモンロー大統領は、連邦政府が道路や運河を建設し管轄する権限はないと主張する一方で、議会には資金を調達する権限があっても、「共同防衛、地方ではなく国家一般の利益、州ではなく国民の利益という目的に沿って予算を配分するようにその責務によって制限される」と述べている。こうしたモンロー大統領の見解は中道的であり、1823年にカンバー・ロードの修繕に予算を付ける法案と最初の港湾法案を成立させる余地を残した。さらに1824年にモンロー大統領は国土調査法に署名している。国土調査法は道路や運河の測量のために政府の技師を使うことを認めた法律である。それは今後の国内開発事業の端緒となる法律であった。
 国内開発事業に関してアメリカ体制の実現は限定的であったが、クレイは保護関税に関してより多くの成功を収めた。1824年、議会が一般関税率を引き上げたからである。

モンロー・ドクトリン
モンロー・ドクトリン制定の背景
 1803年から1815年のナポレオン戦争の間、スペイン本国の混乱にともない、ラテン・アメリカの多くの植民地で独立の気運が高まった。ラテン・アメリカ諸国はブラジルを除いてアメリカに類似した共和制を採用した。モンロー大統領はラテン・アメリカの独立運動に対して好意的な見解を示したが、中立政策を維持した。そうした政策の下、モンロー政権は戦争からは距離を置いたが、革命政府にスペインに認めるのと同じ通商上の優遇措置を与え、交戦国の権利を認めるなど間接的な承認を行っている。
 こうした措置は、革命政府の独立を承認するだけではなく、直接的な軍事行動を求める人々を満足させることはできなかった。さらに議会からも独立諸国を早期に承認するように圧力を受けたが、アダムズ・オニス条約が確定し、独立諸国の体制が固まるまで機が熟していないと考えて承認しなかった。1822年3月8日、モンロー大統領はようやくラテン・アメリカ諸国の独立を承認する特別教書を議会に送付した。
 その一方で絶対君主制を布くロシア、オーストリア、プロイセンはヨーロッパにおける革命の拡大と共和制国家の樹立を妨げようとしていた。同様の措置が南北アメリカ大陸に対しても取られるのではないかとアメリカは危機感を強めた。さらにフランスをはじめとするヨーロッパ列強が、スペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかという憶測が流れた。
イギリスの打診
 これはアメリカだけではなくイギリスにとっても脅威であった。イギリスはラテン・アメリカ諸国と貿易を行っていた。もしラテン・アメリカ諸国が再びスペインの支配化に置かれれば、イギリスの貿易が途絶させられる恐れがあった。そこでイギリス外相ジョージ・カニングは、駐英アメリカ公使のリチャード・ラッシュに、ヨーロッパ諸国による南北アメリカの侵略に対して警告する共同声明を出すように持ち掛けた。
ジョン・クインシー・アダムズの提案
 1823年10月9日、ロンドンからラッシュの急信が届いた。11日、閣議で初めて対応策が協議された。ジョン・クインシー・アダムズ国務長官は「イギリスの戦艦の航跡に小舟で入るべきではない」と反対を唱えた。アダムズは、アメリカは独自にその立場を表明すべきだとモンロー大統領に勧めた。なぜなら、わざわざ協力関係を結ばなくても、イギリスは独自に海軍力を使って南北アメリカに対するヨーロッパの干渉を防止するだろうと考えたからである。またイギリスと協力関係を結ばずにおくことで、ヨーロッパ大陸の諸国と同じく、イギリスに対してもアメリカの声明を適用することができるという利点もあった。
 モンロー大統領は、ジェファソンとマディソンに助言を求めた。両者はイギリスからの提案を受け入れるように勧めた。11月7日の閣議で2時間半にわたって話し合いが行なわれた。モンローの見解は、共同声明の発表受諾に傾いていたが、結論は出なかった。
 11月21日、再び閣議が開かれた。その席上でモンロー大統領は、イギリスがスペイン領アメリカ諸国の独立を承認しない限り共同声明を行なわず、ヨーロッパ諸国の南アメリカに対する干渉に関してアメリカは独自の立場を示すべきだと決定した。またフランスによるスペイン介入への反対、ギリシア独立への支持、そして、ヨーロッパ諸国による北アメリカへの新たな植民を拒否することを表明すべきだとモンロー大統領は考えた。
 最終的に、1823年12月2日、第7次一般教書、いわゆる「モンロー・ドクトリンMonroe Doctrine」でアメリカ独自の立場が示された。モンロー・ドクトリンは当初は「モンロー氏の諸原則Mr. Monroe’s “principles”」、もしくは「モンロー宣言Monroe Declaration」などと呼ばれていた。モンロー・ドクトリンという名で知られるようになったのは1853年以降である。
 モンロー・ドクトリンは大きく3つの部分に分かれる。第1に、アメリカがヨーロッパの問題に関して中立を貫くという伝統的な政策を再確認している。第2に、西半球において、既存の植民地の問題に関してアメリカは干渉しないが、新たな独立諸国の再征服や君主制を樹立使用とする場合はアメリカに対する敵対行為と見なすと主張している。そして、第3に、主に北太平洋で勢力を伸ばすロシアに対して、西半球はもはや新しい植民地化に対して開かれていないことを断言している。
 フランスが、スペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかというモンロー・ドクトリンの契機になった問題は結局、イギリスが解決している。イギリスはフランスからスペインへの支援を行わないという約束を取り付けたからである。しかしながら、モンロー・ドクトリンによって定められた諸原則は、アメリカ外交の伝統的原則となり、世界におけるアメリカの立場を明示するものとなった。
 モンロー大統領は西半球の諸国がアメリカの例にならって共和制を確立するだろうと確信していた。そうした試みをヨーロッパ諸国が阻もうとすることは、単に西半球諸国の独立を脅かすだけではなく、共和主義に対する、ひいては共和主義の防壁たるアメリカ自体への攻撃だと見なされるとモンロー大統領は考えた。モンロー・ドクトリンにより、新世界の共和主義と旧世界の君主主義の間に明確な線が引かれたのである。しかし、一方で後世の歴史が示しているように、モンロー・ドクトリンはしばしば西半球をアメリカの勢力圏として認める根拠として言及された。

