アメリカ大統領制度概史
※研究用メモ

 大統領制度は憲法制定会議で創始された。憲法制定会議は、人民の意思を代表する行政首長に率いられる強力な連邦政府について初めて真剣に議論した。
 行政首長に関する議論が始まったのは1787年6月1日である。ほとんどすべての代表が行政首長に幅広い権限を与えることを恐れていた。また行政首長を王に等しい程、強力にしたいと望む代表はほとんどいなかった。しかし、多くの代表達は行政首長を1人に限るべきだという信念を持っていた。他の者達は行政首長を3人にするように要求した。 
 ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)は行政首長を1人にするべきだと論じた。ウィルソンは行政首長には活力と迅速に決断する能力が求められると述べた。ウィルソンはそうした資質は行政首長を1人にした場合に見出させるとした。エドモンド・ランドルフ(Edmund Randolph)はウィルソンの提案に強く反対した。ランドルフは1人の行政首長は君主制の萌芽だと指摘した。 ジョン・ディキンソン(John Dickinson)は、王を頭に据えた政府を否定しないと述べた。ディキンソンは、君主制は世界の中で最善の政体であると主張した。しかしながら、アメリカに王を据えるのは問題外だとディキンソンは述べた。 行政首長の人数をどうするかについては長い議論となった。最終的に代表達は行政首長を1人にする案に決定した。
 次の問題は行政首長の任期である。行政首長は再任を許されるか否か。アレグザンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)は長期の任期を提案した。ハミルトンは、もし大統領が1年か、2年しか任期を持つことができなければ、アメリカはすぐに元大統領で溢れることになる。そうした元大統領達は権力を求めて争うだろう。そして、その結果、国家の平和が乱される。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)は再任の権利について論じた。人民が共和国の支配者である。そして、大統領は人民の僕である。もし人民が同じ大統領を繰り返し選びたいと望めば、人民はそうする権利を持つ。最終的に、大統領の任期は再任が制限されない4年に決定された。
 さらに次の問題は大統領の選出方式である。それは最も難しい問題であった。代表達は繰り返し議論した。ウィルソンは行政首長を選挙人と呼ばれる特別な代表によって選出する案を提案した。その案に同意しない代表達がいた。そうした代表達は選挙人を使う方式を実行するのは難しく、費用が嵩み過ぎると主張した。1人の代表が大統領を邦知事によって選出する方式を提案した。その代表は大きな邦の邦知事は小さな邦の邦知事よりも多くの票を持つべきだと主張した。特に小さな邦の代表はこの案に賛成しなかった。その他の提案は、大統領を直接人民が選出する方式である。エルブリッジ・ゲリー(Elbridge Gerry)はその方式に衝撃を受けた。人民はそうした方式を理解できないとゲリーは述べた。不正直な人物がたやすく人民を騙すことができる。大統領を選出する最も悪い方法は、 人民が直接選出する方式であるとゲリーは主張した。大統領の選出方式に関して憲法制定会議は60回も表決を行った。最終的に代表達は邦議会が指名した選挙人によって大統領を選出する方式を採用した。
 今度はある代表が、大統領が悪い行いをした場合に備えて、罷免する方法を定めておくべきだと主張した。代表達は同意した。グヴァヌア・モリス(Gouverneur Morris)は、もし大統領が信頼を裏切れば弾劾するべきだと主張した。 代表達は、もし大統領が収賄、反逆、もしくは重大な犯罪に手を染めた場合、罷免されるべきだという点で合意した。
 最後の問題は大統領の権限、特に議会に対する拒否権である。大統領に絶対拒否権を与えようと考えた代表はほとんどいなかった。しかし、大統領は立法過程にある程度、影響力を及ぼすべきだと代表達は考えた。もしそうすることができなければ、大統領職の意義は薄れてしまう。そして、議会は独裁的な権限を持つようになる。マディソンは解決策を提示した。大統領は拒否権を持つべきだとマディソンは主張した。しかし、もし議会が大多数の賛成を得れば大統領の拒否権を覆して法案を再可決できる。
憲法の最終案にはその他にも大統領に関する規定が盛り込まれている。大統領は生まれによる合衆国市民か、憲法が採択された時点で合衆国市民でなければならない。大統領は少なくとも14年間、国内に居住し、少なくとも35歳でなければならない。大統領は報酬を受ける。しかし、その報酬は任期の間、増額も減額もされない。大統領は最高司令官であり、随時、連邦の状況を議会に報告する。また大統領の宣誓の言葉も決められた。200年以上にわたって少なくとも4年に1度、歴代大統領によって宣誓は繰り返し行われてきた。
 その他の主要な問題は連邦判事の任命である。議会が連邦判事を任命するべきだという意見があった。また大統領が連邦判事を任命するべきだという意見もあった。ウィルソンは連邦判事の任命を大統領に委ねる案に賛成して、多人数の組織が公正に任命を行うことは難しいと主張した。ジョン・ラトレッジ(John Rutledge)はウィルソンの意見に強く反対した。決して大統領に連邦判事の任命を委ねるべきではない。そうした任命はあまりに君主制を想起させる。フランクリンは小話を披露した。スコットランドでは判事は弁護士達によって指名される。彼らは最善の弁護士を判事に選ぶ。そうすると判事に選ばれた弁護士が担当していた事件を彼らは彼らの間で分け合ってしまう。代表達はこの問題に関して表決を行った。代表達は大統領が上院の同意を伴って判事を指名することに決定した。
 憲法制定会議で大統領制度が創始されて以来、2013年現在まで、すべてで43人が大統領職を占め、成功の度合いは異なるにしろ、国家に奉仕してきた。大統領制度はその間、国内的にも国際的にも政治権力の焦点であり続けた。しかし、1789年に憲法が成立して以来、大統領制度は少しの修正が行われただけである。アメリカ大統領制度の本質は200年前と同じく今日でも認識可能である。しかしながら、憲法を制定した者によって形作られた18世紀の大統領制度は、20世紀と21世紀を通じて拡大された大統領制度に比べると弱体であるように見える。しかし、アメリカ大統領制度はこれまで考案されてきた政治制度の中でも最も試練に耐えてきた政治制度である。アメリカ大統領制度は、数々の戦争を耐え抜き、数々のスキャンダルを体験し、経済的混乱に見舞われ、暗殺も起こった。大統領の権限は、それぞれの大統領の統治戦略と同じく、時代毎の異なった状況によって変化している。概してアメリカ大統領制度の発展は、伝統的大統領制度、近代的大統領制度、そして現代的大統領制度に分けられる。
 伝統的大統領制度は、18世紀末から20世紀転換期までの大統領が含まれ、幾つかの例外を除けば、そうした大統領のほとんどは記憶に残らない。この時代において大統領職は今日のように高い政治的目標となるような存在ではなく、多くの初期の政治家は大統領になろうという野心を抱くこともなかった。大統領は控え目な権威、小さな権限しか持っていなかった。実際、ニュー・ヨーク州、マサチューセッツ州、そしてヴァージニア州のような大きな州の州知事のほうが大統領よりも大きな政治的権力と権威を持っていた。建国初期の大統領は、その憲法成立以前の活躍によって尊敬されていたが、国家防衛と外交政策に関して制限されていた。これは憲法の制定者の意図であり、大統領は政策形成に関して受動的な関与者の立場に置かれた。結果として、19世紀の間、ほとんどの大統領は、政策形成において主要な役割を果たしていた議会が可決した法を単に執行するのみであった。
 伝統的大統領制度の時代においては、4つの記憶すべき政権がある。ワシントン政権、ジェファソン政権、ジャクソン政権、そして、リンカン政権である。この4つの政権は、大統領の権限が小さく制限された伝統的大統領制度の時代における傑出した例外である[ Louis W. Koenig, The Chief Executive (Harcourt Brace, 1996), 2. ]。
 憲法を通じて強力な行政府が確立されたとはいえ、大統領職とその他の政府の府との関係を具現化するのは建国初期の大統領の仕事であった。建国初期の大統領がそうした具現化を行ううえで、いかに大統領職に関する見解、政治的対抗者の決意、そして広範な政治的文脈に依存しようとも、1840年までに大統領は大統領の権限を拡大し、大統領職を党派に基づいた政治的な官職に変えた。
 イギリス国王の過剰な行政権に対する反応として、邦議会は行政府の権限を制限する邦憲法を制定した。しかしながら、徐々に立法権の濫用が、新たに批准された合衆国憲法の下の連邦行政府に対する支持を生み出す契機となった。憲法制定者は、並び立つ立法府と司法府によって均衡が保たれる強力な行政府という概念を受け入れていた。その一方で、憲法に反対する者は、そうした安全策が不適切であり、大統領が実質的な君主になるのを防止できないのではないかと恐れた。こうした懸念は、連邦政府の基本的な性質に関する議論を招き、建国初期の政治を支配し、二大政党制度の原型を生み出し、アメリカ政治の中で継続した主題となっている議論を促している。
 1789年4月30日、ワシントンが最初の就任宣誓を行うにあたって、人民が示した姿勢は、人民が新しい政府を歓迎しながらも、大統領の一挙一動に注意深く目を配っていることを示していた。ワシントンは、共和国が存続できるか否かは大統領制度の成功にかかっていると考えた。アメリカ、そしておそらく世界の目が連邦政府に向けられているのを確信しながら、ワシントンは行政府を賞賛に値するが強力な新しい政府の府に作り上げようとした。まず連邦の官職任命をワシントンは大統領の最も慎重を要する責任と見なし最初の課題とした。ワシントンは友人に宛てた多くの手紙の中で、連邦の官職任命において血縁と友情の義務から自由であることの重要性を主張した。
 ワシントンは、独立革命の軍事的、または行政的業績を通じて一般から賞賛され、名声を得ていて、憲法に対して揺ぎ無い支持を与えている人物を公職に選んだ。さらに閣僚人事だけではなく、ワシントンは自ら数百に及ぶ連邦の官職を指名し、いかに些細な官職であろうと行政組織のあらゆる官職の使命に関与した。ワシントンは、閣僚を自らの副官と見なし、行政組織に関する完全な統制権を行使し、どのような決定であれ最終判断を下す権限を持った。
 強大な大統領制度に反対する議員は、大統領が閣僚を罷免する権限を制限しようとしたが、議会は1789年の決定で大統領が単独で閣僚を更迭する権限を認めた。さらに強力な行政府が法の執行を行わなければならないと信じてワシントンは地方検事を統制し、指揮系統を構築し、洗練された国家で見られるような儀礼を導入し、特定の責務を負わせた。
 ワシントンの行政官の統制に対して公然と挑戦した者はほとんどいなかったが、アメリカ人の君主制と中央集権に対する反感のために、大統領の日常的な行為や意見が絶えず監視にさらされた。ワシントンは自らの振る舞いが将来の大統領の形態を打ち立てることを認識していたが、すべての人々を喜ばせることはできないと悟っていた。批判を見越してワシントンは権力の分立が重要だと考えた。条約について諮るために上院を訪問して満足がいく結果を得られなかった後でワシントンはすべての議会への通達は文書で行うことを決定した。1792年4月、ワシントンは各州の住民につき3万人毎に1人の下院議員を割り当てるという憲法の規定に反する法案に初めて拒否権を行使した。議会が法案を修正した後にワシントンは法案に署名した。こうした行動によって、行政府と立法府の間に存続する抑制と均衡が有効に機能させられた。
 批判を避けようとするワシントンの試みにも拘わらず、フランスとイギリスの戦いに関する中立宣言、ウィスキー反乱の鎮圧、ジェイ条約の締結などをめぐって大統領の権威に対する抵抗が噴出した。中立宣言とジェイ条約をフランスとの同盟に違反すると見なした親仏派はジェファソンも含めて、ウィスキーの課税に反対して立ち上がった農民を鎮圧するために軍を率いたワシントンの行動に怒った。ワシントンの武力の誇示は大統領制度と連邦政府の正統性を示すためであったが、民主共和派が拡大する契機となり、ジェファソンを辞任に追いやり、二大政党制度の確立を促した。
 ワシントンの人気は未だに衰えなかったが、連邦の権威に対する抵抗が強まる一方であることに心を痛めたワシントンは、2期目の終わりに告別の辞を公表して党派の危険性を示唆した。告別の辞の公表によって将来の大統領のために2期在任の前例を作ったというのが伝統的な解釈だが、ワシントンの日記や手紙によれば、ワシントンは単に自分の家と家族のもとに戻りたかっただけであったことが分かる。大統領を退任するまでにワシントンは弛まぬ監督を以って大統領制度と行政府に正統性を与えた。ワシントンが示したように、大統領制度の将来は大統領の個性、憲法に対する姿勢、そして国内外の危機への対応に依拠することが予見された。時宜に適ったことにも、第2代大統領となったジョン・アダムズはワシントンが抱いた強力な行政府という観念を共有していた。
 建国されたばかりの国家にとって統治の継続性を保つことが最良だと考えてアダムズはワシントンの閣僚を留任させた。1796年の大統領選挙の結果、アダムズは民主共和派のジェファソンを副大統領に迎えなければならず、ワシントンが任命した者の中にはアダムズに対する忠誠心が疑わしい者が少なからず存在した。
 アダムズ政権は内部抗争、外交的失敗、そしてフランスとの宣戦布告なき戦争に費やされた。アダムズは、カリブ海と大西洋におけるアメリカ商船に対するフランスの攻撃を外交を通じて解決したいと望んだが、1798年、フランスの代理人はアメリカの外交官から交渉を開始する見返りとして賄賂を引き出そうとした。このXYZ事件と呼ばれる事件が発覚すると多くの者はフランスに対する全面戦争を唱えた。アダムズは穏健な方針を維持しながらも海軍省を創設し、艦船の建造を議会に求め、アメリカの艦船と私掠船にアメリカ沿岸とカリブ海域でフランスと交戦するのを認めた。アダムズにとって、議会の宣戦布告なしで海軍を配置することは憲法上、大統領に最高司令官として認められた範囲内の権限であった。
 新聞による政策の酷評に対応するためにアダムズは、1798年、治安を乱すと考えられる外国人を国外退去処分にし、名誉毀損と見なされる批判を処罰する権限を大統領に与える外国人・治安諸法に署名した。フランスとの戦争を予期してアダムズは議会と協力して不動産や奴隷に課税することで軍の規模を拡大した。新しい課税はペンシルヴェニア州でフリーズの乱を引き起こし、アダムズ政権は暴動を鎮圧するために軍を配置しなければならなかった。その一方でアダムズは軍の拡大を支持する連邦派を怒らせた。連邦派の支持を得てハミルトンは消極的なアダムズから軍を拡大する主導権を奪おうとした。しかし、アダムズは独断でフランスへの使節派遣を決定して、そうした計画を覆そうとした。アダムズは自らの政策に反対する閣僚を更迭し、拡大された軍を解体し、フリーズの乱の指導者に恩赦を与えた。アダムズは行政府の統制を維持するために21人の行政官を更迭したが、連邦派は議会の内外でアダムズのリーダーシップと政策を損なう運動を始めた。
