職業経験


弁護士
 法律の勉強を終えたアダムズは1790年7月15日、マサチューセッツの法曹界に加入にボストンで開業した。しかし、それほど多くの顧客を獲得することはできなかった。アダムズの関心は次第に政治にむくようになった。
1791年、ジョン・クインシー・アダムズの名を上げる事件が起きた。トマス・ペインが『人間の権利』を発行した際に、その前文でジェファソンが父ジョン・アダムズを「政治的異端」と呼んだのである。前文はジェファソンに無断で掲載されたものであったが、両者の間に不和をもたらした。
 ジョン・クインシー・アダムズは「プブリコラPublicola」という筆名で『人間の権利』を批判するだけではなく、その支持者としてジェファソンも名指しで非難した。11篇の論説が6月から7月にかけてコロンビアン・センティネル紙に掲載された。プブリコラは父アダムズであると多くの者が見なしていたが実際はジョン・クインシー・アダムズの手による。
 また「マルケルスMarcellus」という筆名でワシントン政権の中立政策を支持し、さらに「コロンバスColumbus」という筆名で革命フランス政府の駐米公使ジュネを攻撃する論説を発表した。他にも「バルネフェルトBarneveld」という筆名を使っている。

オランダ公使
 1794年5月30日、一連の論説に目を留めたワシントン大統領はジョン・クインシーをオランダ公使に任命した。しかし、ジョン・クインシーの到着から僅か3日後、フランス軍がオランダに侵攻した。その結果、オランダ政府は倒壊した。アダムズはそのままオランダに留まり、ヨーロッパ情勢に関する報告を行なった。
1797年、イギリスとジェイ条約の中立条項を含む通商条約を締結。
 1796年、ワシントン大統領は、さらにアダムズをポルトガル公使に任命した。アダムズがリスボンへ出発する前に父アダムズが大統領に選出された。アダムズ親子は大統領の息子が公使の職を保持することは好ましくないと考えたが、ワシントンはジョン・クインシーを「今、海外にいる中で最も有能な公人」だと評価し、そのまま外交官を続けるように勧めた。父アダムズはワシントンの勧めにしたがって息子を駐普アメリカ公使に任命した。

駐普アメリカ公使
 ベルリンの門に着いた時、「アメリカ合衆国」という国名がその当時はあまり知られていなかったので入市を断られたという。在任中にシュレジエンを旅行し、その様子を記した手紙を「シュレジエンに関する手紙」としてまとめた。ジョン・クインシー・アダムズは駐普アメリカ公使として4年間在職した。

マサチューセッツ州上院議員
 帰国後、アダムズは弁護士業を再開した。しかし、顧客の獲得に苦労したために廃業して西部に移住することも考えた。また著述家か科学者になることも考えた。幸いにもアダムズは連邦党の支持でマサチューセッツ州上院議員に当選することができた。州議会でアダムズは独立独歩の立場をとり、州議会の連邦党の指導者に「全く手が付けられない」と言わしめた。

