ファーストレディ


イギリス生まれフランス育ち
ロンドンで生まれる
 妻ルイーザ(1775.2.12-1852.5.15)は、イギリスのロンドンでジョシュア・ジョンソンとキャサリンの次女として生まれた。ファースト・レディの中で唯一の外国生まれである。父ジョシュアは商人で、ルイーザが生まれた時はアメリカからロンドンに渡っていた。
12年間のフランス生活
 1778年、独立戦争の激化にともなってジョンソン一家はフランスのナントに移った。ジョシュアはそこで大陸会議やメリーランド邦から委託を受けて貿易に従事した。「我々は考え方、趣向、作法、言葉、そして服装すべてがフランスの子供そのものでした」とこの頃の様子をルイーザは述べている。ルイーザはフランスに滞在している間、ローマ・カトリックの学校に通った。
12年間、フランスで過ごした後、ジョシュアの領事就任を機にジョンソン一家はロンドンに戻った。ルイーザは歌がうまく、しばしば来客の前で歌声を披露したという。チョコレートが大好物であったために虫歯になって何本かの歯を抜かなければならなかった。代わりに義歯を入れていたのでいつも唇を固く閉じあわさなければならなかった。
 娘達をアメリカ人と結婚させるほうがよいと考えるようになったジョシュアは娘達をロンドンの社交界から遠ざけるようになった。ルイーザは「我々はロンドンの街の真っ只中に住んでいましたが、我々はイギリスの社交界からほとんど遠ざけられていました」と記している。

出会いと結婚
出会いと交際
 ジョン・クインシー・アダムズがジョンソン一家を訪れたのは1795年の秋頃であった。その頃、アダムズはオランダ公使を務めていた。夕食の後、余興としてルイーザは姉妹とともに歌を披露したが、アダムズは音楽が好きではなかった。娘達が歌を始めるとアダムズはすぐにその場を立ち去ったという。しかし、アダムズはそれから毎晩のようにジョンソン家に姿を現した。
 ルイーザは将来の夫について、性格が冷徹で厳格過ぎるのではないかと思っていた。あるパーティーに招待された時に、ルイーザは流行のスーツを着用するようにアダムズに勧めた。求めに応じてアダムズは流行のスーツを着用してきた。スーツがよく似合っているとルイーザが誉めると、アダムズは服装について干渉するべきではないと怒りをあらわにした。「愛のバラの花輪の陰に隠された何か秘密の知られない不安」があるようにルイーザは感じたという。読書好きという点を除けば、2人の性格にほとんど共通点はなかった。アダムズは、ルイーザに読むべき本のリストを渡すと公務が待っているハーグへ戻った。
 ルイーザは父が気を散らさずに勉強できるように借りた小さな家で読書に励んだ。「私自身と将来の夫との間に精神と才能の点で大きな隔たり」があるとルイーザは思うようになった。将来の夫はルイーザに勉学がどれくらい進んだかを書面で報告するように求めた。こうした試練はルイーザにとって「どうしようもなく味気なく、つまらなく、そして苦痛」となるものであった。2人の交際は書簡で続けられたが、ルイーザは自分から手紙を出さずに返書だけにとどめるようにしていた。そうした書簡のやり取りは14ヶ月も続いた。
突然の結婚
ロンドンにやって来たアダムズは、2週間以内に結婚式を挙げると突然、ルイーザに言い渡した。ポルトガル公使としてすぐに任地に向かう必要があったからである。しかし、大統領になった父ジョンからリスボンではなくプロシア大使としてベルリンに向かうように命じられた。
 1797年7月26日、2人はロンドンのオール・ハローズ・バーキング教会で式を挙げた。2人の結婚は門出から暗雲が立ち込めた。ルイーザの父が破産したために、債権者がアダムズのもとにも訪れたからである。ルイーザは夫の尊敬をすべて失ったのではないかと心配した。結婚してから約4ヵ月後、ルイーザは夫ともにベルリンに旅立った。
