陸軍長官ジェファソン・デーヴィス


 ジェファソン・デーヴィス(1808.6.3-1889.12.6)は、ケンタッキー州クリスチャン郡に父サミュエル・デーヴィスと母ジェーンの10番目の子として生まれた。デーヴィスの生年については1807年説と1808年説の2つの説がある。父サミュエルは数人の奴隷を持つ程度の決して豊かとは言えない農夫であった。
 1823年、デーヴィスはトランシルヴァニア大学に進学し、1年間学んだ。翌年、父サミュエルが亡くなったが、代わりに長兄ジョセフの支援を得てウェスト・ポイントの陸軍士官学校に入学することができた。
 卒業後、デーヴィスはイリノイとウィスコンシン北部に派遣された。1832年のブラック・ホーク戦争では、捕えられたソーク族Saukの長ブラック・ホークを護送する任務を果たした。
 1835年に陸軍を退役し、デーヴィスは長兄ジョゼフの支援を受けて農園の運営を始めた。農園の運営は順調であったが、1845年に連邦下院議員に当選したデーヴィスは政治家としての一歩を踏み出した。しかし、翌年、米墨戦争が勃発するとデーヴィスは、下院議員を辞してミシシッピ義勇兵の第1連隊を率いてメキシコに出征した。テイラー将軍の指揮下でモンテレー攻撃に加わり、1847年2月に起きたブエナ・ヴィスタの戦いでは、アメリカ軍を敗北から救って名声を得た。
 退役後、デーヴィスは連邦上院議員に選ばれた。南部選出の上院議員としてデーヴィスは、奴隷制を擁護し、積極的に南部諸州の権利を守ろうとした。また1850年の妥協に強く反対した。南部諸州の州権擁護派の急先鋒として、デーヴィスは次第に知られるようになった。
 1851年、デーヴィスはミシシッピ州知事選挙に出馬したが敗北した。その後、農園主の生活に一旦戻ったが、1853年に陸軍長官の任命を受けた。
 陸軍長官としてデーヴィスはアメリカ陸軍の改革を行った。功績に基づく昇進制度を整え、教練制度を改善した。また陸軍の規模を拡大するだけではなく、兵器庫や要塞も拡充した。さらに燧発式マスケット銃から後装式ライフル銃へ兵装の転換を進めた。他にもデーヴィスは大陸横断鉄道の建設を唱えた。建設計画の一環としてガズデン購入(アリゾナ州・ニューメキシコ州両州の南部にあたる地域をメキシコから購入)を推進しただけではなく、探検隊を送ってその実現性も詳細に検討した。カンザス=ネブラスカ法制定の際には、スティーヴン・ダグラスと大統領の会合を取り持ち、同法成立に貢献した。
 陸軍長官を務めた後、デーヴィスは上院に戻り、南部の州権擁護を再開した。1860年12月にクリッテンデン妥協案が提示された際、デーヴィスは上院の13人委員会の一員として和解を目指したが、結局、その努力は実らなかった。1861年1月21日、ミシシッピ州の連邦脱退により連邦上院議員の職を失った。
 1861年2月に南部連合が形成されると、デーヴィスは南部連合臨時大統領に任命された。アメリカ連合国の大統領としてデーヴィスは中央政府の権限を強め、国内の不満を抑えながら戦争を遂行した。しかし、1865年にアメリカ連合国が終焉を迎えると、逮捕され収監された。1867年5月13日に釈放された後、保険会社の経営やイギリスとの交易を手がけたがあまりうまくいかなかった。そして、ミシシッピに隠棲して『連合政府の盛衰』を執筆した。その著作の中でデーヴィスは、南部の正当性を強く主張した。ミシシッピ州はデーヴィスを連邦上院議員に指名しようとしたが、デーヴィスはそれを断っている。1889年12月6日、ニュー・オーリンズで肺炎に罹り亡くなった。