格差社会―Gap-Widening Society

 

○格差反対

 お金持ちのアメリカと貧しいその日暮らしの人々のアメリカ。アメリカには二つのアメリカがあります[1]

 

ジョン・エドワーズ民主党副大統領候補(2004)

 

○格差是認

強者をこき下ろすことによって弱者をおだてようとしてはならない[2]

 

                 第三十代アメリカ大統領 カルヴィン・クーリッジ

 

格差社会という言葉

 

格差社会、勝ち組、負け組み。最近、よく聞く言葉です。何故、最近そういった言葉をよく聞くようになったのでしょう。

もともと日本社会は平等だと言われてきました。それは戦後、日本人は焼け跡の中から一億総中流社会と呼ばれる社会を作ったからです。国民全員が中流という社会です。それは長い地球の歴史の中でも最も平等で、階層がほとんど無い社会だったように思えます。

「あなたはどの階層ですか」と質問したとしましょう。すると大部分の人は、「中流、もしくは中の上」と答えるのが当たり前でした。アンケート調査によれば、1960年以後、国民の九割以上が「自分は中流である」と答えているそうです。

しかし、現代日本社会では、大部分の人がいったい自分が勝ち組なのか負け組みなのか、心配しています。最近、セレブという言葉が流行しました。セレブという言葉をもてはやす人々は、実は勝ち組であるセレブの真似をして自分は勝ち組だと思い込んでいるだけかもしれません。

1990年代以降、社会が良くなっていると思う人は徐々に少なくなっています。それとは逆に、格差社会、勝ち組、負け組といった言葉は、1990年代末から目立つようになりました。この二つの事実から、人々は格差社会という言葉の影に怯えているのではないかと私は感じます。

格差社会が本当に到来しているかどうかは難しい問題です。たくさんの研究者がいろいろな意見を述べています。でも、たとえ格差社会が到来していなくても、格差社会が到来していると非常にたくさんの人が思い込んだらどうでしょう。それは人々にとって確かに実在するのと同じことになります。格差社会が到来しているのは本当かどうかという問いに完全な答えを出せる人は誰もいないでしょう。でも人は自分自身で何が現実なのか考えて決めることができます。格差社会が現実だと人々が考えて行動し始めることがこれからの焦点になるでしょう。

 

格差社会、イエスかノーか?

 

みなさんは格差社会、イエスかノーどちらでしょうか?もちろんイエスと答える人もいればノーと答える人、両方いると思います。

イエスと答える人は、努力する者が能力に応じて報われるのは当然であり、その結果、努力する者と努力しない者の「格差」が生じるのは当たり前だとたぶん考えているのでしょう。こうした考え方は、社会を活性化させるので悪い考え方だと決めつけることはできません。

ノーと答える人は、負け組みになってしまって苦労するのは嫌だと考えているかもしれません。またはみんな平等でいいじゃないかと考えているのかもしれません。

それぞれにいろいろな意見があるでしょう。どちらが正しいかは誰にも決めることができません。

格差社会、イエスかノーか、という問題は、日本だけの問題ではありません。アメリカでも問題となっています。それも昔から何度も問題になっています。なぜならアメリカのほうが日本よりも貧富の差は激しいからです。アメリカは「格差社会」についてどう考えてきたのか、大統領の言葉から考えてみましょう。そうすることで日本の格差社会について考える手助けになればと思います。では格差社会、イエスの立場から見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○格差破壊?