奴隷貿易禁止
 1818年、イギリスはアフリカの奴隷貿易を禁止するために、両国の船舶をお互いに臨検しあう提案をアメリカに行った。モンロー大統領は、イギリスが主催する奴隷貿易に対する国際的取締りへの参加を表明するようにアダムズに指示した。その結果、アメリカは少数の海軍をアフリカ海岸に派遣して、イギリス軍とともに奴隷貿易の取り締まりにあたった。しかし、アメリカは、イギリスのアメリカ船に対する臨検と捕らえた奴隷商人をアメリカの港以外に送ることを認めなかった。それは、アメリカが長らく強制徴用問題に悩まされていたからである。
 1820年5月15日、奴隷貿易を海賊行為と見なし、死刑で以って処罰する法案が成立した。さらに下院は、1821年12月、モンロー政権に臨検の権利を認めるように促し始めた。1822年4月、下院の委員会が、奴隷貿易を取り締まるためにヨーロッパの海運国とお互いに船舶を臨検しあうことを限定的に認めるように勧告した。さらに1823年2月28日、下院は奴隷貿易の禁止を促進するための条約締結を大統領に促す決議を採択した。
 こうした動きにともなって、イギリスと会議を行うことを勧めるアダムズの提案をモンロー大統領は閣僚に示した。閣僚の中でクロフォードとカルフーンが反対を表明したが、最終的にはアダムズの提案は受け入れられた。そして、1824年3月13日、駐英大使リチャード・ラッシュがそれをイギリス側に通達した。
 奴隷貿易に関する協定は円滑に進んだ。その結果、主に3つの取り決めがなされた。アフリカの奴隷貿易に従事する両国の国民は海賊として処罰を受けること、両国の海軍は協力して奴隷貿易の取り締まりにあたり、お互いに商船の臨検を許可すること、そして、拿捕した船舶はその本国で裁判を受けるために送還され、いかなる船員もその船舶から離すことを禁じることである。
 そもそも下院の動きに刺激されて協定の締結に着手したので、モンロー政権は上院からも容易に条約の承認を取り付けられるだろうと考えていた。しかし、南部の議員達はイギリスとの親善回復に疑念を抱いていた。なぜならイギリスの反奴隷制運動の趨勢が、奴隷貿易禁止のみならず、奴隷制の廃止にまで向かうことに警戒感を抱いていたからである。さらにそうした趨勢がアメリカにも飛び火しないかと危惧していた。こうした南部の反感のために条約は修正を加えたうえでようらく批准された。

リベリア植民地
 1816年12月、アフリカに黒人奴隷を送還することを目的とするアメリカ植民協会が結成された。 1817年11月、植民協会はアフリカ海岸の調査を行い、翌年1月、最初の植民者を送り出した。しかし、植民は困難を極め、死者が続出した。
 モンロー大統領はこの協会に積極的な支援を行った。1819年、議会は、同協会が黒人を移住させるための土地を購入する資金として10万ドルを与えることを認めた。1821年12月、同協会はモンロー大統領の支援で西アフリカに土地を購入することに成功した。その地はラテン語の「自由人liber」に因んでリベリアと名付けられた。さらに同地に建設された町はモンローの名をとってモンロヴィアと名付けられた。1800年代の終わりまでに1万2000人から2万人程度の黒人がリベリアに移住したが、アメリカ全土の黒人人口からすればほんの僅かな数であった。
 1824年にリベリアで内乱が起きた際は、反乱の鎮圧を行っている。リベリアは先住民の相次ぐ攻撃を受け、幾度も植民地崩壊の危機に陥った。1847年にリベリアはアメリカから独立してリベリア共和国となった。ハイチに次ぐ史上2番目に古い黒人共和国である。

ネイティヴ・アメリカン政策
 モンローは個人的にネイティヴ・アメリカンに対して概ね好意的な見解を持っていた。しかし、その一方で、彼らの社会が白人社会に比べて劣っており、もし自文化に固執する限り、彼らが生き残る見込みは薄いと考えていた。
 ネイティヴ・アメリカンの大半は彼らの土地を明け渡すことを拒み、白人社会への同化も拒んだ。一方でアメリカ人はネイティヴ・アメリカンの土地を獲得しようとしていた。そのためモンローの考えでは、ネイティヴ・アメリカンに代替地としてミシシッピ川の西にある土地を与えて立ち退かせる他に方策はなかった。モンロー政権期にアメリカは数百万エーカーのネイティヴ・アメリカンの土地を獲得した。経済的な圧力や奨励金といった手段を使ったが、モンロー大統領は実力行使を避けた。それは、ネイティヴ・アメリカンを連邦政府が強制退去させるべきだというジョージア州の主張を強く拒んだことからも分かる。

ジェームズ・モンロー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究