連邦上院議員
ジェファソン政権を支持
 1802年、アダムズは連邦党の支持で連邦下院議員選挙に出馬した。11月3日、アダムズはボストンでは有利に戦いを進めたが他の地域ではほとんど敗北し、1840票対1899票の僅差で敗れた。民主共和党の候補に敗れた。しかし、翌年、アダムズは州議会の連邦党の支持を得て連邦上院議員に選出された。
 1803年、アダムズは連邦党に属していたが、家族の病気のために表決には間に合わなかったものの、ジェファソン政権のルイジアナ購入への支持を表明した。そして、ルイジアナ購入に関して憲法修正をアダムズは提議したが実現しなかった。11月3日、ルイジアナ購入を実行するための予算を認める法案に賛成票を投じている。連邦党の中で賛成票を投じたのはアダムズの他に1人しかいなかった。多くの連邦党員は、ルイジアナ購入による国土拡大がニュー・イングランドの政治的影響力の相対的低下をもたらすと信じていた。一方でアダムズはルイジアナ購入が最終的には国家全体の強化に繋がると信じていた。
1804年1月10日、アダムズはルイジアナの住民の同意なく課税することに反対する2つの決議を提出したが、いずれも否決された。さらにルイジアナに臨時政府を設立する法案にも反対している。アダムズは、ルイジアナ購入が「憲法の言語道断の侵害によって達成」されるべきではないと考えていたのである。
 1805年、アダムズは輸入された奴隷に関税を課すべきだと提案したが、ほとんど賛同を得ることはできなかった。また1807年、民主共和党がチェサピーク号事件でイギリスを非難する決議を採択すると、断固たる措置を講ずるべきだと考えたアダムズもそれに賛同した。しかし、多くの連邦党員はイギリスとの衝突を避けるべきだと考えていた。
 さらにジェファソン政権が出港禁止法案を上院に上程した時、アダムズは同法案を特別委員会で審議するように提案した。特別委員会の長にアダムズが任命され、最終的に法案成立した。出港禁止法に関してアダムズは、「出港禁止法を引き続き実施することは、当[ニュー・イングランド]地方において必ずや力による直接的な反対行動を生むでしょう。[中略]。もし出港禁止法が州当局の是認を受けてあからさまに破られるならば、連邦政府は軍隊の力を用いてそれを強制するでしょう。しかし、そのようなことは内乱を招くだけです」と述べている。出港禁止はニュー・イングランド諸州の産業に壊滅的な打撃を与えることが容易に想像できた。しかし、出港禁止法がアメリカ全体の利益になると考えたアダムズは党派に縛られることなく支持を惜しまなかったのである。
連邦党を脱退
 マサチューセッツ州の連邦党の指導者達はこうしたアダムズの動きを異端と見なした。それに対してアダムズはジェファソン政権の出港禁止法に対する非難に反証を加え、自己の信念にしたがって投票したことを説明するパンフレットを発表した。1808年5月末、マサチューセッツ州議会は特別会期を開き、アダムズの任期終了まで約9ヶ月も残っているのにも拘らず、後任を選出した。そして、上院議員に対して出港禁止法破棄に賛同することを求める勧告が採択された。こうしたマサチューセッツ州議会の行動をアダムズは著しい侮辱と受け取った。自らの信念を曲げることなく、アダムズは早々に上院議員を退任した。アダムズは民主共和党からの出馬要請も断ったために、連邦党からも民主共和党からも疑念の目で見られ孤立した。
修辞学と弁論術を教授
 1806年、アダムズは母校ハーヴァード大学のボイルストン講座教授に指名され、国政の合間を縫って修辞学と弁論術を教えていた。アダムズの講義は『修辞学と弁論術に関する講義』として1810年に2巻本で出版された。