我々の社会は個人の実績の上に成り立っている。すべての個人に、その知性、性格、能力、そして野心を活かして社会的地位を獲得する平等な機会を保障するべきだ。そうすれば社会問題の解決により階層の固定化を免れることができる。目的達成のために個人が努力するように刺激しなければならない。責任感と理解を深めることによって、個人の目的達成を支援することができる。だがその代わりに個人は激烈な競争の渦中に身を投じなければならない[3]

 

 第三十一代 ハーバート・フーヴァー

 

自分の為になることであればどんなことでもしてもよいという信念が幅をきかせた時代、そして、まさにアメリカン・ドリームを体現した時代、それが金めっき時代である。フーヴァーはその時代の真っ只中に生まれている。今でもよく名前が知られている鉄鋼王カーネギーやモルガンといった大富豪はこの時代の申し子であった。彼らが異口同音に唱えたのは社会的ダーウィニズムであった。社会的ダーウィニズムとは、ダーウィンの進化論を人間社会にも適用したもので、生存競争によって適者が生き残るべきだという考え方である。

ファーヴァー自身も生存競争に勝ち残り、三十代にして百万長者になった人物である。フーヴァーは貧しい家庭に生まれ育ち、十歳にもならないうちに両親を病気で亡くしている。その後、親戚のもとを転々とし、スタンフォード大学に辛うじて進学することができた。フーヴァーはスタンフォード大学で働きながら地質学を学んでいる。その当時のエピソードとして面白い話が残っている。

ある日、前大統領のベンジャミン・ハリソンが大学野球を観戦するために訪れた。ハリソンはうっかりして入場券を買わずに野球場に入場してしまった。野球場の管理人をしていたフーヴァーは、前大統領を追いかけていって、うやうやしく入場料25セントを支払うようにと告げた。前大統領は気前良く25セントを支払い、しかも前売り券三枚まで購入した。フーヴァーの責任感の強さと抜け目の無さがうかがえるエピソードである。

フーヴァーは大学卒業後、技師としての就職を目指したが職が見つからず、日当2ドル50セントで一労働者として働いた。しかし、フーヴァーは数ヶ月のうちに有名な技術家の目に留まり、その後、徐々に頭角を現していく。最終的にはオーストラリアで文字通り一山当てて百万長者になった。

フーヴァーは個人主義の信奉者である。個人が努力すれば社会が活性化し、格差も是正されると考えていたのである。たとえどのようなハンディ・キャップがあろうとも格差を乗り越えていけるという考え方である。はたしてそれがすべての人に可能だろうか?すべての人がフーヴァーのように格差を乗り越えて行けるほど、強いわけではないし有能なわけではないだろう。

フーヴァーの考え方は、小泉前首相の考え方と相通ずるものがある。小泉前首相は、2006911日のアジア欧州会合首脳会合後の内外記者会見の中で次のように語っている。

 

まず格差の問題であるが、日本は世界の国々の中で一番格差の少ない社会であると思っている。そういう中で、これからも日本はできるだけ多くの人々に、一度や二度失敗しても再び挑戦する機会を多く提供していかなければならない。5年間、経済停滞からようやく経済発展への、また景気回復への力強い歩みを始めたが、その際にも努力する人が報われる、そして、どうしても自分の力では立ち上がれないという人に対しては、社会保障制度をしっかり構築していく、これは極めて重要な内政の問題である。今後とも、どんどん新しい時代に挑戦するような、意欲ある人が働きやすい社会にしていく、そして自分の力ではどうしても立ち行かない人についてはお互い助け合う、国としてしっかりとした社会保障の枠組み、仕組みを作っていく、そのような社会を作っていくことが必要であると思っている。もしも私の政権、5年間の間に改革を続けなければ、経済停滞を脱することはできなかったと思う。ようやく、多くの国民にやればできるという意欲が出てきた。そういうやればできる人がどんどん活躍していく、成功者はどんどん頑張ってもらう。成功者をねたむのではなく、成功者の足を引っ張るのではなく、成功者が存分に自分の能力を発揮できるような社会にしていく。

 

つまり、この両者に共通する考え方は、意欲ある人の力で社会を活性化し、格差の固定化を防止するという考え方である。ケネディ大統領流の言い方なら「潮がさせばすべての船が浮かぶ」ということだ。さらに、フーヴァー青年が野球場で出会ったあのベンジャミン・ハリソンも面白いことを言っている。

 