 1800年の大統領選挙が近付く中、アダムズは民主共和派と対抗するだけではなく、連邦派の反感もかっていた。連邦派は公然と大統領を気質と知性の点で大統領職に向かないと非難した。こうした抵抗にも拘わらず、アダムズは敗れたとはいえその差は8票差であった。ニュー・ヨーク州のアーロン・バー(Aaron Burr)の助けを得て、民主共和派は12票の選挙人を擁するニュー・ヨーク州を確保し大統領選挙に勝利した。
 党派的争いによってアダムズは苦い経験をしたが、18世紀の終わりまでにアダムズとワシントンは、大統領の権威と行政府に対する単独的なリーダーシップを確立した。アダムズとワシントンは、連邦法を執行し、国家の安全保障を維持することができる独立した大統領職の形成に貢献した。ワシントンは、大統領を威厳、決意、強さを持った統一された政治的存在に作り上げた。アダムズは海軍省の創設、通商の保護、フランスの交渉で示した独断を通じて行政府と大統領の権限を拡大し、大統領の権威を守りながら宣戦布告を避けた。1800年までに大統領制度は連邦政府の重要な一部となった。
 1790年代を通じて、ジェファソンは小さな政府を志向し、大統領の権限と中央集権化に疑念を抱く民主共和派を指導した。大統領としてジェファソンは、エリート主義で君主的だと見なされるものをすぐに廃止した。ジェファソンは普段着で訪問者を接受し、儀礼がかった公式晩餐会を止め、虚飾だと思えるあらゆる形態の儀典を慎んだ。大統領の専制だと考えるものに対する軽蔑にも拘わらず、ジェファソンは大統領の権限を縮小させるどころか、大統領職を著しく拡大させ、大統領の権限の行使においてワシントンを超えた。例えばジェファソンは自ら閣僚の文書に目を通し、行政組織に関する大小を問わず様々なことに深く介入した。ジェファソンは政治的理由でこれまでにない規模で連邦の公職者を罷免した。そうした罷免の中には廃止された治安法の下、告発を行った地方検事が含まれる。ジェファソンはそうした法に関連する係争中の事件の判決に影響力を及ぼすために大統領の権限を行使した。民主共和党寄りの新聞発行者に関する事件でジェファソンは起訴陪審で無罪になるように地方検事に命令を下した。
 ジェファソンは、大統領は最高裁から独立して憲法の解釈を行うことができると信じ、アダムズによる判事の任命に抵抗することでその理論を試した。1801年裁判所法を違憲とする最高裁の権限を認めたジェファソンであったが、マーベリー対マディソン事件の判決でジョン・マーシャル(John Marshall)最高裁長官が大統領を最高裁に屈従させようと試みたと考えて激怒した。ジェファソンは判事を憲法の最終的な裁定者にすることは、アメリカ人を寡頭制の下に置くと後に論じている。ジェファソンは、最高裁は行政府に介入する憲法上の権限を持たないと宣言した。
 1803年、フランスからルイジアナを購入するために1,500万ドルの予算を求めた時にジェファソンは大統領の権限をさらに拡大した。ジェファソン自身、ルイジアナ購入の憲法上の疑義を抱いていたが、ジェファソンはルイジアナ購入が国家にとって良いことであるからそれは正当化されると結論付けた。ジェファソンは外交で自由裁量を発揮し、イギリスとの通商条約を上院に提出しなかったことで敵対者を驚かせた。ジェファソン政権期のさらなる大統領の権限の拡大は1807年から1809年の出港禁止法の間にもたらされた。イギリスとフランスによるアメリカ商船に対する攻撃を解決するために、ジェファソンはすべての出港を禁止し、民主共和党が支配する議会から未曾有の執行権限が与えられた。議会の法の下、大統領によって認められた船舶のみがアメリカの港を出ることができた。砲艦が違反者に向かって発砲し、議会は非協力的な連邦党の知事を出し抜くために州の民兵を大統領の管理下に置き、大統領は法の執行に関連する訴訟に介入することができた。例えば、チャールストンの徴税官に船舶の出港許可を与えるように命じる裁判所の判決をジェファソンは覆した。司法長官から反対された後、ジェファソンは司法長官の見解を公表し、すべての徴税官に裁判所の判決を無視して司法長官に従うように指示した。
 1809年3月までに出港禁止法と厳しい法の執行によってニュー・イングランドの政策に対する敵意が著しく高まり、分離を示唆する声まであったので、議会は出港禁止法の撤廃を余儀なくされた。戦争を避けることを望んで行った政策に対する反感に失望したジェファソンは、後に大統領職を自らの墓碑銘から除外したが、政治的な理由による公職者の罷免、ルイジアナ購入、司法府への挑戦、出港禁止法で与えられた広範な執行権限を通じて大統領の権限を拡大した。またジェファソンはトリポリ戦争を行い、地中海でトリポリがアメリカ船を拿捕し、アメリカ船員を捕虜にするのを止めさせた。ジェファソンの従来の大統領の権限と中央集権化に対する不安にも拘わらず、19世紀はこれまでアメリカが経験しなかったほど強力な大統領制度の下で幕を開けた。
 ナポレオン戦争で生み出された外交上の問題は3人の大統領に付きまとったが、ジェファソンの指導の下、民主共和党は軍事予算を削減し、アダムズによって配備された軍備を解体した。こうした措置はジェファソンの後継者であるマディソンの政権運営を困難にさせた。マディソンは他の大統領と同じく、不忠誠な閣僚を含む27人の行政官を更迭することで行政府を統御した。1814年、上院は決議を通じて大統領の権限を制限しようとしたが失敗した。
 マディソンは戦時大統領として失敗であったと批判されることが多い。実際、強力な行政府を信奉するマディソンの信念にも拘わらず、マディソンの個性は戦時大統領に求められる資質に適していなかった。マディソンは学究肌で穏やかに話し、戦時に求められる政党の指導者になることができなかった。出港禁止法が撤廃されたために、マディソンはアメリカの通商に加えられるイギリスとフランスの攻撃に対してどのように対処すればよいのかという問題をめぐる政党の争いに巻き込まれた。1812年戦争に至るまでマディソンは外交文書の内容が本当かどうかよく確かめることもなく性急な判断を下したために問題を余計に困難にした。民主共和党のタカ派は、軍備の削減のために適切に戦うことができず、決定的な勝利を収めることができそうにもないイギリスとの戦争を唱導した。
 たとえ歴史家が主張するように、マディソンがタカ派の圧力によって戦争を行うことを余儀なくされたとしても、マディソンは反戦の声を抑圧するために治安法の制定を求めるタカ派の要求を黙認しようとはしなかった。またマディソンは、連邦党が開催したハートフォード会議によって提案された、再任を制限し、同じ州の出身者を連続して選出することを禁じることで大統領の権限を損なう憲法修正を認めようともしなかった。さらに1815年、マディソンはバーバリ諸国(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェ、チュニス、トリポリ)を打ち破ることで地中海でアメリカを長い間悩ませてきた問題を完全に解決した。過去の過ちから学んだマディソンは退任する前に軍事支出を増額し、平時の軍の規模を3倍に拡大し、沿岸要塞に予算を割り振る革新的な防衛計画を提案した。いろいろ問題はあったにせよ、マディソンは人気のある大統領として退任することができ、退任した後もその政治的意見は尊重され、大統領の権限の擁護者となった。
 モンローは1812年戦争後の愛国主義が高まった時に大統領に就任した。政権初期、モンローはアダムズ=オニース条約を締結し、スペインからフロリダを獲得し、モンロー・ドクトリンを公表することで大統領の外交に新時代を切り開き、西半球への干渉と植民地化についてヨーロッパに警告した。連邦党は急激に衰えたために党派的対立は少なくなり、民主共和党の実施的な一党支配による「好感情の時代」が訪れた。モンローは署名に関する声明を出した最初の大統領である。それは法案の特定の条項に関して大統領が何故、拒否権を行使しなかったのか説明する声明である。さらに憲法上の疑義を抱きながらもモンローは国内開発事業の端緒となる法案に署名し、将来、連邦政府が公共事業を監督する道を開いた。
 1818年から1820年にかけてミズーリを奴隷州として加入を認めるか否かをめぐって議会は激しい議論を交わした。モンローは議論に関する公式声明を発表することはなかったが、ミズーリで奴隷制度を禁止するのは違憲であると考え、禁止を認めるようないかなる法案にも拒否権を行使するつもりであった。上院はミズーリでの段階的な奴隷解放を促進する下院の法案を認めようとしなかった。その結果、今後、ルイジアナから形成される北緯36度30分以北の新しい州で奴隷制度を禁止する一方でミズーリを奴隷州として認める妥協が成立した。モンローはミズーリ妥協を承認し、1821年8月、ミズーリは奴隷州として連邦に加入した。
 モンローは任期の全期間を通じて高い人気を保った。モンローが大統領に就任した1817年までに既に民主共和党は16年にわたって政権の座にあり、そのためモンローは公職者をほとんど更迭することなく、議会と政策をめぐって争うこともほとんどなかった。1816年、連邦党は最後の大統領候補を擁立し、1820年の大統領選挙は実質的にモンローの対抗馬はおらず、連邦政府は党派的対立を克服したかのように思えた。
 しかし、党派的対立はモンロー政権で一時的に休止していただけであった。党派的対立の解消は、混戦となった1824年の大統領選挙を制して大統領になったジョン・クインジー・アダムズにこそ必要であったかもしれない。アダムズは自らを全国を代表する人物と見なし、大統領職を国内開発事業を推進するために利用しようとした。アダムズは、連邦政府による教育計画、海軍士官学校、天文台、運河、道路の建設、そして、オレゴンの獲得を提唱した。アダムズは先駆的な構想を持っていたが、アダムズに反対するジャクソン支持派議員は、そうした計画によってもたらされる連邦政府の拡大を非難し、アダムズの野心的な計画を阻んだ。さらにアダムズは時代錯誤な方法で政治困難を解決しようとし、政党政治の必要性を無視した。アダムズは行政府を支持者で固めることを拒否し、空席が生じた時のみ行政官の任命を行った。そうした政党政治の軽視によってアダムズは再選に必要な政治的連携を形成することができなかった。ジャクソンからの悪意ある攻撃に効果的に対応できなかったアダムズは1828年の大統領選挙で大差でジャクソンに敗れた。アダムズの政治経歴はそれで終わりではなかったが、その高い理想にも拘わらず、アダムズは大統領制度に大きな影響を与えることはなかった。
 大統領職はすべてのアメリカ人によって選ばれる唯一の公職であるという信念に基づいて、ジャクソンは大統領制度を憲法の限界まで引き伸ばした。ジャクソンの信念は正しかった。何故なら1832年の大統領選挙までにサウス・カロライナ州を除くすべての州で選挙人は一般投票で選ばれるようになったからである。8年間の任期の中でジャクソンは大統領制度の輪郭を再構築し、猟官制度、合衆国銀行の廃止、議会や最高裁との衝突を通じて大統領の権限の新しい領域を確立した。
 ジャクソンは大統領を政党の指導者と見なし、閣僚には服従を求めた。ジェファソンは大幅な行政官の更迭を行ったが、ジャクソンも同様に数百人の公職者を交代させた。ジャクソンは、連邦政府には3つの同等の府があると認めていたが、最高裁がウスター対ジョージア州の判決で1830年インディアン強制移住法は違憲だと判断した時に、ジャクソンはそれを無視してジョージア州がネイティヴ・アメリカンをオクラホマに強制移住させることを黙認した。またジャクソンは、予算法案で提示された道路建設に反対することで署名に関する声明に新しい役割を与えた。ジャクソンは法案に署名したものの、道路建設に予算を割り当てないように議会に指示した。下院はジャクソンの指示が本来、認められていない項目毎の拒否権にあたるとして批判したが、最終的にジャクソンが勝利を収めた。
 ジャクソンの物怖じしない性格と行政府の厳格な管理はジャクソンの立場を強化した。元連邦党員と不満を抱いた民主共和党員はジャクソンを「アンドリュー1世」と呼び、ホイッグ党を結成した。2度目の二大政党制の形成はジャクソンに責任がある。ジャクソンの2期目までに民主党は議会で辛うじて多数派を占めていたが、1832年、上院のホイッグ党議員は合衆国銀行の特許が切れる4年も前に特許の更新を実現しようとした。ジャクソンは合衆国銀行特許更新法案に拒否権を行使し、党派的な銀行家が銀行の連邦的な義務に違反していると公表した。議会との引き続く戦いの中でジャクソンは合衆国銀行から政府の預託金を引き上げるように財務長官に命令した。そして、命令に反対した財務長官を更迭して新たに財務長官を任命することで命令を実行させた。
 1833年、上院は預託金の引き上げに関する書類を提出するように大統領に求めた。しかし、ジャクソンは立法府と行政府は同等の立場にあり独立しているという主張に基づいて上院の要求を拒否した。1834年3月、ホイッグ党のヘンリー・クレイ(Henry Clay)上院議員は、憲法に違反して預託金を引き上げ、財務長官を罷免した故を以って大統領を問責する決議を通過させた。ジャクソンは上院が憲法で定められた領域を踏み越えていると批判する声明を発表し、下院が大統領の不正行為を判断する権限を持つので問責は上院の権限に属さないと論じた。合衆国銀行の特許は更新されなかったので、上院は行政官の罷免の理由を説明する報告を提出するように大統領に強制することで報復しようとしたが、下院で法案は否決された。上院は人事をめぐってジャクソンと対決した。ある測量士の解任に関して、上院はジャクソンの指名を承認することを拒絶した。何故ならジャクソンが同じ人物を再指名しただけであったからである。またホイッグ党議員は、ロジャー・トーニー(Roger B. Taney)の最高裁判事指名をできるだけ延期させようと試みたが、1836年にトーニーの指名は承認され、トーニーは1864年に亡くなるまで在任した。1837年1月に上院が大統領を問責した決議を公式記録から抹消することを決定した時に、ジャクソンと議会の対立は終わりを迎えた。
 ジャクソンの後を継いだのはヴァン・ビューレンである。ヴァン・ビューレンはジャクソン政権で国務長官と副大統領を務め、ニュー・ヨーク州民主党の強力な政党組織を背景にジャクソン政権を支持した。ヴァン・ビューレンの猟官制度はジャクソンの猟官制度と似通っていたが、ケンダル対合衆国事件で下された判決に挑戦しなかった。ケンダル対合衆国事件の判決によって、大統領は行政組織に対して絶対的な権限を持たないことが示された。ヴァン・ビューレンは同意しなかったものの、ケンダル対合衆国事件の判決はこれまでの大統領が妨げてきた司法府による行政府の運営に対する容喙の扉を開いたと言える。1937年の恐慌でヴァン・ヴェーレンは経済的救済策をほとんど何も行わなかったので人民の支持を失った。そして、ウィリアム・ハリソンに大統領選挙で敗れたことでヴァン・ビューレンは1期のみの大統領になった。
