引退後の活動


短期間の引退生活
 ジェファソン書簡の暴露によってアダムズは連邦党から疎外され、さらに大統領選での敗北を長い間にわたった公職での奉仕に対する不公正な報いだとアダムズは感じていた。引退生活の中でアダムズは父ジョンの伝記を自ら執筆したいと考えていた。しかし、静穏は長くは続かなかった。

連邦下院議員
選出
 マサチューセッツ州の国民共和党の指導者は、連邦下院選挙に出馬するようにアダムズを説得した。アダムズは、選挙活動を自ら行なわず、議会では党や有権者の意向に左右されることなく投票を行なうという条件の下に出馬を承諾した。そして、1830年11月1日、アダムズは他の2人の候補を大差で破って連邦下院議員に当選した。
家族が下院議員就任に強く反対したのにも拘らず、この時の心境についてアダムズは、日記で「私は第22議会の議員に当選している。合衆国大統領に選ばれたことは私の心の奥底にある魂を半分も満たさないだろう。私が受けた指名や選出の中でも[連邦下院議員選出は]最大の喜びを私に与えた」と記している。アダムズは1831年に登院してから亡くなるまで8期計17年間にわたって下院議員を務めた。 
独立独歩の精神
 アダムズは下院工業委員会や下院外交員会などの長を務めた。1832年、工業委員会の長として、原材料に課する関税を引き下げる一方で、綿や羊毛、圧延鉄に対する保護関税は継続させた。1833年2月に、奴隷制保護を求める南部の主張、公有地の処分、そして連邦法無効の主張に関する報告書がアダムズの手によって提出されたが、この報告書に同意する者はほとんどいなかった。アダムズは1833年妥協関税法について、サウス・カロライナ州の要求に応じた全面的な関税引き下げに反対を唱えている。アダムズからすればサウス・カロライナ州にそのような譲歩を示すことは「最終的な取り返しのつかない連邦の解体」をまねくことに他ならなかった。 
 合衆国銀行の調査にために設立された特別委員会の一員として、合衆国銀行に加えられた攻撃を非難する報告を提出した。アダムズの主張によれば、合衆国銀行に対する攻撃は、憲法上の問題に基づくのではなく、銀行業の競合や投機的な思惑に基づいて行なわれていたからである。またアダムズは、安価での公有地払い下げを求める西部と低関税を求める南部の政治的連帯がアメリカン・システムを損なうと考え、南部の政治的影響力に強く抵抗した。そのためテキサス併合や米墨戦争を南部の影響力を強める手段と見なして反対を唱えた。
 このようにアダムズは独立独歩の姿勢を示し、一貫して国内開発事業の推進と合衆国銀行の再興を訴え続けた。クレイに宛てた1842年9月30日付の手紙の中でアダムズは「国内開発事業は私の良心であるとともに貴重な宝でもある」と述べている。そうした姿勢はニュー・イングランドで強固な支持を得た。8回の選挙の中で最も高い得票率は87パーセントにも達した。
 アダムズは、ジャクソン政権のテキサス独立の承認、第2合衆国銀行特許更新の拒否などの政策に強く反対した。アダムズは大統領時代にメキシコからテキサスを購入しようとしていたが、一転してテキサス併合に反対し、1836年5月25日に「メキシコ、黒人、そして、イギリスの戦争」について論じた「これまで私がしてきた中で最も顕著な演説」を行なった。この演説はスペイン語に翻訳されメキシコで出版された。
 このようにジャクソン政権の政策に反対する一方で、サウス・カロライナ州の連邦法無効宣言に関してはジャクソン政権を支持している。またジャクソン政権は、ナポレオン戦争中に押収されたアメリカ人の財産に関する補償をフランスに強く求めたが、アダムズはそうした外交方針も支持した。
 1830年代、アダムズはフリーメイスンリーに反対する姿勢を示している。アダムズにとって、フリーメイスンリーはエリート主義であり、政治に強い影響力を及ぼしている点が問題であった。
 1838年6月、テキサス併合が論じられた時に、アダムズは「外国政府の人民を連邦に加盟させる権限は、連邦議会にも合衆国政府のいかなる部門にも委託されておらず、合衆国人民に留保されている。連邦議会の法律、もしくは条約によってテキサス共和国を我が連邦に併合しようといういかなる試みも[合衆国人民に留保された]権限の剥奪であり、連邦の自由民はそれに抗議し、それを破棄する義務と権利がある」と述べた。また1843年には他の12人の議員達とともに、テキサス併合が連邦の解体を意味するという抗議声明を発表している。アダムズにとってテキサス問題は、奴隷制と南部のために北部の自由を犠牲にし、公有地の不法占有を許すことで西部の支持を購うという不正に他ならなかった。
