子供


3男1女
ジョージ・ワシントン・アダムズ
 ジョージ・ワシントン・アダムズ(1801.4.13-1829.4.30)はベルリンで生まれた。祖父ジョン・アダムズは「ジョージはダイヤモンドの宝庫だ。彼は何にでも等しく才能を持っているが、その他の才能が最も慎重な管理が必要なように、才能が偏らないように気をつけなければならない」と評している。祖父からも父からも将来、同じく国政に携わるものとして将来を嘱望された。それだけに父の薫陶は厳しかった。ジョン・クインシーは「息子達は彼らの栄誉だけではなく先の2世代の栄誉も維持しなければならない」と語っている。
 ジョージは家庭教師の教えを受けて、祖父と父と同じくハーヴァード大学に進学した。ジョージ自身は詩や文学に関心を抱いていたが、父はそれを全く認めようとしなかった。大学では若き日のラルフ・エマソンを破ってボイルストン賞を得たり、学生暴動に関与したり活発な学生生活を送った。1821年にハーヴァード大学を卒業したジョージは、ボストンのダニエル・ウェブスターの下で法律を学んだ。そして1824年、マサチューセッツの法曹界に入った。ジョージの絶頂期は1826年にマサチューセッツ州議会議員に選ばれた時であった。
 ジョージは父がいるホワイト・ハウスを度々訪問している。その際にホワイト・ハウスで被後見人として暮らしていた親類のメアリ・ヘレンに好意を持ち、父の許しを得て婚約に至った。その際に弁護士業に4,5年は専念する約束を交わしたので、ジョージはボストンで仕事に励んだ。しかし、ジョージが不在の間に、メアリはジョージの弟ジョン・アダムズ2世と結婚するために婚約を破棄した。それ以後、ジョージは全く意欲を失ってしまい、仕事を怠り始めた。その結果、莫大な負債を抱えたばかりではなく、酒に溺れるようになった。ジョン・クインシーは息子の負債を生産する一方でアルコールやタバコ、その他の不道徳を止めるように促したが返事を得ることはできなかった。ジョン・クインシーにとって「我が息子ジョージに関することが最も耐え難い悩み」であった。
 1829年、ワシントンを訪問した帰途、ジョージは汽船に乗った。精神を病んでいたジョージは船上で自分のことを監視する人々の声が聞こえると語ったという。4月30日午前3時頃、ジョージは船長に船を停泊させて自分を下船させるように要求した。その後、ジョージの姿が見えなくなった。行方不明になったジョージは暫くしてからニュー・ヨーク州のシティ島で死体になって見つかった。発作的に船から飛び降りたと推定されている。
 死後、ジョージが婚外子をもうけ二重生活を送っていたことが分かった。近隣では知られていたことであったが、アダムズ家にとっては驚きであった。これに目を付けた者が、事実を公表しない代わりにお金を渡すように恐喝した。ジョージの弟チャールズ・フランシスが一家を代表して要求を拒絶したので、暴露を目的にしたパンフレットが公表されてしまった。母ルイーザは息子がアダムズ家の政治的野心の犠牲になったと常々思っていたという。
ジョン・アダムズ2世
 次男ジョン・アダムズ(1803.7.4-1834.10.23)はクインシーで生まれた。家族とともにイギリスに渡った後、1817年に帰国してハーヴァード大学に進学する準備を始めた。1819年、ハーヴァード大学に入学したが成績は平均よりも下であった。そのためジョン・クインシーは「お前の成績に悲しみと恥以外に私は感じられない」と叱責し、クリスマス休暇に実家に帰る許可を息子に与えなかった。叱責を受けてジョン・アダムズ2世は平均以上に順位を上げたがそれでも父を満足させることはできなかった。ジョン・クインシーは息子に、5位かそれ以上の成績をおさめなければ、卒業式に出席するつもりはないと伝えた。しかし、卒業直前の1823年、学生暴動に関与した咎で他の学生とともに放校処分になった。
 大学を去ったジョン・アダムズ2世はホワイト・ハウスで父の秘書として働き始めた。その際に、議会の予算で購入するホワイト・ハウスの家具リストに誤ってビリヤード台を入れるという失態を犯している。当時、ビリヤードは賭博を連想させるものであり、不道徳なものだと思われていた。それ故、敵対する新聞から厳しい非難を受けている。
 1828年2月25日、親類のメアリ・ヘレンとホワイト・ハウスで結婚した。新婚生活もホワイト・ハウスで送り、子供にも恵まれた。しかし、その平穏も長くは続かなかった。
 1828年の大晦日に行われた式典で、大統領がラッセル・ジャーヴィスを侮辱したことがきっかけで決闘騒ぎが起きた。大統領に対して決闘を挑むことはできないとしてジャーヴィスはジョン・アダムズ2世に代わりに決闘を申し込んだ。決闘の申し込みを無視されたジャーヴィスは、連邦議会議事堂でジョン・アダムズ2世の行く手を遮り、鼻を引っ張ったうえに顔を叩いた。いわゆる「鼻引っ張り事件nose-pulling incident」である。下院は事件の調査を行い、ジャーヴィスに対する非難を発表したが処罰はしなかった。
 その後、ジョン・アダムズ2世は一家が所有する製粉所の経営に従事した。しかし、この事業が破綻したいせいでジョン・アダムズ2世は酒に溺れるようになった。健康を害したジョン・アダムズ2世は1834年にワシントンで亡くなった。ルイーザは長男ジョージの時と同じく、次男もアダムズ家の政治的野心の犠牲になったと夫を非難した。
 ちなみにジョン・アダムズ2世の長女メアリは、又従兄弟のウィリアム・クラークソン・ジョンソンと1853年6月30日に結婚した。これは判明している限りでは、2人の大統領の子孫同士が結婚した最初の例である。つまり、新婦メアリはジョン・アダムズの曾孫であると同時にジョン・クインシー・アダムズの孫娘にあたり、新郎ウィリアムはジョン・アダムズの曾孫にあたるからである。
チャールズ・フランシス・アダムズ
 チャールズ・フランシス・アダムズ(1807.8.18-1886.10.21)はボストンで生まれた。そして、幼少時に家族とともにロシアとイギリスを訪れ、流暢なフランス語を覚えた。1815年には母とともに、ナポレオンの凋落で混乱する中をロシアからおパリまで移動している。イギリスやボストンで学校に通った後、ハーヴァード大学に入学した。1825年に同校を卒業した後、長兄と同じくダニエル・ウェブスターの下で法律を学んだが弁護士の道に進まなかった。
 1829年9月3日、チャールズは富裕なボストン市民の娘アビゲイル・ブルックスと結婚した。結婚を機に執筆業や編集業に専念した。『ジョン・アダムズ著作集』と『ジョン・クインシー・アダムズ回想録』などの編著にも携わっている。奴隷制の急進的な廃止論者であり、ボストンの公共交通機関における人種差別撤廃を支援した。1837年には『通貨の現況に関する考察』を発表した。
 1840年から1845年にかけて、チャールズはマサチューセッツ州議会議員として活躍し、奴隷制廃止運動の急先鋒として頭角を現した。さらに1848年、民主党から分裂した自由土地党の副大統領候補に指名された。しかし、自由土地党の大統領候補となった元大統領ヴァン・ビューレンがザカリー・テイラーに敗北したために、チャールズの副大統領就任はかなわなかった。
 1858年、今度は連邦下院議員に当選したが、チャールズは奴隷制廃止論について沈黙を守り、「寡黙なチャールズ」という渾名を付けられた。下院議員を務めた後、1861年から1868年にかけて祖父と父と同じくイギリス公使として活躍し、トレント号事件やアラバマ要求など諸問題を解決し、南北戦争中にイギリスが南部を支持しようとする動きを阻止した。
 帰国後、1872年と1876年の2度にわたって共和党の大統領候補として有力視されたが、指名を獲得することはできなかった。政界から引退したチャールズは1886年、ボストンで亡くなった。
ルイーザ・キャサリン・アダムズ
 サンクト・ペテルスブルクで生まれた長女ルイーザ(1811-1812)は夭折した。