 アメリカの最初の8人の大統領は大統領制度と未熟な国家像の両方を高める共和政体の統治の基準を確立した。ワシントンやジェファソン、そしてジャクソンは大統領に司法府と立法府と同等の地位を与え、行政府を自由に管理するために戦った。1840年までに様々な圧力にも拘わらず、大統領は有権者に対する義務を慎重に擁護し、自身の政策を推進するために政党政治を駆使した。各大統領は、憲法制定者が思い描いたように大統領職が行政首長となり、最高司令官となり、政策形成者になったことに自信を持った。したがって、ワシントンに続く初期の大統領は、憲法制定会議で示された概念から大統領制度と行政府の進化に貢献し、行政府が連邦政府の中で、強力で影響力のある府になる基礎を作った。
 ジャクソンに続く大統領の中で成功を収めた者は個人的権威を利用したが、しばしば政党の力に頼った。ジャクソンが強大な大統領権限を行使したことでホイッグ党は議会の優越を重視し、大統領の権限を制限することを目指した。ホイッグ党にとって不幸なことに、そうした見解を抱いていたウィリアム・ハリソンは、任期が始まってすぐに病死した。ハリソンを引き継いだタイラーは、離反した民主党員であり、様々なホイッグ党の全国的な経済政策を採用することを拒否した。タイラーが度重なる拒否権の行使でそうした政策を妨げようとしたのでタイラーの閣僚は一斉に辞任し、ホイッグ党はタイラーを党から放逐した。政党もなく、閣僚もなく、名声もなく、信任もない大統領になったタイラーは権限の正統性の源泉を除くすべての点でジャクソンが行使した大統領権限に倣おうとした。タイラーは大統領職単独で何がなし得るのかを示した好例であった。タイラーの拒否権とタイラー自身が確保した閣僚はタイラーが任期を終えるまでホイッグ党が推進しようとした政策を阻んだ。
 ポークはカリフォルニアを獲得することでアメリカをジャクソン主義的な拡張主義に目を向けさせ、奴隷制度をめぐる緊張を緩和できるのではないかと望んだ。ポークがメキシコ国境地帯に兵士を送ったために戦争が引き起こされたがそれは状況を悪化させるだけであった。北部の民主党員からポークは南部の奴隷制度擁護派の利益を優先したと非難を受けた。ヴァン・ビューレンを中心とする民主党の一派は米墨戦争によって新たに獲得された領土での奴隷制度を禁止するウィルモット修正条項を支持した。しかし、ウィルモット修正条項が否決されると、彼らは民主党から離反して新たに自由土地党を結成した。民主党の西部の一派は、奴隷制度の是非を住民に決定させる住民主権で亀裂を埋めようとした。州権を尊重するジャクソン主義の根本原理に立ち返れば、住民主権は非の打ち所がないように思えたが、地域間の衝突によって既に民主党の分裂は回復できない程、進行していた。
 テイラーはホイッグ党の2番目に選ばれた最後の大統領であり、大統領になる前に政治に関する経験がなかった。テイラーは後に1850年の妥協と呼ばれる措置に関して議会と衝突した。奴隷主でありながら奴隷制度の拡大に反感を抱いていたテイラーは1850年の妥協の基礎となるクレイが提案した法案に抵抗した。テイラーが死去してフィルモアが大統領に昇任した後、1850年の妥協は成立した。テイラーの強力な議会に対する抵抗は大統領の独立を擁護しようとした試みと見なすこともできる。
 1850年代を通じて、大統領職と議会は民主党の手中にあった。国家の拡大が連邦を保持する最後の望みだと考えて、ピアースとブキャナンは西部への拡大を明白な天命として強調した。しかしながらピアースは、スティーヴン・ダグラス(Stephen Douglas)上院議員によって、実質的にミズーリ妥協を廃棄し、カンザスで奴隷制度を認める住民主権を支持するように強要された。カンザス=ネブラスカ法はさらに民主党を分裂させ、共和党の誕生を促した。ブキャナンはキューバ獲得を追求することで南部の拡張主義戦略を解決しようとした。ブキャナンは、そうした発想を連邦分裂の危機から注意を逸らせようとする無益な試みの中で考え出した。1860年12月にサウス・カロライナ州が連邦から脱退した時、ブキャナンは、大統領権限の憲法上の厳密な解釈によって危機に対応するための能力が制限されると主張した。ブキャナンは権力の分立を単に機能主義的な解釈で読み解いていた。議会への教書の中でブキャナンは、大統領は法を執行する権限があるだけで法を作る権限はないと述べた。立法権限や戦争権限の共有など厳格な権力の機能的分立には多くの問題があるのにも拘わらず、19世紀の多くの大統領はブキャナンの例に倣った。
 ジャクソンに続く時代の大統領は正統性を憲法の原理に求めようとしたが、彼らはしばしばそれが政治的理由で不可能であると分かった。例えば、就任して僅か2日後に出されたドレッド・スコット事件の判決に支持を決定したブキャナンの行動は、ブキャナンの憲法に対する姿勢と適合させることは難しい。トーニー最高裁長官は、憲法修正第5条の正当な法の手続きを定めた条項に基づいて、連邦議会の準州から奴隷制度を除外する権限を違憲と見なし、自由黒人に対する市民権を否定した。トーニーの判決は北緯36度30分以北の準州で奴隷制度を禁止するミズーリ妥協を否定するものであった。ブキャナンの厳格な権力の機能的分立によれば、ブキャナンはドレッド・スコット事件の判決を違法と見なすことができたはずである。なぜなら判決によって裁判所はミズーリ妥協に拒否権を行使する権限が与えられたからである。しかし、ブキャナンはダグラスに対抗して南部の支持を勝ち取ろうと考えて政治的基盤に背を向けることを拒否した。その結果、政治と原理が袋小路にはまり込んだ。
 リンカンはまったく異なる憲法の解釈を行った。権力分立の下で大統領は法を執行するように制限されているが、リンカンは法の執行を広義に解釈した。さらにリンカンはジャクソン主義的な人民を代表する大統領制度の概念を受け入れた。リンカンは南北戦争を通じて人民の権限に依拠することで行政権の広範な解釈と憲法に定められた最高司令官としての権限を正当化した。リンカンは単なる民主主義者ではなく、緊急事態で君主が国家のために行動する権限を与えるイギリス法の伝統に依拠している。ジョン・ロック(John Locke)はこうした特権はあらゆる首長に必要なものであると論じており、憲法の制定者も大統領に行政権全体を与えたことでそうした特権を示唆している。
 リンカンは有権者の信任を特権の行使の事後承諾の正当化に用いている。リンカンは奴隷解放宣言を1862年の選挙の前に告知し、共和党が議会の支配を取り戻してから署名している。リンカンは1864年の選挙の勝利を提案された修正第13条に正統性を付与するものと見なした。
 第1次就任演説でリンカンは行政首長のすべての権限は人民に由来し、州の分離のための条件を定める権限は何も与えられていないと述べた。そして、もし人民がそれを望めば、人民自身がそうすることができ、大統領はそれに関してできることは何もない。それは議会による宣戦布告を暗示していた。しかし、議会の休会中にサムター要塞に対する攻撃が行われた。ほぼ同時にボルティモアの暴徒が首都を防衛するために必要な軍の通路を阻んだ。
 リンカンは行動を余儀なくされた。数日間にリンカンは首都を守るために民兵を召集した。それからメリーランド州で人身保護令状を差し止め、南部の港を封鎖し、後にウェスト・ヴァージニア州を形成する連邦に忠実な者に武器を送った。5月25日、連邦軍は南部に同調的なジョン・メリマン(John Merriman)を鉄道の橋を破壊する支援を行った容疑で逮捕した。収監された後、メリマンは人身保護令状を請求した。メリマンの申し立てによる事件でトーニー最高裁長官は、議会の法による他は人身保護令状の特権は差し止められないという判断を示した。
 1861年7月4日、リンカンは自身の行動を議会の前で説明した。大統領の権限は制限されている。法が忠実に執行されるように配慮する権限によってもたらされる行政権は、議会による宣戦布告なしでは、最高司令官としての権限に依拠して正当化することは難しい。しかし、ほぼ3分の1の州において、忠実に執行されるべき法全体が抵抗を受けて執行できない。1つの法を侵害することを恐れて、1つの法ではなくすべての法を執行できなくし、政府を分裂させるべきか。人民の自由に対して強過ぎる政府がよいのか、それとも国家の存在自体を維持できない程、弱過ぎる政府がよいのかとリンカンは問うた。大統領と大統領の非常時権限の擁護者は、こうした言葉を引用し、憲法は自滅するための契約ではないと主張する。
 宣戦布告なしで緊急時の非常時大権に依拠する大統領の権限は最高裁の挑戦を受けた。リンカンが南部の港を封鎖した後、連邦の海軍は南部に積荷を運んでいた船舶を拿捕した。宣戦布告なしで大統領は戦争権限に基づく権限を行使できないという論理に基づいて船舶の所有者は告訴した。裁判所は所有者の訴えを斥け、5票対4票で反乱を鎮圧する際の最高司令官としてのリンカンの行動の正当性を認めた。
 しかし、最高裁はリンカンがとったすべての緊急時の行動を認めたわけではなかった。ミリガンの申し立てによる事件で最高裁は、連邦裁判所が通常に機能している場所での人身保護令状の差し止めに対して異議を唱えた。多くの学者はミリガンの申し立てによる事件の判決の影響を割り引いて考えている。なぜなら判決は南北戦争が終結し、リンカンが死去した後に書かれたからである。しかし、その判決文は大統領の権限の濫用に対する警告となっている。合衆国憲法は戦時でも平時でも支配者と人民に対する法であり、あらゆる時、あらゆる機会ですべての階層の人々を守る盾であると判決文は述べている。政府の非常時に憲法の規定を差し止めることができるという主張は誤りである。なぜならそれが基づいている憲法の中にある政府がその存在を維持するために必要なあらゆる権限を持つという必要性の論理は誤りだからである。
 リンカンがそうした判決に示された理念に背いていた一方で、リンカンの憲法を尊重する姿勢はできる限り速やかに緊急事態の終結を決意させた。1864年、リンカンは緊急事態が去り、憲法の制限が再び戻ったと決定した。連邦に復帰する条件として奴隷制度を終わらせることを要求するウェイド=デーヴィス法案を議会が可決した時、リンカンは、自らが軍事的根拠に基づいて行った行動と同様の行動を議会は憲法上、行うことはできないという根拠で拒否権を行使した。
 リンカンは明らかに歴代大統領の中で最も偉大な大統領である。それはリンカンが大統領の権限を拡大したからではなく、リンカンが大統領の権限を叡慮と良心を以って行使したからである。ゲティスバーグの演説は国家が新しい自由の誕生に奉献されたと述べている。新しく生まれた自由は以前に存在した自由とまったく異なるものであった。国家はもはやジャクソン主義の理念にも支配されず、ホイッグ党の理念にも支配されなかった。その代わりにリンカンは民主党の叡慮とホイッグ党の良心を兼ね備えた国家を思い描いた。リンカンは自ら能力を発揮することができるすべての個人に法的保護を拡大しようとしたが、同時に政治組織が自己保全に必要な優越性も認識していた。
 リンカンの大統領の権限の範囲は最高裁が示した判断で詳細に見ることができるが、アンドリュー・ジョンソンの大統領権限は議会との関係で定義される。ジョンソンは元奴隷主であり南部の民主党員であり、リンカンとともに副大統領候補として立候補した。リンカンの暗殺後、ジョンソンは南部再建の方向性をめぐって議会と争った。ジョンソンは戦闘で勝利したと言えるが、戦争には明らかに敗北した。元民主党員で旧南部連合に忠実な知事を任命することでジョンソンは再建策を南部の白人に有利になるようにした。それにも拘わらず、ジョンソンが弾劾され1票差で罷免を免れた後、大統領制度はジョンソンの下で政府に対する統制力を決定的に失った。
 議会がジョンソンを弾劾しようとした動機は南部再建に関する法案を妨害されたからである。しかし、弾劾は立法府と行政府の政策の違いを解決するための手段ではない。憲法は弾劾の根拠を、反逆、収賄、重罪などとしている。言い換えれば明らかに違法である場合か犯罪である場合である。下院が弾劾の特定の事由を決定し、それが上院の審判の基準となる。ジョンソンの弾劾の特定の事由は1867年公職在任法の違反であった。ジョンソンに対する特定の非難と全体の非難の功罪は論争の余地がある。
 公職在任法が大統領の罷免権を剥奪する議会の露骨な試みであるのかどうかを判断することは難しい。憲法は任命権について言及しているが、罷免権については言及していない。この欠陥の指摘は第1議会にまで遡る。議員は外務省の創設にあたって、大統領は単独で閣僚を罷免することができるのか否かを論議した。大統領が効果的に行政組織を管理することができるようにするためには独立性が必要であるという結論に達した。任命権は上院と分有されているが、独立性は大統領のみに罷免権を与えることでのみ確保される。
 こうした合意にも拘わらず、議会はエドウィン・スタントン(Edwin Stanton)陸軍長官を在任させるために公職在任法を可決した。陸軍省は、議会の南部再建策で重要な役割を果たす解放黒人局を管理していた。ジョンソンは解放黒人局が旧南部連合の諸州の復帰の障害になると考え、スタントンを罷免してグラントを新たに指名した。下院はジョンソンの弾劾を決定することで報いた。弾劾では、ジョンソンは任免権を法を妨害するために使ったと批判された。確かにジョンソンはそうしたが、立法権は分有された権限であり、罷免権は分有された権限ではない。それ故、ジョンソンは公職在任法の合憲性を問うことで自らの行動を正当化することができた。最終的に上院は大統領の罷免に必要な3分の2の票数を集めることができなかった。
 立法府と行政府の本当の戦いは、憲法修正第13条と第14条の批准に対する姿勢の違いと旧南部連合の諸州の復帰の条件をめぐって行われた。ジョンソンは旧南部連合の諸州に奴隷解放を支持する誓約をすることで憲法修正第13条に投票する資格を与えたいと考えていた。ジョンソンは旧南部連合の諸州に、解放された奴隷に法による正当な手続きを与える一方で旧南部連合の諸州の政治的権利を制限する憲法修正第14条の批准を求めることを拒んだ。議会の共和党過激派は解放黒人局を旧南部連合の諸州を黒人の有権者の手中に置くために使い、旧南部連合の諸州に憲法修正第14条の批准を求めた。議会の共和党過激派は黒人の選挙権を支持し、旧南部連合の高官を追放しようとしたが、ジョンソンは黒人に対する人種的偏見を拭い去ることができず、南部への同情を棄てることもできなかった。解放奴隷は40エーカーの土地とラバが与えられる予定であったが、主にジョンソンの妨害によって実現しなかった。
