ジョンソン政権を経て大統領制度は法的権限が増えた一方で政治的影響力は低下した。ジョンソンが退任した直後に、補佐官の1人であるジョージ・リーディ(George E. Reedy)は、「我々が大統領制度の黄昏となるかもしれない最初の長引く影を見るのは当然かもしれない」と書いた[i]。ヴェトナムでの失敗は大統領の政策に対する一般の不信感、大統領権限の単独的な行使への反感、そして、大統領の提案や声明に対するマス・メディアの挑戦を助長した。けれども大統領への期待は依然として大きかった。大統領は国民の拡大し続ける政府への期待の中心であり続けた。

 1968年の大統領選挙はジョンソンによってもたらされた政治的混乱を示していた。民主党大統領候補に指名されたヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey)副大統領は分裂した民主党を率いた。シカゴで開かれた全国党大会は会場でも路上でも混乱を極めた。路上では反戦論者がシカゴの警察と衝突した。ハンフリーは、大多数の代表を支配する党の指導者によって大統領候補に指名された。ハンフリーの最も有力な対立候補であったロバート・ケネディはカリフォルニアの予備選挙で勝利を収めた64日に暗殺されていた。

 政治的にハンフリーは傷を負っていた。ジョンソン政権の副大統領として、ハンフリーはヴェトナム戦争の失敗から距離を置くことが難しいと悟った。戦争の問題に取り組もうとせず、きっぱりと決別することもできず、ハンフリーは決断力が欠けているように見えた。ハンフリーは反戦派の民主党員に拒絶されただけではなく、保守派の民主党員にも拒絶された。保守派の民主党員はアメリカ独立党の大統領候補であるアラバマ州知事のジョージ・ウォレスのほうが好ましいと考えた。

 ハンフリーの異論の多い指名と共和党の大統領候補のニクソンに対抗するための選挙活動の失敗は、民主党に組織的な変革をもたらした。1971年にマクガヴァーン=フレイザー委員会によって民主党の規則が、大統領候補を指名する党大会に一般党員の動向がより反映されるように改訂された[ii]。新しい規則によってほとんどの州が、党大会の代表を党の有力者が秘密会議で選出する形式から直接予備選挙で選出する形式に改めた。民主党がこのような変革を先に行ったが、そうした変革は州法として法制化され、共和党にも影響を及ぼした。

 伝統的な党組織の影響力の低下は、新しい大統領候補指名の形式だけではなく、有権者の意識においても明らかであった。1968年の選挙では、有権者は違う複数の党の候補に投票する傾向が強くなった。その結果、ホワイト・ハウスと議会を橋渡しする共通の党の絆が損なわれることが珍しくなくなった。

 分断された政府はニクソン政権に深刻な影響を与え、ジョンソンの時代に明確な形をとるようになった近代的大統領政治が抱える問題を悪化させた。1968年の民主党の混乱にも拘わらず、ニクソンは国民から決定的な信任を得ることはできなかった。民主党は上下両院で多数派を維持し、ニクソンは1848年のテイラー以来、初めて上下両院のいずれも自党が多数派を獲得せずに選出された大統領となった。

 議会だけが権力をめぐる競合相手ではなかった。なぜなら1932年以来、アイゼンハワーを除けばニクソンは唯一の共和党大統領であり、行政組織は多くの民主党員で占められていた。彼らの大部分は、ニュー・ディール以来、公職関連法規によってその地位が保護されていた。アイゼンハワーは官僚の抵抗に苛立たせられたが、自党が議会を支配できていないニクソンにとってそうした抵抗はさらに重荷になる可能性が高かった。ニクソンは回顧録の中で「我々の最も重要な仕事はできるだけ迅速かつ確実に連邦の官僚制度に我々の烙印を押すことである。私は新しい閣僚を、留任した官僚を我々がなそうとしていることを信じている人々に置き換えるために迅速に動くように促した。私は、もし我々が迅速に行動しなければ、彼らが変えようとしている官僚制度の虜になってしまうだろうと警告した」と記している[iii]。ニクソン政権にとって苛立たしいことに、大統領が任命した省庁の長が容易に官僚に取り込まれ、政権の政策に反対する同盟者にされた。

  ニュー・ディール時代の最初の共和党大統領であったアイゼンハワーは、大統領から議会に権限を返還することで行政府と立法府の均衡を修復させることをたびたび語っていた。確かにアイゼンハワーは最終的に近代的大統領としての責任を受け入れ、同時に、政治的に穏健な大統領であれ、もし連邦政府の活動の領域を明確に定めたいと望むのであれば強力なリーダーシップを発揮しなければならないことを認識するようになった。しかし、アイゼンハワーは消極的な近代的大統領であった。アイゼンハワーの見えざる手によるリーダーシップは、ニュー・ディールの柔軟な受け入れとアメリカ政府の他の府に対する尊重を示していた。

 それに対してニクソンは積極的に大統領の権限を拡大しようとした。ニクソンが大統領に就任した時、近代福祉国家を実現しようとするニュー・ディールの手法はリベラル派でさえも疑念を持つようになっていた。新しい政治的状況は国内政策を劇的に変える機会を提示しているように思えた。さらに慎重だったアイゼンハワーと違って、ニクソンは機会を逃さず最大限に活かす性格であった。ニクソンはアイゼンハワーよりも大統領職を保守的な国内政策を梃入れするのに有効に使った。実際、ニクソンはセオドア・ローズヴェルト以来、大統領の権限を拡大解釈した初めての共和党大統領である。しかし、大統領を人民の世話役であると初めて見なしたセオドア・ローズヴェルトと異なり、ニクソンは大統領職を社会改革に対する疑念の中心に据えようとした。

 もちろんニクソンでさえ福祉国家の概念に徹底的に反対していたわけではない。ニクソンが提唱したニュー・フェデラリズムの主要な目的は、国家的な問題を連邦政府が処理できるように、そして、地方的な問題を州や地元当局が処理できるように政府の責任を選別することであった。福祉は全国単一の基準が必要であり、連邦が処理すべき問題である。その一方で職業訓練は柔軟なやり方が必要であり、州や地元当局が処理すべき問題である。さらにニクソンは連邦から州政府や地方政府への補助金を、包括的補助金と個別補助金を統合し、使途制限のない補助金に変更した。それは様々な政府事業に関する州政府や地方政府の決定権を取り戻させようとする試みであった[iv]。 

ニクソンのニュー・フェデラリズムは、社会的問題は国家的な水準で最も効果的に解決できるというニュー・ディールの前提に挑戦した点で保守的であった。こうした挑戦は民主党が支配する議会と行政組織の官僚の間で強い反対を引き起こした。彼らはもしニュー・フェデラリズムが法制化されると州や地元当局に権限が奪われてしまうのではないかと恐れた[v]

  興味深いことに、ニクソンは連邦制度の地方分権化とホワイト・ハウスへの権限集中を同時に行おうとしていた。ニクソンの考えでは、連邦政府の特殊権益が非常に大きいので強力な大統領のみが、州や地元当局からワシントンへの権限集中を是正できる。ニクソン政権は、連邦の権限を制限するために、まず大統領の権限を増大させる必要があった。「反官僚制度」を標榜してニクソンは国内政策を形成する権限をホワイト・ハウスに集中させようとした[vi]

