上院が休会に入った1945412日の5時頃、トルーマン副大統領は友人とバーボンを楽しむために下院議長の事務所に向かっていた。事務所に着いてすぐにトルーマンはホワイト・ハウスの報道担当官からできるだけすぐにホワイト・ハウスに来るようにという電話を受けた。トルーマンがホワイト・ハウスに到着すると、ローズヴェルト夫人がやって来てトルーマンの肩に手を回して「ハリー、大統領が亡くなった」と言った。衝撃の後、トルーマンがローズヴェルト夫人に「私があなたに何かできることがないか」と聞くと、夫人は「我々があなたに何かできることはないか。あなたが今、1番大変な立場にいる」と答えた[i]

  トルーマンが大変な立場にいると感じたのはローズヴェルト夫人だけではなかった。まだ戦時下にあるアメリカで、ローズヴェルトの後を継いでトルーマンが大統領になることは非常に困難なように思われた。ローズヴェルトの陰から最終的にトルーマンが脱却できたのは世論を喚起する才能によってではない。ローズヴェルトと比べて演説が得意ではなかったトルーマンは、近代的大統領制度における大統領として人目を集めることを不快に思っていた。トルーマンの性格と演説技量の不足は低い人気につながった。1945年は戦時中ということもあって高い支持率を誇ったが、トルーマン政権の最後の3年間は朝鮮戦争の泥沼化もあって支持率は低迷した。

 しかし、その他の点ではトルーマンはローズヴェルトの確かな後継者であった。トルーマンはニュー・ディールによってアメリカにもたらされた変革を信じていた。個人的な限界を認識しながらもトルーマンはローズヴェルトの遺産として積極的なリーダーシップが求められていることを認識していた。トルーマンは大統領職を「虎に乗ること」にたとえ、「虎に乗り続けるか、それとも飲み込まれるか」と述べた[ii]

ローズヴェルトの死の直後、トルーマンは1886年大統領継承法の改正を求めた。その結果、議会は1947年大統領継承法を制定した。副大統領の次に下院議長が大統領職を引き継ぐように規定された。その次は上院仮議長である。そして、省が設けられた順でそれに閣僚が続く。ジョージ・W・ブッシュ政権で国土安全保障省が設立され、国土安全保障長官が継承順位の末席に加わった。しかし、これまで大統領職と副大統領職が同時に空席になるといった事態は1度も起きていない。

 トルーマンは大統領職を引き継いだ後、閣僚に留任を希望するか問うた。他の閣僚が去った後、スティムソン陸軍長官はその場に残り、トルーマンに原子爆弾について話した。トルーマンは初めて原子爆弾の開発計画について知らされた。ヨーロッパ戦線は5月のドイツの降伏によって集結していた。残るは日本のみであった。19452月から3月にかけて、直接東京を目指す作戦の一環としてアメリカ軍は大きな犠牲を払って硫黄島を制圧した。硫黄島は日本本土爆撃の中継基地として有用であった。さらに4月、沖縄侵攻作戦が開始され、6月に沖縄全島はさらなる大きな犠牲を伴ってアメリカ軍の手に落ちた。沖縄を獲得することで、アメリカ軍は産業地帯や都市への重爆撃を可能にする空軍基地と日本海域を封鎖し、さらに九州と本州に上陸する作戦を準備するための海軍基地を確保できた。アメリカは日本に対する最後の攻撃を計画し、717日から82日に行われたポツダム会談でスターリンからソ連の対日参戦の約束を取り付けていた。

ポツダム会談では、日本に対する戦勝終結の条件として、軍国主義の除去、領土の占領、領土の縮小、武装解除と軍人の家庭復帰、戦争犯罪人の処罰、民主主義の確立、平和産業の確保、そして日本政府が直ちに日本軍の無条件降伏を宣言することが示された他、以下の点が決定された。ドイツに対する200億ドルの補償金請求を放棄する代わりにソ連に東側占領地域の有用な物資と西側占領地域の主要な設備の徴収を賠償として行わせることを認めた。ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランドなどの係争地域に住む650万人のドイツ人をドイツに移送する。ナチスの指導者を戦争犯罪で裁く国債軍事法廷を設置する。ドイツ経済を農業主体の経済に転向させ、強力なカルテルを廃止し、非軍事的な物資のみ生産を認める。五大国を代表する外相会談によって、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、フィンランド、ドイツに関する講和条約を準備する。726日、連合国は日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を公表した。