 ジョンソンは最後のジャクソン主義者と見なされ、南部の白人同胞に焦点をあてた南部再建策を維持しようとした。大統領としてジョンソンは貧困白人と奴隷主の両方を含む全体の善に配慮していると主張した。ジョンソンは自らがタイラーと同じく、信任も政党も名声も議会の支持もない立場に置かれていることに気付いた。弾劾による罷免の危機は回避されたが、大統領制度は行政機関に対する統制を失い、政府は議会の監督に委ねられた。ジョンソンの任期が終わるまでにアメリカ政治は議会を中心とする政治に向かって動いていた。
 ジャクソン以後、低迷していた大統領の権限と権威はリンカンの死で頂点を迎え、それ以後は再び急速に低迷した。南北戦争の予期せざる勃発でワシントンに生じた政治的空白は大統領のみが埋めることができた。緊急事態によってリンカンは大統領権限を拡大させ、大統領制度に多くの先例を遺した。こうした先例は大統領職の伝統と見され、20世紀において大統領が緊急時に権限を拡大させる根拠として復活した。
 ジョンソンが議会と戦い敗れた一方で、グラントは戦うことなく議会に降伏したように見えた。1868年、共和党の大統領候補指名を受諾するにあたってグラントは「平和になろう」と述べた。それは北部と南部の間の平和を意味していたが、同時に議会と大統領の間の平和も意味していた。グラントは軍人であり、政治家ではなかった。平和を求めるにあたってグラントは議会の条件を受け入れるつもりであった。
 グラントを大統領に選んだことで、アメリカ人は軍事的英雄が大統領になるという伝統を確立した。しかし、グラントが政党、地域、そして国民の均衡を保つ際に直面した困難は南部戦争で直面した困難に劣るものではなかった。グラントが就任するまでに、3つの州を除くすべての旧南部連合の諸州が連邦に復帰していた。その一方で白人の民主党員が南部の州の大半を支配していたので、連邦への復帰によって再建をめぐる地域的な妥協を図ろうとする大統領の試みが阻害された。南部に平和をもたらそうとするグラントの願いは、権力の座に留まるために南部の民主党の票を必要とした共和党の姿勢、議会における争い、北部の有権者の南部再建策に対する関心の減退によって阻害された。
 グラントは南部で抑圧された奴隷の味方であるという評判を得ていたが、共和党は過激派、保守派、穏健派に分裂しており、旧南部連合の高官をどのように処遇するか、そして解放奴隷を支援するべきかといった問題で意見を異にしていた。そのような状況でグラントはジャクソン主義者のように対応した。政策の焦点を領土の拡大にあてたのである。グラントはサント・ドミンゴを併合しようとした。しかし、そうした試みは失敗に終わり、グラントは共和党を1つにまとめることができなかった。南部の民主党員とクー・クラックス・クランが台頭して南部を掌握すると、グラントは政治的テロを防止するために連邦軍を派遣する権限を議会に求めた。クー・クラックス・クランやその他の暴力的な民兵を抑えようとする措置は遅きに逸し、十分ではなく、分裂した共和党員の目を覚まさせることもできなかった。
 1875年までに共和党が支配する南部の州は4つだけになり、1876年末までに民主党のサミュエル・ティルデン(Samuel Tilden)が大統領選挙で勝利する見込みが高くなった。しかし、様々な政治的動きの後に1877年の妥協が成立し、共和党のヘイズが大統領に選ばれた。ヘイズはルイジアナとサウス・カロライナに対する共和党の支配から連邦が手を引くことに同意した。したがって南部再建とこの時代の大統領制度は不名誉な形で終わりを迎えた。
 特に国家構想の形成、戦争の遂行、そしてアメリカ国民との繋がりにおける大統領権限の拡大は20世紀になるまで大統領制度の基本的な特徴ではなかった。大統領職の権限、大規模な行政府の官僚制度を含む近代的大統領制度の発展は、憲法の制定者によって作られた慎ましい大統領職を作り変えた。連邦政府の三府の中で行政府は最もその起源から拡大し、最も憲法制定者の意図から離れた存在になった。セオドア・ルーズベルトとウィルソンは、世論を積極的に喚起しようと努め、国内外問題に積極的に関与することで近代的大統領制度の建設者となった[ Louis W. Koenig, The Chief Executive (Harcourt Brace, 1996), 3. ]。
 1878年から1920年の間、特にマッキンリーが大統領に就任した1897年以後、大統領の相対的な権限は議会の権限を犠牲にして拡大した。19世紀初期、大統領は典型的に議会の主導に従い、行動をとるまえに明確な方向性が与えられるのを待っていた。しかしながら、20世紀初頭までに大統領は度々主導的な役割を果たし、議会は大統領の行動を事後承諾するか覆そうと努めた。しかし、議会の行動はもはや以前ほど効果的でもなく重要でもなかった。大統領の権限の拡大は、2つの重要な発展の結果である。連邦政府の規制と法を執行する能力の高まりとより積極的な外交政策の展開である。そうした試みは急速に拡大する産業社会に対応しようとする結果、生まれた。政治指導者は、自由市場によってもたらされる否定的な社会的影響を緩和しようと努めながら、アメリカの実業の範囲を国内だけではなく海外に広げようとした。この時代の共和党によるホワイト・ハウスの支配はそうした変化を定着させた。
 1861年のリンカン政権の開始から1933年のフーバー政権の終わりまで、共和党はほとんどホワイト・ハウスを支配していた。南北戦争の間、連邦の擁護者であった共和党は強力な州政府よりも強力な連邦政府を好んだ。共和党はしばしば改革に携わった。共和党員は連邦政府の権限を市場経済と個人の行動を形成するために使用するのを恐れなかった。さらに共和党は実業志向の政党であり、その積極的な外交政策はアメリカの輸出のための海外市場の獲得に向けられていた。大統領職の長期にわたる支配を通じて、共和党はその政策目標を実現することに成功したために、さらなる変革を求めて努力することが難しくなった。
 この時期に2人の民主党の大統領が選ばれている。クリーブランドとウィルソンである。両者は共和党内の分裂と共和党の主要な綱領を取り入れることで大統領選挙で勝利した。クリーブランドは公職制度改革を最優先課題とし、そうした姿勢は多くの脱党した共和党員を引き付けた。ウィルソンは1912年の大統領選挙でセオドア・ルーズベルトが第三政党を結成して共和党の票を奪ったのに助けられて当選した。その時までに経済やアメリカ人のその他の生活の側面を規制するために強力な連邦政府の権限を行使するという考え方が主流となり、ウィルソンはそうしたかつての共和党の理念を確かに継承した。
 憲法は、大統領に法が忠実に執行されるように配慮することを求めている。そのために大統領は上院の承認を得るか、もしくは単独で行政官を任命する権限を持っている。1878年から1920年の間、議会が法を執行する手助けをするためにより多くの行政官を指名する機会を大統領に与えたために大統領のそうした権限は拡大した。
 拡大する産業市場経済の複雑さと危難に取り組むために、議会は州際通商委員会、移民帰化局など新しい連邦機関を創設する一連の法案を可決した。そうした新しい機関の大半は行政府に属し、大統領の監督の下に置かれた。大統領は、大統領令を発することで特定の方法で法を執行する行政官を指示することができた。21世紀の基準からすれば、19世紀後半から20世紀初期の大統領は控え目に大統領令を使った。その中でクリーブランドが最も多く大統領令を発したが、その数は161であり、ジョージ・W・ブッシュの284と比べて少ない。その頃の大統領令はトルーマンが1947年に発した軍隊の人種統合を命じる大統領令などに比べてその内容においても劇的ではなかった。大統領令は、公職資格の調整、国立公園、国有林、ネイティヴ・アメリカンの居留地の設立などに使われた。後の基準からすれば一般的でもなく劇的でもなかったが、大統領令の使用は増え始めた。1878年以前に発せられた大統領令は僅かに252であり、そのうち144は南北戦争期に発せられた。1878年から1920年にかけて現行法を解釈し、議会の関与なしで実質的な法の修正を行うのに大統領令が使用される前例が確立した。
 この時代の大統領令の新しい重要な使用法の1つは、どの連邦の官職が新しい公職制度法の適用対象となるのか指定する使用法である。不満を抱いた猟官者によってガーフィールドが暗殺されたことで、ジャクソン政権以来、多くの官職を埋めるのに使われてきた猟官制度の徹底的な改革を求める声が高まった。猟官制度の下で官職を得るために最も重要な資格は有力な政治家との繋がりであり、党組織が官職の分配を促進した。統治がより複雑化するにつれて、公職制度改革者は、職務をより円滑に実行するために経験と訓練を積むように行政官に求め、政党との繋がりの強さではなく、成果競争主義に基づく採用や昇進を行うように求めた。こうした制度を通じて、経験豊富な行政官が政権交代に拘わらず、職を維持することができる。
 ペンドルトン法によってそうした公職制度が連邦政府に導入された。大統領はどの官職を政治任用職にするのか、またはどの官職を公職制度法の適用対象にするのか決定する権限を与えられた。この時期の大統領、特にクリーブランドは公職制度法の適用対象となる官職の数を増やした。党派心は行政官の資格として完全に抹消されたわけではなかったが、大統領は公職制度によって自らの政策を政権を超えて制度化することができるようになった。再選を阻まれ、後に返り咲いたクリーブランドにとって、そうした戦略は共和党に連邦の官職を支配させないために重要な方法であった。
 大統領の権限における最も劇的な変化は、積極的な外交政策の採用から生じる権限の増加である。この時代のアメリカ外交の主要な目的は、アメリカの生産物の市場を確保することであった。1890年代から重要性を増した目的は、国際問題を支配する列強に仲間入りを果たすことであった。こうした目的は、条約、行政協定、軍事力によって達成され得るもので、そうした手段は憲法上、大統領の領域であった。
 技術的変革、特に通信と海運の分野での変革は日常的に行われる外交関係の構築を変化させ、前例のない程に大統領個人に権限が集中した。特に重要なのは電信である。アメリカで商業用の電信は1851年に開始された。1866年までに大西洋横断電信線がアメリカとイギリスを結んだ。国際的電信網が整備され、費用が下がると、国務省やヨーロッパに派遣されている公使は電信にますます頼るようになり、直通線を事務所に設置した。電信線の使用が一般化する前、海外に派遣された外交官は外交政策を決定する大きな権限を持っていた。状況を説明する手紙を本国に送り、本国からの指令を仰ぐには非常に長い時間がかかった。指令が届く頃には状況が変化してしまい、その指令がまったく役に立たない可能性がある。そのため外交官はある程度、独断で交渉を進める必要があった。しかし、電信によって通信速度は画期的に速くなった。そのため大統領と国務長官は事態の展開を追うことができるようになり、外交的判断を下す主体は外交官から大統領に移った。
 航海技術の進歩も国際関係に大きな影響を与えた。木造船は鋼鉄船に取って代わられ推進機関として蒸気機関、もしくは内燃機関が用いられるようになり、移動速度は格段に増加した。最も重要なのは海軍がイデオロギー的な潜在能力を得たことである。ドイツは大海軍を建造することで世界の覇権国家であるイギリスを追い越そうと考えた。またアルフレッド・マハン(Alfred T. Mahan)は、世界に強国であることを示すことと通商の安全は強大な海軍力に依拠していると主張した。アメリカではマハンに共鳴したセオドア・ルーズベルトやイギリスやドイツに対抗しようと考える者がアメリカ海軍の近代化と拡大を図った。こうした海軍力の増大は国際的な紛争の場で海軍力を誇示して圧力をかける砲艦外交の契機となった。しかし、そうした外交は紛争をますます拗らせる可能性があった。その代表例がハヴァナで爆破されたメイン号である。メイン号の爆破が米西戦争の契機となったのは周知の通りである。 
 最高司令官として大統領は紛争地域に艦船を送るように決定できるので、砲艦外交は大統領権限を拡大させた。艦船はもともと実際の戦闘が起きるのを抑止するために送られ、交戦するわけではないので、議会の関与を排することができる。議会は海軍の運営に予算を割り当てる権限を持つが、大統領はそれをうまく迂回することができる。古典的な例は、セオドア・ルーズベルトがアメリカ艦隊をアメリカの海軍力を誇示するために世界周遊に送り出した事例である。議会は必要な額の半分しか支出を認めなかったが、ルーズベルトは世界周遊を決行した。ルーズベルトは、もし議会が艦隊を帰還させたいのであれば、必要な予算を支出しなければならないと主張した。最終的に議会は大統領の要求に応じた。
 軍事的であれ商業的であれ、世界規模で海軍力を誇示するためには寄港する港や貯炭所が必要である。当時の船舶は寄港することなく全行程をこなすのに十分な燃料を携行することはできなかった。貯炭所を確保することはアメリカの世界的な覇権の確立に必要であった。マッキンリーはハワイ、グアム、フィリピンの獲得を、船舶の運航に関する有用性と中国との貿易路の確保で正当化した。併合条約の条件を交渉するのは大統領の責任である。グアムとフィリピンの場合、マッキンリーはスペインが米西戦争の敗北によって放棄した土地に関してアメリカの姿勢を示さなければならなかった。グアムの獲得はその規模からしてほとんど問題とはならなかったが、フィリピンは別であった。マッキンリーはフィリピンが中国市場に近いと指摘しただけではなく、フィリピン人を文明化しキリスト教化するのはアメリカの道義的義務であると主張した。しかし、フィリピン人は独立を求めてアメリカと争い、セオドア・ルーズベルトが1902年に大統領令で戦争の終結を宣言したのにも拘わらず、実質的に米比戦争は1913年まで続いた。
 1898年のハワイの併合もアメリカで議論を招いた。アメリカの実業家が1887年以来、ハワイ政府を支配していたので、ハワイは併合に進んで合意した。日本も人口の4分の1が日本人であるためにハワイに関心を抱いていた。日本政府は1897年、日本人の待遇に抗議するために艦船をハワイに送ったことがあった。日本の野心を阻むように求める声とハワイ政府の併合を要望する声にも拘わらず、マッキンリーが上院に提出した併合条約は批准に必要な票を集めることができなかった。マッキンリーはタイラーが1845年にテキサスを併合した時の前例に倣うことにした。マッキンリーはハワイ併合を条約ではなく両院合同決議として実現する方法を採用した。両院合同決議は上院の3分の2の賛成を必要とする条約の批准と異なり、各院の単純過半数のみで成立する。マッキンリーは大統領が政策目標を実現するために憲法の規定を迂回する方法を持っていることを改めて示した。
 航海技術の進歩は後の鉄道や自動車の発達のように、国際的な旅行を容易にした。そのため大統領は他の世界の指導者と面談できるようになった。電信の発達とともにそうした面談は外交政策の決定権を外交官から大統領に移した。セオドア・ルーズベルトは在任中にアメリカを離れた最初の大統領である。1906年11月、ルーズベルトはパナマを訪問し、パナマ運河の建設を視察した。ルーズベルトは、ポーツマスに日本とロシアの代表を招いて日露戦争の和平交渉を仲介した。仲介の成功によってルーズベルトはノーベル平和賞を受賞した。またルーズベルトは、議会が中国人排斥を日本人にも拡大しないようにするのと引き換えに、日本政府が自主的に日本からアメリカへの移民を制限する紳士協定を結んだ。直接外交交渉を行うために海外に赴いた最初の大統領はウィルソンである。1919年、ウィルソンはパリに自ら赴き、ヴェルサイユ条約の締結に関与した。
