ファーストレディ


生い立ち
 妻エリザベス(1768.6.30-1830.9.23)は、ニュー・ヨークでローレンス・コートライトとハンナの娘として生まれた。父ローレンスは、フレンチ=インディアン戦争において私掠船で活躍した。また西インド諸島交易で財を成したが独立戦争期に多くの資産を失っている。しかし、戦後もコートライト一家は富裕な商人としてニュー・ヨークに留まった。母ハンナはエリザベスが9才の時に亡くなったので、その後、エリザベスは祖母によって育てられた。

出会いと結婚
 モンローがエリザベスを見初めたのは1785年のことである。1786年2月16日、マンハッタンのトリニティ教会で2人は結婚した。新郎は27才、新婦は17才であった。ロング・アイランドに新婚旅行に行った後、モンローは連合議会が閉会するまで舅とともにニュー・ヨークに住んだ。その後、夫に従ってヴァージニア州フレデリックスバーグに移住した。さらに1788年、同州シャーロッツヴィルに転居した。

アメリカの美しき人
 モンローの駐仏アメリカ公使赴任に同行してエリザベスはパリに移住した。その当時のパリは、革命の傷跡が至る所に残り荒涼としていた。エリザベスはフランスの要人だけではなく、フランスにやって来たアメリカ人の接待も行わなければならなかった。
 1795年、モンローはラファイエット夫人が処刑の候補者として収監されていることを知った。しかし、公的には思い切った処置を取ることができなかった。もし彼女を救出するために公的に介入すれば両国間の関係を損なう可能性があったからである。その代わりにエリザベスが馬車に乗って彼女を訪問した。
 訪問を終えた後に、エリザベスは翌日も再び訪問する予定だと声を上げて言った。とりあえずエリザベスの再訪を迎えるという口実で処刑は無期限に延期されることになった。エリザベスの言葉がパリ市民の間に同情を呼び起こした。世論の風向きが変わったのを見たモンローは当局に掛け合ってラファイエット夫人を解放させることに成功した。この事件がもとになって、パリでエリザベスは「アメリカの美しき人la belle americaine」と愛着を込めて呼ばれるようになった。エリザベスがパリの劇場に姿を現すと、観客は立ち上がって迎え、楽団がヤンキー・ドゥードゥルを演奏したという。

帰国
 1799年11月23日、モンロー一家は1794年から建設が進んでいたハイランドAsh Lawn(当初はハイランドHighlandと呼ばれていた)に移った。モンローがヴァージニア知事に選ばれると、エリザベスは知事公舎を修繕して移り住んだ。

再度の渡仏
 1803年、夫の再度の渡仏に、今度は長女エリザに加えて次女マリアも伴った。さらにイギリスに渡った。宮廷では表面上、温かく迎えられたが、エリザベスが慣習にしたがって宮廷の貴婦人達を訪問したが、答礼は全くなかった。さらにイギリスの天候によってエリザベスは健康を害した。モンローがスペインのマドリッドに赴く際はフランスで学んでいる長女のもとで夫の帰りを待った。

ワシントン入り
 1807年12月、モンロー一家は帰国した。1811年、マディソンがモンローを国務長官に指名したのにともなって、一家はワシントンに移った。マディソン邸で供される夕食は非常に洗練されているとして高く評価されている。この頃、エリザベスは40代半ばであったが、せいぜい30才にしか見えないほど若々しく見えたという。

女王エリザベス
 体調不良に悩まされたために度々、長女エリザがホワイト・ハウスの女主人の役割を代行した。就任式に伴う舞踏会でも、食事が供される前にエリザベスは引き取っている。また新たに着任した大使達や新たに選出された議員の妻達に儀礼上の訪問を行わなかったり、次女の婚礼に家族と友人以外を招待しなかったりしたことから社交界での評判は芳しくなかった。特に大使達に表敬訪問を行わないことは問題になった。大使達も表敬訪問が行われるまでホワイト・ハウスを訪問することを拒んだからである。議員の妻達もエリザベスの「公式招待会」をボイコットしたために、出席者が僅かに5人という時もあった。こうした問題は「野暮な戦争senseless war」と呼ばれ政治的な問題になった。最終的に、大統領もファースト・レディも表敬訪問を行う義務はないということが大統領命令で明らかにされた。
 ホワイト・ハウスでの面会の時間も火曜日の朝10時のみに限られた。チャリティの舞踏会に出席を求められた時も、彼女の名前を出さないことと出席することを新聞に教えないことを条件に承諾している。
さらにエリザベスはフランス語で会話することを好み、フランス語を解さない人々を困惑させた。格式張ってお高くとまった感じを受けた人々は、エリザベスを「女王エリザベスQueen Elizabeth」と呼んだ。
 エリザベスは多くの家具をフランスの元貴族から購入したが、それはホワイト・ハウスを貴族的に見せる結果になった。それを快く思わなかった人々がいたことは言うまでもない。しかし、後にケネディ夫人はエリザベスの調度品の選択眼が優れたものであったことを認めている。
 エリザベスについてジョン・クインシー・アダムズ夫人は、「彼女は最高のスタイルのファッションを身に付けていますが、女王のように振舞っているわけではありません。というのはそういう言葉は我が国では許されないからです。女神のように振舞っているのです」と述べている。
 ファースト・レディとしてのエリザベスの評判は徐々に回復した。モンローは妻を「すべての労苦と心痛をともにする者」と評している。1825年の新年祝賀会の参加者の1人はエリザベスの様子を以下のように記している。

 「モンロー夫人の物腰は非常に優雅で、彼女は威厳のある風格をした貴婦人です。彼女のドレスは素晴らしい黒のヴェルヴェットで、首周りと腕はむき出しで美しい形です。髪は膨らませてあって高く盛り上げられ、ダチョウの大羽で飾られています。首周りには素敵な真珠のネックレス。もう若くはないけれども、彼女は依然として容姿に優れた女性です」 

モンロー政権後
 夫の退任後、約3週間してから、ヴァージニア州のオーク・ヒルにエリザベスは移った。出発が遅れたのは体調が優れなかったためである。1826年、激しい発作に襲われ、暖炉に倒れ込みはひどい火傷を負った。
1830年9月23日、オーク・ヒルで夫に先立って亡くなり、リッチモンドに葬られた。その時の様子を親友の1人は次のように記している。

「マディソン夫人が亡くなった後の朝に老人が示した感動的な悲哀を忘れることは決してないだろう。その時、彼は私を彼の部屋に行くように送り出したが、震える身体と涙が溢れる眼が2人の一緒に幸せに過ごした長い年月を物語っていた」

 死の直後、エリザベスの書簡が焼却されたうえに、家族もエリザベスについて書き記すことは稀であったために不明なことが多い。度々、エリザベスを悩ました発作についても癲癇や関節炎だと推測されているが、原因はよく分かっていない。当時は女性の病状を詮索することは憚れることであった。モンローは妻の病気について「痙攣」と記している。

ジェームズ・モンロー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究