『フェデラリスト』43篇「その他の権限―非批准州との関係」(1788年1月23日)
「共和政原理にもとづき、共和政の州を構成員とする連邦においては、監督の地位にある政府が、貴族政的または君主政的改革に対して、共和政体を守る権限をもつべきことは明白である。このような連邦の性質が相互に緊密であればあるほど、その構成州が相互の政治制度にますます大きい関心をもつことになり、また、[連邦結成・加入]契約を結んだ政府の[共和]政体が実質的に維持されねばならないと主張する権利はますます大きくなるのである。しかし、権利とは救済の意昧なも含むものであるが、この救済は憲法によって託されているところ[つまり連邦政府]以外にどこに託すことができようか。いかなる連邦的結合にとっても、異なる原理と異なる政体の政府が同一原理と同一政体の政府にくらべて不適当なことは発見されてきているところである。[中略]。一郡や一地方の[動乱の]場合には、州権力がその地方行政当局を保護すべきであるのなら、州の[動乱の]場合には、連邦権力が州権力な支持すべきではないだろうか。さらに、諸州憲法の一定部分は連邦憲法に密接に織り込まれているので、暴動が、連邦を傷っけずに州のみに打撃な加えることはできないのである。州における動乱は、動乱関係者の数が政府支持者数に比肩する数にならない限り、連邦の干渉を招くことはほぼありえない。連邦が干渉する場合の動乱とは[ある州の]多数派が流血と不屈の抗争によって彼らの主張を守っており、なりゆきのまま[当該州]にまかしておくよりも、監督権力によって鎮圧するほうがはるかによい場合なのである。一般的には、干渉権があることが、干渉権行使の必要を阻止するだろう。共和政府においては、武力と正義とは当然同じ側に存在するものだというのは、はたして正しいだろうか。少数派のほうが金づるや、軍事能力と軍事経験や、外国からの秘密援助において優越しており、武力に訴えるために有利な条件をもっているということがないだろうか。少数派のまとまりのよい有利な立場が、自己の力を迅速かつ組織的に行使しにくい立場にある多数派に対し、少数派を対等な立場におくのではないだろうか。[中略]。どちら側が正しいのか疑わしい場合に、武力に訴え、州を分裂させて闘争しているニつの武闘派閥にとって、よりよい審判者としては、地方的な激情に駆られていない連邦の代表者以上のものを、いったい望むことができるだろうか。公平な判定者によって、両派は友情の絆を結ぶことになるだろう。[中略]。憲法をあまりにも変更しやすくするような極端な安易さに対しても、発見された欠陥を永くそのままにしておくような極端な[修正上の]困難さに対しても、等しく警戒している。さらに、誤りは州政府か連邦政府かのどちらかの経験によって指摘されるだろうから、連邦政府と州政府とが平等に誤りの修正を発議できるようにしている。[中略]。明確な人民の権威だけが憲法に正当な有効徃を与えることができる。十三州全部の一致した批准を求めることは、全人民の本質的利益を一州の気まぐれとか、腐敗とかに服せしめることになる。そのようなことは、憲法会議の先見性の欠如を意昧するだろうし、そういうことは、われわれ自身の経験からして許しがたいことといえよう。ところが、この件についてはすこぶる徴妙な性質の次の二つの質問が生ずる。一、いかなる原理にもとづいて、諸州間の契約という尊厳な形式に立脚している連合[規約]を、その契約当事者の全員一致の承認なく、とり替えることができるのか、二、憲法を批准した九州ないしそれ以上の州と、連邦に加入しない残りの少数の州との間には、いかなる関係が存在することになるのか、という質問である。第一の質間には、この場合の絶対的必要性、すなわち、自己保存の大原則、社会の安全と幸福とは、あらゆる政治制度が目的とする対象であって、その目的のためには、[目的な達成できないような]すべての政治制度は犠牲にしなければならない、と宣言する自然と自然の神の超越的法則に立ち返れば、ただちに答えは出る。[中略]。一般的にいえば、[憲法を]承認した州と承認しない州との間には、何らの政治的関係はないものと見られるが、道徳的関係は、なお依然として残るだろう。双方に対する司法上の要求権は強制力をもちつづけるだろうし、果たされなければならない。人間としての諸権利は、あらゆる場合に完全かつ相互に尊重されなければならない(齋藤眞・武則忠見訳)」

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