またニクソンはリベラルな公民権政策を追求し、人種と性別に基づいて雇用、契約、教育に関連した積極的差別是正措置を推進した。最初に公民権政策が差別撤廃から積極的差別是正措置に移行したのはジョンソン政権であった。ジョンソンは大統領令11246号を発令し、労働長官に、政府事業の契約者に雇用慣行に関する遵守報告を提出するように求める権限を与え、契約者に少数派の応募者を採用する努力を行うように命じた。また同令により、新しい政策を監督するために連邦契約遵守局が設立された。ニクソンの下で、大統領令11246号は完全に行使された。ジョージ・シュルツ(George Shultz)労働長官は、フィラデルフィア計画と呼ばれる指示で、地方の建設会社に少数者を雇用する特別な目標と労働時間制限を採用するように求めた。さらに大統領令11246号の適用範囲はすべての連邦政府の事業を請け負う契約者に拡大され、地域の人種構成比を反映して労働者を雇用しなければならないと規定された。ニクソン政権は契約遵守だけではなく大統領令11478号を通じて連邦職員の雇用においても積極的差別是正措置を果敢に追求した。そうすることでニクソンは、裁判所によって繰り返し大統領権限の正当な行使であると支持された積極的差別是正措置の近代的制度を創った[vii]

 ニクソンは環境問題に取り組んだ。1969年国家環境政策法によって環境保護局が設立された。1969年と1970年にニクソンは環境保護に関する施策を打ち出した。ニクソンは議会に37点にわたる環境に関する見解を提出し、水処理施設の改良、大気の質の基準の改良、自動車による汚染を減らすための研究に40億ドルの予算を請求した。ニクソンは汚染されている連邦施設を浄化するように命じ、五大湖に汚水を投棄することを禁止する法案を支持し、鉛を添加したガソリンへの課税を提案し、石油漏出の処理に関する全国達成計画を承認した。

 またニクソンは法の執行を強化するという約束を果たすために、3つの主要な犯罪に関する法案を支持した。組織犯罪統制法は、危険な特定の犯罪に厳罰を科し、合法な事業に組織犯罪の資金を使用することを禁じた。薬物乱用統制法は、薬物の単純所持に関しては罪を軽減したが、薬物取り引きに関する罪を厳罰化した。また廃棄される前に証拠を差し押さえるために当局は通告なしで家宅に踏み込むことが許された。コロンビア特別行政区刑事裁判法は、通告なしの踏み込みに加えて、危険だと判断された被告に対する60日間までの予防拘留、公判前の拘留を認めた。

 ニクソン政権は月に人類を到達させるというケネディの約束を実現した。1969720日、アポロ11号の宇宙飛行士が人類で初めて月面に立った。197212月に行われた最後の月着陸計画でアポロ17号は月面で75時間過ごし、250ポンドの標本を回収した。アポロ11号の宇宙飛行士とニクソンは電話を通じて会話した。

 「こんにちは、ニールとバズ。 私はホワイト・ハウスの大統領執務室から電話であなた方と話している。 そして、確かに、これは今までなされた中で最も歴史的な通話に違いない。 私は、我々が皆、あなた方がなしたことをどれくらい誇りに思っているかを言うことができない程である。 すべてのアメリカ人にとって、これは我々の人生の最も誇るべき日に違いない。 そして、世界中の人々に関して、私はこれが何と顕著な功績であるのだろうと彼らもアメリカ人と一緒に認めていると確信する。 あなたがなしたことのために、宇宙は人類の世界の一部になった。 そして、あなた方が静かの海から我々に語りかけるように、それは平和と平静を地球にもたらすための我々の努力を強めるために我々を奮い立たせるだろう。 人類の歴史全体の1つの非常に貴重な瞬間に、この地球のすべての人々が本当に1つになる。あなた方がなしたことにおける彼らの誇りにおいて1つになり、あなたが無事地球に戻るように我々が祈るうえで1つになる[viii]

 多額の献金をする者の影響力を排除するために選挙運動資金に関する規制が強化されるようになったのは1970年代である。1971年、議会は連邦選挙運動法を通過させた。同法は選挙運動資金の開示について定式を提示した。誰が献金を行い、それがどのように使われたかが明らかにされるようになった。さらに広告費に上限が定められ、候補者と家族からの献金に制限が課され、労働組合や企業が加盟者や従業員に自発的な献金を呼びかけることを認めた。1972年の大統領選挙で連邦選挙運動法は初めて大統領選挙に適用された[ix]。 

1972年、議会は歳入法を可決した。その中には大統領候補に対する公的選挙運動資金の規定が盛り込まれていた。その規定は1976年に発効した。すべての納税者は所得申告書で大統領選挙運動基金にお金を充てることができる。内国歳入庁に基金に連邦税から1ドルを取り分けておくように指定する。取り分けておく額は1993年に3ドルに引き上げられた。多くのアメリカ人がお金が政治を腐敗させていると信じている一方で、取り分けを行っているアメリカ人はほとんどいない。その割合は1980年には28.7パーセント、2010年には7.3パーセントに下がった[x]

  国内政策だけではなく、ニクソンの大統領権限の強大化は特に外交政策でも発揮された。ニクソンは1969725日、アジア歴訪に先立ちグアムで開催した記者会見でアジアに対するアメリカの新しい外交方針を発表した。

 「好むと好まざるとに拘わらず、我が国が地理的に太平洋国家であるが故に、我々がアジアの戦争に巻き込まれる方法は、むしろ撤退を企てることだと思う。私ははるか将来、それも45年先ではなく、10年ないし15年、20年先の将来を考える時、しかも我々が世界平和を猶も望む時、その平和への最大の潜在的脅威が太平洋に位置していることを我々は気付くのではなかろうか。それ故、私は次のことを提案したいと思う。我々がアジアを見て、しかも世紀末の長期的視座の中で見通す場合、アジアは世界平和への最大の脅威を構成している。そのためアメリカは、引き続き重要な役割を演じ続けるべきである。ここに述べたいことは、我々の果たすべき役割に関する限り、こうした状況下で我々が直視しなければならない2つの重要かつ新しい要素の存在に思いを致さなければならないということである。第1に、アメリカに対決した形で発現しているナショナリズムの巨大な成長である。しかも同時にまた、その民族的誇りで重要な要因になりつつあると同時に、地域的誇りがまた重要な要因になっている。第2の要因は、私の見るところ、アジアの将来に深い影響を与え、我々が十分考慮しなければならないものである。すなわちそれは、アジア人は今後我々の訪れるどの国でも外から指図されたくないと言い、アジア人のためのアジアを要求し続けることである。しかし、まさにこれこそ我々の望んでいるものであり、それにこそ我々の果たすべき役割がある。すなわち、我々は援助すべきだが、指図すべきではないということだ。今日徐々に進展しつつある政治的、経済的計画は極めて有望なものである。その計画に我々は援助を与えるだろう。そしてもちろん現に我々が持っている条約上の義務を保持し続けていくはずである。しかし、我々の役割に関する限り、ヴェトナムの時と違って、今後、我々はアジア諸国を我々に依存させ過ぎないように、紛争に深入りする政策は避けなければならないである」[xi]

新しい外交方針では、アジアにおける駐留米軍を削減し、アジアの非共産主義国が核以外の安全保障問題に関して自立するように促すことが提唱され、中国の脅威の減退が認識されていることが示された。113日、ニクソンはグアムにおける発表をまとめて3原則からなるニクソン・ドクトリンを公表した。ニクソン・ドクトリンは、アメリカが同盟国の条約上の約束は守ること、アメリカや同盟国の安全保障に深く関与する国が核の脅威にさらされた場合、アメリカが核の傘を提供すること、そして、同盟国が核以外の脅威にさらされた場合、アメリカは条約上の取り決めにしたがって要請を受ければ軍事的、経済的支援を行うが、国土防衛の責任はその同盟国自体にあることという原則を示した。ニクソン政権はニクソン・ドクトリンに基づき、韓国から2万人、日本から1200人、タイからは16,000人の部隊を撤収させた。

