『ワシントン少佐の日誌』
 「1753年10月31日、水曜日、私は、ヴァージニア植民地総督ロバート・ディンウィディ閣下に、オハイオ渓谷のフランス軍司令官のもとへ赴き、書状を届ける目的の旅に同日、出発するように命じられた。次にフレデリックスバーグFredericksburgに到着した私は、ジェイコブ・ヴァンブラーム氏Jacob Van Braamを通訳として雇い、彼とアレクサンドリアAlexandriaに向かって必需品を購入した。そこから我々はウィンチェスターWinchesterに向かい、荷馬を購入した。それから新しい道に入ってウィルズ・クリークWills Creekに向かった。そこに我々は11月14日に到着した。[中略]。26日、我々はロング・ハウス[イロクォイ諸族の住居]で9時頃、会議をした。そこで私は次のように話した。『兄弟達よ、私は会議中、あなた達を一緒にそう呼びたい。あなた方の兄弟であるヴァージニア植民地総督の命令によって、私は、あなた方の兄弟―敢えて言うなれば友人であり同盟者―であるイギリス人にとって非常に大切な手紙をできるだけ早くフランス軍司令官に届けるために派遣されたことをあなた方に伝えたいと思います。あなた方の兄弟の総督は、私があなた方6部族連合の首長を訪問してそれを伝え、さらにフランス軍のもとに至る最寄りで最善の道を進めるように助言と支援を求めるように望みました。兄弟達よ、だからこそ私はこれまで旅を続けてきました。閣下は、私があなた方に道案内を務める若い男性と道中の食料、そして、フランス側について我々に斧を振りかざすインディアン達からの保護を求めるように望みました。あなた方兄弟にこのように私が話すのは、我々の総督があなた方を良き友人として同盟者として扱い、あなた方に重きを置いているからなのです。私が言っていることの証として、この一連の貝殻玉をあなた方に捧げます』。[中略]。30日、昨夜、要人が会議用のハウスに集まって旅程と誰が行くかについて審議した。その結果、彼らの中から族長3人のみが、最良の狩人の1人をともなって我々一行に同行することになった。[中略]。[12月]12日、私は早くから準備して[フランス軍]司令官を待った。次位の将官に迎えられ、彼のもとに導かれた。私は彼に私の任務を伝え、辞令と書状を示した。[中略]。今夜[14日]、私は総督閣下への回答を司令官から受け取った。15日、司令官は、我々のカヌーにたくさんの蒸留酒と食料を積み込むように命じた。彼はとても愛想が良いように見えたが、悪魔と人間が思い付くあらゆる策謀をめぐらせていた。インディアンを我々と仲違いさせるためか、我々が出発するまで彼らを行かせないつもりのようだった。彼や士官達によって示唆された贈り物や報酬などあらゆる物は怠りなくなされた。この問題で感じたほどの不安を感じたことは今までの人生の中でなかったと言える。最も有能な頭脳が考え得るあらゆる計略が、ハーフ・キング[Half King: 族長の1人]の関心を得るために駆使され、ハーフ・キングがここを去る時までに彼らが狙っていた好機を得たことを私は知った。[中略]。翌日、道を逸れ荒野を横切ってシェナピンズ・タウンShanapins Townに向かおうとマーダーリング・タウンMurdering Townと呼ばれる場所を過ぎた直後、我々はフレンチ・インディアンの一行と遭遇した。彼らは私達を待ち構えていて、その中の1人がジスト氏Christopher Gistに向かって15歩もない距離から発砲した。幸いにも外れた。我々はその者の身柄を拘束し、彼を夜9時までそのまま手元に置き、それから彼を解放した。そのまま止まらずに夜通し歩き続けた。[中略]。筏で乗り越えるしか我々には方法がなかった。みすぼらしい1丁の手斧だけで我々は仕事に取り掛かり、日没直後に終えた。丸一日がかりの仕事であった。我々は筏に乗って出発したが、半ばも行かないうちに次のように氷に阻まれた。我々は刻一刻、筏が沈むかもしれないと思っていた。我々は死にそうになった。私は棒を突き出して何とか筏を止めて氷をやり過ごそうとした。その時、氷の間を流れる急流が荒々しく棒にぶつかったために、私は10フィートほどの水の中に放り込まれた。幸運にも私は自力で筏の木材につかまることができた。[中略]。[1754年1月]16日にウィリアムズバーグに到着し、フランス軍司令官から預かった手紙を携えて総督閣下を待った。そして、[総督閣下に]私の旅路について説明した」

歴代アメリカ合衆国大統領研究/歴代アメリカ大統領研究者の成果