駐露アメリカ公使
ロシア皇帝との親交
 アダムズは今後、学問の世界に身を置いて公職に就くつもりはなかったが、1809年、マディソン大統領はアダムズを駐露アメリカ公使に就くように説得した。その当時、ナポレオンが発したベルリン勅令を破棄したロシアは、アメリカにとって重要な貿易相手国となっていた。党派の鞍替えにも見えるこの任命は父母からの批判をはじめ多くの非難をかった。また1811年2月にアダムズは連邦最高裁判事に指名され、上院も全会一致でその指名を承認したが、自分が法曹に向いていないと考えて断っている。
 アダムズはロシア皇帝アレクサンドル1世との親睦を深め、いくつかの通商特権を獲得した。アレクサンドル1世をアダムズは古代ローマ帝国で善政を布いた皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスになぞらえている。2人はよく散策をともにし、フランス語で世界情勢を語り合ったという。
 このようにアダムズは外交官として手腕を発揮したが、「我が国や人類に対して際立って有用なことを何もしてこなかった」と自分の人生を嘆いている。
1812年戦争の講和交渉
 1812年9月21日、アダムズはロシアから和平交渉仲介の申し出を受けた。同じ頃、ロンドンではアメリカとイギリスによる直接交渉が物別れに終わったばかりであった。ロシアの和平交渉仲介を機に1813年4月17日、アダムズは、ジェームズ・ベイヤード、アルバート・ギャラティンとともに和平交渉を行なう使節団に指名された。しかし、イギリスが再び直接交渉を望んだために、1814年1月18日、先の3人の再指名に加え、ヘンリー・クレイ、ジョナサン・ラッセルの2人が新たに使節団に指名された。
 8月8日、和平会談は現ベルギーのガンで始まった。和平会談でアダムズは、ニューファウンドランドからラブラドルまでの間の海域における漁業権の確保を強く主張した。その代わりにイギリスにミシシッピ川の航行権拡大を認める案をアダムズは提案したが、それにアメリカ使節団の一員であったヘンリー・クレイが強く反発した。結局、漁業権とミシシッピ川の航行権の問題は交渉から外され、さらに1812年戦争の根本的な要因である強制徴用も解決される見込みはなかった。そのためクレイは条約の締結に反対したが、平和を優先すべきだと考えたアダムズは条約締結を推進した。
 イギリスは非妥協的な姿勢をとったが、最終的には領土割譲要求を取り下げたために、12月24日、両国はようやく講和条約締結に合意した。同条約により、両国は戦時中に占領した領土を返還することが定められたが、強制徴用の問題は未解決に終わった。

イギリス公使
 和平交渉を終えたアダムズはパリに向かった。そして、1815年3月20日、ナポレオンのパリ帰還を目の当たりにし、百日天下Hundred Daysのほとんどの期間、フランスに滞在した。
 1815年5月26日、アダムズはイギリス公使としてロンドンに赴任した。アダムズが着任する前にイギリスとの通商交渉は始まっていた。アダムズは、西インド諸島との貿易が含まれない点について不満を抱いていた。しかし、結局、協定の締結に合意した。
 またアダムズは英領カナダとアメリカの国境線を画定する交渉や五大湖周辺の非武装化に関する交渉を開始している。これらは後の成果に繋がった。