 軍隊の最高司令官として大統領は、いつどこにアメリカ軍を配置するか決定する権限を持っている。20世紀初頭、セオドア・ルーズベルト、タフト、そしてウィルソンは議会の正式な宣戦布告なしで度々海外に派兵した。その3人の大統領は特にラテン・アメリカとカリブ海域への派兵に積極的で1904年に発表されたモンロー・ドクトリンのルーズベルト系論によって派兵を正当化した。こうした干渉は、アメリカの資産を守り、資本主義自由市場が繁栄できる安定した政治的、経済的、社会的条件を国内で維持できる友好的な政府を支持し、時には樹立するために行われた。
 モンローが提唱したもともとのモンロー・ドクトリンは、ヨーロッパ諸国が西半球に新たな植民地を獲得せず、スペインの植民地支配から脱して新たに独立した諸国に干渉しないように警告したものであった。ヨーロッパ諸国を西半球から締め出す代わりに、アメリカはヨーロッパ情勢に関与しないものとした。1823年の時点でモンロー・ドクトリンはアメリカに積極的な外交政策を推進することを求めるものではなかったし、西半球の諸国に介入する権利を主張するものでもなかった。
 セオドア・ルーズベルトはそうしたモンロー・ドクトリンを根本的に修正した。経済と政府が円滑に運営されるように保障するために、西半球の諸国にアメリカ政府は介入する権限を持つとルーズベルトは論じた。アメリカは、南北アメリカ、カリブ海、そして中央アメリカで国際警察として行動する。ルーズベルト系論によって、外交的、軍事的問題に関する大統領の権限が強まったことが示された。
 1903年、ルーズベルトはパナマ運河を建設する権利の獲得に動いた。前年、フランスの運河開削権が失効し、ルーズベルトと国務省は運河開削権の購入交渉をコロンビア政府と行った。コロンビア政府が非協力的であると分かるとルーズベルトは、もしコロンビアに反旗を翻すのであれば支援するとパナマ人に約束した。1903年11月、パナマで革命が勃発し、ルーズベルトはコロンビア軍の上陸を阻むためにパナマに艦船を派遣した。ルーズベルトは大統領権限を利用してパナマが独立を宣言して3日後にパナマを承認した。ルーズベルトは、パナマ政府と、アメリカに運河開削権と運河地帯の主権を与え、アメリカがパナマの独立を保障する条約締結交渉を開始した。その後、運河の建設が開始され、1914年に完成した。パナマ運河はラテン・アメリカにおけるアメリカの最も重要な資産となり、海上運送の時間と費用を下げることでアメリカ経済に貢献した。多くのアメリカ人はパナマ運河の獲得を歓迎したが、ルーズベルトが運河を獲得したやり方をこころよく思わない者も少なからずいた。
 さらにルーズベルトはラテン・アメリカの問題に積極的に介入した。サント・ドミンゴは政治的、社会的不安定に陥っていた。ヨーロッパ諸国が債務を回収しようと艦船を送り込むことをルーズベルトは恐れた。ルーズベルトは海軍と海兵隊を派遣してサント・ドミンゴの税関を差し押さえ、ヨーロッパへの負債の支払いを強制した。ルーズベルトはサント・ドミンゴの関税徴収をアメリカが管理することを認める条約を結んだ。上院はルーズベルトがパナマ運河を強引に獲得したやり方を思い出して条約を批准することを拒んだ。そこでルーズベルトはサント・ドミンゴと議会の承認を必要としない行政協定を結んだ。それによってサント・ドミンゴは実質的にアメリカの保護下に1941年まで置かれることになった。アメリカ軍は1916年から1924年にかけて再びサント・ドミンゴを占領した。パナマ運河の獲得とサント・ドミンゴでの行動を正当化するためにルーズベルトはルーズベルト系論を公表した。ルーズベルト、タフト、そしてウィルソンはそうした原理に基づいて、1920年までにハイチ、キューバ、ホンジュラス、ニカラグア、そしてメキシコなどに20回にわたって派兵した。
 ウィルソンは議会の承認なしでラテン・アメリカに介入するのにルーズベルト系論を利用するのを躊躇わなかった。しかし、ウィルソンは第1次世界大戦に参戦する際に大きな挑戦に直面した。なぜなら第1次世界大戦参戦は、外国の同盟に巻き込まれないように警告したワシントンの告別の辞に反していると考えられたからである。ウィルソンはアメリカが世界に平和をもたらすことができる唯一の存在だという信念を持ち、その目標を達成するために憲法上、大統領に認められているすべての権限を使った。ウィルソンの平和をもたらそうとする努力は交戦国に拒否された。ウィルソンは中立国の貿易の権利を主張し、ドイツの潜水艦による無制限攻撃に反対し、連合国に財政的支援を行った。最終的にアメリカは第1次世界大戦に参戦した。ウィルソンは講和会談で国際連盟の構想を実現することができたが多くの点で譲歩しなければならなかった。さらに講和会談に自ら責任を負い、議員を使節団に入れなかった。上院がヴェルサイユ条約を修正なしで批准することを拒んだ時、ウィルソンは世論の支持を集め、人民からの信任を得ていることを示すことで議会に圧力をかけるために遊説旅行に出発した。ウィルソンの試みは失敗し、上院がヴェルサイユ条約を批准することはなかった。
 ウィルソンは外交に関する憲法上の権限と最高司令官としての大統領の地位を国際関係に深く関与するために使おうとした。ウィルソンは戦争遂行を目的として拡大された行政機関とアメリカ国民を動員するために大幅な大統領権限を行使した。しかし、議会は喜んでそうした権限を与えたわけではなく、上院はヴェルサイユ条約の批准を拒否することで大統領の権限を制限した。1920年代にもルーズベルト系論は適用されたが、ヨーロッパへの関与は基本的に控えられた。
 1920年代を通じて、革新主義の時代と第1次世界大戦で肥大化した連邦政府の機能に対する不満が高まったことを反映して、ハーディングとクーリッジは連邦による規制を抑えようとした。両者は、規制機関の担当者に実業寄りの人物を任命し、減税を行い、連邦支出を削減しようとした。彼らの政策は急速な経済成長に寄与したが、これまでの大統領が築いてきた強力な行政府を弱体化させた。
 1920年の大統領選挙でハーディングは革新主義とウィルソンの外交政策に対する反動として「常態」に復帰することを誓約した。大統領選挙に圧勝した後、ハーディングは連邦の規制機能を縮小した一方で連邦政府の効率性を改善しようとした。1921年、ハーディングは予算会計法の成立にこぎつけた。予算会計法はもともとウィルソン政権で提案され、政府の財政処理を合理化し、行政府に統一した予算を提出するように求めた。また会計検査院が設置され、政府の支出を監督する責任を負った。ハーディングは行政組織の統合を進めることで閣僚と官僚制度の再編を行った。ハーディングは、成功した大企業で見られるような運営手法を連邦政府に導入しようとした。
 しかし、全体としてハーディングは議会とうまく協働することができなかった。共和党内の東部の保守派と西部の革新派の分裂によって、ハーディング政権の鍵となる政策の実現が脅かされた。議会はハーディグ政権の戦時の税率を大幅に引き下げる減税提案の規模を縮小させた。西部と中西部から選出された上院議員は農業政策をめぐってハーディング政権と衝突した。
 ハーディングはホワイト・ハウスを開かれた存在にし、定例記者会見を再開し、カメラマンのためにポーズをとった。ウィルソン政権下で徴兵に反対するように扇動した罪で収監されていたユージン・デブズ(Eugene V. Debs)に恩赦を与えたことは、戦時中に連邦政府によって行われた抑圧からの決別を示しているようであった。ハーディングは専門のスピーチライターを採用した最初の大統領である。
ハーディング政権は著しい腐敗が横行したことで最もよく知られている。ティーポット・ドーム・スキャンダル、ホワイト・ハウスでの禁酒法破り、司法省や退役軍人局でのスキャンダルはハーディング政権に暗雲を投げかけた。1923年6月、ハーディングは連邦政府と大統領の評判を回復させるために遊説旅行に出発した。アラスカから帰還する途中にハーディングは急死した。
 ハーディングの死に伴ってクーリッジが大統領に就任した。クーリッジは第1次世界大戦の頃と比べると著しく縮小された連邦政府をハーディングから受け継ぎ、連邦政府をさらに縮小する試みを継続した。クーリッジ政権期を通じて、連邦予算はほとんど増額されることはなく大幅な黒字を保った。クーリッジは、余剰金を公債の償還に使い、公債の総額は4分の3程度まで減らされた。
 ハーディングと同じくクーリッジも議会との関係は円滑とは言えなかった。就任するにあたってクーリッジは前任者の政策を継承することを宣言した。強力な共和党議員は、クーリッジを暫定的な大統領と見なし、国事をほとんど把握できないと考えた。その結果、クーリッジが1924年の一般教書で行った立法要請を議会はほとんど受け入れなかった。さらにクーリッジは第1次世界大戦の退役軍人に報奨金を与える法案に拒否権を行使したが議会に覆された。さらに議会の調査によってハーディング政権の腐敗が明らかにされるとクーリッジの立場も損なわれると考えられた。しかし、そうした調査に無干渉を貫く姿勢や1924年の大統領選挙での勝利は、議会での批判を黙らせるのに十分な評判と人気を大統領にもたらした。
クーリッジは報道や人民と親しい関係を築こうとした。クーリッジは寡黙で知られていたが、平均で1週間に2回も記者会見を開催した。自らの発言を基本的に内密にするようにクーリッジは求めたが、クーリッジは様々な問題に関する深い洞察を示して記者に感銘を与えた。またクーリッジはラジオを使って直接人民にその言葉を伝えた。クーリッジのすべての一般教書演説と1924年の大統領候補指名受諾演説がラジオで放送された。
 クーリッジは1928年の大統領選挙に出馬することを辞退したため、フーバーが共和党の大統領候補指名を獲得して大統領選挙で勝利を収めた。フーバーは富裕な鉱山技師であり、第1次世界大戦中の救済活動や食糧庁長官になったことでよく知られるようになった。ハーディングやクーリッジの制限された政府の概念を共有していたフーバーであったが、近代における大統領の役割をさらに積極的に考えていた。1920年代、フーバーは航空産業や放送産業に対する連邦の規制を拡大した。フーバーは、住宅、医療保険、労働関係、その他の人間の活動に関する民間分野を促進するうえで政府は積極的な役割を果たすべきだと考えていた。フーバーはそれまであまり活躍することはなかった商務省の機能を拡大し、企業と提携して社会的、経済的状況に関する情報を有効活用した。
 フーバーは近代的大統領制度の概念において、大統領は政局から離れた立場を保ち、公共の福祉の非政治的、非イデオロギー的な推進者になるべきだと考えていた。フーバーは特定の政策を形成するために実業家や専門家の助けを借りた。任期の1年目にフーバーは、社会的傾向に関する大統領調査委員会を設立した。社会的傾向に関する大統領調査委員会は住宅、雇用、教育、医療保険、法の執行、天然資源、そしてその他の重要な問題に関する考察を行った。フーバーは委員会の考察を使って、主に官民連携によって立法措置を伴わずに社会的進歩を促進し、大統領職の影響力を使って委員会の提言を前進させるようにするつもりであった。
 しかし、1929年の大恐慌の発生によってフーバーの野心的な計画は、健康、教育、そして福祉に関する新しい省庁を創設するという案とともに頓挫した。フーバーは、大統領職が非政治的な公職であり、公共の問題に対して非党派的で科学的な手段で対応しなければならないと考えていたが、すぐに自身が党派に捕らわれていることを悟った。専門家の考察に基づいてアメリカ人の生活を向上させるどころか、フーバー政権は終わりのない危機管理に直面しなければならなかった。
 フーバーの議会との関係は最初から緊張していた。共和党内の西部の革新派も東部の保守派もフーバーを信用していなかった。フーバーの政局から離れた立場をとろうとする姿勢はフーバーと思想を同じくする議員でさえも遠ざけた。1930年の中間選挙で民主党は下院で多数派を獲得し、上院は両党で均衡した。上院の革新派議員は失業者に対する連邦の直接支援を求めた。同時に南部の民主党議員と共和党の保守派議員は、歳入の減少によって均衡予算が実現できなかったことでフーバーを非難した。
 フーバーは大恐慌の原因が国内ではなく国外にあると考えていたが、大恐慌の影響を緩和し、経済を刺激するための方策を行おうとした。1930年、フーバーは失業問題に取り組む実業家と専門家からなる失業救済に関する大統領機関を設立した。失業救済に関する大統領機関は、フーバーの考えを反映して、その活動は主に情報の収集、民間寄付の促進、州政府や地方政府に対するさらなる救済の呼びかけに限られた。
 フーバーは経済に刺激を与え、再編を行うために連邦の権限を直接行使することを躊躇った。フーバーは連邦準備制度理事会に実業の拡大を促進するために利子率を下げるように促したが、銀行の破産の広がりは国家の金融制度を損なった。1931年、フーバーはようやく重い腰を上げて経済に連邦が直接関与する動きを示し、復興金融公社の創設を提案した。復興金融公社は経済に刺激を与えるために銀行や企業に融資を行った。1932年1月、議会は復興金融公社の設立を認める法案を可決したが、復興金融公社は経済の再生に目立った効果を及ぼすことはなかった。フーバーを非難する者は、フーバーが連邦の資金を銀行や企業に融資した一方で、失業者やその家族に直接連邦の支援を与えなかったと批判するが、均衡予算を重視し、経済への連邦の大規模な介入に対して慎重なフーバーの姿勢は多くの議員にも共有されていた。
 フーバーはすぐに報道と衝突するようになった。経済的危機に直面して、フーバーは記者と一般国民と円滑な関係を築くのに不手際を示した。フーバーは度々記者会見を開いたが、フーバーの受け答えはしばしば曖昧であった。フーバーの声は定期的にラジオで流されたが、事実と数字を並べ立てるだけの放送は人間の温かみや個人的関心に欠けていた。フーバーは大統領になる前に人道主義者としての名声を得ていたが、大統領として冷淡で思いやりがないと国民から思われるようになった。1932年にフーバーは約束された報奨金の即時支払いを求めるために議会に請願しようとワシントンに行進した退役軍人とその家族を強制的に排除し、報道と国民の支持をさらに失った。アメリカ中で都市の空地やごみ捨て場などに建てられた失業者や浮浪者などを収容する住宅群は「フーバーヴィル」と呼ばれ、空のポケットをひっくり返すことは「フーバー・フラッグ」と呼ばれた。
 こうした状況下でフーバーが再選される見込みはほとんどなかった。フーバーの対抗馬である民主党のフランクリン・ルーズベルトは自信を発散させ、支援を必要とする者に対して同情を示した。ルーズベルトはどのように大恐慌に取り組むか具体的な提案をすぐには明らかにしなかったが、ルーズベルトの楽観的な姿勢はフーバーの悩みに満ちた陰気な姿勢と対照的であった。
