政権の特色と課題


民主共和党の分裂
 下院がアダムズの大統領就任を裁定する以前から、ジャクソンの支持者は、閣僚のポストと引き換えに下院議長のヘンリー・クレイに協力を依頼したという非難を行っていた。そして、アダムズがクレイを国務長官に指名した時、ジャクソンの支持者は「闇取引corrupt bargain」が行なわれた議会で批判した。アダムズ自身は「もし大統領職が、新聞の買収、官職任命という賄賂、もしくは外国との取引などの陰謀や悪巧みで獲得される目標であるとしたならば、私はそうした宝くじに参加する資格など持っていない」と述べている。
 こうして深まった亀裂は修復されることなく、民主共和党は、ヘンリー・クレイが主導する国民共和党とジャクソン率いる後の民主党に分裂した。

ホワイト・ハウス
 ジョン・クインシー・アダムズ大統領はホワイト・ハウスでの生活について次のように記している。
「私は[今よりも]煩わしく、飽き飽きするような、悩ましい生活状態を思い描くことはできない。それは文字通り重荷の生活だ。引退生活がどうなるかは分からないが、あまり良い期待は持てそうにもない。しかし、この絶え間のない忙しなさと気が狂うような心痛に比べれば決して悪くはないだろう」と日記に書いている。

国内開発事業
 1825年12月6日の第1次一般教書でジョン・クインシー・アダムズ大統領は、もし議会が国民一般の利益のために権限を行使しないのであれば「最も神聖なる信頼を裏切っていることになる」と論じている。同書でアダムズは、連邦政府による建設、探査、教育、科学振興、経済を改善する法律の制定などを提案した。この計画には、天体観測所と国立大学の建設が含まれていた。特に天体観測所については当時はまだアメリカには存在せず、最初の天体観測所ができたのは1838年である。
 関税収入や公有地の売却益が道路・運河建設、港湾改良、河川浚渫などにあてられた。また公有地の割り当てや運河会社の株式購入などを通じて連邦政府は運河建設を支援した。中でもジョン・クインシー・アダムズ大統領が喜んだのはチェサピーク=オハイオ運河の建設が始まったことである。アダムズは1828年7月4日に行なわれた起工式に自ら参加している。
 ジョン・クインシー・アダムズ大統領は公有地の売却益を国内開発事業の準備金であると考えていたために、公有地を廉価で払い下げようとしなかった。しかし、西部の住民の多くは安い定価で公有地を購入する先買権と売却されないままの公有地の漸減的価格引下げを求めていた。こうした利害衝突はアダムズの不人気の一因となった。

1826年の中間選挙
 1826年の中間選挙で、アダムズ政権は史上初めて野党に両院ともに過半数の議席を明け渡した。かねてよりジャクソン支持者とクロフォード支持者は連合してアダムズ政権に対峙していたが、中間選挙の敗北によりさらに政権運営が難しくなった。こうした党派間の争いの原因は政治的な側面よりも個人的な側面の要素が強かった。

議会に阻まれた諸政策
 ジョン・クインシー・アダムズ大統領は、連邦の助成による教育拡充、科学研究機関の設立、内務省の創設などを提案したが、議会に受け入れられなかったために実現することができなかった。政府が科学技術研究と手を携えるという発想はアダムズの生前には実現しなかったが、現在の科学技術研究に対する政策を先取ったものだと言える。

1828年関税法
 1828年までにニュー・イングランド諸州では製造業が農業に代わって主要産業に成長していた。そして、輸入品に対して高い関税を求める声が高まった。ジョン・クインシー・アダムズ大統領は保護関税によって国内製造業を保護し、都市部の成長を促すことで農産物の市場も生まれるとアダムズは考えていた。
 しかし、一方で輸入品に対する高関税は南部の農園主にとって支出の増大を意味したので南部の指導者達は保護関税に反対し、低関税、もしくは自由貿易政策を維持しようとした。そうした一派から1828年関税法は「唾棄すべき関税Tariff of Abomination」と呼ばれた。サウス・カロライナ州は「サウス・カロライナの論議と抗議」を公表し、州権論に基づいて連邦法の無効を訴えた。

パナマ会議
 パナマ会議は、旧スペイン領アメリカ諸国が、連携の強化と独立交渉の進展を目的として開催した国際会議である。アメリカは、南北アメリカ全体の利益を考える中立国として招かれた。1825年春、国務長官クレイはメキシコ公使とコロンビア公使から会議への招聘を代診された。閣議で参加の是非が討議され、条件が整えば、会議に参加する旨が回答された。11月、アメリカは正式に会議に招聘された。クレイの勧めにしたがってジョン・クインシー・アダムズ大統領は1825年12月6日と26日、議会にパナマ会議への使節団派遣の是非について諮問した。
 1826年1月11日、議会は討議を開始した。南部の指導者達は、パナマ会議参加に付随して黒人共和国であるハイチ共和国が議会で承認されるのではないかと危惧した。またアダムズ政権のラテン・アメリカ政策に反対する一派もジョン・クインシー・アダムズ大統領による使節団派遣を阻止しようとした。そのため上院ではパナマ会議参加をめぐって激しい議論が交わされた。
 使節団派遣の決定は遅れ、上院で最終的に派遣が決定したのは3月25日であった。さらに使節派遣のための予算計上がようやく下院で認められたのは4月下旬であった。パナマ会議は実質上、ほとんど成果をあげずに散会した。アメリカの使節も紆余曲折があって結局、参加できなかった。