さらにニクソン政権はヴェトナムからのアメリカ軍の撤退を開始し、19698月までに25,000人の兵士が、1969年の終わりまでに8万人の兵士を帰還させた。確かにヴェトナム戦争を終わらせることはニクソンにとって政治的利益になることであった。ニクソンはヴェトナム戦争を終わらせることを約束したが、いわゆる「名誉ある平和」を獲得するにおいてそれ程成功を収めたわけではなかった。アメリカは南ヴェトナムを共産主義に明け渡すことなく撤兵することを目指した。名誉はニクソンにとってこの目標の重要な要素であった。ニクソンとヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)国家安全保障問題担当大統領補佐官は、もし決然たる目標と行動の確実性を示すようなやり方でアメリカが戦争から脱出できないのであれば、アメリカは国際的な威信を失うだろうと考えていた。

 ジョンソン政権末期に北ヴェトナムとアメリカの間で和平交渉の予備会談が行われた。アメリカは、北爆を部分的に停止する代わりに、南ヴェトナムでのゲリラ活動を縮小するように北ヴェトナムに要求し、北ヴェトナムはその回答として、南ヴェトナムでのアメリカの軍事行動を縮小するように求め、双方の主張は平行線を辿るいっぽうであった。

 アメリカ軍の撤退は非常に困難が予想された。支援している南ヴェトナムに裏切り者と非難される恐れもあったし、軍事的にも撤退をすることは殿軍を務める残留兵士の安全を脅かすことになると予想された。国防総省の見積もりでは、秩序ある撤退をするには15ヶ月以上かかるということであった。その際、最も危惧されたのは残留したアメリカ軍兵士が人質になることであった。またアメリカがヴェトナムで失敗することは同盟諸国に対してアメリカの力への疑念を抱かせる結果になる。
 北ヴェトナムはアメリカ軍の即時かつ一方的な撤退を求めていた。アメリカは、北ヴェトナムのその要求に屈することなく、北ヴェトナムを制しながら撤退し、かつ南ヴェトナムを崩壊させないようにしなければならなかった。
 キッシンジャーが考え出したのは、北ヴェトナムに政治的、軍事的両面から圧力をかけ、有利な妥協を引き出すという方策である。それは、第1に戦争継続に関して国内の支持を固めるために議会の支持を取り付けること、第2に北ヴェトナムが南ヴェトナムを支配すること以外はできるかぎり妥協すること、第3に南ヴェトナムの重要拠点だけに防備を限定し、北ヴェトナムからの補給線を断つ作戦をとる。
 アメリカ国民は、政府に2つの矛盾した要求を政府に突きつけているようであった。つまり、ヴェトナム戦争終結とアメリカが北ヴェトナムに降伏しないことである。ニクソン政権は、ヴェトナム戦争を北ヴェトナムに降伏せずに過度に妥協したと見られることなく終結させ、平和をもたらさなければならなかったのである。これが名誉ある平和である。

名誉ある平和を達成するために、ニクソン政権はヴェトナム化計画を選んだ。それは、同盟国との安全保障の約束は守るが、アメリカの直接的な軍事介入はできるだけ抑えるという方針への転換である。ヴェトナム化計画に従って撤退を行うことに関しては3つの要点があった。第1にアメリカ国内の士気を維持するこ と、第2に南ヴェトナムにアメリカ軍なしでも自立できる機会を与えること、第3に北ヴェトナムに妥協できる接点を提供することの3つである。ヴェトナム化計画の骨子は、南ヴェトナムの自主防衛力の強化とそれに伴うアメリカの負担軽減である。つまり、南ヴェトナムにアメリカの肩代わりをさせようということである。 アメリカの理想主義やイデオロギーにこだわることなく、アメリカの力と利益に基づいてなされた現実的路線への変更である。

アメリカは、北ヴェトナムに政治的、軍事的両面から圧力をかけ、名誉ある平和を実現しようとした。ニクソンは、国際政治面では共産中国との友好関係を築き、軍事面では北爆をいっそう強化した。さらにニクソンはカンボジアにある北ヴェトナムの軍事拠点を秘かに爆撃することでヴェトナムへの関与を拡大させた。カンボジアは中立国であった。爆撃に効果がないと知ったニクソンは、1970430日、国民に向けて、カンボジアに派兵することを発表した。この軍事的に無益に思える行動は、アメリカ中で抗議を巻き起こし、議会の強い反対にあった。カンボジアの爆撃に関して上院軍事委員会は公聴会を開き、カンボジアの中立が公式に確認されている時に爆撃が行われたと結論付けた。カンボジアに対する軍事介入は1973815日に大統領と議会の間で反共産主義政府を支持するための爆撃を停止するという合意が成立するまで続けられた。さらに1971年、ラオスでも南ヴェトナム解放戦線の補給線を断つために爆撃が行われた。

しかし、こうした軍事的、外交的圧力が功を奏し、1972108日に北ヴェトナムは次のようなアメリカの条件を受け入れるに至った。アメリカ軍の全面的撤退、国際的な監視の下での休戦、捕虜交換、行方不明者の情報提供、南ヴェトナムに対する経済的、軍事的援助の継続、南ヴェトナムの将来の行方を自由選挙に委ねる。ヴェトナム戦争が正式に終結したのはニクソンの1期目も終わりに近付いた197312日である。123日、ニクソンはヴェトナム宣言の終結を国民に向かって宣言した。

「私は今晩、我々がヴェトナムと東南アジアにおける戦争を終わらせ、名誉ある平和をもたらす協定を本日締結したことを発表するために、このラジオとテレビの時間を要求した。次の声明が、今、ワシントンとハノイで同時に発表される。『本日、パリ時間19731231230分に、ヴェトナムにおける戦争を終結し、平和を回復する協定が、合衆国代表ヘンリー・キッシンジャー博士とヴェトナム人民主共和国代表レ・ドク・ト特別顧問との間で仮調印された。この協定はパリの国際会議センターにおいて1973127日にヴェトナム和平パリ会談の参加国により正式に調印されることになっている。停戦は197312724時グリニッジ標準時に発効する。合衆国とヴェトナム民主共和国は、この協定がヴェトナムにおける安定した平和を保障し、インドシナ及び東南アジアの永続的な平和の維持に貢献するであろうという希望を表明する』。公式の声明はこれで終わる。交渉の全期間を通して、我々は名誉ある平和を主張している。1972125日と58日にこの部屋から国民に向けて行った私の演説では、名誉ある平和に不可欠だと考えられる目標を説明した。今や合意に至ろうとしている調停では、あの時、私が主張したすべての条件がかなえられている。国際的な監視の下での停戦は、ワシントン時間で127日土曜日午後7時に始まるだろう。今週の土曜日から60日以内にインドシナ中のすべてのアメリカ戦争捕虜人が解放されるだろう。軍事行動中に行方不明になっているすべての人々の消息を知っている最大限の可能性がある。同じ60日間に、すべてのアメリカ軍は南ヴェトナムから撤退する。南ヴェトナム国民は、外部からの干渉無く、彼ら自身の未来を決める権利を保障されている。双方の同意により、実行すべき協定の全文と付随書は明日発行されるだろう。こうした交渉の間中、我々はヴェトナム共和国のティエウ大統領と他の国会議員と綿密に協議していた。この調停は目標を満たし、ヴェトナム共和国政府とティエウ大統領の完全な支持を受け、同じく影響を受けるその他の同盟国の支持も受けている。合衆国は、ヴェトナム共和国政府を唯一の正当な南ヴェトナム政府であると認め続ける。我々は、協定の条件の範囲内で南ヴェトナムを支援し続け、南ヴェトナム国民が彼ら自身で彼らの問題を平和的に解決しようとする努力を支持する。我々は、戦争の終わりは、平和建設に向けての最初の段階に過ぎないと思っている。今、すべての陣営が、これが永続する平和になるように、救いの平和になるように、そして東南アジアにおける戦争の終わりとなるだけではなく、世界全体の平和の可能性に寄与する平和にするように注意しなければならない。このことは協定の条項が厳密に守られなければならないことを意味する。我々は協定が我々に要求していることをすべて実行する用意があり、他の当事者が協定の要求事項をすべて実行するように期待する。また我々は他の関係諸国が協定の実施と平和の維持を確実なものとするうえで助力するように期待する」[xii]