ベルリン生活
 公務に多忙なアダムズはルイーザをほとんど顧みなかったので、ルイーザはホームシックになり、部屋に閉じこもった。そのためプロシアの宮廷では、ルイーザがあまりに醜いので人目を避けているか、もしくは初めから存在しないでのではないかという噂が広まった。
 幸いにもルイーザを劇場やコンサートで見かけた1人の伯爵夫人が友人となった。彼女はルイーザを国王夫妻に引き合わせた。それからルイーザが「流行生活の軽薄な期間」と呼んだ生活が始まった。ルイーザは舞踏会や晩餐会などに積極的に参加するようになったが、同伴者は夫ではなく義弟のトマス・アダムズであった。
 夫婦はたびたびお金の問題で口論した。アダムズは義父の破産と持参金がなかったことを責めた。そして、ルイーザに質素に暮らすように求めた。そのためルイーザは舞踏会に着て行くドレスをほとんど自分で手縫いし、召使の数は最低限にとどめ、家具は中古品で済ませた。
アメリカに渡る
 長男ジョージ・ワシントン・アダムズを産んで2ヶ月も経たないうちに、駐普アメリカ公使の任を終えた夫に同行してルイーザはアメリカに渡ることになった。ルイーザにとってアメリカはこれまで1度も目にしたことがない土地であった。またアダムズ家から「イギリス人の花嫁English bride」と呼ばれていることも気がかりであった。
 アメリカに着いたルイーザはマサチューセッツに向かった夫と別れてワシントンにあるジョンソン家に向かった。1801年の10月末、ようやくアダムズはルイーザと息子をワシントンまで迎えに来た。ルイーザと息子はアダムズ家で歓待されたが、それはルイーザにとってかえって逆効果であった。「私はありがたく感じたけれども、それは居心地の悪さを強く私に感じさせたので、しばしばご馳走を食べることができずに[アダムズ家の]気分を害したかもしれない」とルイーザは心境を語っている。
ワシントン生活
 夫が連邦上院議員に選出されたためにルイーザは再びワシントンで生活することになった。夫に同行してしばしば大統領官邸で行われた晩餐会に出席している。ジェファソンの下でファースト・レディの役割を担っていたドリー・マディソンのもてなしを受けた。
 連邦議会が休会期間を迎えると、アダムズは1人でマサチューセッツに帰り、ルイーザは子供達に加えて姉妹と母とともに暮らした。そのように1人で残されることがしばしばあった。
サンクト・ペテルブルグ生活
 1808年、連邦党がアダムズから上院議員の議席を奪ったために、一家はマサチューセッツに住むことになった。しかし、1809年、マディソン大統領がアダムズを駐露アメリカ公使に任命したために、一家はロシアに向かうことになった。「この苦痛の中の苦痛で、野心は犠牲に報いることができるでしょうか。決してできないでしょう」と言っているように、ルイーザはロシア行きを快く思っていなかったが、夫は躊躇せずに公使職を引き受けた。
幼いチャールズ以外の2人の子供達を残してルイーザは夫に同行してサンクト・ペテルブルグに向けて旅立った。サンクト・ペテルブルグでルイーザは絶えず体調を崩していたが、アダムズはそれを心気症だと言って取り合わず、社交行事に同行するように求めた。
 宮廷外交を円滑に進めるためには、ありとあらゆる行事に出席して情報を集めることが重要であった。ルイーザは夫の右腕として働いたが、それは非常に大変なことであった。ロシアの冬は長く、日課は次のように進められた。朝は11時に起床し、午後に夕食をとる。10時にお茶があり、それから翌朝4時までパーティーが続いた。毎晩、2つか3つのパーティーが必ずあった。