○格差是認

富める者への不品行な非難は有害だ。そうした非難は精神を悪化させ、心を毒し、犯罪への言い訳を与える。非難をすることによって、貧しい者が豊かになり幸せになったりはしない。ある人が豊かだからといってその人を軽蔑することは、ある人が貧しいからといってその人を軽蔑するのと同じくらい馬鹿げている[4]

 

第二十三代 ベンジャミン・ハリソン

 

貧しい者が豊かな者をこきおろしても仕方が無いというのだ。そんなことをする暇があったら豊かになる努力をしろということだろう。意欲ある人が成功することは確かに望ましいが、それが行き過ぎると社会的ダーウィニズムになってしまう。格差社会が悪い方向に傾斜すると日本は、社会的ダーウィニズムがまかり通る社会になってしまうかもしれない。適者ばかりが生き残るといったいどうなってしまうのか。それは中流階層の没落である。

 アメリカでは近年、平均所得は上昇しているが、それは中流階層よりも上流階層がより多く所得を増大させた結果によるものである。さらに、アメリカはカナダや北欧の国々よりも、親の所得の多寡が子供の所得の多寡とより高い相関関係を示している。つまり、アメリカでは、カナダや北欧よりも、金持ちの家の子どもは金持ちになる可能性が高く、貧乏な家の子どもは貧乏になる可能性が高いということだ。

アメリカでは1980年代以降、賃金格差が増大している。高卒者の所得は比較的に安定しているが、大学卒者の所得は低迷している。逆に超高所得者の所得は、全体に占める割合が顕著に増大している。超高所得者層はいくらでも伸び、低所得者層はもうこれ以上下がれないところまできている。中流階層が圧力を受けている。

 中流階層は総額では最も多くの税金を支払っている。その中流階層が没落すると歳入総額は大きく減少するはずだ。しかも、上流階層は社会保障の充実よりも減税を求めがちだから、上流階層が少しくらい増えても歳入の増加はたいして望めない。そのことは、ブッシュ政権で富裕者層が、消費の拡大を建前に大幅な減税を求めていることからも明らかである。

つまり、格差社会で敗者がどんどん増えても、彼らを拾い上げるセーフティ・ネットを張るのに必要なお金を拠出できなくなってしまうのである。そしてセーフティ・ネットを突き抜けていった人たちは、もはや再チャレンジできず、格差を固定化してしまう。

 フーヴァーが今、もしくはこれからの日本社会を見たらどう思うだろうか。どんな社会になろうとも個人の努力でのしあがればいいさとでも言うのだろうか。格差を乗り越えていけるかどうかは個人の努力次第であるという論は確かに個人主義からすると絶対的に正しい。小泉首相が理想とする社会は個人主義の社会である。ただ個人主義が行き過ぎは民主主義にとって好ましくない。そのことは、フランスの政治思想家であるトクヴィルも『アメリカの民主政治』の中で170年も前に警告を発している。トクヴィルは、ラディカルな個人主義は相互無関心の温床となって人民を互いに孤立させ、人民が結束して自由を守る力を失ってしまうと論じている。そして、そのような状態に陥った人民は容易く独裁国家権力に支配され自由そのものを剥奪されてしまうと結論付けている。今の日本でこうした現象が起きてもおかしくないのではないだろうか。

 個人主義に過度に依存して格差社会の固定化を避けようという考え方にはこうした落とし穴がある。フーヴァーは、その就任演説でアメリカの未曾有の繁栄を誇ったが、その直後に世界恐慌が起こっている。それは個人主義だけでは社会は立ち行かないことがはっきりした瞬間だった。社会の成員、一人一人が合理的に動くと社会全体の結果としては非合理になるという法則がある。世界恐慌とは、個人主義という合理主義が、全体としての非合理を産み出した好例である。