19733月、アメリカは休戦協定に従ってアメリカ軍の撤退を完了させた。さらに8月には空爆も停止した。しかし、南北ヴェトナムの間で戦闘は継続された。ヴェトナム戦争でアメリカ軍の死亡者は58,000人にのぼり、1,700億ドルが投じられた。その結果、国内の不信感だけではなく、大幅な財政赤字、アメリカ経済の低迷、ドル流出などの経済情勢の悪化をもたらした。

ニクソンの対ヴェトナム政策は積極的な大統領権限の行使を促した。トルーマン、ケネディ、そしてジョンソンと同様に、戦時の大統領は超法規的な権限を持つとニクソンは考えていた。ニクソンが戦時の大統領であったのは約55ヶ月の任期のうち約20ヶ月だけであったが、ニクソンは、人気のない宣戦布告なき戦争を遂行する大統領に自動的に包括的な権限が人民によって認められるわけではないと悟った。ますます増大する政治的抵抗に対して、大統領権限の領域を拡大しようとしたニクソンは、自らの決断で以って国内政策と外交政策を推し進めていくことになる。そうすることでニクソンは大統領制度に重要な変革をもたらした。しかし、それと同時にニクソンは自らの辞任の種をも植え付けていた。

 1971630日、最高裁は、ニュー・ヨーク・タイムズ社対合衆国事件で、国防総省の文書の刊行は国家安全保障の脅威とはならないという判決を下した。ニクソンは、ニュー・ヨーク・タイムズ社がアメリカのヴェトナムへの関与の歴史の詳細を明らかにする機密文書を刊行しようとしたのを国家安全保障を脅かすという理由で差し止めるために司法長官を連邦地方裁判所に送っていた。連邦地方裁判所は差し止め命令を出すのを拒んだ。連邦控訴裁判所は地方裁判所の判断を支持した。ニクソン政権は最高裁に提訴した。

最高裁は、憲法修正第1条で示された出版の自由を差し止めるためには政府はそれを正当化する重大な責任を背負わなければならないとした。建国の父祖は、憲法修正第1条によって、自由な新聞がアメリカの民主主義において営むべき本質的役割を果たすために必要な保護を新聞に与えた。新聞は国民に奉仕すべきものであって、政府に奉仕すべきものではない。政府の新聞検閲権が廃止されたのは、新聞が政府を批判する自由を永久に保つためであった。自由で抑制されない新聞は政府内の欺瞞を効果的に暴露することができる。確かに憲法は国際問題の処理とアメリカの国防の維持に関する権限を大幅に大統領のみに与えている。大統領は憲法上をこの権限を行使するのに必要とされる機密保持の程度がどのようなものであるかを決定し、かつそれを守る義務を負っている。しかし、行政府が国家機密上、公表するべきではないと主張する資料が、その発表によって国家または国民に直接かつ直ちに回復し難い損害が生じることは確実であるとは言えない。したがって憲法修正第1条に反してまで機密文書の刊行を差し止めを正当化することはできない。最高裁の判決は憲法修正第1条の意義を再確認すると同時にニクソンの国家機密特権の主張を否定するものであった[xiii]

 ニクソンの「管理大統領制度」は、ニュー・フェデラリズムを法制化するように議会を説得できないために生まれた。大統領としての最初の2年間、ニクソンは立法提案を行ったが、ニクソンの提案の大部分は議会で否決された。その代わりにニクソンは自らの目的を行政的手段を通じて実現する戦略に転向した。

 ニクソンの管理大統領制度の最初の段階は、伝統的に省庁が担ってきた責任を占有するように大統領府を拡大し再編することであった。ホワイト・ハウス事務局の職員はジョンソン政権下では292人であったが、ニクソン政権の1期目の終わりには583人に増員された。規模の拡大とともに権力も増大した。ホワイト・ハウス内や大統領府内の組織でニクソンに忠誠を誓う者が政策を形成するだけではなく、ジョンソン政権でも行われたように、政策そのものを実行しようとした。

 外交面ではキッシンジャー国家安全保障問題担当補佐官が、ホワイト・ハウスが支配する政策形成を行う完全な仕組みを初めて創った。ケネディ以来、国家安全保障問題を担当するホワイト・ハウスの職員が従来、国務省の管轄であった責任を次第に分担するようになった。ニクソンとキッシンジャーは外交問題を担当する職員を前例のない規模にまで増やした。国務省が蚊帳の外に置かれたために、ウィリアム・ロジャーズ(William Rogers)国務長官は、ニクソン政権の最大の外交的業績である中国訪問を前もって知らされていなかった。

 1949年に権力を掌握した共産中国政府とアメリカが戦火を交えてからほぼ4半世紀が経っていた。アメリカと中国の外交関係はそれ以来、途絶していた。ニクソンは「三角外交」と呼ばれる戦略を展開した。建国当初こそ中国とソ連の関係は緊密であったが、1960年代、両国のイデオロギー対立は深まっていた。さらに1969年には国境地帯での武力衝突まで起きていた。その隙に乗じてソ連を牽制するために中国との友好関係を築こうとニクソンは考えたのである。さらにニクソンは中国の国際連合への加盟を支持した。ニクソンはキッシンジャーを秘密裡に中国に派遣して、大統領の中国訪問を協議させた。

 1971715日、ニクソンは中国を訪問することを公表した。同盟諸国だけではなく国務省でさえニクソンの計画を知らされなかった。これは外交が大統領の独断で行われることを示していた。こうしたニクソンの行動は世界に衝撃を与え、ニクソン・ショックと呼ばれた。ニクソンの中国訪問は19722月に行われた。ニクソンは毛沢東と周恩来と会談し、万里の長城をはじめとする歴史的名所を訪問した。その様子は報道で大きく取り上げられた。ニクソンの中国訪問の結果、上海声明が発表された。