 サンクト・ペテルブルグでルイーザは姉妹のキャサリンとともに散歩をすることが日課であった。その途中でロシア皇帝アレクサンドル1世とよくすれ違った。皇帝はキャサリンに目を留めたようで、1度などはキャサリンとダンスをしていたために晩餐会に遅刻したこともあったほどであった。キャサリンは宮廷に公式に参内したことはなかったが、アレクサンドルはすべての公式行事にキャサリンを招待するように命じた。スキャンダルを避けるためにルイーザとキャサリンは毎日の散歩を止めることにした。しかし、ゴシップ記事を見て皇帝が怒っているかもしれないと恐れた2人は散歩を再開することにした。皇帝は2人に行き逢うと、散歩の効用を語り、毎日、自分に行き逢うように命じた。こうした縁もあってアダムズ一家は特別待遇を受けることができた。1811年に娘ルイーザ・キャサリンが生まれた時などは、赤ん坊が静かに眠れるように家の近くの通行を禁じたほどである。またロシア皇后からペットとして蚕を送られたこともよく知られている。
 娘の誕生は夫妻の間のわだかまりを解く契機となった。アダムズは妻について「忠実で愛情溢れる妻、そして我々の子供達にとって几帳面で優しく寛大で、そして注意深い母親」と述べている。
 翌1812年はナポレオンがロシア遠征を行った年であった。フランス公使から退去するように勧められたがアダムズ一家は退去できなかった。娘の体調が非常に悪かったためである。懸命の看病の甲斐もなく、ルイーザ・キャサリンは夭折した。
 この頃、本国では1812年戦争が勃発していた。アレクサンドル1世はアメリカに和平の仲介を申し出た。最終的に現ベルギーのガンで米英の和平交渉が行われることになった。それを取りまとめるためにアダムズはルイーザをサンクト・ペテルブルグに残して旅立った。ルイーザは和平交渉がまとまれば夫が帰ってくると思っていたが、その代わりに来たのはパリに来るようにという夫からの手紙であった。
パリに向かう
 当時は女性が1人で旅をすることはあまりないことであったので、ルイーザにとってそれは驚きであった。しかし、ルイーザは家財を売り払い、紹介状や信任状、旅券などを準備し、馬車を購入した。1815年2月12日、一行はパリに向けて出発した。一行は、ルイーザと息子チャールズ、フランス人の召使と2人の武装した護衛であった。
 道中は苦難の連続であった。アメリカ合衆国の旅券を示しても通じないことがしばしばあり、また携帯した食料品は凍ってしまい、馬車はしばしば大雪で立ち往生した。道中、敗北して帰還する途中のフランス軍の兵士の一群を多く目にした。危険を感じたルイーザは息子の玩具の剣を取り上げて馬車の窓に吊るし、護衛に銃を常に構えておくように命じた。ルイーザの姿を見た人々は、ナポレオンの姉妹がパリに向かって急いで逃げているのだと噂しあったという。幸い何事もなく一行は3月23日、パリに到着した。実に1800マイルにも及ぶ旅であった。
ロンドンに戻る
 パリで夫と合流したルイーザであったが、数ヶ月もしないうちに今度はロンドンに移住することになった。アダムズがイギリス公使に任命されたためである。ロンドン西郊のイーリングEalingに一家はそれから約2年間住んだ。
 アダムズとルイーザは一緒に音楽を楽しむようになり、イギリスの田園地帯の散歩を楽しんだ。ルイーザは釣りを楽しむこともあったという。夫はまだ50才になる前であったが、太り過ぎで後退する髪に悩まされていた。そうした夫の姿をルイーザは「今と同じく、感じが好いようにもハンサムにも見えたことも1度もありませんでした」と述べている。
ワシントンの社交界
 モンロー大統領によって新たに国務長官に任命されたアダムズは、1817年6月15日、アメリカへ向けて出発した。国務長官という職は次期大統領への道を開くものであった。アダムズ自身は政治が好きであったが選挙運動に類するものは好まなかった。そのため次期大統領の椅子をめぐる運動にはルイーザの手腕が貢献した。