 1932年のフランクリン・ルーズベルトの登場が新しい政治の時代の始まりとなった。ルーズベルトは大統領が果たすべき役割について野心的な概念を抱いていた。ルーズベルトは、近代産業と都市社会の発展によってこれまでにない程、強力な大統領が不可欠だと信じていた。農業と工業、供給者と製造者、生産者と消費者といった複雑な関係で特徴付けられる経済的、社会的秩序の調整と統合は大統領制度を通じてのみ達成できるとルーズベルトは考えていた。連邦政府の規模と権限は著しく拡大された。1933年から1945年のルーズベルト政権は、近代的大統領制度を定着させる重要な多くの変化をもたらした。大統領専属の職員が果たす機能が拡充され、大統領は政策形成過程にますます深く関与するようになり、人民と強い絆が結ばれ、国際関係において大きな地位を占めた。ルーズベルト政権は近代的大統領制度の新しい理解を生み出し、大統領の行動に関する期待と大統領がリーダーシップを発揮する能力に焦点がますます当てられるようになった[ Jefferey Cohen and David Nice, The Presidency (McGraw-Hill, 2003), 53-59.]。ルーズベルトのニュー・ディールは、第2次世界大戦参戦と同じく、大統領職と行政府の国内外にわたる権限が拡大される時代の始まりであった。この時代、大統領制度に比べて、人民の統治の主要な道具としての議会と政党の重要度は相対的に下がった。
 ルーズベルトは従来の定式に従うよりも、経済を再浮揚させるために様々な新しい試みを行った。ルーズベルトとフーバーは、活動的な大統領は、政治的領域で既存の党派の衝突から超越するべきだという見解を共有していた。しかしながら、ルーズベルトはフーバーと違って有能な政治家であった。たとえ政党がこれまでのようにもはや公共政策を形成し、経済的発展を促進することができなくなっているとしても、政党と協調していくべきだとルーズベルトは考えた。したがって、ルーズベルトの目標は二面性を持っていた。管理能力を拡大することで経済的発展と社会福祉の調整者としての大統領の役割を拡大するとともに、既存の二大政党制を支配している地域的利害を気にかけることなく大統領が政策目標を追求できるように政党を再編成する。
 ルーズベルトの1期目は危機管理に費やされた。経済的成長を生み出し、繁栄を取り戻すために官民の連携を促すというフーバーの思想をルーズベルトは決して否定していない。活発で統制された議会の協力を得て、ルーズベルトは連邦の権限を戦時のような程度と範囲で行使するニュー・ディールを推進した。ルーズベルト政権の最初の100日間で、大統領は銀行制度を完全な倒壊から救うために銀行の一時休業を命じた。議会はルーズベルト政権の要請に応じて多くの立法を行う一方で、グラス=スティーガル銀行法のようにルーズベルトの反対を押し切って制定した法もあった。貧窮者に直接連邦が支援を行い、農業生産と市場を再構築し、工業部門で実業と政府の協調を促進する施策が可決された。発電や天然資源保護を行う事業も認められた。
 ルーズベルトの成功の1つの秘訣は個人的な人気にあった。ルーズベルトはラジオを有効活用した。炉辺談話と呼ばれる一連のラジオ放送はルーズベルトと人民を結び付ける絆となった。1933年3月、ルーズベルトは炉辺談話で銀行制度に関する政府の措置の詳細を話し、親しみやすい言葉でその他の複雑な問題を説明した。12年間でルーズベルトは1,000回近くの記者会見を行った。ホワイト・ハウスに宛てられた多くの手紙、カード、詩、歌、その他の支持の表明はルーズベルトのカリスマの現れであった。
 2期目までルーズベルトは大統領の役割に関する明確な概念を完全に自由に促進することはできなかった。100日間の成功の後、ルーズベルトは党派的な伝統や古い議会の伝統が大恐慌の危機に対応しようとする大統領の努力を阻害していると気付くようになった。1934年の中間選挙で民主党が躍進したとはいえ、議会は大統領の権限に依然として警戒心を抱き続けているようであった。ルーズベルト政権が熟考した計画はしばしば議会による修正を受けた後で辛うじて法制化された。社会保障法は第2次ニュー・ディールの中核となる立法であるが、受給資格、対象範囲、政府の責任などに関して南部の議会指導者が要求した多くの制限が含まれている。さらに議会は、ルーズベルトの拒否権を覆して、退役軍人に特別給付を与える法案を再可決した。
 ルーズベルトの苛立ちは、ニュー・ディール立法を損なう最高裁の判決によってさらに悪化した。最高裁は、悪化した経済を立て直す中心的な措置と見なされていた農業調整法と国家産業復興法に違憲判決を下した。ルーズベルトは、そうした判決を狭い政治的な党派主義と時代錯誤の法的解釈と見なし、大恐慌から国民を脱却させようとする大統領の能力を制限するものだと考えた。
 1936年の大統領選挙で再び勝利を収めたルーズベルトは2期目の大半を大統領権限の拡大に費やした。1930年代後半、ルーズベルトは政治組織の刷新と大統領権限の範囲の拡大のために、最高裁の改革、政党の再編成、行政府の権限の強化を試みた。それは、地域を基盤とした政党、厳格な憲法解釈、党派に支配された議会を公共政策の形成と実施の主要な手段とすることは、社会の変化に対応するには時代遅れであるというルーズベルトの信念を反映していた。
 ルーズベルトはこうした努力において部分的な成功しか収めることはできなかった。最高裁を再編成するという案は失敗に終わった。1938年の中間選挙の予備選挙で保守党の現職議員をニュー・ディール支持者と入れ替ようとするルーズベルトの試みは失敗し、リベラル派と保守派の線に沿って政党を再編する試みは挫かれた。連邦の官僚制度を再編し、強化された行政府を通じてより一貫性を持たせようとする試みは大統領権限の強大化を恐れる議会の妨害にあった。第2次世界大戦以前からニュー・ディールの事業は制限されていたが、1938年の中間選挙によって生まれた保守連合によってルーズベルトは野心的な計画の一部を断念せざるを得なくなった。
 しかし、そうした後退はニュー・ディール自体に致命的であったわけではなかった。最高裁は反ニュー・ディール的な立場をとらなくなり、ニュー・ディール立法の合憲性を認めるようになった。また判事の死亡や退任によってルーズベルトは新しい判事を指名することができるようになり、最高裁をわざわざ再編する必要はなくなった。連邦政府を徹底的に再編するというルーズベルトの試みは実現しなかったが、1939年、議会は再編法を制定し、様々な連邦機関を再編する権限を大統領に与えた。さらに広範な行政府の運営を監督する支援を行うために大統領府が創設された。政党を再編するという試みは成功しなかったが、国際危機と世界大戦によって国民の目はホワイト・ハウスにますます向けられるようになり、議会の審議を支配してきた偏狭な地域主義を際立たせる結果をもたらした。
 1930年代後半、国政を鋳直そうとするルーズベルトの試みと同時に、国際危機が国民の関心をとらえるようになった。ヨーロッパで行われている戦争と日本の東南アジアへの進出は国民の目を国内問題から逸らせた。アメリカの軍備を整え、ドイツの侵略に直面するイギリスに支援を与えるルーズベルトの一連の措置は、大統領がリーダーシップを発揮し、ホワイト・ハウスに権限を集中させる新しい機会となった。第2次世界大戦を通じて、ルーズベルトは国家の資源を動員するために新しい様々な行政機関を設けた。1941年12月、議会は大統領に経済に対する戦時権限を与えた。ルーズベルトは決意と活力を以ってそうした権限を最大限に活用した。議会による明確な授権なしで、ルーズベルトはマンハッタン計画を推進し、日系人を強制収容し、公正雇用慣習委員会を設立した。
 1942年の中間選挙の結果に勇気付けられた保守派議員はルーズベルトに対する攻撃を続けた。議会はルーズベルトの税制を刷新しようとする試みを阻み、重要なニュー・ディールの事業を終わらせた。しかし、ルーズベルトの国民への訴えかけ、そして戦時の決定が国の行く末を左右することから、依然として国民の関心は大統領に向けられていた。第2次世界大戦後、冷戦の脅威が認識され始めると、既に大戦中に確立していた国家安全保障に基づく官僚制度が大統領制度をアメリカの政治組織の中核として強化した。
 1921年から1945年の間、大統領制度は権限と国民の注目度において不均衡ながらも発展した。控え目な大統領であるハーディングとクーリッジは革新主義の時代の前の常態に復帰し、地方の政党、地域的利害や党派的利害に支配される政治制度を管轄する大統領を目指した。フーバーはそうした前任者と異なった概念を抱き、大統領制度を党派や伝統的な地域的、党派的忠誠から距離を置いた存在にしようと考えた。公平無私な専門家の意見を活用しようとしたフーバーの試みは大恐慌によって打ち消された。ルーズベルトはフーバーとより活発な大統領制度に関する概念を共有していたが、さらに進んで州権と連邦政府の無干渉といった伝統的な概念を打破し、大統領制度を経済的、社会的変容を主導する手段と見なした。こうした大胆な大統領制度の概念が完全に実現するのは第2次世界大戦中であったが、ルーズベルトは最初から国内問題を大統領の権限を拡大する主要な領域として見なしていた。近代的大統領制度の発達に最も貢献したのはルーズベルトである。
 大統領への予期しない昇格にも拘わらず、トルーマンは特に外交分野で顕著にアメリカ政治を形成した。トルーマン、そしてアイゼンハワーは、アメリカの経済成長と継続する冷戦のために、国内外の問題に関して主導的な役割を果たす大統領制度の発展を統御した。ルーズベルト政権で推進された大統領制度の組織的発展に加えて、トルーマンは国家安全保障法を承認し、国家安全保障会議、中央情報局、統合参謀本部、そして防衛省を設立した。アメリカの封じ込め政策はトルーマン政権期に発展し、今後、40年に及ぶアメリカの国家安全保障政策の方針が定められた。国内政策でトルーマンはルーズベルトのニュー・ディールをフェア・ディールで拡大しようとしたが、そうした政策の法制化にあまり成功しなかった。1950年に朝鮮戦争が勃発し、戦争の泥沼化に伴ってトルーマンの支持率は劇的に下がったが、トルーマンは歴史的により高い評価を与えられている。
 1945年4月12日、トルーマンが大統領になった時、アメリカは未だに第2次世界大戦の最中にあった。数週間後、ヨーロッパの戦争は終結したが、アメリカが原子爆弾を投下するまでアジアでの戦争は続いた。大統領としてのトルーマンの最初の主要な決定は、原子爆弾を使用するか否かであった。トルーマンは日本との戦争が長引いてアメリカ軍の犠牲がさらに増えることを恐れて原子爆弾の使用を決定した。
 トルーマンが就任したばかりの頃は高い人気を誇ったが、その人気は戦後の景気減速によって急激に下がった。1946年の中間選挙で共和党は上下両院で多数派を占めた。その結果、トルーマンは分断された政府と直面することになった。トルーマンは1948年の大統領選挙で敗北すると多くの人々に思われていたが、共和党の大統領候補に対して驚くべき勝利を収めた。
 トルーマンの最も顕著な業績はソ連に対する封じ込め戦略を採用したことである。それは、ソ連の侵略を抑止することで共産主義の拡大に対する戦いで勝利するという戦略である。1947年、トルーマンは共産主義の脅威に対抗するためにギリシアとトルコに援助を与えなければならないと演説して議会に封じ込め戦略を提示した。この政策はトルーマン・ドクトリンとして知られるようになった。
 封じ込め政策を実行するためにトルーマン政権はその他の政策を展開した。アメリカは西欧に対して経済支援を行うためにマーシャル・プランを承認した。マーシャル・プランを議会に承認させやすくするためにトルーマンはジョン・マーシャル(John C. Marshall)国務長官の名前を利用した。トルーマンはさらに北アメリカとヨーロッパのための集団安全保障体制として北大西洋条約機構を支持した。1948年、ソ連がベルリンへの通路を遮断すると、アメリカと西側諸国はソ連が封鎖を終わらせるまで物資を空輸して対抗した。
 国内政策ではトルーマンはフェア・ディールでニュー・ディールの経済的、社会的政策を継続しようとした。そうした政策には包括的な医療保険、連邦による住宅建設支援、最低賃金の引き上げ、労働組合の保護などが含まれた。しかし、トルーマンは自らの政策を実現するのに十分な支持を受けることができなかった。例えば労働組合を制限するタフト=ハートリー法はトルーマンの拒否権を覆して成立した。トルーマンは大統領令で軍隊内の人種統合を推進した。トルーマンの多くの提言は民主党の戦後の綱領の主要な構成要素となった。
 冷戦の封じ込め戦略はトルーマンの2期目に多くの批判にさらされた。ソ連の核実験の成功、共産勢力による中国の支配などアメリカは多くの後退を体験した。1950年、ジョゼフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)上院議員が連邦政府内部に共産主義者とその同調者が含まれると宣言した。マッカーシーの批判はマッカーシズムと呼ばれる一連の赤狩りをアメリカに引き起こした。1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、アメリカは韓国に対する軍事支援を即座に行った。トルーマンは武力を行使するのに議会の決議を求めなかった。その代わりにトルーマンは国連安保理決議がアメリカの「警察行動」を正当化すると主張した。アメリカを中心とした国連軍は北朝鮮の攻撃を撃退したが中国軍の介入によって戦争は膠着状態に陥った。休戦交渉が行われたがトルーマン政権期中に終結することはなかった。
 たとえ大統領の任期を2期に制限する憲法修正第22条が適用されなかったとしても、朝鮮戦争と人気の低迷によってトルーマンは1952年にさらなる任期を求めないことを決断した。もしトルーマンが1952年の大統領選挙に出馬していれば、第2次世界大戦の英雄であるアイゼンハワーの挑戦を受けただろう。アイゼンハワーはノルマンディー上陸作戦を成功に導き、1948年の大統領選挙で民主党と共和党の両方から出馬を求められる程の名声を得ていた。
 アイゼンハワーは1948年に大統領選挙に出馬しなかったが、朝鮮戦争の行く末と防衛費の増大、膨らみつつある財政赤字に懸念を抱いて1952年の大統領選挙に出馬することを決意した。アイゼンハワーは共和党の大統領候補指名を容易に獲得し、本選でも容易に民主党の大統領候補に勝利した。アイゼンハワーはトルーマン政権下で北大西洋条約機構軍最高司令官を務めていたが、1952年の選挙戦でトルーマン政権の多くの政策に反対した。