例えば、ケネディ大統領の父であるジョセフ・ケネディは、ある日、靴磨きの少年に株式相場について質問されたという。その時、ジョセフは株式相場がバブルになっていると直感した。ああ、こんな少年まで株式相場を気にかけるようになったのかと。ジョセフは即座に自らの株式を全部売却し、世界恐慌の惨禍から逃れたという。これはジョセフが、個人主義という合理主義が、全体としての非合理を産み出すことを動物的な勘で直感したからできた芸当だった。

これは今の日本にも当てはまることだ。今の日本の社会で勝ち組になる方法として容易に考え付くのは、ライブドア事件に代表されるように株である。堀江氏は、その財産の多くを株式によっていたことは言うまでもない。株式相場で利益を得ることは簡単ではないはずだ。しかし、多くの人々は株式で巨万の富を築いた人々に対して、濡れ手に粟で富を得たとか、額に汗しないで富を得たといった羨望の眼差しを向ける。靴磨きの少年と同じ事をしようと思う人がたくさんいたとしてもおかしくはない。幸い日本人はバブル経済の崩壊を体験しているのでそれほど愚かではない。

ただ勝ち組に対して濡れ手に粟で富を築いたと妬むことは、中流階層にとって多大な悪影響を及ぼす。それは中流階層の勤労意欲の低下である。株式でほんの数十秒のうちに数千万のお金が手に入るのを知れば、毎日コツコツと働いているのが馬鹿らしくなってくるかもしれない。もちろん世の中はそんなうまくいくことはないのだが、人間は見たいと思う現実を見る動物なのである。

今、もっとも必要とされるのは中流階層を元気にすることである。これまでの日本が世界史上未曾有の経済的繁栄を遂げたのは中流階層の力によるものである。成功者から富を恵んでもらうのではなく、中流階層を下支えすることにより、ささやかながらも自ら富を産み出すように支援しなければならない。

 

 

○格差反対

進歩の基準は、持てる者にさらなる富を与えるかどうかではなく、持たざる者に十分に報いることができるかどうかである[5]

 

第三十二代アメリカ大統領 フランクリン・ローズヴェルト

 

 フランクリン・ローズヴェルトは、アメリカを世界恐慌から救ったニュー・ディール政策でよく知られている。世界恐慌は、アメリカの資本主義に対する一つの試練だった。アメリカは1920年代に繁栄の極みに至ったが、その繁栄も世界恐慌により大きく後退した。アメリカ国内では、労働人口の四分の一にあたる1200万人が失業し、工場の賃金は半分以下に低下した。

 ローズヴェルトは、まさにアメリカがどん底で喘いでいる時に政界にデヴューした。ピラミッド型経済の最底辺の忘れ去られた人々にニュー・ディール、すなわち新規蒔き直しをというのがローズヴェルトの合言葉だった。ローズヴェルト自身は、ニューヨークの上流家庭に生まれているので決して最底辺の忘れ去られた人々ではない。ローズヴェルト家は17世紀半ばにオランダから移民した古い家柄で、ニューヨークでも有数の家柄であった。ちなみにフランクリン・ローズヴェルトは第二十六代大統領のセオドア・ローズヴェルトとは遠縁にあたる。

 ローズヴェルトは、上流家庭に生まれ我がままいっぱいに育てられたが、だからと言って何事も順風満帆に進んだわけではない。とりわけ壮年の頃、小児麻痺に罹り、七年間の闘病生活を送ったのは有名な話である。そのために歩行困難になったが、ローズヴェルトは生涯、公的な場ではそれを微塵も公衆に感じさせることはなかった。妻のエレノアは、闘病生活を送ることによりローズヴェルトの他者への思いやりの気持ちが深くなったと後に語っている。どちらかと言えば苦しい環境よりも恵まれた環境に育った者のほうが弱者に対して憐憫という名の思いやりを持ちやすいようだが、闘病体験によりその思いやりがさらに高められたのだろう。