 ルイーザは連邦議員の妻達のもとをしばしば訪れるだけではなく、自宅で彼女達をもてなした。アダムズは社交にはあまり向いていなかったが、ルイーザはできるだけ夫が笑顔でいるように取り計らった。ルイーザが週に1度開いた接待は好評を博した。連邦議会の会期中、毎週火曜日になるとアダムズ家に100名近くもの来客が押し寄せた。その場でルイーザはハープやピアノフォルテに合わせて自ら歌声を披露したり、夫が作った詩を朗読したりして来客をもてなした。
ある時は夫の政敵であるジャクソンを招いて舞踏会を開いたこともあった。それはアダムズの新しい家をお披露目する機会でもあった。ルイーザ自身が誇るところによると、6組が同時にコティヨンを踊ることができたという。床には鷲の意匠が「ニュー・オーリンズの英雄を歓迎します」という言葉ともに描かれた。柱は月桂樹と冬緑樹で覆われた。さらに常緑樹やバラの花輪が様々なランプとともに飾り付けられた。これほどの盛会はマディソン夫人が去って以来、ワシントンでは絶えてなかった。

ホワイト・ハウス
 ルイーザはホワイト・ハウスが自分にとって牢獄になるだろうと予言していた。先代のファースト・レディであるモンロー夫人と同じく、ルイーザは外部からの招待に応じなかった。また客の招待を週1回の晩餐会と2週間に1回の接見会、そして新年祝賀会に限った。アダムズ一家はほとんどの夜を彼らだけで過ごした。招かれざる客を帰すことはなかったが、客のほうが寒々しいホワイト・ハウスに辟易して引き返すことも珍しくなかったという。「この大きな非社交的な家にある何かが私の精神を表現し難く圧迫し、くつろぐことができませんし、家族がどこかにいると思えるようになれません」と語っているように、ルイーザ自身もホワイト・ハウスの寒々しい様子を嫌っていた。
 ファースト・レディとして務めた4年の間、ルイーザは胸痛やしつこく続く咳などに悩まされ神経症と診断された。そのため自室に閉じこもって詩や戯曲を書いたりして時間を過ごした。チョコレートの愛好は相変わらずで、そのために自分の歯をすべて失っていた。
 アダムズの再選が難しいと分かった時、ルイーザはただ「我々皆が上機嫌です」と言うのみであった。さらに最後の接見会が終わった時に「もう嘆き悲しむことも歯軋りをすることもない」と述べている。

政権終了後
奴隷制廃止に目覚める
ニュー・イングランドの冬を嫌ったルイーザはワシントンにある農家に留まった。夏になると夫はマサチューセッツに帰ったが、ルイーザはまだワシントンに留まっていた。息子ジョージの死を悼んでいたからである。ようやくルイーザがクインシーに戻ったのは1829年9月3日に行われた3男チャールズの結婚式の後である。
 奴隷制の是非をめぐる議論が高まる中、ルイーザは最初の女性奴隷制廃止論者として知られるアンジェリーナ・グリムケとサラ・グリムケから大きな影響を受けた。ルイーザは奴隷制廃止と女性の権利擁護を強く心に抱くようになった。
夫の死後
 1848年に夫が亡くなった後、ルイーザも4月に脳卒中を患った。それでも引き続きテイラー大統領やフィルモア副大統領などの招待客と奴隷制問題を論じたという。1852年5月25日、ワシントンで亡くなり、クインシーの墓所で眠る夫の傍らに葬られた。3男チャールズは母について「彼女はたくさん書き、仏文学と英文学をたくさん読み、そして友達の楽しみのために前者から翻訳を行った。彼女は同じように韻文をしばしば書いた。彼女は老齢まで生きたが、健康状態は常に細心の注意が必要で変わりやすかった。そのため彼女の人生の行き先は邪魔され、社交界、特にヨーロッパの異なった宮廷で過ごした12年間で必要とされる努力を挫かれることがあった」と評している。

ジョン・クインシー・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究