上海声明は以下のような条項からなる。ヴェトナムに関して休戦が成立した後、アメリカは軍を撤退させ、ヴェトナム人民に自らの運命を外部からの干渉なく決定させる。アメリカは日本と韓国と強い絆を保持する。南アジアに関してアメリカは、軍事的脅威から解放されて自らの将来を決定するインド、パキスタン、その他のあらゆる国の権利を支持する。中国は覇権に反対し、すべての国々が平等かつ自由に扱われることを求める。中国はヴェトナム、ラオス、カンボジア人民の努力を支持する。しかし、中国はヴェトナムにおけるアメリカ軍の存在について言及しなかった。中国は日本の軍国主義の復活に反対する。中国はパキスタンがその独立と主権を維持するのを支持する。アメリカと中国は、すべての国の尊厳と主権を尊重し、国内問題に干渉せず、平等で相互に恩恵をもたらす形で外交関係を樹立することに合意する。台湾に関して中国は、アメリカが台湾を正統な政権と認める限り、アメリカと正式な外交関係を樹立しない。ニクソンは、台湾からのアメリカ軍の段階的撤退を約束し、1つの中国政策に同意した。アメリカと中国は貿易、観光、文化的交流を促進することに合意する。

中国の訪問を発表したことでニクソンは世界に衝撃を与えたが、金・ドル停止は再び世界に衝撃を与え、第2次ニクソン・ショックと呼ばれた。1950年代にアメリカの国際収支は赤字に転落し、ケネディ政権とジョンソン政権の努力にも拘わらず改善しなかった。国際収支の悪化は基軸通貨としてのドルの信用を低下させ、金がアメリカから流出した。さらに1970年から1971年にかけてアメリカ経済は後退し、国際収支はますます悪化した。そのためドル不安が広まり、為替市場が混乱した。ニクソン政権は西欧諸国や日本と協力して為替市場の混乱を収拾することができなかった。さらに国際収支の赤字だけではなく、貿易収支が20世紀で初めて赤字に転落する見通しが示された。またアメリカの金準備高は1938年以来、最低の水準にまで低下した。ニクソンは事態に対応するために閣僚と協議してドル・金交換一時停止を決定した。しかし、西欧諸国がアメリカの一方的な措置に反対したために、ドルの価値を切り下げた新たな交換レートで固定為替相場に復帰するスミソニアン合意が成立した。ただしアメリカはドル・金交換の再開については確約しなかった。結局、アメリカの国際収支の悪化は解消されず、ドルに対する信用も回復しなかった。最終的に各国は変動為替相場に移行し、固定為替相場を原則とするブレトンウッズ体制は崩壊した。

ニクソンは政権開始当初からソ連との緊張緩和に努めた。冷戦の緊張緩和させる政策としてニクソン政権が最初に着手したのが戦略兵器制限条約である。戦略兵器制限交渉はジョンソン政権から開始されていた。しかし、ソ連がプラハの春を弾圧したチェコ事件を契機に交渉は中断していた。ニクソン政権は交渉を再開し、一定の合意にこぎつけた。ニクソンの訪中公表によって米中関係の改善が明らかになると、米ソ関係も好転した。197110月、ニクソンは19725月にソ連を訪問することを公表した。現職大統領として初めてソ連を訪問したニクソンはレオニード・ブレジネフ(Leonid Brezhnev)書記長と会談し、第1次戦略兵器制限条約と弾道弾迎撃ミサイル条約に調印した。第1次戦略兵器制限条約によって、米ソは5年にわたって大陸間弾道ミサイルと潜水艦発射弾道ミサイルに数量制限を課すことに合意した。引き続いてこうした軍備に関する条約の他にもアメリカからソ連への穀物輸出が認められ、ソ連に最恵国待遇を与えることを約束した通商条約も調印された。1974年、ニクソンはソ連を再訪したが、核拡散を制限する協定で合意に達することができなかった。

1969年、ニクソンは6人から構成される行政組織に関する大統領審議会を発足させた。議長のロイ・アッシュ(Roy L. Ash)に因んでアッシュ審議会と呼ばれる。アッシュ審議会は、行政府が過度に断片化しており、その結果、公共の問題に対応するのに十分に協調できていないと結論付けた。この断片化に取り組むために、アッシュ審議会は、中央集権化され、より政治的に責任を負う行政組織の再編を提案した。ニュー・フェデラリズムの諸要素と行政府の再編を組み合わせる包括的な再編手段をアッシュ審議会は採用した。さらにアッシュ審議会は予算局の名前と組織の変更を提案した。アッシュ審議会の提言を取り入れてニクソンは1970年再編計画第2番で予算局を行政管理予算局に改変した。さらに大統領府に国内政策会議を設置した。

アッシュ審議会の報告は、1971年にニクソンが議会に提出した行政府の再編に関する立法計画の基盤となった。そうした法案は、7つの既存の省庁と幾つかの独立機関を4つの超省庁、人的資源省、共同体開発省、天然資源省、経済問題省に再編することを規定していた。それぞれの省には省庁全体に責任を持つ少数の補佐官に支援される長官が置かれる。しかし、議会は超省庁の設置を認めなかった。1972年に再選を果たした後、ニクソンは独断で閣僚の関係を再編し、超長官を設置した。

国内政策会議の長を務めるホワイト・ハウス補佐官のジョン・アーリックマン(John Ehrlichman)が国内政策の形成を担当した。ニクソンは反官僚制度の中核として国内政策会議を利用した。国内政策会議はニクソン政権の1期目の終わりまでに60人以上の職員を抱えるようになった。国内政策会議は、閣僚とともに政策の調整を図る機関というよりは閣僚を通さずに直接に省庁の職員と協働して政策を形成する機関であった。政策形成を主導する権限は閣僚ではなくホワイト・ハウス補佐官に与えられた[xiv]

アッシュ審議会の提言で改変された予算局によって国内政策に対する大統領の影響力が強化された。197071日の大統領令によって、予算局は行政管理予算局に改組され、局長と上級職員の間に大統領が任命する局長補佐が監督役として置かれた。ニクソンは局長をホワイト・ハウス西棟の事務所に移し、毎朝、ホワイト・ハウスの職員の会合を主宰させた。結果的に、予算局は行政の管理においてさらなる責任を負うとともにより一層大統領に対して責任を負うようになった。1971年の終わりまでに行政管理予算局の職員は50人から150人に増員された[xv]

1969年、大統領のための広報機関としてホワイト・ハウス広報局が設立された。ニクソンは1968年の大統領選挙で大統領の報道におけるイメージを統制するためにホワイト・ハウス広報局を設立した。ニクソンの再選後、ホワイト・ハウス広報局は行政府から提供される情報をすべて監督する機関になり、大統領のイメージだけではなく公共政策に関する報道の取り扱いに職掌を広げた。大統領がワシントンの外に旅行した場合の地元の報道の調整、ワシントン外の記者との昼食会の調整、大統領の露出関してすべての形態の報道に関する技術的専門知識を提供することに責任を負った。さらに政策に関する新聞発表やその他の背景知識を公表する[xvi]

報道の監視はニクソン政権において顕著であった。政権初期、ホワイト・ハウスの職員は、大統領が報道でどのように扱われているか評価する仕組みを考案した。そうした内密の仕組みの目的は、どの記者が友好的であるか、もしくは敵対的であるのか判別することであった。特にテレビのコメンテーターはホワイト・ハウスの関心の的であり、「概して我々に友好的、概して客観的、概して我々に敵対的」という3つの基準で判別された。ホワイト・ハウスの記者証を得るためにシークレット・サーヴィスに提出されたファイルを使ってコメンテーターの個人情報まで調べられた。1970年代半ばまでにホワイト・ハウスの職員は、テレビ、ラジオ、新聞の200人以上の記者に関する調査をまとめ、「政権に友好的、概して好意的、中間、予測不可能、概して否定的、常に敵対的」の6つの基準に従って分類した。友好的な記者はホワイト・ハウスから優遇された。情報源を伏せる約束で大統領が政策などの舞台裏を記者に知らせる背景説明会や特別招待などが行われた。