 「1、我々、合衆国大統領、中華民国政府主席並びに英国首相は、その数億の民を代表して協議し、日本に終戦の機会を与えることに同意した。2、合衆国、イギリス帝国、中国の巨大な陸海空軍は、西方より幾倍にも陸空軍を増強され、今や日本に最後の打撃を与えようとしている。日本が抵抗を止めるまで、この軍事力は対日戦争を遂行しているすべての連合国の決意により支援され、鼓舞されるものである。3、立ち上がった世界の自由な諸国民に対するドイツの空しい無意味な抵抗の結果は、日本国民にあまりにも明白な前例を示している。日本に対して現在集結しつつある力は、かつてナチスの抵抗に対して投入され、全ドイツ国民の土地、産業、生活様式を必然的に荒廃させた力よりも計り知れない程強大である。我々の決意に基づきこの武力が全面的に発動されれば、それは不可避的に日本軍の完全な粉砕と日本本土の同じく不可避にして完全な破壊を意味せざるを得ない。4、日本にとって決断の時が来た。無分別な打算によって日本帝国を滅亡の淵に陥れた利己的な軍国主義助言者に引き続き支配されるのか、あるいは理性の道を選ぶのか。5、我々の条件は次の通りである。我々がこの条件から離れることはない。いかなる代案もあり得ない。また猶予も認めない。6、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまで、平和、安全、正義の新秩序は不可能であると我々は信じる。それ故、日本国民を欺き、世界支配へと導いた者の権力と勢力は永久に抹殺される。7、このような新秩序が樹立され、かつ日本の戦争遂行能力が破壊されたと確信に足る証拠が示されるまで、連合国の指定する日本領土内の諸地点は、ここに記す基本目的を達成するために占領下に置かれる。8、カイロ宣言の諸条項は実施され、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及び我々の定める諸小島に限定される。9、日本軍隊は完全に武装解除された後、各自の家庭に帰り、平和的、生産的な生活を営むことを許される。10、我々は日本人を民族として奴隷化し、国民として滅亡させることを意図しない。しかし我々の捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人を厳格に処罰する。日本政府は、日本国民のうちに民主的傾向が復活され強化されるようにそれに対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由、並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない。11、日本は、戦争のための再分業を可能にする産業は別として、その経済を支え、正当な現物賠償を行うための産業の保持を許される。そのため原料を支配してはならないが、これを入手することは許される。いずれ日本は世界貿易関係の参加を認められる。12、上記の諸目的が達成され日本国民が自由に表明した意思に基づいて平和的傾向を持つ責任ある政府が樹立され次第、連合国占領軍は日本から撤退する。13、我々は、日本政府が直ちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言し、それを誠意を以って行っていることを適切十分に保証する措置を取ることを要求する。日本にとってそれ以外の選択は迅速にして完全なる破壊のみである」[iii]

ポツダム宣言が公表されても日本政府は降伏しなかった。アメリカの軍事指導者は日本を征服する作戦で少なくとも50万人の兵士が犠牲になると見積もっていた。そうした犠牲を払うことなく日本に抵抗を放棄させるために、もし日本が83日までに降伏しなければ原子爆弾を使用することをトルーマンは決断した。トルーマンが原子爆弾の投下を決意した時に書かれた1980年に公開された覚書によれば、トルーマンは原子爆弾の使用が世界に終わりをもたらすのではないかと恐れていたという。その一方、スティムソン陸軍長官は様々な助言者から意見を集めた。その中には原子爆弾の製造に関わった科学者も含まれていた。科学者達は、原子爆弾の威力を試験的に示すだけでは日本を降伏させることはできないと結論付けた。原子爆弾の威力を日本に実感させるためには軍事的使用以外に選択肢はないと科学者達は判断した。また政治的理由として原子爆弾の使用は明らかに戦後のソ連の行動を抑制する示威行動の意味を持っていた。つまり、アメリカの目標は、ソ連の対日参戦を待たずに原子爆弾によって日本を速やかに軍事的に降伏させることであった。ポツダム会談後、トルーマンは以下のように国民に語っている。