脈々と続く血筋
ジョン・クインシー・アダムズ2世
 孫ジョン・クインシー(1833.9.22-1894.8.14)は、南北戦争に従軍して大佐となった。マサチューセッツ州議会議員を務め、小政党の副大統領候補指名を受けた。知事選挙に何度も出馬したが当選することはできなかった。
チャールズ・フランシス・アダムズ・ジュニア
 孫チャールズ・フランシス・ジュニア.(1835.5.27-1915.3.20)は、南北戦争に従軍して中佐に昇進した。また志願兵部隊の名誉進級准将になった。ユニオン・パシフィック鉄道の社長となっただけではなく、歴史家としても名を残した。マサチューセッツ州の鉄道委員会を組織した。チャールズ・フランシス・ジュニアが組織した鉄道委員会は、各種規制委員会の模範となった。1884年にユニオン・パシフィック鉄道の社長に就任した。その後、郷里に帰って教育改革に尽力した。
主著に『政治における個人主義』、『チャールズ・フランシス・アダムズの生涯』などがある。
ヘンリー・ブルックス・アダムズ 
 孫ヘンリー(1838.2.16-1918.3.27)も『ヘンリー・アダムズの教育』、『ジェファソン・マディソン政権期の合衆国史』などを著し、文筆家・歴史家として名を残している。また明治期の日本を訪れたことでも知られている。
ピーター・シャードン・ブルックス・アダムズ
 同じく孫ブルックス(1848.6.24-1927.2.13)は、優れた歴史家として、抑制なき資本主義の害悪を批判し、アメリカの凋落を予見した。また1950年までにはアメリカとソ連が世界の二大強国になると早くから指摘している。主著に『文明と腐敗の法則』、『アメリカの経済的優位』、『社会革命理論』などがある。こうした著作はセオドア・ローズヴェルト大統領の目にとまり、アダムズは顧問として重用された。アダムズはローズヴェルトに、帝国主義的拡張主義と国内の実業界に対する規制を提言した。
チャールズ・フランシス・アダムズ3世 
 さらに曾孫(ジョン・クインシー・アダムズ2世の3男)チャールズ・フランシス3世(1866.8.2-1954.6.10)は、フーヴァー政権で1929年から1933年にかけて海軍長官を務め、1930年のロンドン海軍軍縮会議の成功に貢献した。

ジョン・クインシー・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究