さらにニクソン政権は、毎日のニュースの概要をまとめる仕組みを初めて作った。ニューの概要では、50以上の新聞、30以上の雑誌、そして2つの通信社からニュース、社説、コラムなどに含まれる思想や意見が集められた[xvii]。ニクソン政権はニュースの概要を提供するように求める多くの要請を受けたが、大統領とホワイト・ハウスの職員にために準備された内部文書であるという理由ですべての要請は拒否された。ニュースの概要の目的は、報道を通じて国民の意見や見解を知ることであった。

ニクソンとハリー・ホールデマン(Harry Robbins “Bob” Haldeman)首席補佐官は、ホワイト・ハウスを管理するのに階層的な制度を構築した。大統領に近付ける職員の数は制限された。大統領の孤立はニクソンの性格に根差していた。ニクソンはよく知らない人々をうまく扱うことができず、会議を好まなかった。その代わりにニクソンは書類を好んだ。職員は詳細な選択肢を書類にまとめ、その中からニクソンが最善だと思った選択肢を選ぶ。ニクソンは、人々が話すのを聞くよりも膨大な量の書類を読むほうが得意であった。こうしたホワイト・ハウスの管理手法はホワイト・ハウスを閉ざされた空間にした[xviii]

 大統領府の拡大によって、大統領が公共政策を完全に管理できたわけではない。反抗的な官僚とその議会での同盟者は、行政権を完全に把握しようとするニクソンの試みに抵抗することができた。1968年の選挙の2週間前、元大統領のアイゼンハワーは共和党が選挙で勝利することにより、ニクソンに強い国民の信任が与えられ、議会で共和党が多数派を占めることを期待していた。さらにアイゼンハワーはその結果、ニクソンが連邦政府の権力構造を変え、州と地元当局により多くの責任を負わせるようにすることを期待していた[xix]。しかし、1972年の大統領選挙におけるニクソンの地滑り的な勝利にも拘わらず、共和党は上下両院でも各州の議会でも影響力を失い続けた。

 議会を主導する指導者になるために必要な議会の支持を欠いていたニクソンは管理大統領制度をさらに進めることにした。2期目の初期にニクソンは官僚制度の再編に乗り出した。人員を大規模に変更し、大統領に忠誠を誓った者を省庁に送り込み、官僚制度を主導するリーダーシップをすべての政策を実行する4人の長官から構成される「超閣僚」に統合した。「超長官」の1人がキッシンジャーであり、国家安全保障問題担当補佐官に在職しながら国務長官も務めた。ニクソンに直属する形でキッシンジャーは非公式に、そして公式にも外交政策の形成に責任を担うようになった。 

 ニクソンの大統領の権限の領域を拡大しようとする試みと政策目標を単独で達成しようとする試みは、前例のない権力の簒奪だと見なされ、最終的に1974年にニクソンを辞任に追いやったウォーターゲート事件の原因となった。大統領個人の選挙運動組織である大統領再選委員会の問題性、特に民主党全国委員会の事務所の電話を盗聴する試みと、それに引き続く大統領と側近による侵入計画を隠匿しようとする試みはニクソン政権に致命的な打撃を与えた。ニクソンの選挙運動における政党組織からの大統領再選委員会の独立性は、全国委員会の責任に対する大統領の優越性を示していた。

 歴史家は、政治的秩序を保つためには大統領の首位権が必要であったが、それは大統領の至上権に変わったと指摘する。そして、立憲的大統領制度は「帝王的大統領制度」に変化したと非難する[xx]。しかし、近代的大統領制度は決して帝王的ではなかった。近代的大統領制度の権力の源泉は、議会、官僚制度、そして裁判所が行政府に責任を委託した同意に依存している。ジョンソンが退任するまで、政治的状況は強力な大統領のリーダーシップの支えとはあまりならなかった。ニクソンは大統領と議会、政党、そしてアメリカ国民を結び付ける絆をさらに弱めることで大統領の単独的な権限の行使に対する反感を強めた。

 それ以上にニクソンと議会の悪化した関係はニクソンの凋落をもたらした。議会からニュー・フェデラリズムやヴェトナム政策に対する支持を得られなかったことで、ニクソンは大統領の権限を広義に解釈して自らの政策を推進しようとしたが、それは議会との関係を悪化させただけであった。最高司令官としてカンボジアを爆撃し、侵略する権限をニクソンは行使したが、それは議会の強い反対を引き起こした。議会は1974年通商法にジャクソン=ヴァニク修正条項を加えることでニクソンの対ソ連外交に制限を課した。ジャクソン=ヴァニク修正条項は、イスラエルへの移住を希望するユダヤ系市民に対する出国制限を解除しない限り、ソ連に最恵国待遇を与えないという規定である。ソ連は修正条項を内政干渉と非難し、アメリカとの通商条約を廃棄した。

ニクソンは議会によって割り当てられた予算を執行留保する権限を全面的に行使した。予算の執行留保は大統領の伝統的な権限であった。1941年、フランクリン・ローズヴェルトは戦争遂行上の理由から公共施設建設に指定された予算の執行を拒んだ。リンドン・ジョンソンもインフレの抑制のために50億ドルにのぼる予算の執行を延期した[xxi]。ニクソンの予算の執行留保は、従来のように経済性、もしくは効率性の問題に対処するために使われたのではなく、民主党が支配する議会が法制化した政策を無視するために使われた。ニクソンは予算を審議する議会の権限に挑戦した。行政予算管理局の副局長であるキャスパー・ワインバーガー(Casper Weinberger)は、上院で議会は予算を割り当てる権限を持っているが、それは自由裁量の余地があり本質的に強制的なものではないと主張した[xxii]

  ニクソンは反対する政策を悉く挫折させるために予算の執行留保を行使した。例えば、ジョンソンの貧困に対する戦いの基盤であり偉大なる社会の象徴である経済機会局は予算の執行を留保された。議会は経済機会局を存続させるために予算を割り当てたが、ニクソンはハワード・フィリップス(Howard Phillips)臨時局長に解散命令を出させた。同時にニクソンは、上院によって指名が拒否されると分かっていたのでフィリップスを局長に指名することを拒んだ[xxiii]。ニクソン政権の経済機会局に対する攻撃は政策的な予算の執行留保であり、議会によって可決された法を無視するものであった[xxiv]

  したがって、ウォーターゲート事件があってもなくてもニクソンと議会の間には戦いがあった。議会が大統領を罷免するという異常な措置をとろうとしたのは、ニクソンが議会の支持を得ることに失敗し、繰り返し議会を出し抜こうとしたことに一部の原因がある。

  197489日にニクソンが辞任せざるを得なくなったウォーターゲート事件は、不信と失望に満ちた政治的状況を生み出し、政府が基盤とすべき公的信用が損なわれた。民主党の全国委員会への侵入は「鉛管工」と呼ばれるホワイト・ハウスの秘密の諜報団の構成員である5人によって行われた。鉛管工はもともとニクソン政権のヴェトナム政策を損ねる情報漏洩を防ぐために組織された。しかしながら1972年、鉛管工の活動はニクソンの選挙運動と関連する情報収集に拡大された。617日、民主党の電話から盗聴を行おうとしていた5人の男が民主党の全国委員会があるウォーターゲート・ホテルで逮捕された。

