『フェデラリスト』49篇「権力纂奪防止策」(1788年2月2日)
「ジェファソンの提案というのは「政府三部門のうち、いずれの二部門にせよ、それぞれその全員の三分の二の多数決をもつ憲法を改正するために、あるいは憲法の侵犯を匡正するために憲法会議が必要であるという点で意見の一致をみた場合には、その目的のために憲法会議が召集されるべきである」というものである。[中略]。たしかに、この理屈は強い説得力をもっている。一定の例外的な大事件の場合に、人民の決定に直接委ねるという憲法上の道が定められ、開かれていなければならないということは、これを認めなければならない。しかし、政府の各部門をそれぞれの憲法上の境界内にとどめておくための方法として、提案されているようなつねに人民に訴えるということに対しては、否定しがたい反対もあるように思える。[中略]。すなわちおよそ人民に直接訴えるということは、本来政治機構そのものに一定の欠陥が有することを意昧しているとも思われるので、人民に頻繁に訴えるということは、元来、時間とともにはぐくまれる尊敬、それなくしてはおそらくどんな賢明かつ自由な政府といえども必要な安定性を保有しえなくなる国民の尊敬を政府が失うことになろう。[中略]。憲法上の問題をあまりに頻繁に、社会全体の決定に委ねることは、人民の感情を強く刺激しすぎて、公共の平穏なゆさぶる危険性があるというのが、さらに重大な反対論である。[中略]。しかし、反対論の中でも最大のものは、直接人民に訴えてみたところで、そこから出てくる決定は政府各部門の憲法上の均衡を保つという目的には役立たないであろう、という反対論である。共和政治の一般的傾向として、立法部が他の部門の犠牲において、その権力を拡大しやすいことはすでに見てきたごとくである。したがって、人民に直接訴えることは行政部や司法部によってなされるというのが通常であろう。しかしこの二部門のいずれによってなされるにせよ、およそ決定に際してどの部門も平等の立場に立つということがありうるであろうか。ここで、それぞれの異なった立場について検討してみたい。行政部および司法部の成員は、その数において少数であり、人民のごく小部分に個人的に知られているにすぎない。後者すなわち司法部の成員は、その任命の仕方からいっても、また任期の性格および長さからいっても、およそ人民一般からは隔絶しており、人民の好感を得ることはむずかしい。前者、すなわち行政部の成員は、一般に人民の猜疑心の的であり、その行政はつねに色眼鏡で見られ、不評判になりやすい。これに対して、立法部の成員は多数であり、広く一般人民の問に分散して居住している。彼らは血縁関係、友人関係、知人係によって、社会で最も有力な部分と結びついている。彼らの公共の仕事の性質上、彼らは人びとの間で個人的な影響力をもち、人民の権利と自由との信頼のおける守り手であるというように思われている。こうした利点をもっている以上、立法部と反対の立場に立つ当事者が、同じ有利な解決を得る機会があるとは、およそ考えることはできない(齋藤眞・武則忠見訳)」

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