引退後の活動


オーク・ヒルに退隠
 後任のジョン・クインシー・アダムズに大統領職を引き継いで3週間後、モンローはヴァージニア州ラウダン郡のオーク・ヒルに向かった。出発が遅れたのはモンロー夫人の体調が悪かったためである。
 オーク・ヒルはジェファソンの設計に基づき、ホワイト・ハウスも手がけたジェームズ・ホーバンによって  1819年から建築が始まり1823年に完工した。オーク・ヒルの名はモンローが自ら植えたオークの若木に由来する。その若木は、各州の下院議員から提供されたものであった。この地所は1806年に義父から相続したものである。モンローがここに移ったのは1813年のことである。モンローは馬に乗ってオーク・ヒルとワシントンの間を行き来した。
 1825年8月7日から9日にかけて、オーク・ヒルでジョン・クインシー・アダムズ大統領とラファイエットを歓待している。さらにラファイエットとともにモンティチェロを訪れている。これが生涯の師であり友であったジェファソンと最後に会った機会となった。また1826年8月1日から1831年5月14日に辞めるまで5年間、ヴァージニア大学の理事を務めている。実は1817年に既に理事となり大学の定礎式にも参加していたが、公職を優先して理事を退任していた。そして1826年7月4日に理事を務めていたジェファソンが亡くなり、その空席を埋める形で再就任したのである。
 ヴァージニア大学の他にもモンローは高等教育の推進に携わっている。1802年3月にはウィリアム・アンド・メアリ大学の理事になっている。また大統領時代はウェスト・ポイントの陸軍士官学校の再編を監督し、コロンビア・カレッジ(現ジョージ・ワシントン大学)の設立を認可している。
 引退生活に入った時、モンローは既に7万5000ドルにのぼる借金を背負っていた。そのため1825年にハイランドを売りに出し、1828年にようやく売却した。さらに議会に公務に関する支出の償還を求め、1826年と1831年の2度にわたってそれぞれ3万ドルの支払いを得ている。こうして集めたお金でようやく債務を支払うことができた。

ヴァージニア州憲法修正会議
 モンローは引退後、ほとんど政治的な表舞台には登場しなかった。1826年10月24日にパナマで行われたアメリカ諸国の会議に出席する代表に指名されたが断っている。また翌年1月、ヴァージニア州知事候補になることを拒んでいる。健康上の問題と経済的な理由から引き受けることができなかったのである。特に1828年のひどい落馬はモンローの健康に大きな害を及ぼした。
 さらに1828年の大統領選では、モンローを副大統領候補に推そうとする者もいた。ヴァージニアのアダムズ支持者は、モンローとマディソンを選挙人に指名することで、アダムズに対する後援を得ようとした。しかし、モンローはマディソンとともにそうした動きを拒んだ。モンローが望んだ立場は局外中立であったが、1812年戦争のニュー・オーリンズの勝利をめぐるジャクソンとカルフーンの論争に巻き込まれた。
 モンローは全く政治的な務めを果たさなかったわけではない。1825年11月15日にはラウダン郡の治安判事に就任している。しかし、これは半ば名誉職のようなもので、モンローが法廷に出席することはまれであった。また1828年7月14日から19日にかけてはヴァージニア州内開発会議に参加し、1829年10月5日から12月12日にかけてヴァージニア州憲法修正会議議長を務めたが、体調不良を理由に退任している。
 この会議にはマディソンやジョン・マーシャルも参加し、旧友が一堂に会する最後の機会となった。モンローとマディソンはヴァージニア州の東部と西部の利害調整を図ろうとしたが成功しなかった。会議で最も注目を集めた問題は投票資格の問題であった。モンローは、それよりもヴァージニアにおける奴隷制廃止を論ずるべきだと思ったが、その問題があまりに激しい論議を呼ぶことが予想されたので深くは追求しなかった。

ニュー・ヨークに移転
 1830年10月、妻エリザベスの死にともない、次女を頼ってニュー・ヨークに移った。モンローが公衆の面前に姿を現した最後の機会は、1830年11月にニュー・ヨークのタマニー・ホールで行われた、ブルボン朝最後のフランス国王シャルル10世の打倒を祝う会である。
 おそらく結核の兆候と思われるしつこい咳にモンローは悩まされ、徐々に体調が衰えた。夏になればヴァージニアに帰るつもりだとモンローは語っていたが、病のためにそれはかなわなかった。1831年7月4日午後3時15分、モンローはニュー・ヨークで静かに息を引き取った。享年73才と67日であった。最後の言葉は、「彼[マディソン]を再び見ることなくこの世を去ることが心残りだ」であった。
 7月7日、ニュー・ヨーク市庁舎で追悼式が行われた後、セント・ポールズ監督派教会で葬儀が行われた。ブロードウェイを進む葬儀用馬車に数千人の弔問客が続いたという。遺体はマーブル墓地にあるグヴァヌア家の墓所に葬られた。グヴァヌア家は次女の嫁ぎ先である。生誕百周年の1858年にリッチモンドのハリウッド墓地に改葬された。

ジェームズ・モンロー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究