国務長官
就任
 モンロー大統領とアダムズは旧知の仲ではなくそれほど親しい仲ではなかった。しかし、モンローはアダムズが優れた外交官であるだけではなく、自分と見解が似ていることに気が付いていた。さらにアダムズの任命は政治的意味も持っていた。ニュー・イングランドを代表する政治家の1人であるアダムズを国務長官という重要な役職に就けることは北部と南部の政治的均衡をとるうえで有用であった。
 アダムズはモンローと定期的に懇談した。モンローは外交に関する公文書の内容を仔細に確認していた。モンローが大まかな方針を決定し、実務をアダムズが担当するというスタイルは円滑に機能した。
対英交渉
 1818年の米英会議では、ニューファウンドランド沖とマグダレン諸島沖の漁業権が獲得された。その一方、西部の国境問題では同意が成立した。北緯49度線に沿ってミシシッピ川の源流のウッズ湖からロッキー山脈まで西に広げることが認められた。さらにオレゴンの10年間の米英共同管理も約束された。しかし、長い間の懸案であった強制徴用問題に関する進展はなかった。
 1822年、イギリス政府は西インド諸島との貿易について特定の産品に限り直接貿易を認めた。こうした措置は限定的ではあるがアメリカの農産物に対して西インド諸島の市場を開き南部諸州を潤したが、魚類や塩蔵品の間接貿易が認められていなかったためにニュー・イングランド諸州では不評であった。それに対抗するためにアダムズはイギリス船に対する差別関税を据え置いた。交渉はそれ以上進展しなかった。
 アダムズは1821年7月4日の独立記念日演説でも示されているように、イギリスに対して根強い不信感を持っていたことが知られている。
奴隷貿易禁止
 1818年、イギリスはアフリカの奴隷貿易を禁止するために、両国の船舶をお互いに臨検しあう提案をアメリカに行った。大統領の勧めにしたがってアダムズは、イギリスが主催する奴隷貿易に対する国際的取締りへの参加を表明した。アメリカはイギリス軍とともに奴隷貿易の取り締まりにあたったが、イギリスのアメリカ船に対する臨検と捕らえた奴隷商人をアメリカの港以外に送ることを認めなかった。もしイギリスのアメリカ船に対する臨検を認めれば、かねてから懸案であった強制徴用を正当化できる根拠を与える恐れがあったからである。アダムズは、強制徴用を2度と行わないという保障なくして奴隷貿易を取り締まる条約を締結するべきではないと考えていた。
 しかし、1823年2月28日、下院は奴隷貿易を取り締まる条約を締結するように大統領に勧告する決議を採択した。アダムズは奴隷貿易を残虐な行為であり完全な害悪と見なしていたが、強制徴用問題についても強い反感を抱いていた。そのため強制徴用を正当化できる根拠を与える恐れがある奴隷貿易を取り締まる条約の締結に反対していたのである。そこでアダムズは、イギリスに臨検の権利を与えることなく奴隷貿易を取り締まることができる方策を模索した。
 もし奴隷貿易が国際法の下で海賊行為と認められ、さらに海賊行為を国家に対する戦争状態だと考えれば、たとえ海賊がどこの国の旗を掲げていようとも、海賊行為に従事していると疑われる船舶を臨検することは交戦国の権利として認められるとアダムズは考えた。こうした考えの下、イギリスと会議を行うことをアダムズは提案した。アダムズの提案は受け入れられ、1824年3月13日、イギリス公使リチャード・ラッシュがそれをイギリス側に通達した。
 奴隷貿易に関する協定は円滑に進んだ。その結果、主に3つの取り決めがなされた。アフリカの奴隷貿易に従事する両国の国民は海賊として処罰を受けること、両国の海軍は協力して奴隷貿易の取り締まりにあたり、お互いに商船の臨検を許可すること、そして、拿捕した船舶はその本国で裁判を受けるために送還され、いかなる船員もその船舶から離すことを禁じることである。
 この条約の締結は、そもそも下院の決議によって促されたものなので、上院でも容易に承認が得られると予想された。しかし、反奴隷制の風潮が高まることを恐れた南部の議員達は条約内容の修正を求めた。こうした動きについてアダムズは「奴隷貿易取り締まりに対する合衆国とイギリスの一致協力が奴隷廃止への一致協力に変わらないように、[南部の]クロフォードの後援者達が警鐘をならした」と述べている。
フロリダ問題
 ジャクソンのフロリダ侵攻に対して閣僚の中で唯一、アメリカの自衛権に基づいてジャクソンの軍事行動に全面的な支持を与えるべきだとアダムズは主張した。スペインに対してアダムズは、フロリダでの騒乱は現地政府が秩序を維持する力を十分に持っていないことに原因があり、そうした騒乱を防止するのに適切な管理を行なうか、それともフロリダ自体を放棄するか、どちらかを選ぶべきだと迫った。
アダムズ=オニス条約
 アダムズ=オニス条約を締結した。アメリカ人がスペインに対して求めている総額500万ドルの補償を肩代わりし、アメリカとスペインの国境をサビーネ川Sabine Riverと画定することを条件に、スペインはフロリダをアメリカに割譲した。その結果、スペインはオレゴンに対する領土要求を放棄することになった。