「イギリス、中国、そして合衆国政府は、彼らに何が待ち受けているか適切な警告を日本国民に行った。我々は日本国民が降伏できるような一般的な条項を主張している。我々の警告は無視された。我々の条件は拒否された。それから日本人は原子爆弾が何をなすことができるか見た。日本人は原子爆弾が将来するであろうことを予見することができる。世界は、最初の原子爆弾が軍事基地である広島に投下されたことに注目するだろう。それは、我々が、最初の攻撃で市民を殺害することをできるだけ避けようとしたからである。しかし、かの攻撃は、やがて来るべき事に対する警告に過ぎない。もし日本が降伏しなければ、爆弾を日本の軍需工場に投下しなければならないし、その結果、不幸にも何千もの市民の命が失われることになるだろう。私は、日本の市民に工業都市から即座に立ち去り、破壊から自分の身を救うよう促す。私は原子爆弾の痛ましい重要性を認識している。原子爆弾の製造と使用は、当政府により軽々しく行われたわけではない。しかし、我々は、敵が原子爆弾を探求していたことを知っていた。今、我々は、敵が原子爆弾を発見までどのくらい間近なところまで迫っていったのか知っている。そして、我々は、敵が原子爆弾を先に発見すれば、我が国と平和愛好諸国、そしてすべての文明に降りかかったであろう災厄を知っている。それこそ我々が、長く不確かで苦労して原子爆弾を発見し製造に強いて取り掛からなければならないと感じた理由なのである。我々はドイツとの開発競争に勝った。原子爆弾を発見して、我々はそれを使用した。我々は原子爆弾を、パール・ハーバーで警告も無く我々を攻撃した者達に対して、アメリカ人戦争捕虜を飢えさせ、打ち、処刑している者達に対して、そして、戦時の国際法を遵守する素振りさえまったく見せない者達に対して使用した。我々は原子爆弾を、戦争の苦痛を短くするために、無数のアメリカの若者の命を救うために使用している。我々は、日本の戦争遂行能力を完全に破壊するまで原子爆弾の使用を続けるだろう。日本の降伏のみが我々を止めることができるだろう」[iv]

194586日に広島に原子爆弾が投下され、放射能で1年以内に亡くなった人も合わせると25万人以上が亡くなった。日本が依然として降伏しないのを知ったトルーマンは、さらに89日に長崎に原子爆弾を投下するように命じた。翌日、日本は講和交渉に入ることを認め、92日にミズーリ号上で正式に降伏文書の調印がなされた。原子爆弾の実用化は大統領に絶対的な破壊力を管理するというこれまでにない新しい権限を与えた。第2次世界大戦のおけるアメリカの死傷者は、292,000人が軍事作戦で死亡し、115,000人がその他の原因で死亡し、672,000人が負傷した。

 トルーマン政権が始まった当初、南部や大都市の指導者と宥和を図るために1944年の大統領選挙で副大統領候補に指名されたトルーマンが、戦争末期に国中で強くなった保守主義的な傾向にたやすく応じるのではないかと見られた。保守派議員はトルーマンがニュー・ディールを終わらせてローズヴェルトの支持者に衝撃を与えるのではないかと思っていた[v]

しかし、トルーマンは194596日に議会に向けた教書の中でフェア・ディールを公表した。トルーマンは回顧録に「立法計画は、民主党に、国家に、そして議会に、政府の進歩は我々の私企業の制度に関する健全な改革に至る道とともにあること、そして、革新主義的な民主主義は変化した条件の中で速度を保って継続することを思い出させた」と記している[vi]。もはやアメリカは資本主義体制を維持するために、実質的に19世紀的な夜警国家に戻ることはできず、福祉国家としての道を進まなければならないという信念をトルーマンは示した。フェア・ディールの理念は1948年の大統領選挙に勝利した後で示された1949年の一般教書で以下のように詳しく述べられている。