 しかし、外交政策ではアイゼンハワーはトルーマン政権の封じ込め戦略を採用したが、幾つかの重要な違いがある。アイゼンハワーはもし防衛費が最優先事項になってしまえばアメリカ人の生活様式が脅かされるという国内の危機を共産主義による国外の危機と同様に警戒した。防衛費を統制下に置くために、アイゼンハワーはアメリカと同盟国に対する攻撃への核抑止力に大きく依存した。この政策はニュー・ルックと呼ばれるが、ジョン・ダレス(John Foster Dulles)国務長官の大量報復という概念で知られている。ニュー・ルック戦略の骨子は、大量報復力を全体戦争と局地戦争に対する主要の抑止力とし、実際の戦闘でも必要に応じて大量報復力を行使すること、局地戦争では地上軍は関係同盟国に依存し、アメリカは戦術核兵器を使用することができる空海軍と機動地上部隊によって支援すること、日本、ドイツの再軍備を促進し、さらに軍事援助を活用してアメリカの軍事力を補完する同盟諸国の軍事力強化を図ること、海外駐留のアメリカ地上軍を削減し、機動的戦略予備軍を創設すること、アメリカ本土の防衛を強化することである。
 こうした政策を実現するためにアイゼンハワーは国家安全保障のための組織として立案委員会に週毎の国家安全保障会議のための資料を準備させ、実施調整理事会にその決定を実行させた。アイゼンハワーはそうした過程を管理するために国家安全保障問題担当特別補佐官を任命した。アイゼンハワーのホワイト・ハウス内の改編は、軍事的経験に基づき、その政策に影響を与えた。
 核兵器の脅威が朝鮮戦争を終わらせるうえでどのような役割を果たしたのかは議論の余地があるが、アイゼンハワー政権は停戦交渉を進めた。フランスがヴェトナムでの植民地支配を継続するために支援を求めてきた時にアイゼンハワーはヴェトナムに直接介入しようとはしなかった。フランスの敗北に伴うヴェトナムの分裂はアメリカの将来の外交政策に重大な影響を与えた。
またソ連がスプートニクの打ち上げに成功した時、ニュー・ルック政策に基づいて防衛費を抑制しようとするアイゼンワー政権の試みは批判を受けた。ソ連がアメリカに対してすぐに核ミサイルを発射できる能力を開発するのではないかという恐れが強まった。アイゼンハワーはソ連に対する偵察飛行で集めた情報によって深刻なミサイル・ギャップが存在しないことを知っていたが、情報を公開しなかったためにアメリカの防衛力の増大に関する議論は続いた。
 激しく対立する議論に関与することに消極的なアイゼンハワーの姿勢は見えざる手によるリーダーシップを反映している。アイゼンハワーは政策目標を熱心に追及しながらも公的には政局に無関心な様子をよそおった。こうした手法はマッカッシーの反共産主義十字軍の効果を減殺するのに役立ち、マッカーシーは最終的に自らが行った高圧的な調査のために上院で問責された。しかし、見えざる手は国内政策で、特に公民権の分野ではそれ程、明確ではなかった。1957年、アイゼンハワーはリトル・ロックの高校に黒人学生を入学させるために連邦軍を投入し、南部で黒人の投票権を保障するための1957年公民権法を支持した。しかし、アイゼンハワーの政策の焦点は国家安全保障と外交政策であり、アイゼンハワー政権の遺産はそうした部分で顕著である。
 大統領職の大衆的な側面は、強力な大統領のリーダーシップを求める人民の期待もあって、特に1961年から1963年のケネディ政権で、そのテレビの効果的な利用もあって拡大し続けた。またこの時代は、アメリカが世界の超大国として支配権を確立したことで特徴付けられる。そのことにより大統領は1960年代の偉大なる社会や貧困に対する戦いなどの大規模な国内政策や共産主義の国際的な封じ込めなど大規模な外交政策を展開できるようになった。しかし、ヴェトナム戦争の間の封じ込め政策の失敗は近代的大統領制度が持つ有効性に疑問を投げかけた。リンドン・ジョンソンとニクソンは、ヴェトナム戦争に対する行動やウォーターゲート事件への関与などによって「帝王的大統領」という烙印を押された。ルーズベルトの超憲法的な手段によって生み出された成功はもはや達成できないように思われた。
ケネディは最年少の43歳で大統領に当選し、その当時、最高年齢の大統領であったアイゼンハワーから大統領職を引き継いだ。世代交代はアメリカの政治に新しい方向性を与えた。ケネディはニュー・フロンティアという言葉を政策目標として掲げ、「再び国を動かそう」というスローガンを採用した。ケネディはテレビを情報伝達手段として定期的に利用した最初の大統領であり、テレビでライヴ中継される記者会見を行い、人気を高めた。テレビは1960年の大統領選挙でケネディの勝利に貢献した。ケネディとニクソンの間で行われた大統領選挙本選で行われた最初の討論会でケネディは多くの視聴者に自信を持った姿勢を示した。
 就任するにあたってケネディは外交問題で多くの挑戦に直面した。就任後1ヶ月もしないうちに、政府高官は不注意にもミサイル・ギャップは存在せず、アメリカはミサイル開発で先を進んでいると漏らした。それは、アメリカがソ連に防衛分野で後塵を拝しているという1960年の大統領選挙でケネディと民主党が訴えた内容と矛盾していた。
 1961年4月、ケネディ政権は、キューバの反乱者を支援してカストロ政権を打倒しようという秘密の作戦が失敗に終わって困惑させられた。ピッグス湾の侵攻はもともとアイゼンハワー政権で計画されていたが、ケネディの危機管理能力に疑問が呈せられることになった。こうした問題に拍車をかけたのはケネディが、アイゼンハワーが整備した安全保障問題に関する制度の多くを撤廃したからである。ケネディは国家安全保障担当特別補佐官を政策の調整役よりも政策を提唱する役割に変えた。ピッグス湾の失敗の後、ケネディはニキータ・フルシチョフ(Nikita S. Khrushchew)書記長とウィーンで論争し、ベルリンの壁の建築で東西の緊張は高まった。
 しかし、ケネディは初期のこうした困難から復活し、冷戦の中で最大の危機であったキューバ・ミサイル危機を確固としたリーダーシップと慎重な決断で乗り切った。キューバ・ミサイル危機でアメリカは、ソ連がキューバからミサイルを撤去する代わりにアメリカもトルコからミサイルを撤去することを約束した。またケネディは国際理解を醸成するためにアメリカ人をボランティアとして海外に派遣する平和部隊とラテン・アメリカの開発を支援する進歩のための同盟を進めた。
 国内政策ではケネディは公民権を推進しようとした。ケネディは、ミシシッピ大学とアラバマ大学の人種統合のために連邦軍を投入した。1963年、ケネディは公民権法案を提唱したが生きているうちにその法制化を見ることはなかった。1963年11月22日、ケネディはテキサス州ダラスで暗殺された。
 ケネディの後を引き継いだリンドン・ジョンソンはケネディの政策目標を法制化することを誓い、ケネディが進めていた公民権法案の実現に取り組んだ。副大統領になる前、上院の多数派の指導者であったジョンソンにとって議会を主導するリーダーシップは得意とするところであり、1964年公民権法への反対を克服した。1964年の大統領選挙でジョンソンは圧倒的な勝利を収めた。
 ジョンソンは、30年前にフランクリン・ルーズベルトが行ったニュー・ディールを拡大して完遂する野心的な偉大なる社会政策を公表した。ジョンソンは高齢者に対する医療保障と貧困者に対する医療扶助を実現した。ジョンソンは、投票資格に人種に基づく要件を課すことを禁じる1965年投票権法を支持した。またジョンソンは、住宅、教育、都市再生などに連邦が支援を行う法整備を行った。
 ジョンソンが政策の焦点を国内政策に当てようとしたのにも拘わらず、ジョンソン政権はヴェトナム戦争への関与で記憶されている。ジョンソンは共産主義勢力と戦う南ヴェトナムを支援するためにアメリカ軍を送り込んだ。派遣されたアメリカ軍の数はジョンソン政権の終わりまでに50万人を超えた。ヴェトナムへの増派は議会の宣戦布告なしに行われたが、議会はジョンソンの要請に従って、東南アジアでアメリカの利益を守るために軍隊を使用する権限を大統領に認めるトンキン湾決議を可決していた。ジョンソン政権は戦争目的の包括的な見直しを行わず、大統領の無秩序な決定作成過程はそうした見直しを不可能にした。
 国内の反戦運動の高まりを受けて、ジョンソンは大統領選挙に出馬せず、残りの任期をヴェトナム戦争の終結を目指す努力にあてることを表明した。1968年の大統領選挙で共和党の大統領候補であるニクソンはヴェトナム戦争の終結と国内に法と秩序を取り戻すことを約束して勝利した。
 ニクソンの外交政策におけるリーダーシップは野心的であると同時に議論を招くものであった。ニクソンはヴェトナム化によってアメリカ軍を徐々にヴェトナムから撤退させる戦略を採用した。ヴェトナム化は、空爆を強化する一方で、戦争を遂行する責任をアメリカ軍から南ヴェトナム軍に移す戦略である。共産主義勢力への補給路を断つためにニクソンはカンボジアへの攻撃を承認した。カンボジアへの攻撃はアメリカ国内で反戦抗議を引き起こした。1973年、ニクソン政権はヴェトナム戦争を終結させることに成功したが、その軍事行動は引き続き議論の的になった。ニクソンは中国とソ連に接近して冷戦の緊張緩和に努めるとともに、中国とソ連が共同してアメリカに対抗しないように画策した。1972年、ニクソンは中国とソ連を訪問し、ソ連と2つの主要な軍備制限に関する条約を締結した。こうした外交的主導を行う際にニクソンはヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)国家安全保障問題特別補佐官と主に協働した。ニクソンは政策を形成するのに小規模で内密の助言者の集団に依存した。
 低迷した経済に取り組むためにニクソンは賃金と物価に関する統制を行ったが、アラブ諸国の石油禁輸によってインフレが著しく悪化した。アメリカ国民の市民的自由を損なうと批判を受けながらもニクソンは、麻薬犯罪を取り締まり、犯罪を規制するための法整備を行った。またニクソンはジョンソン政権の偉大なる社会を解体しようとした。ニクソンは1972年の大統領選挙で圧勝したが、こうした顕著な成功はウォーターゲート事件によってすぐに翳りが見えるようになった。
 1972年6月、ニクソンの「鉛管工」と呼ばれる一団が民主党全国委員会の事務所に侵入した。この侵入は露見し、ホワイト・ハウスとの繋がりが暴露され、ニクソン政権を破綻させた。侵入から数日後、ニクソンの側近は大統領と事件の隠蔽について相談し、中央情報局を使って連邦捜査局の捜査を阻むように提案した。ホワイト・ハウスの録音テープを除けばニクソンの関与は内密にされた。ウォーターゲート事件の調査を開始した上院はホワイト・ハウスの録音テープが存在することを知った。テープをめぐる議会と大統領の戦いが始まった。ニクソンは行政特権に基づいてテープの提出を拒んだ。最高裁はニクソンの主張を認めなかった。弾劾によって罷免される可能性が高いと考えたニクソンは1974年8月9日に辞任することを公表した。
 宣戦布告なき戦争であるヴェトナム戦争とウォーターゲート事件によって、いわゆる「帝王的大統領制度」に対する批判が高まり、議会は大統領権限の濫用を抑制しようとした。1973年、議会はニクソンの拒否権を覆して戦争権限決議を成立させ、議会の承認なしで派兵する大統領の権限を制限した。また議会は1974年予算執行留保法を制定し、大統領が予算の使用に干渉しないようにした。こうした行動は議会が権限を取り戻そうとする動きであり、大統領権限を抑制しようとする動きであった。
 ニクソンの辞任に伴って大統領に昇格したフォードは、大統領のリーダーシップが制限されている時に大統領に就任するには最適の人物のように思われた。スピロー・アグニュー(Spilo T. Agnew)副大統領の辞任によって憲法修正第25条に基づいて副大統領に任命され、さらにニクソンの辞任によって大統領に昇格したフォードは選挙を経ないで大統領になった唯一の大統領である。
 当初、フォードは強い国民の支持を受けたが、ニクソンに無条件の恩赦を与えると公表したことで人気は急落した。フォードはこの決定をほぼ独断で行い、ウォーターゲート事件を越えてアメリカを前進させるのに不可欠な国民の支持を獲得する機会を失った。
 ヴェトナム戦争とウォーターゲート事件の後、期待される役割が限られ、直面する挑戦がなくなることによって、大統領が権限を行使するために必要な資源が減少したという事実のために近代的大統領制度の権限は縮小した[ Louis W. Koenig, The Chief Executive (Harcourt Brace, 1996), 4.]。1980年代まで、大統領は大規模な国内構想を追求することができなくなった。大統領職が与党に占められる一方で野党が議会を支配するという分断された政府が常態となった。そして、財政赤字の増大によって、大統領は、ニュー・ディールや偉大なる社会のような大規模な国内政策を形成する余地がますますなくなった。
 近代的大統領制度の発展は、議会を主導する手腕、行政管理経験、公的人格、リーダーシップを構築する能力に依存していた大統領の権限の源泉が変化した結果である。ウォーターゲート事件後の大統領は、メディアや議会との連帯を築くことを通じて政策を主導し、政策への支持を集めるように期待された。超党派の連帯を築くことができない場合、近代的大統領は大統領令、政府の主導、その他の議会によって承認されていない手段で単独的な政策形成を行おうとした。国内外の政策を実現するために、政治的説得術を用いてその他の関係者を巻き込む大統領の能力が強調されるようになった。さらに大統領の公的イメージがより重要になっている。20世紀後半の劇的な政治的環境と情報革命によって、大統領が自らの政策に支持を集めるために駆使するメディア戦略とレトリック戦略は大きな影響を受けている。
 大統領の正式な権限は軍隊の最高司令官から行政首長まで広範囲に及ぶが、国内外の問題に対する大統領の権限の多くは議会と共有されている。1人の人物に権限が集中することで専制が生まれることを恐れて憲法の制定者は、連邦政府に抑制と均衡に基づく三権分立の原理を導入した。憲法の制定者は、政府の決定形成が行政府に集中しないように議会と司法府によって大統領権限を抑制しようと考えた。しかし、権限の分有の正確な形態や権限の均衡は曖昧なままに残されている。
 議会の監視にも拘わらず、第2次世界大戦後、大統領制度は強力で中央集権化された行政権と結び付くようになった。冷戦における核の恐怖と封じ込め戦略の展開によって、国家安全保障に焦点をあてた帝王的大統領の時代が始まり、議会の国内外の政策形成に対する影響力が低下した。しかし、ウォーターゲート事件後、議会は強力なリーダーシップに基づく独立を保とうとし、行政権に対する監視を行おうとした。議会は一連の立法を通じて大統領に議会に対してより説明責任を負わせるように努めることで憲法上の権限を取り戻そうとした。その中には、行政府の秘密主義を制限するための1976年情報公開法と1974年プライヴァシー法が含まれる。大統領の戦争権限については既に戦争権限決議で制限されていた。20世紀後半において議会の監視はさらに重要性が増している。議会は特別調査委員会、公聴会、弾劾過程などを通じてそうした監視を行っている。