ミズーリ問題
 アダムズはミズーリ問題に直接関与していたわけではなかったが、その行く末を気にかけていた。なぜならミズーリ問題は「大きな悲劇の幕開け」になり得る問題だったからである。アダムズが最も恐れていたのはミズーリ問題による連邦の解体であった。そのためアダムズはミズーリ妥協成立を支持し、定められた地域で奴隷制が排除されるであろうと信じていた。
対仏交渉
 ナポレオン戦争時代に拿捕されたアメリカ船舶とその積荷の補償問題、ルイジアナにおけるフランスの通商問題などについてフランスと交渉を行なう。1822年、差別関税の暫時撤廃を取り決めた通商条約を締結。
度量衡の統一
 1817年3月、上院はアダムズに度量衡に関する報告を求めた。それに応じてアダムズは6ヶ月かけて「恐ろしく過酷な課題」をやり遂げ、「度量衡に関する報告」を議会に提出した。その中でアダムズは、恒久的かつ普遍的な基準の採用を勧めている。
モンロー・ドクトリン
 アダムズは、フランスに頼ることなくアメリカが独自の外交路線を示すことで、アメリカが南北アメリカ大陸で一目置くべき国家であることを理解させることが重要な外交指針であると考えていた。
 1823年、フランスをはじめとするヨーロッパ列強が、スペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかという憶測が流れた。アダムズはそうした憶測の一方でロシアの動きを警戒していた。そのため、1823年7月17日、ロシアの領土拡張要求に対して、駐米ロシア公使に、アメリカ大陸におけるロシアの領土権を認めるつもりがないと言明し、「南北アメリカ大陸は、もはやヨーロッパの新たな植民地建設の対象とはならない」と通告した。この主張はモンロー・ドクトリンにも採用された。アダムズにとってアメリカによる北西海岸の領有は「自然の指針」に基づく当然の権利であった。
 その一方でイギリスはアメリカに、植民地の再復を図るスペインに対して植民地の現状維持を呼び掛ける共同声明を出すように求めた。それを知らせる急信が10月9日に届いた。共同声明の問題は11日の閣議で初めて議題にのぼった。モンロー大統領はジェファソンとマディソンに意見を求めた。両者はその利点を認め、不介入政策を放棄し、イギリスと共同歩調をとるように勧めた。
 11月7日、2時間半にわたって論議が交わされた。陸軍長官ジョン・カルフーンは、イギリスと連携すればアメリカの利益は保たれるとして共同声明の発表を支持した。その一方で、アダムズは「イギリスの戦艦の跡を追って小舟に乗る」べきではないと共同声明の発表に反対した。アダムズの考えでは、もし共同宣言を行なえば、アメリカ自身の領土拡張の足枷となるし、またいつの日か、南米全土がアメリカに加入することも夢ではなかった。そのため、アメリカ単独で西半球はこれ以上列強の植民地を許さないと宣言するべきだとアダムズは主張した。また既に1824年の大統領選挙への出馬を考えていたアダムズにとってイギリスとの協調は避けるべき外交方針であった。なぜならアメリカ人の間では依然として1812年戦争の余燼が燻っていて、イギリスに対する反感があったからである。
 閣議の後、アダムズはモンローと2人で話し合った。その場でアダムズは合衆国が直面している重要な問題について立場を明確にすべきだと主張した。モンロー大統領はアダムズの主張に同意した。
 11月21日の閣議で、モンローは、イギリスがスペイン領アメリカ諸国の独立を承認しない限り共同声明を行なわず、アメリカが独自の姿勢を示すべきだと決定した。またフランスによるスペイン介入への反対、ギリシア独立への支持、そして、ヨーロッパ諸国による北アメリカへの新たな植民を拒否することを表明すべきだとモンローは述べた。アダムズは、アメリカはヨーロッパの紛争に関与すべきではないと反対した。さらに翌日、アダムズはモンローと面談し、そうした立場が強硬過ぎて神聖同盟との戦争を引き起こす恐れがあると示唆した。そして、「ヨーロッパ列強が武力によって南アメリカに介入することに反対し、我々の側はヨーロッパに対するすべての干渉を放棄する」べきだと助言した。
 24日、モンローはアダムズに教書の草案を示した。その草案では、アダムズの助言にしたがって、ギリシア独立への支持は穏当な表現に留められ、フランスによるスペイン介入への明確な反対も削除されていた。
 1823年12月2日、モンロー・ドクトリンが公表され、その下で各国との交渉が行なわれた。その結果、北緯54度40分以南の領土主張を取り下げることをロシアに同意させることができたが、イギリスにコロンビア川流域からの撤退を同意させることはできなかった。

ジョン・クインシー・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究