 ウォーターゲート事件をただの侵入事件以上の事件にしたのは、その近代的大統領制度との緊密な関連性である。ニクソンと側近によって認可された不当行為は大統領を孤立させる傾向を加速させた。大統領はホワイト・ハウスから政府を運営する自信を持つようになり、政治的資本を少数の忠誠を誓った者のみに分け与えるようになった。

 ジョン・ミッチェル(John Mitchell)と数人のホワイト・ハウス補佐官が加わっていた侵入計画とその他の政治的工作、そして、ウォーターゲート事件で逮捕者が出た後の大統領やその他の者による連邦捜査局の捜査と司法省の告発に対する介入は近代的大統領制度の行政権の正道を踏み外した濫用であった。そうした多くの権限は戦時に由来するものだが、ニクソン政権の擁護手段は、危機的な世界の中でアメリカの安全保障が脅かされていると主張することであった。ニクソンは、ホワイト・ハウスのテープ記録を提出するように大統領に求める召喚令状を出したアーチボルド・コックス(Archibald Cox)特別検察官を罷免する決定を、コックスの攻撃的な調査を黙認することは、ソ連の指導者やその他の外国の指導者に大統領が弱い立場であるように思わせてしまうと論じて正当化した[xxv]

  ニクソンは絶対的な行政特権に基づいて、19731020日、コックスを罷免した。それは「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれた。ニクソンはコックスを罷免するように司法長官に求めた。司法長官はニクソンの要請に従わず辞任した。さらに司法次官補もニクソンの要請に従わなかったために罷免された。最終的にコックスの罷免は訴訟局長によって行われた。またニクソンは、上院の調査委員会、ウォーターゲート事件の起訴陪審、そして下院司法委員会の要求に対して行政特権を主張した。確かにこれまで歴代大統領は行政特権を常に主張してきた。歴史的に、大統領の秘密の討議や文書は他の府からの検査の対象外とされ、例えば大統領の罷免に比べれば憲法上も特に争点はなかった。しかし、ニクソンは行政特権には制限がないと主張した最初の大統領になった。そうすることでニクソンは権力の座に留まるために、自らの政治的利益と正当な国家の安全保障上の利益を混同した。

 コックスの罷免は抗議の嵐を巻き起こし、ニクソンはレオン・ジャウォルスキー(Leon Jaworski)を新たな特別検察官に任命させざるを得なくなった。ジャウォルスキーには、コックスと同様に、検察官が求める証拠を与えようとしない大統領の試みに対抗するために裁判に訴える特別な権限が与えられた。1974416日、ジャウォルスキーは、ホワイト・ハウスに関するテープと文書を証拠として提出するようにニクソンに求めた。ジャウォルスキーは、そうした証拠が、ウォーターゲートの起訴陪審によって合衆国を騙し、司法妨害を行おうと策略した罪で起訴された大統領の関係者を裁くために必要であると考えていた。またジャウォルスキーはホワイト・ハウスのテープが、ニクソンが最初からウォーターゲート事件に関与していたのか、それとも侵入が行われた後の隠蔽工作に関与したのか、もしくはその両方かを明らかにすると期待していた。

 ジャウォルスキーの行動とニクソンの拒絶によって引き起こされた論争は最終的に最高裁によって解決された。合衆国対ニクソン事件で最高裁は、大統領は絶対的な行政特権、特に特権がいつ適切に適用されるかを決定する排他的権利を持つというニクソンの主張を否定した。1974724日、最高裁は全会一致で、憲法第2条の大統領権限を刑法の執行に不可欠な召喚令状に対抗する絶対的な行政特権を与えるものとして解釈することは、政府の憲法上の均衡を覆すという判決を下した。

 最高裁は、ある種の行政特権は政府を運営するために必要不可欠であり、憲法の下の権力の分立に根差している点についてはニクソンに同意した。これは最高裁が公式に大統領の行政特権を支持した事例である。しかし、最高裁は、行政特権は国家安全保障に何の問題も引き起こさないのであれば刑法訴訟に対しても行使し得るというニクソンの主張を斥けた。その代わりに最高裁は、大統領の権限要求は議会と裁判所の権限と義務と均衡を保たなければならないというロバート・ジャクソン判事の見解を支持した。ヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対ソーヤー事件の先例に基づいてウォレン・バーガー(Warren Burger)最高裁長官は、刑事訴訟で使用するために提出するように求められた証拠に関して行政特権を主張する根拠が、機密性という一般的な利益のみに基づいている場合、刑事訴訟の公正な進行において法の適切な手続きの基本的な要求を拒むことはできないと結論付けた。

 最高裁の判決に引き続いて下院司法委員会が197484日にニクソンを弾劾することを決定した直後にニクソン政権は終わりを迎えた。、ニクソンがテープの中にはウォーターゲート事件の隠蔽工作に大統領が関与している内容が含まれていると認めた時に、上院の審判を切り抜けられる見込みはほとんどなくなった。下院司法委員会の共和党の大統領の支持者でさえ、ニクソンが事実上、司法妨害を告白したと認めた[xxvi]88日、ニクソンは国民に向けた演説の中で、翌日に辞任する決意を伝えた。

「ウォーターゲート事件の長く困難な時期、私は、耐えること、できる限りあなた方が私を選んだ職務の私の任期をまっとうするように試みることが義務であると感じていた。しかしながらここ23日、私は、そうした試みを続けることを議会で正当化する十分に強い政治的基盤もはや持っていないということが明らかになった」[xxvii]

ニクソンの任期は個人的破滅として終わった。さらに悪いことに、ニクソンは大統領制度自体を疑心と嘲笑の対象とした[xxviii]。既にジョンソン政権期から損なわれつつあったが、ウォーターゲート事件は、アメリカ政治において強力な大統領のリーダーシップが人民の利益を体現するという見解の一致を崩壊させた。ウォーターゲート事件によって大統領の権威は地に落ちた。1959年に大統領と議会のどちらが政府において発言力を持っているかと質問すると61パーセントのアメリカ人が、大統領のほうが政治において発言力を持っていると答えた。議会のほう政府において発言力を持っていると答えたのは17パーセントであった。1977年に行われた同様の調査では、58パーセントのアメリカ人が、議会が政府において発言力を持つべきだと答えた。大統領のほうが政府において発言力を持つべきだと答えた者は26パーセントであった[xxix]

  こうした世論の変化に力を得て議会は大統領の権限を抑制する一連の法案を可決した。大統領権限の単独的な行使を制限する最も重要な法は、議会予算及び執行留保統制法である。同法は大統領に執行留保を行う前に議会の承認を得るように求め、立法府の財政への関与を強化するために上下両院に予算委員会を設立した。また同法によって、議会予算局が設立され、行政管理予算局が行政府に提供するような財政問題に関する専門知識を議会も利用できるようにした。さらに議会は行政管理予算局を改変した。行政管理予算局は55年間、純粋に大統領の機関であったが、局長と次長の任命に上院の同意が必要となった。

 議会は外交政策に対する影響力も取り戻そうとした。1972年、議会はケース法を可決した。同法は、大統領が個人的外交を行う傾向を抑制することを目的とし、外国政府とのすべての行政協定を議会に報告することを求めた。また19736月、議会はケース=チャーチ修正を可決した。同修正は、東南アジアでのさらなる軍事作戦に対するすべての予算を削減すると規定している。予算を掌握する議会の権限が大統領の戦争権限を抑制する効果があることが示された。しかし、ケース=チャーチ修正が成立したのはアメリカ軍がヴェトナムから完全に撤退した後であり実効性は低かった。