 1970年代後半、大統領が影響力を及ぼす手法に劇的な変化がもたらされ、大統領は立法計画を実現するために議会との連帯形成により焦点をあてるようになった。現代的大統領は効率的に政権を運営するために、影響力と政治的取引において憲法に規定されない権限に依存している。そのように立法計画を推進する手段として超党派の連帯を形成しようと努めた大統領もいる。例えば、カーター政権は、ホワイト・ハウスの職員による直接的な議員への働きかけを通じて超党派の連帯を形成しようとした。そうした新しい手法は大統領と議会の政策形成主導を融合させるものであり、利益集団の目標をホワイト・ハウスの政治資産に変えた。
 カーターは立法計画を推進するうえで多くの挑戦に直面したが、議会との連携を図るためにホワイト・ハウス議会連絡局を考案した。議会との連携の成功は、大統領が上下両院の多数派と連携を構築できるかどうかにかかっている。概して、同じ政党が大統領職と上下両院を支配した時に大統領の権限は増大する。例えば1992年の選挙ではクリントンが大統領に当選するとともに、民主党が議会の支配権を完全に掌握した。クリントンは、家族医療休暇法、北アメリカ自由貿易協定、そしてブレイディ法などを、1994年の中間選挙で民主党が議会の支配権を失うまでに法制化した。20世紀後半の大半を通じて、政党の指導者として注目を集めることで大統領は行政府の主導の下、法案を通過させる多くの機会を持った。1970年代後半以来、議会との連携の形成が大統領の国内外の政策を実現する鍵となっているが、政党の争いや特殊利益の要求などに引きずり込まれる危険をしばしば冒すようになった。
 分断された政府の時代において大統領は議会との連携にあまり頼らなくなり、行政協定、大統領令などを通じて権限を拡大し単独的な行動をとろうとする。この場合、大統領は政策を実行するのに議会の承認を必要としない。特に議会が大統領の反対する法案を制定しようとした時に単独的な行動はとられる。大統領は拒否権を行使し、大統領令を発することで議会の法制化を阻み、優位に立とうとする。
 歴史的に大統領は議会の同意なしで統治を行う様々な手段を使ってきた。最も広く使われるのは、連邦の行政官にその職務遂行に対して指示を行うために主に発せられる大統領令である。伝統的に大統領は憲法上の権限を実行するために大統領令を発してきた。フランクリン・ルーズベルトは大恐慌と第2次世界大戦を切り抜けるために効果的に大統領令を用いた。近年では、分断された政府の下、大統領令は議会の監視を免れるために発せられている。クリントンは1994年の中間選挙で共和党が議会の支配権を掌握した後で大統領令を発する権限を有効に活用している。クリントンは積極的差別是正措置、労働関係法、自然保護に関して大統領令を発行した。またクリントンはコソヴォへの軍事介入を行うために大統領令を用いた。
 行政府の予算を提出する権限のように特別法によって大統領に与えられる権限がある一方で、国内外の危機に際して大統領が自由裁量権を行使する場合がある。そうした授権は20世紀の大統領制度の歴史においてしばしば問題となっている。例えばレーガンは、戦争権限決議の抜け穴を利用して、軍備管理政策を決定し、条約を終わらせ、限定された軍事行動を行う権限が議会の監視を受けない大統領の特権だという根拠にしている。
 レーガン時代のその他の大統領の権限を強めようとする試みは署名に関する声明の利用である。署名に関する声明は大統領に独自の法解釈を行う機会を与える。大統領が大統領令や署名に関する声明を利用して大統領権限を行使しようとする試みは、憲法上の領域を超えるとして論議の的となっている。
 世論、マス・メディア、そして利益集団は大統領の単独的な権限の行使を助長したり促進したりする。情報技術革命によって、20世紀後半の大統領制度は憲法制定者が想像できなかった程にマス・メディアの関心を引いている。結果的に現代的大統領はマス・メディアを通じて行政権を拡大する手段を得て、アメリカ史上、これまでになかった程、政治的メッセージを瞬時に多くの人々に伝えることができるようになった。このいわゆる「広報大統領制度」は、マス・メディアでのイメージ、レトリック戦略、強力な象徴としての存在、そして儀礼的義務を直接、国民に訴えかける手段として利用している。こうした手段の利用を通じて、大統領は世論を結集させ、政治的関係者に大統領の政策目標に従うように強要するために人民の支持を追求する。
 20世紀の情報革命とケーブル・テレビの普及は大統領の象徴的作用と権威を高める一方で、大統領と有権者を媒介する政党の機能と利点を減じさせた。特にテレビによって大統領は自分自身と政策目標を有権者に直接提示することができ、人気を高め、首尾一貫した情報伝達戦略を展開し、特定の社会的、経済的、そして政治的問題に関心を集めることができる。例えば、レーガンは「偉大なる伝達者」として知られ、テレビ演説と一般教書演説を使って大統領の国内外の政策に支持を集めようとした。クリントンは有権者と国内政策の目標に関して双方向のやり取りを行うためにタウン・ホール・ミーティングをテレビで放映した。
 もちろん欠点も同時にある。テレビは大統領の地位を国家の最高の政治的象徴に引き上げたが、大統領職は経済的不況、政治的スキャンダル、そして一般の不満や抗議の的になっている。また大統領の個人的な欠点に焦点があてられるようになった。例えばフォードは強力な公的イメージを築き上げることができなかった。大統領専用機の昇降段から転落した様子やスキーで転倒した様子などがフォードのイメージから離れなかった。テレビのショーにおけるパロディーやコメディアンの物真似などによって、フォードが不器用な大統領であるというイメージはますます定着した。
 さらにマス・メディアは大統領の権限濫用に対する重要な抑制であり、結果として大統領はより世論に敏感になっている。もし新たに就任した大統領が最初の100日間で何らかの目覚しい成果をあげなければ、マス・メディアの批判を受けることになる。こうしたマス・メディアの発展は、大統領の統治形態、リーダーシップ、そして個性、管理能力に重要な影響を及ぼしている。
 大統領の影響力は連邦政府の国内における責任が増大するにつれて増している。公共の福祉、医療保険、そして安全保障のために新しい省庁が連邦組織に加えられ、大統領の権限増加に貢献している。大規模で機能的に特化したホワイト・ハウスを中心とした人事制度を特徴とする機構的大統領制度は、20世紀後半の大統領の日常業務を構成するうえで大きな影響を及ぼしている。大統領制度の機構化は連邦政府の官僚制度の拡大を伴ったが、大統領の管理上、政策形成過程上の影響力を増大させた。現代的大統領は、既存の官僚制度を駆使し、ホワイト・ハウス内の権限を強化し、そうすることで大統領職の政治力を高めなければならない。
 レーガン政権は、政策決定、人事決定、そして予算過程をホワイト・ハウスに集中させることで行政組織の管理における転換期となった。1980年代、保守派は政府の社会保障の拡大と管理の不手際を批判し、政府の不正、官僚制度の無駄を指摘した。レーガンは大きな政府を終わらせることを誓った。行政府全体を対象とした大規模な政変を通じて権限や影響力を規制しようとするレーガン政権の試みに多くの行政機関は抵抗しなければならなかった。
 クリントン政権はそうした傾向を継続させた。クリントンの新しい民主党の政策は、ニュー・ディールと偉大なる社会による政府事業の拡大から離れた。就任して最初の6ヶ月間で、クリントンは大規模な連邦政府の改変案を提示した。効率性を改善し、赤字を減らすために政府を再生することを約束してクリントンの再編案は1993年に提出された。官僚制度の勃興とともに、近年の大統領は、行政管理の効率性と政府の説明責任を公共政策の政治化と特殊利益の影響力の増大に対して均衡を保とうとしている。巨大な官僚制度をより効果的に統制するために、大統領の権限と決定はますますホワイト・ハウスに集中している。
 議会との連携の形成、情報伝達戦略に加えて、20世紀後半の大統領は、大統領の政治的メッセージと政治的目標の調整を行い、大統領が官僚制度を統御する支援を行うホワイト・ハウスの職員に対する包括的な組織的戦略の形成に焦点をあてるようになっている。もし大統領が絶対的な権限で最終判断を下すことを望むのであれば、大統領が指揮系統の頂点に立つ階層制度が採用される。新たに生じた問題に対する情報収集、決定作成、そして解決策を提案する責任は下層から頂点の大統領にまで伝達される。例えばレーガン政権の人事組織は、上級職の一団によって構成される階層的な決定形成系統によって特徴付けられる。
 もし大統領が見解の一致を重視するのであれば、公式な階層制度に依存することはない。その代わりに大統領は特別な問題が生じるにつれ再編成される決定作成の非公式な形態を構築する。大統領は指揮系統の頂点を占めるものの、意図的に他者を決定作成に直接関与させ、政策主導に関して異なる意見を歓迎し、情報収集に非公式な伝達経路を使うことを厭わない。例えば、クリントンは決定作成にチームを形成する手段を採用し、国内外の政策目標を推進する可能な選択肢についてフィードバックを行う異なる集団から幅広い意見や観点を求めようとした。
 政権移行チームは、効果的に組織的戦略を導き出し、有効に管理的な手段を行使できる職員でホワイト・ハウスを埋める困難で複雑な仕事に直面する。これは政権の管理形態を決定するホワイト・ハウスの運営を監督する重要性が増していることを示している。さらにホワイト・ハウスの人事の決定は、情報の管理、特にマス・メディアへの漏洩を防止するために重要である。20世紀後半、大統領の管理戦略と組織形態は、政権の成功を左右する重要な要素となっていると見なされている。ウォーターゲート事件後、大統領首席補佐官は、統制と危機管理の中央集権化、そして情報漏洩の防止に貢献する重要な政治的主体となっている。
 2001年9月11日の同時多発テロの後、ブッシュは歴史的に前例のない程に大統領の権限の強化を図った。ブッシュの大統領権限の強化は、行政特権を主張し、議会の介入なしに国家安全保障を進め、行政管理を中央集権化し、決定作成をホワイト・ハウス内で行うことによって大統領制度を拡大し、議会による監視を減少させようとしてきた歴代政権の努力と緊密に連携している。
 同時多発テロ以後、ブッシュ政権は国土安全保障局に、国境の安全確保、諜報収集の統合、そして国家のインフラを守る政策を形成する責任を負わせた。さらに国土安全保障法によって、2002年11月25日、国土安全保障局は閣僚級の省に引き上げられた。国土安全保障法は、第2次世界大戦以来、最も大規模な行政府の再編であり、テロ対策を行う22の連邦組織を強化し、ホワイト・ハウスに統制が中央集権化された。
 同時多発テロ後の一連の措置によって大統領府は前例のないやり方で強化され、大統領権限の拡大と単一的な決定作成を伴った。ブッシュは国家安全保障を経済インフラの保護も含むものとして再定義し、国土安全保障令という新しい種類の大統領令を創造した。市民的自由への脅威に対する不安が高まる中、愛国者法、金融反テロリズム法、そして航空輸送安全保障法などの一連の反テロ法を通じて、議会は大統領が諜報機関や法執行機関に一連の新しい権限を与えることを認めた。大統領の最も重要な主張の1つは、アメリカ市民を含む個人を「不法な敵の戦闘員」と宣告し、連邦機関に拘留させることを認める単一的な権限である。
 ウォーターゲート後の大統領制度は、議会との連携の形成、国内外の政策目標を推進する単独的な行動、増大する官僚制度の効率的な管理、そして強力な公的イメージを形成するための情報伝達手段への依存など様々な手段の間の均衡で特徴付けられている。一連の複雑な大統領の活動は、20世紀末から21世紀にかけて変化する政治的状況の下で、行政府の影響力と政治的資源を高めるのに貢献している。
 またアメリカ人が大統領を選ぶ方法が現代的大統領制度に貢献している。選挙運動で成功するのに必要な政治手腕は大統領職に求められる複雑な国内、経済、そして国際問題を解決する能力と異なっている[ Richard Rose, Postmodern President (Chatham House, 1991), 2-6.]。クリントン、ジョージ・W・ブッシュ、そしてオバマが直面した試練は、最近の権限の増大と統治能力の減少を示している。同時多発テロの後、テロに対する戦いは大統領権限をある領域で拡大したが、ブッシュ政権とオバマ政権は厳しい経済環境に直面し、政策形成に関する大統領権限が制限されている。さらに大統領は過激な党派心によって支配された政治的環境に直面している。大統領は今日でも依然として公的生活の焦点であるが、現実には、大統領は滅多に自由に権限を行使することはできず、しばしば目標を達成するために他者と交渉しなければならない[ Joseph A. Pika and John Anthony Maltese, The Politics of Presidency (CQ Press, 2010), 1.]。
 大統領の役割の違いは時代毎に異なってきたが共通点はある。ワシントンは最初の大統領としてアメリカ大統領制度を体現する人物だと見なされた。ワシントンのリーダーシップは新国家に正統性を与えた。ワシントンの閣僚であるハミルトン財務長官とジェファソン国務長官は連邦政府が果たすべき役割について異なる見解を抱いていた。彼らのリーダーシップに関する政治哲学は後代の大統領に引き継がれた。ハミルトンは積極的な連邦政府と強力なリーダーシップを主張した。そうしたリーダーシップを発揮したのは、リンカン、セオドア・ルーズベルト、ウィルソン、フランクリン・ルーズベルト、トルーマン、リンドン・ジョンソンなどである。多くの歴史家は、フランクリン・ルーズベルトをハミルトン的なリーダーシップを最も体現した大統領と見なす。それはルーズベルトが連邦政府の役割を最も積極的に拡大したからである。
 ジェファソンはハミルトンと異なって消極的な連邦政府を主張した。ジャクソン、タフト、ハーディング、クーリッジ、フーバー、レーガンがジェファソン的な無干渉主義を採用した大統領と見なされる。例えば、フーバーは、私企業に対する政府介入は制限すべきだと信じて、大恐慌に対して連邦が支援することを最初は断っていた。同様にレーガン政権は、企業に対する連邦の規制緩和と連邦の権限を州に返そうとしたことで知られている。しかし、そうしたハミルトン的な原理を受け入れなかった大統領もまったく積極的に行動しなかったわけではない。事実上、ジェファソンは、バーバリ諸国に対して宣戦布告なき戦争を行い、ルイジアナ購入を成功させ、出港禁止法を課すなと積極的な大統領であった。またジャクソンもサウス・カロライナ州の連邦法無効宣言に対して断固とした措置をとった。いずれにせよ、たとえハミルトン的な原理が受け入れられなかったとしても、歴史的変遷を通じて現代の大統領制度が憲法制定会議の代表達が想像すらできない程に強大な制度になっていることは確かである。現代の大統領制度を理解するためにはどのような歴史的発展を経てきたのか知ることが不可欠である。