家庭環境


厳格な薫陶
 ジョン・クインシー・アダムズは父ジョンが留守にしている間、幼いながらも家を守った。家族の手紙を受け取るためにブレインツリーとボストンの間を馬で度々往復していたという。
 1775年6月17日、当時7才のジョン・クインシー・アダムズは母とともにバンカー・ヒルの戦いを遠望している。この時のことを後に「私は自分の目で砲火を見て、バンカー・ヒルの戦でのイギリス軍の雷鳴のような音を聞きました。そして、私の母の涙を見ましたが、それは私自身の涙と交じり合いました」と回想している。翌年のアメリカ軍によるボストン攻撃も体験している。父ジョン・アダムズは長男ジョン・クインシー・アダムズを厳しく薫陶している。それは9歳の時に父のジョン・アダムズに送ったジョン・クインシー少年の次のような手紙からも分かる。

「拝啓。お手紙を書くよりも受け取るほうがよいのです。僕は文法が駄目です。僕の頭は飽きっぽいのです。僕の思いは自分で自分が腹立たしくなるくらい鳥の卵や、遊びやくだらないことばかり追っています。ママは僕を勉強させようと大変な課題ばかり出します。実は自分のことが恥ずかしいと僕は思っています。スモレット(イギリスの作家)の第3巻に入ったばかりですが、本当は半分ばかり終わっているはずだったのです。今週はもっと頑張ろうと決めました。サクスター先生は法廷に出ていてお留守です。今週きちんとやる分を決めました。第3巻きを半分以上読もうと思います。もし僕が決意を保つことができたら、また週末に僕のことについてお話したいと思います。どうか僕に時間の使い方について何か指示して下さい。さらに勉強と遊びの割合をどうするか助言して下さい。僕はできるだけそれを守りますし従おうと思います。決意はだんだん強くなっています。親愛なるお父様へ。あなたの息子より」

 後に自らの日記で「私は控え目で余所余所しく、謹厳で近寄り難い人間である」と記しているが、こうした性格は父ジョンと共通している点が多い。またピューリタン的な義務感と公職への情熱も父ジョンとよく似ている。

父の赴任に同行

 1778年2月17日、父ジョン・アダムズのヨーロッパ赴任に同行することになり、フランスに向けて出航した。その当時の航海は非常に危険であった。イギリスの戦艦がアメリカ船を拿捕しようと太平洋を哨戒していたからである。同行はジョン・クインシー自らの希望であり、父ジョンはそれについて日記に「ジョニー氏[ジョン・クインシー]のふるまいは、表現できないほどの満足を私に与えた。我々の[航海の]危難を完全に認識しながらも、彼は雄々しい忍耐を持ち、私に気配りしながら、常に真剣な調子の考えをめぐらせながら、それに絶えず耐えようとしていた」と誇らしく記している。
 翌年8月、父とともに郷里に帰った。しかし、父の再度の渡欧に同行することになり、11月14日、フランスに向けて出発した。今度は父だけではなく次弟チャールズも一緒であった。1780年、父と次弟とともにオランダに旅する。
 翌年7月7日から8月27日にかけて、ジョン・クインシー・アダムズは駐露アメリカ公使フランシス・デーナの秘書兼通訳としてサンクト・ペテルブルグまで随行した。当時のロシア皇帝エカテリーナ1世は宮廷でフランス語を使用していたが、デーナはフランス語に堪能ではなかったために通訳を必要としていた。
 1783年4月、ジョン・クインシー・アダムズアダムズは、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、そしてドイツを経て父ジョンが滞在していたオランダのハーグに到着した。8月、父ジョンはベンジャミン・フランクリンとジョン・ジェイが進めていたイギリスとの和平交渉に参加するためにパリに赴いた。その際、ジョン・クインシー・アダムズは父の秘書を務めた。
 さらに9月から10月にかけて父のロンドン行きに同行する。1784年1月、父とともにハーグに向かう。7月、ロンドンで母と姉に再会した。その後、一家でパリ近郊のオートゥイユに住んだ。1785年5月、親元を離れてジョン・クインシーは先に母国に向けて旅立ち、7月に帰着した。

兄弟姉妹
 ジョン・クインシー・アダムズ兄弟姉妹については、ジョン・アダムズの項、子供を参照せよ。

ジョン・クインシー・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究