宗教のための課税に対する抗議と請願(1785年6月20日)
「我々は上述の[ヴァージニア]邦の市民として、邦議会の命令によって印刷された『キリスト教の指導者達のために給費をもうける法案A Bill establishing a provision for Teachers of the Christian Religion』と題する法案について真摯に考慮し、もし最終的にキリスト教の指導者が法の支持で以って武装されれば、それは権力の危険な濫用となるであろうから、自由な邦の誠実な構成員としてそれに抗議しなければならず、我々がそうする理由を明らかにしなければならない。我々は上述の法案に抗議する。なぜなら我々は、『我々が創造主に捧げる信仰と礼拝、およびその実践方法は、理性と罪の自覚によってのみ定められるのであって、強制と威嚇によって定められることはない』という根本的かつ紛れもなく明白な真実を堅持しているからである。したがって、あらゆる人々の信仰は、その罪の自覚と良心に委ねられている。そして、罪の自覚と良心が命じるままに信仰を実践することは、あらゆる人々の権利である。この権利は本質的に不可侵の権利である。ある者の意見は、自分自身の精神で確かめた証によってのみ定まるのであって、他者の命じるままに定まるのではないという理由を以って、それは不可侵である。現世での人間に対する権利よりも創造主への義務が優先される理由を以って、それは不可侵である。彼自身にとって受け入れることができるような形においてのみ創造主へ敬意を払うことはあらゆる人々の義務である。この義務は、時間的順序においても義務の程度においても、市民社会で必要とされる義務に先立つものである。何人も市民社会の構成員である前に、万物の支配者である神の僕だと見なさなければならない。もし市民社会の構成員が何らかの組織に入って従属させられれば、神に対する義務を怠ることになる。[中略]。なぜなら同法案によって提案されたような給費は、キリスト教を支援するためには必要ではない。つまり、キリスト教それ自体に矛盾している。というのはキリスト教のあらゆる書物が、現世の権力に依存することを否定しているからである。[中略]。場合によっては、キリスト教の指導者達は俗世の権限を崩壊させたうえで精神的専制を築いてきた。多くの場合は、キリスト教の指導者達は政治的専制である王権を擁護してきた。キリスト教の指導者達が、人々の自由の擁護者となった例はない。人民の自由を覆そうとした支配者達は、既存の聖職者を便利な補助装置として見なしていた。人民の自由を永続させ保全するために樹立された公正な政府はそのようなものを必要としないであろう。[中略]。それから我々は言わなければならない。立法府の意思は、キリスト教の指導者達が権限を行使する唯一の手段である。この権限を完全に手にすれば、彼らは我々すべての基本的権利を撤廃しようとするかもしれないし、その特権を手付かずで神聖なものにきっとしようとするだろうと。また我々は言わなければならない。指導者達は出版の自由を統制し、陪審による裁判を廃止し、邦の行政府と司法府を飲み込もうとするかもしれないと。それどころか、彼らは我々から選挙権を剥奪し、彼ら自身を独自の世襲制による議会に選出するかもしれない。もしくは、我々は、彼らには検討中の法案を成立させる権限などないと言わなければならない。我が邦の議会はこのような権限など持っていないと我々邦民は言う」

歴代アメリカ合衆国大統領研究/歴代アメリカ大統領研究者の成果