『フェデラリスト』39篇「憲法案の共和主義的性格」(1788年1月16日)
「もし、異なった政治形態がそれぞれよって立つ、異なった原則について、ひとつの基準を求めるならば、われわれは共和政を次のごとく定義することができよう。あるいは少なくとも次のごとき政府に、共和政の名を与えることができよう。すなわち、その権力のすべてを、直接にであれ間接にであれ、大多数の人民から与えられ、その権力が、自己の好む間、あるいは一定の任期の間、あるいは罪過ない限り、その職にあるものによって行使される政附機構を指して、共和政と呼ぶことができよう。何よりも共和政府にとって本質的なことは、政府が社会の特権階級や、とるに足りない一部少数のものに基礎をおくものではなく、社会の大多数の人びとに基礎をおいていることである。[中略]。政治機構の真の性格が何であるかを明確にするためには、まず、それがよって立つ基盤と関連して考えなければならない。次に、その通常の権限が何に由来しているか、第三に、その権限がいかに行使されるか、第四に、その権限の範囲は何であるのか、そして最後に、将来政治機構が改変される場合は、いかなる権能にもとづいてなされるのか、という諸点を検討すべきであろう。第一の側面について検討してみるならば、一方においてこの憲法案は、憲法制定という特別の目的のために選ばれた代表を通して与えられるアメリカ人民の同意と批准とにもとづいているものである。しかし他方、この同意と批准とは、一つの国民として固まっている個々の市民としてのアメリカ人民によってではなく、各自が、それぞれ属するところの独立したいくつかの邦を形成するものとしてのアメリカ人民によって、与えられることになっている。つまり、その同意と批准とは各邦における最高権威であるところの人民の権威にもとづいた各邦の同意と批准なのである。したがって、この憲法制定の行為は、統一国家[ナショナル]としての行為ではなく、連邦[フェデラル]としての行為というべきであろう。[中略]。第二は、政府の通常の権限が何に由来しているかという点である。連邦議会の下院は、その権限をアメリカ人民から引きだしている。アメリカ人民は、各州の立法議会におけると同様の比率、原則にもとづいて、連邦議会の下院に代表されることになろう。この限りでは、新政治機構は統一国家的性格のものであり、連邦的性格のものではない。これに反し、連邦議会の上院は、その権限を相互に平等な政治団体としての各州から引きだしている。この点に関する限り、新政治機構は連邦的性格のものであり、統一国家的性格のものではない。[中略]。新政治機構は、少なくとも統一国家的性格と同様に、多くの連邦的性格をもった一種の混合的な性格のように思われる。[中略]。[第三に]政府の作用という点から見た場合、連邦的政府と統一国家的政府との相違は、次の点にあると思われる。すなわち、前者、連邦的政府にあっては、連邦を構成する政治体[州] に対し、その政治的統一性を認めて、政府の権限が行使されるが、後者、統一国家的政府にあっては、国家を構成する個々の市民に対し、その個人の資格において、権限が作用する。[中略]。政府が、その通常の最も基本的な行為において、人民個々人に対し、直接権限を行使することは、全体としてみればこの新政治機構が、統一国家的政府であることを示すものといえよう。しかし、この新政府は、その権限の行使という点からは統一国家的なものであるにせよ、[第四に]その権限の範囲という点からみるならば、再びその様相を変えることになる。[中略]。前者、統一国家的機構の場合には、地方の官庁はすべて中央の最高官庁に従属しており、その意のままに支配、指導され、あるいは廃止されうる。これに対し、後者、つまり連邦的機構の場合には、地方の官庁が、部分的には独立した最高権を保有しており、その固有分野においては中央の官庁に従属するものではないことは、中央の官庁がその固有の分野においては、地方の官庁に従属するものではないのと同様である。したがってこの関係からいえば、新政府案は統一国家的な政府とみなされるべきではない。というのも、その管轄権は、憲法に列挙された一定の目的にのみ及び、その他の目的については各州に対して侵すべからざる潜在主権を残しているからである(齋藤眞・武則忠見訳)」

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