 ローズヴェルトは、従来のアメリカ的価値観、すなわち、自由放任主義、個人主義、フロンティア・スピリットといったものだけではアメリカは立ち行かないと考えた。ところが伝統的にアメリカ人は政府に富の再分配を求めることはあまりなかった。それどころか政府が余計な手を人民に伸ばすことを恐れていた。ジェファソン大統領の言葉を借りれば、人々が自由に産業と進歩を追求するに任せ、働く人の口から彼が稼いだパンを奪い取ることはない政府が理想だった。だからローズヴェルトが、ニュー・ディールを世に訴えかけた当初、煽動政治家との批判が相次ぐことになる。それにも拘らず国民は、ローズヴェルトを第三十二代大統領として選んだ。FDRの革新政治の始まりである。それは、ローズヴェルトの考え方が国民に受け容れられた瞬間だった。国民は新しい思想、新しい計画、新たな指導者を求めていたのである。

 もちろん世界恐慌では、すべての国民に影響があったから持つ者、持たざる者の区分が主たる問題になったわけではない。しかし、ローズヴェルトは国民に衣食住に恵まれぬ三分の一の国民を忘れないようにと諭している。そうした積極的な思いやりの精神が重要なのである。

もしローズヴェルトが戦後日本の繁栄を見たら何と言っただろうか。進歩の基準が持たざるものに十分報いることにあるなら、ローズヴェルトは、戦後日本こそ世界の中で最も進歩した国であると称賛したに違いない。しかし一方で、格差社会は進歩とは言えないだろう。格差社会は一歩間違えば、持たざるものを大量に生み出しかねない不安定な社会だからである。不安定な社会は社会の構成員にとって喜ばしいものだろうか。戦後日本で全く革命が起きなかったのは、一億総中流社会では倒すべき相手がいなかったからである。もし格差社会の到来により、勝ち組、負け組みの区分が明白なものになれば、負け組みが勝ち組を倒すという図式が成立してもおかしくはない。一億総中流社会の中では、革命という笛を吹けど誰も踊らなかったが、勝ち組と負け組みという対立構図の中でははたして踊りだす者がいないと断言できるだろうか。

 アメリカ社会は日本社会を写し出す鏡だと思う。今、アメリカに二つのアメリカ、特権階級と富裕層のアメリカとその日暮らし人々のアメリカがあるならば、日本にもいずれ二つの日本ができてしまうのだろうか。2004年度大統領選挙の民主党副大統領候補ジョン・エドワーズ上院議員は選挙キャンペーンで二つのアメリカについて訴えかけた。まさにこれはアメリカ版格差社会である。

 

○格差反対

今日、ブッシュ政権の下では、アメリカは一つではない。二つである。一方のアメリカは額に汗して働いているが、もう一方のアメリカは報酬を受け取るだけだ。一方のアメリカは税を払っているが、もう一方のアメリカは減税を勝ち取っている。一方のアメリカは子どもをよりよい生活のために何でもできるが、もう一方のアメリカは、子どものために何もできない。なぜなら子どもの人生は既に決まっているからだ。一方のアメリカは、中流階層のアメリカだ。中央政府は彼らの要求を無視している。もう一方のアメリカは、ごく僅かな利益集団のアメリカだ。彼らは中央政府を意のままにする。一方のアメリカは何とか生きていこうとしているが、もう一方のアメリカは何でも欲する物を買うことができる。それがたとえ議会であれ、大統領であろうとも[6]

 

ジョン・エドワーズ民主党副大統領候補(2004)

 

 エドワーズが今の日本社会を見れば何と言うだろう。日本もいずれ同じような言葉で選挙民を引きつけようとする政治家が現れるのだろうか。残念ながらケリー民主党大統領候補と組んだエドワーズ大統領選に勝利することができなかったが、この二つのアメリカ演説は、アメリカ人の心に一石を投じたと思う。中流階層が不当に扱われているという不満は、これから日本でも高まると私は思う。2004年度の大統領選では、この不満は完全な追い風とはならなかったけれども、2008年度の大統領選ではどうなるだろう。ブッシュ政権二期目で中流階層の不満は解消されるのだろうか。今から2008年に向けて注目される点だ。