さらに議会は1973117日にニクソンの拒否権を覆して戦争権限決議を成立させた。同決議は、ヴェトナム戦争のような大統領が議会から正式に権限を得ることなく長期にわたって続行させる戦争を再び起こさないようにするために制定された。議会は、トンキン湾決議によって、大統領に敵の侵略行為を撃退するために必要なすべての措置を取ることを認めていた。ジョンソンはトンキン湾決議を根拠にしてヴェトナム戦争を泥沼化させ、ニクソンはラオス、カンボジアを秘密裡に侵攻した。議会は大統領の戦争権限の拡大適用を批判し、何らかの抑制策を講じる必要があると考えた。議会の同意なしに大統領が軍事介入を行う法案が何度も提出され、その度に大統領の拒否権によって廃案となっていた。197310月、議会は大統領の戦争権限を抑制する決議を可決した。上院の決議と下院の決議の相違は、宣戦布告が行われない場合に大統領が軍隊を撤退させなければならない日限を前者は30日以内、後者は120日以内とする点にあった。両院協議会で日限を60日以内とする折衷案が成立した。ニクソンは、アメリカの危機管理能力を損なうとして決議に拒否権を行使した。しかし、議会は決議をニクソンの拒否権を覆して再可決した。

戦争権限決議は、最高司令官として大統領が軍隊を投入する憲法上の権限は、宣戦布告、特定の法による授権、あるいは合衆国の領土や軍隊に対する攻撃によって生じた国家非常事態でのみ行使できると限定した。大統領は、軍隊を投入する場合、事前に議会とできる限り相談し、軍隊を撤退させるまで議会と定期的に協議しなければならない。補給、補充、修理、または訓練で展開させる場合を除き、軍隊を外国で展開するか、既に外国に配置されている軍隊を著しく増強する場合は、いかなる場合でも議会に、軍隊投入を必要とする状況、その憲法上、法律上の根拠、そして軍事行動の規模及び期間の予測に関する報告を48時間以内に提出するように大統領に求めた。また同法は、もし議会が宣戦布告を行う場合、軍隊の展開を続行する権限を認める場合、あるいは議会が武力攻撃によって開会できなくなった場合を除いて、60日以内に、もしくは撤退の安全を確保するために大統領が延長の必要性を書面で議会に立証した場合、90日以内に軍隊を撤退させることを求めた。それにも拘わらず、合衆国の領土内、外国で宣戦布告、あるいは特別の法による授権なしに戦闘行為に投入されている軍隊があった場合、議会の同時決議によって軍隊は撤退させられる[xxx]。ニクソンは同決議が、違憲であるだけではなく、国際的な危機に対応する国家の能力を損なうと主張して強く反対した。しかし、大統領による海外派兵は戦争権限決議が成立した後も、宣戦布告なき戦争として以前と変わらない頻度で行われた。軍隊をいつどこに派遣するか決定する権限は相変わらず大統領の手中にあった。

 しかし、こうした決議は近代的大統領制度を厳しく規制するものではなかった。人民の世話役としての大統領制度は、分断された政府と多様な政治的関係という現実を受け入れるために立法府と行政府の協調体制に取って代わられた[xxxi]。議会は国家を統治するうえで大統領と対等の提携者としての地位を取り戻そうとした。議会の議事進行はより積極的な議会を生み出すために改定された。20世紀初頭以来、議会の権限は分散化していた。常設委員会の権限は急速にその数を増した小委員会に移っていた。小委員会の勃興は、立法と行政における近代的大統領の優位性に対する挑戦であった。小委員会を通して新しい計画が発案され、古い計画が改訂されるようになり、大統領の立法者の長としての地位が脅かされた。議会は大統領に何かをすることを命じる曖昧な法を可決する必要はなくなった。今や議会は大統領の計画と詳細な法を作ることができるようになった。そして、小委員会は行政官が法の条文のみならず法の精神にまで注意を及ぼすように監督するために公聴会を開いた。

 ニクソンの辞任の本当の悲劇は、国家が大統領のリーダーシップを必要としている時に行われた国際的、国内的業績が覆い隠されてしまったことである。ニクソンは積極的な国内政策の推進者であったが、活気の無いイメージと個人的な短所によって、政治制度が求めていたような国を癒す能力には恵まれていなかった。しかし、ニクソンは、増大する社会保障給付を確保し、大部分の共和党員とは違って、失業者、インフレ、投資の不足を補うために財政赤字を擁護した[xxxii]



[i] George E. Reedy, The Twilight of the Presidency (New American Library, 1970), xv.

[ii] Michael Nelson, ed., The Evolving Presidency: Addresses, Cases, Eassy, Letters, Reports, Resolutions, Transcripts, and Other Landmark Documents, 1787-1998 (CQ Press, 1999), 177-183.

[iii] Richard Nixon, RN: The Memoirs of Richard Nixon (Warner, 1978), 1:440-441.

[iv] 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)92

[v] Richard P. Nathan, The Administrative Presidency (Wiley, 1983), 27.

[vi] Richard P. Nathan, The Plot That Failed: Nixon and the Administrative Presidency (Wiley, 1975), 45.

[vii] Kenneth R. Mayer, With the Stroke of a Pen: Executive Orders and Presidential Power (Princeton University Press, 2001), 204.

[viii] Phone call from Richard Nixon to Neil Armstrong and Edwin “Buzz” Aldrin, July 21, 1969.

[ix] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 91.

[x] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 95-96.

[xi] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)7:136-137

[xii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)7:164-166

[xiii] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 62-63.

[xiv] Shirley Anne Warshaw, Powersharing: White House-Cabinet Relations in the Modern Presidency (Suny Press, 1996), 47-49.

[xv] Larry Berman, Office of Management and Budget (Princeton University Press, 1979), 116.

[xvi] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 140-141.

[xvii] John Tebbel and Sarah Miles Watts, The Press and the Presidency: From George Washington to Ronald Reagan (Oxford University Press, 1985), 504.

[xviii] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 296-297.

[xix] Stephen E. Ambrose, Eisenhower the President (Simon and Schuster, 1984), 10.

[xx] Arthur M. Schlesinger, Jr., The Imperial Presidency (Popular Library, 1973), 10.

[xxi] 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)111

[xxii] Andrew Rudalevige, The New Imperial Presidency (University of Michigan Press, 2005), 89.

[xxiii] Larry Berman, New American Presidency (Little Brown, 1987), 263.

[xxiv] Andrew Rudalevige, The New Imperial Presidency (University of Michigan Press, 2005), 90.

[xxv] James Reichley, Conservatives in an Age of Change (The Brookings Institution, 1981), 259.

[xxvi] William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 3:2274.

[xxvii] William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 3:2275.

[xxviii] Alonzo L. Hamby, Liberalism and Its Challengers: From FDR to Bush (Oxoford University Press, 1992), 338.

[xxix] James MacGregor Burns, J. W. Peltason, and Thomas Cronin, Government by the People (Prentice Hall, 1981), 359.

[xxx] Michael Nelson, ed., The Evolving Presidency: Addresses, Cases, Eassy, Letters, Reports, Resolutions, Transcripts, and Other Landmark Documents, 1787-1998 (CQ Press, 1999), 184-190.

[xxxi] Keith E. Whittington, Constitutional Construction: Divided Powers and Constitutional Meaning (Harvard University Press, 1999), 206.

[xxxii] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 359.

リチャード・ニクソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究