 1842年1月24日、アダムズはマサチューセッツ市民からの請願を下院に提出した。それは、連邦の平和的解体を求める内容であった。アダムズは、却下事由を示すように指示したうえで、請願を特別委員会に送致した。こうしたアダムズの行為は南部の議員達の怒りをかった。まずヴァージニア州選出の議員が、連邦解体を求める請願を下院に提出したことを事由とした問責決議を提出した。さらにケンタッキー州選出の議員が、反逆罪に関連する不法行為を行い、下院とアメリカ国民を侮辱した咎で厳しい問責と除籍を求める決議を提議した。こうした提議に対してアダムズは「この恐れを知らない残虐な反逆罪の非難に答えるにあたって、私は独立宣言の第1段落を読み上げることを求めます。読み上げよ。読み上げよ。そして、政府を改革し、変更し、そして解体する人民の権利がどのように述べられているかを見よ」と反論し、独立宣言を読み上げた。11日間の議論の後で、幸いにも問責決議は棚上げされた。その一方で、アダムズが提出した請願の受理も見送られることになった。
 1842年9月17日、アダムズは有権者に対して自らの行ないを説明する演説を行なった。この演説は「12選挙区の有権者へのジョン・クインシー・アダムズの演説」として印刷されている。アダムズは、南部の奴隷州の行いやそれが北部の方針を犠牲にしていると主張している。これはアダムズの政治的指針を示した最後の政治的文書である。
 1844年、マサチューセッツ州議会が5分の3規定の廃止を求めて合衆国憲法修正を求めた時、アダムズはそれを支持する少数派の報告書を提出している。
奴隷制問題
 ジョン・クインシー・アダムズは奴隷制廃止論者ではなかったが、いつか奴隷制問題が連邦を解体に導く可能性があると信じ、それを阻止しなければならないと考えていた。「奴隷制と民主主義―特に民主主義は、我々の民主主義のように、人間の権利に基づいているが―お互いに両立しないように思える。そして、現時点では、国家の民主主義は全面的ではないにしろ主に奴隷制によって支えられているのである」とアダムズは奴隷制の現状を認識していた。北部の奴隷制廃止論がたかまるにつれて、コロンビア特別行政区内と新たな領土内での奴隷制を廃止するように求める請願が議会に多く寄せられるようになった。そうした請願により議員達は忙殺された。
 そのため1836年2月、下院はヘンリー・ピンクニーを長とする特別委員会を設けて請願の扱いを審議することにした。5月18日、ピンクニーは3つの決議からなる報告を行なった。引き続いて1週間、討議が交わされ5月25日、まず連邦議会はどの州の奴隷制に関しても干渉する権限はないことを規定する決議が票決にかけられた。182票対9票でその決議は可決された。翌日、コロンビア特別行政区の奴隷制にも議会は干渉するべきではないという決議も142票対45票で可決された。そして、奴隷制問題に関わる請願の「審議を棚上げする」決議、いわゆる「緘口令Gag Rules」が票決にかけられた。投票を求められた時、アダムズは立ち上がって「私はその決議を合衆国憲法と下院の諸規則、そして有権者の諸権利に対する直接的な侵害であると考える」と大声で抗議した。結局、アダムズの抗議にも拘らず緘口令は117票対68票で認められた。アダムズが残念に思ったことは、自由州の半数以上の議員が南部とともに賛成票を投じたことである。その夜、アダムズは日記に「私が人生の最後の段階で手に入れた目標は奴隷制拡大の阻止であり、きっと私はその目的をこれ以上進めることはできない。その目的をまだ入り口に立ったままの状態に残して私の経歴は終わる。私ができることは他人のために道を開くことくらいだ。その目的は善良で偉大である」と記している。
 アダムズは、マサチューセッツ州議会の決議と奴隷廃止論者の請願を手にして、緘口令を憲法で保障された言論の自由と請願の権利を侵害するものだとして強く非難し続けた。アダムズの長年の努力が実り、1844 年12月3日、遂に緘口令が撤廃された。
 アダムズの存命中に奴隷制問題が根本的に解決されることはなかったが、早くも1836年5月に行なった演説の中でアダムズは「あなた方、奴隷を保有する諸州が、内戦であれ、奴隷との戦争であれ、外国との戦争であれ、その戦場になったその瞬間から、即座に憲法で認められた戦時権限ができる限りのあらゆる方法で奴隷制に対する干渉に拡大されるでしょう」ともし南部が戦場になった場合に奴隷制廃止が行なわれることを予言している。アダムズは戦時に政府が奴隷を解放する権利を初めて主張した下院議員である。後にチャールズ・サムナー上院議員はアダムズの見解をもとにして、戦争状態において奴隷を解放することができることをリンカーンに示唆している。つまり、リンカーンの奴隷解放宣言の理論的基礎はアダムズの主張にあると言える。