 子どもの人生が既に決まっているというのは、子どもにとってどういった影響をもたらすだろうか。前にも言ったが、格差とは、個人の努力では克服できない社会的条件の圧倒的な差異だと私は思う。子どもが成長し青年になり社会での競争の渦に身を投じようという時に、スタートラインが全く違っていることに気付けば、しり込みしてしまうに違いない。エドワーズは、選挙キャンペーンの中で教育の格差について論じたが、同じことが日本にもあてはまらないだろうか。

 今、私立の中高一貫校が人気を集めているという。教育に関する意識が高い親は、公立学校での学習時間が少ないのに危機感を抱き、自分の子どもを私立に進学させたがる傾向が強まっているようだ。中には、大学の学費平均を大きく上回る私立学校もある。

その一方で就学援助金の申請者は増加している。申請者の増加については、単に格差社会の到来によるものではなく、制度が広く一般に認知されたことと申請への抵抗感が薄れたことなどの原因も考えられるが、申請者の絶対数が増加していることは確かだ。経済的な理由により、学力があってもその学力に応じた学校に行くことができない子どもが多くなっているのではなかろうか。経済的理由により、学びたい者がそれにふさわしい場で学ぶことができず、その結果、才能を開花できなかったとしたら、それは大きな国家的損失だ。私が言うまでもなく、教育は国家の基だから、これは由々しき事態となる。

 現代日本社会は、昔ほどではないが、未だに学歴社会であることは論を俟たない。学びたいという意欲はその大部分が個人の資質によると思うが、学ぶことができる環境を獲得できるかどうかははたして個人の資質に還元できるだろうか。学歴は、学ぶことができる環境によって大きく左右されるに違いない。それはまさしく格差だ。何度も言っている通り、個人の努力では克服できない社会的条件の圧倒的な差異は不公正な格差に他ならない。

 もし政府が危惧するような「格差の固定化」が起きるとどうなるのか。セオドア・ローズヴェルトの言葉はそれを考えさせてくれる。

 

○格差是正

これまでにアメリカの凋落を引き起してきた最悪のものは、階層精神であった。階層精神がはびこることで、人は自らの階層の福利のために公共の福利を犠牲にし、国家への忠誠よりも自らの階層への忠誠を重んずるようになる。そうなると当然、共同体の中で、個人を個人ありのままではなく、その地位で扱うようになる。もしそのような精神がこの国の中ではびこるのであれば、我々にとってはまさに破滅だ[7]

 

第二十六代大統領 セオドア・ローズヴェルト

 

 人々が自らの階層のことだけを気にかけるようになり、社会全体のことを考えなくなるというのだ。勝ち組が自らの子どもたちのために格差を固定しようと働きかけることも十分ありうる。むろん親が子のためを思う気持ちは麗しいものだ。しかし、それが社会の中で堂々とまかり通るのは問題がある。例えばコネで就職できるとしたら、他の人たちは真面目に努力するのが馬鹿らしく思うようになってくるかもしれない。むろん私の聞いた話では、縁故者を雇用しないように務めている企業もある。それは組織の健全化にはよいことだと思う。

誤解のないように言っておくが、勝ち組が存在すること自体は悪いことではない。ただその存在のありようが問題なのだ。勝ち組が、自らを成功させてくれた社会に感謝し、自らが得た利益を何らかの形で社会に還元するのであれば、それは社会全体にとって歓迎すべきことだろう。勝ち組には、勝ち組であることにより、その分だけ社会に対して大きな義務と責任を果たさなければならない。

さらにセオドア・ローズヴェルトは、独占資本主義の発達により生じた貧富の差による亀裂が国内にあることを憂えていた。そうした社会で重要とされるのは何だろう。

 

我々が作るべき基準は、職業によるものでも、財産によるものでも、社会的地位によるものでもなく、行いによるものだ。道徳こそが基準であるべきである。例えばそれは全人類に関わる問題に対する姿勢、清廉さ、自己と他者に対する義務を果たす能力である[8]