ネイティヴ・アメリカン政策
 ジョン・クインシー・アダムズ大統領は、ジョージア州内のチェロキー族の権利を擁護した。これは南部と西部の支持を失う結果をまねいた。その一方で1826年と1827年、クリーク族はジョージア州西部の土地を合衆国政府に明け渡す条約を結んでいる。

ジェファソン書簡の暴露
 1827年9月、ヴァージニア州知事ウィリアム・ジャイルズはアダムズ政権を攻撃する意図でジェファソンから受け取った手紙を公開した。1825年12月25日付の手紙は次のような文言が含まれていた。

「出港禁止法の結果が出るまでの間、その撤廃の試みが行なわれている一方でアダムズ氏が私を訪ねてきました。これまで特に親しい交信がなかったという理由で突然の訪問を詫びました。しかし、今回こうして訪問したのは、我が国の利益に深刻に関わる問題なので、その他の配慮に拘ることなく、特に私自身にそれを打ち明ける義務があるということでした。[中略]。それから彼は我が連邦の西部の出港禁止の規制に対する不満と不穏な動きがあると話しました。彼らが連邦からの脱退を試みないという保障はない。全く疑いがない確証により西部諸州のある市民達(彼は特にマサチューセッツ人の名前をあげたように思います)が、その時続いていた戦争にニュー・イングランド諸州はさらなる関与しないという協定を結ぶ目的でイギリス政府の工作員と取引をしている。合衆国からの分離を公式に宣言することなく、合衆国へのすべての支持と服従を撤回する。彼らの航行と通商は規制とイギリスによる干渉から解放される。彼らは中立として考慮され扱われるべきであり、両陣営に対して中立であるように行動する。戦争の終結にともなって、連邦に自由に再加盟する。彼は、[脱退]会議が行なわれる危険性が著しく高く、連邦に対する忠誠から堕落する者が多くいて、連邦の支持者にそうした動きに対抗させるためには、出港禁止法の撤廃が是対に必要だと私に請合いました」

 こうした暴露はニュー・イングランド諸州のアダムズに対する信頼を損なうものであった。1829年にマサチューセッツの13人の連邦党の指導者達がアダムズに説明を求めて交わした書簡が、『連邦解体計画の告発に関するジョン・クインシー・アダムズとマサチューセッツ市民の書簡』という題で出版された。それに対してアダムズが準備した回答は1877年にヘンリー・ブルックス・アダムズによって公刊された『1800年から1815年までのニュー・イングランドの連邦主義関連文書』の中で公表されている。

1828年の大統領選挙
 アダムズは郵政長官ジョン・マクリーンのようにジャクソンを支持している閣僚でもたでも罷免することはなかった。それどころか、クロフォードの財務長官留任を望んだし、ジャクソンを陸軍長官に指名しようと考えたこともあった。アダムズは公職任命を縁故や猟官といった政治活動に基づく動機ではなく、公的な動機に基づいて行なうべきだと固く信じていたからである。
 こうしたアダムズの姿勢は支持者にとっては不満の種であり、敵対者にとっては好都合であった。1828年の大統領選でアダムズは、選挙運動が自らの原理に反するとしてほとんど活動しなかった。大統領自ら選挙運動に加わることは大統領の尊厳を損なうと信じていたからである。一方、ジャクソン支持者は、アダムズに一般庶民の利益を阻害する上流階級の代表者というレッテルを貼って効果的に選挙運動を展開した。
 その結果、アダムズが一般投票で50万8064票、ニュー・イングランド諸州を中心にした9州から84票の選挙人票しか獲得できなかったのに対して、ジャクソンは一般投票で64万7286票、15州から178票を獲得した。ジャクソンの圧勝であった。

中立貿易の原則を支持
 アダムズは中立貿易の原則を支持し、アメリカ人が戦時中にフランス、イギリス、ラテン・アメリカ諸国によって押収された財産に対する補償を請求する際に積極的な支援を行なった。

通商関係の拡大
 アダムズ政権はこれまでの政権よりも数多くの通商条約締結交渉を展開した。ジョン・クインシー・アダムズ大統領は特に間接貿易に関する条項を重視した。そうした条約は、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ハンザ同盟諸都市、中央アメリカ連邦などに拡大された。その他にもオーストリア、ブラジル、メキシコ、トルコなどと通商条約交渉が進んでいた。

キューバ政策
 スペインとラテン・アメリカ諸国の戦争が続けば、スペイン領キューバが攻撃される可能性が高いと考えて、アダムズ政権はメキシコやコロンビアのキューバに対する軍事的遠征を抑制するとともに、スペインに両国の独立を承認するように働きかけた。

ハイチ共和国承認問題
 1826年、ハイチ共和国の独立を承認する機会はあったが、ジョン・クインシー・アダムズ大統領は慎重に行動し、結局、ハイチの独立承認を見送った。

ジョン・クインシー・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究