 1841年、アミスタッド号事件でアダムズは1809年以来、32年振りに弁護士として最高裁に立った。アミスタッド号事件の概要は以下の通りである。1839年2月、ポルトガルの奴隷商人がシエラ・レオネから一団の黒人を誘拐した。商人は黒人達を2人のスペイン人農園主に奴隷として売却した。農園主達は黒人達をアミスタッド号に乗せてキューバに運ぼうとした。7月1日、アフリカ人達が船を占拠し、船長と料理人を殺害したうえ、農園主達にアフリカに進路を戻すように要求した。8月24日、アミスタッド号はニュー・ヨーク州ロング・アイランド沖でアメリカ船に拿捕された。農園主達は解放され、アフリカ人達は殺人罪の嫌疑で収監された。殺人罪の嫌疑は棄却されたものの、農園主達が黒人達に対する財産権を主張したために、彼らの収監は解かれなかった。ヴァン・ビューレン大統領はアフリカ人達をキューバに送ることに賛同したが、奴隷廃止論者達はそれに反対した。1841年1月、アミスタッド号事件は最高裁に持ち込まれ、アダムズはアフリカ人達の弁護を務め、彼らの自由を取り戻すために尽力した。最終的に最高裁は、アフリカ人全員をアフリカに送還する裁定を下した。
 さらに1841年11月7日に起きたクレオール号事件でもアダムズは独自の立場を示した。クレオール号事件はアメリカ史の中で最も成功した奴隷反乱の1つである。ヴァージニア州ハンプトン・ローズから135人の奴隷を乗せてクレオール号がニュー・オーリンズに向けて出港した。船内で奴隷が反乱を起こし、船の針路を英領バハマのナッソーに向けるように要求した。11月9日、船はナッソーに到着し、奴隷達はバハマに上陸した。当時、既にイギリスでは奴隷制が撤廃されていたので、反乱を主導して逮捕された者達を除いて、111人の奴隷が解放された。南部人達は、合法的な沿岸貿易を阻害されたとしてイギリスを厳しく非難した。
 1842年3月21日、下院はクレオール号事件への対応を協議し始めた。その際に、奴隷州は奴隷制問題について協議する排他的権利を持つという決議が提案されたが、アダムズはそれに強く反対した。こうした姿勢に警戒感を強めたジョージア州は下院外交委員長の座からアダムズを追うように請願した。また外交委員会に属する南部の議員達が委員会から身を引いた。アダムズの代わって別の議員を委員長に立てる動きがあったが失敗に終わった。しかし、次の会期でアダムズが外交委員長に指名されることはなかった。
スミソニアン協会
 アダムズはスミソニアン協会設立に貢献している。その経緯は以下の通りである。1829年6月27日、ジェームズ・スミソンというイギリス人が亡くなった。スミソンの遺産は甥に相続されたが、6年後、その甥も亡くなった。そのためスミソンの財産は遺言に基づいて合衆国に与えられることになった。議会の審議を経た後、1836年7月1日、ジャクソン大統領はスミソンの財産の受け入れを認める法案に署名した。
 元財務長官のリチャード・ラッシュが交渉のためにロンドンに赴いた。2年後、ラッシュはスミソンの遺産を手に入れて帰国した。議会はそのお金を諸州に貸し出した。しかし、アダムズはそれを科学の振興とために使うべきだと考えて、お金を連邦に取り戻すように求めた。その結果、1846年8月10日、ポーク大統領の手によってスミソニアン協会設立を認める法案が成立した。
 スミソニアン協会設立のみならず、アダムズは大統領時代に第1次一般教書で国立天体観測所の建設を提案している。アダムズは「世界で最も完全な天体測候所」をアメリカに建設することを望んでいた。そうした努力の1つの成果としてアダムズは、1843年11月10日に行なわれたシンシナティの観測所の定礎式に参加している。歴史家サミュエル・ビーミスはアダムズを「フランクリンを除いて、アメリカの科学主義の前進に大いに貢献した人物はいない」と評している。
連邦議事堂で逝去
 1846年11月、アダムズはボストンで友人と散策中に麻痺を引き起こす発作に襲われたが回復し、翌年2月16日の議会に復帰した。しかし、1848年2月21日、下院で米墨戦争に従軍した士官達に感謝の意を捧げる提案がなされた時に大きな声ではっきりと「否」と応じた数分後に再度の発作を起こし崩れ落ちた。開戦前からアダムズは米墨戦争に反対を唱えていた。病状が予断を許さなかったために、アダムズの身体は下院議長室に移された。2日後の午後7時20分、アダムズはそのまま同室で亡くなった。最後の言葉は、「これがこの世の終わりか。私は満足だ」であった。
 アダムズの遺骸は故郷クインシーのファースト・ユニタリアン教会に葬られた。

ジョン・クインシー・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究