 

 セオドア・ローズヴェルトが今の日本社会を見たら、人を勝ち組か、負け組みかで分けるよりも、道徳的に優れているかで人を分けるべきだと言うだろう。イギリスの文豪チャールズ・ディケンズが『アメリカ紀行』の中で言っていることだが、貧しいながらも道徳を重視する人々こそ最も素晴らしい人たちだと主張している。孔子も、才能に恵まれ莫大な富を築いた弟子の子貢よりも貧しいながらも儒に忠実な顔回を高く評価している。もちろん、貧しいことが評価されるわけではない、貧しいながらも道徳的に優れていることが大事なのだ。

 

コラム

クリーヴランド大統領の妻への最初のプレゼントは・・・・・

歴代大統領の中でも、二度数えられるのはクリーヴランドだけだ。それは第二十二代と第二十四代の間に第二十三代のベンジャミン・ハリソンが挟まっているからだ。1888年の大統領選でクリーヴランドは再選をかけてハリソンと戦ったが、一般投票ではハリソンの得票数を上回りながらも、選挙人の獲得数で敗北した。しかし、クリーヴランドは1892年の大統領選に再出馬し、ハリソンを破り雪辱を果たした。

 クリーヴランドは晩婚で、結婚した時の年齢は49歳だった。お相手はフランシス・フォルサムという21歳の女性。実はこの女性は長年の友人であったオスカー・フォルサムの娘で、クリーヴランドが彼女に送った最初のプレゼントは、何とフランシス嬢本人用の乳母車だった。その時、クリーヴランドは27歳、まさかこの乳母車の中にいる赤ん坊が将来の自分の妻になるとは思わなかっただろう。大統領とファースト・レディの年齢差が大きい例は、他にタイラーの例が知られている。タイラーは初婚ではなかったが、54歳の時、24歳の女性と結婚している。上には上がいるものである。

 フランシス嬢が11歳の時に、父オスカーが事故でなくなり、クリーヴランドは彼女の後見人となった。それからクリーヴランドは何かと彼女の世話をするようになり、彼女の大学卒業と共にプロポーズしたという。まるで光源氏と若紫のようだ。この婚約は秘密にされたので結婚式の五日前まで全く誰にも知られることはなく、クリーヴランドは結婚式当日もいつも通りに職務を果たしていたという。

 

コラム

百日天下?いや、それも短命な大統領。

ある大統領の研究者によれば、大統領の主な業績は、任期の最初の百日間で概ね決まってしまうという。なぜなら、最初の百日間は、議会が新大統領の出方をうかがっている期間だから。新大統領が法案を通そうとして少々無理をしても議会は大目に見てしまう。もちろん最初のうちだけだが。最も長く大統領職を務めたのは、よく知られているようにフランクリン・ローズヴェルトだ。1933年から1945年というアメリカ史上でも最も重大な時期に四期にわたって大統領職を務めた。

後に大統領職に関する憲法が修正されたので、この記録は、現行憲法が修正されない限りは塗り替えられることはない。憲法修正以前は、慣習的に大統領職を二期以上務めないとなっていただけだ。ワシントンが、二期以上大統領職を務めないと明言したことが起源となっている。

では反対に最も大統領職を務めた時間が短いのはどの大統領だろう。むろん大統領が手術などにより、一時的に副大統領が大統領職を代行することはある。それは数に含めないとすると、任期が短かったと考えられるのは在任中に死亡した大統領になる。暗殺、病死を含めて在任中に死亡した大統領はそれほど珍しくはない。しかし、就任直後に死亡した例というのは、第九代大統領ウィリアム・ハリソンしかいない。実際、ハリソンが大統領職に就いていたのは僅かに一ヶ月。184134日に大統領に就任し、184144日にホワイト・ハウスで帰らぬ人となった。就任した日付が34日なのは、昔と今では大統領が交代する日付が違っていたからである。ちなみに現在は、120日が任期の開始となっている。ハリソンの死因は、風邪をこじらせたことである。何故、大統領ともあろうお方が風邪をひいてしまったのか。それは就任式の帰りに雨に濡れてしまったからだ。たぶん就任演説が一時間四十分にも及ぶ長丁場だったのもいけなかったのだろう。ホワイト・ハウスに帰ってから風邪はどんどん悪化し、最終的には命取りになってしまったのである。哀れにもハリソン政権は僅か一ヶ月にして幕引きとなってしまった。享年68歳。

ただ孫のベンジャミン・ハリソンも後に第二十三代大統領になっているが、孫のほうはちゃんと任期を全うしている。

 

 

 

だが、その一方で初めから克服しようが無い条件の下で日々の糧を勝ち取ることを余儀なくされている者もいる。格差とは、個人の努力では克服できない社会的条件の圧倒的な差異である。そもそもスタートラインが全く違っていれば、それは公正であると言えるのだろうか。

格差社会は是か非か。物事は善悪の両面があるので一概に是とも非とも言えないが、少なくとも正直者が損をしない社会こそが公正な社会というものではなかろうか。

リンカーンは丸太小屋の生まれで最終的には大統領までのぼり詰めた。丸太小屋の生まれであることが幾分誇張されたものにすぎないにしても、これは個人の努力さえあれば社会的地位の上昇も見込めるということを示している。

歴史的にアメリカ社会でも貧富の差の問題はあった。その差の甚だしいことは現代日本社会の比ではない。アメリカ社会での基本的な考え方では、個人の才覚で財をなすことが最も重視される。つまり、貧しいことを恥とはしないが、貧しさから抜け出ようと努力しないのは恥であるという倫理観が根底にある。

 



[1] The two Americas: the America of the privileged and the wealthy, and the America of those who lived from paycheck to paycheck.

 

[2] Don’t expect to build up the weak by pulling down the strong.

 

[3] Our individualism differs from all others because it embraces these great ideals: that while we build our society upon the attainment of the individual, we shall safeguard to every individual an equality of opportunity to take that position in the community to which his intelligence, character, ability, and ambition entitle him; that we keep the social solution free from frozen strata of classes; that we shall stimulate effort of each individual to achievement; that through an enlargement sense of responsibility and understanding we shall assist him to this attainment; while he in turn must stand up to the emery wheel of competition.

 

[4] The indiscriminate denunciation of the rich is mischievous. It perverts the mind, poisons the heart and furnishes an excuse to crime. No poor man was ever made richer or happier by it. It is quite as illogical to despise a man because he is rich as because he is poor.

 

[5] The test of our progress is not whether we add more to the abundance of those who have much; it is whether we provide enough for those who have too little.

 

[6] Today, under George W. Bush, there are two Americas, not one: One America that does the work, another America that reaps the reward. One America that pays the taxes, another America that gets the tax breaks. One America that will do anything to leave its children a better life, another America that never has to do a thing because its children are already set for life. One America -- middle-class America - whose needs Washington has long forgotten, another America - narrow-interest America - whose every wish is Washington's command. One America that is struggling to get by, another America that can buy anything it wants, even a Congress and a President

 

[7] In the past the most direful among the influences which have brought about downfall of republics has ever been the growth of the class spirit, the growth of the spirit which tends to make a man subordinate the welfare of the public as a whole to the welfare of the particular class to which he belongs, the substitution of loyalty to a class for loyalty to the Nation. This inevitably brings about a tendency to treat each man not on his merits as an individual, but on his position as belonging to a certain class in the community. If such a spirit grows up in this Republic it will ultimately prove fatal to us.

 

[8] In other words, the standard we should establish is the standard of conduct, not the standard of occupation, of means, or of social position. It is the man's moral quality, his attitude toward the great questions which concern all humanity, his cleanliness of life, his power to do his duty toward himself and toward others.

 
アメリカ政治外交史歴代アメリカ合衆国大統領研究