「我が国はかつてなかった程、アメリカ国民の必要に応え、国民に幸福の追求のために公平な機会を与えることが可能となっている。合衆国国民は自らの道を歩み、自らの力に自信を持って、世界の未だかつて知らなかった最大の繁栄を成就したのである。しかし、我々の進歩は偉大なものではあるが、我々の前途は猶、遼遠である。現在、我が国の繁栄は、アメリカ経済の幾つかの重要部分にインフレーションの圧力がかかっていることによって脅かされている。政府はこれらの危険な部分に対して有効に対処し得るような体制にならなければならない。そのために、私は次のような目的を持った立法を行うように勧告したい。もしアメリカ経済を高水準で回転させていこうとするのであれば、国民各層に対して、国家の福祉に十分寄与するように刺激を与えなければならない。現在我が国の労働者は、彼らの権利を縮小し、彼らの建設的努力を削減し、我が国の自由な団体交渉制度を阻害している法によって、不当な差別待遇を受けている。この法とは、1947年の労使関係法、いわゆるタフト=ハートリー法である。この法は撤廃されるべきである。ワグナー法が復活されるべきである。アメリカ経済を健全に保ち、高水準に維持していくためには、さらに法によって定められた最低賃金の少なくとも1時間75セントまで引き上げなければならない。もし我が自由企業経済を強化し、健全なものにしようとするのであれば、競争力を回復させなければならない。小企業に対してその発展と繁栄のために、自由と機会を保障しなければならない。この目的のためには独占禁止法を強化して、独占的な併合や結合を可能としている抜け穴をふさがなければならない。単に農民の利益のためだけではなく、全国民の永続的な繁栄のためにも、我が国の農業計画は改善されなければならない。我々の目標は豊富な農業生産であり、農業に対する価格の均等である。農村における生活水準を我が国のいずれの地帯におけるのと同様、良好なものとしなければならない。この目的を達成する計画にとって、農産物の価格支持は欠くことはできない。価格支持を活用して、農産物の価格が下落することを防止し、また消費者需要に生産を調整し、有効な土地利用を促進しなければならない。穀物に対する十分な貯蓄場を設けるために商品信用会社の機能を回復しなければならない。農村の繁栄計画のためには、または農産物に対する国内市場を殊に低額所得者層の間に拡大し、かつ外国市場を開拓安定させなければならない。アメリカの増大する人口と経済の拡大は、我が国の土地、水、森林、鉱物などの資源の保存に依存するところが大きい。発電、灌漑、航行、氾濫防止のために河川開発を推進しなければならない。テネシー川流域開発の経験を生かして、他の大河川流域地帯にも適用しなければならない。現在の社会保障法の適用範囲は極めて不十分であり、補償金額はあまりにも少額である。失業、老年、疾病、癈疾による経済的損害に対して、補償金額の点でも適用範囲の点でも社会保障制度を拡大しなければならない。我が国における健康の一般的水準を上げることに努力を惜しんではならない。我が国のような富裕な国において、数千万の人々が十分な医療を受けていないということは驚くべきことである。我々は、医師、病院、看護婦に不足している。これらの不足を補うなければならない。さらに我々は、前払い医療保険制度を確立し、すべてのアメリカ国民に十分な医療を与えることができるようにすることが必要である。それも早急になされなければならない。我が国の数百万の児童が十分な教育を受けていないということは、これまた驚くべきことである。何百万の児童が定員を超過した古びた教室で授業を受けている。教師が不足している。これは教師の俸給があまりに低く新しい教員を招聘したり、現在の教師を引き留めたりすることができないためである。各州がその教育制度を運営維持していくことを助けるために、各州に対して連邦の資金援助を早急に与えることが必要であることは幾ら強調してもし過ぎることはない。住宅難は依然として深刻である。応急の対策として連邦議会は低家賃公共住宅、スラム街一掃、農村住宅建築、住宅調査のための立法措置をとるべきである。これは私が繰り返し勧告してきたことである。立法化されるべき低家賃公共住宅の戸数は次の7年間に100万戸に増加させなければならない。この戸数を以ってしても未だに新住宅に対する需要には応じかねるであろう。我々の進歩の背後にある推進力は、我々の民主主義的制度に対する信念である。この信念は、我が共和国の建設者達がアメリカ国民と全世界に対して宣言した平等な権利と平等な機会についての公約の中に表明されている。この公約を実現することは、合衆国政府の最高目的の1つである。私は第80議会に対して行った公民権の提案を、今、第81議会に対しても繰り返し行いたい。公民権の提案は連邦政府が指導性を握り、憲法によってはっきりと課されたその義務を果たすために立法化されなければならない。私は農民から、労働者から、または実業者からの協力を願う。我が国民のいずれの層も、いずれの個人も、皆、その政府からフェア・ディールを期待する権利を持っている」

フェア・ディールはローズヴェルトが目指した戦後の経済秩序を法制化する試みである。ローズヴェルトは1944年の一般教書で、人種、信条、地位に拘わらずすべての人に安全と繁栄を約束する第2の権利章典の実現を唱えた。ローズヴェルトの目的を叶えるために、トルーマンは、連邦政府はすべての人々に有用な十分な報酬のある仕事、医療、住宅、そして教育を保障する必要があると論じた。トルーマンが議会に提案した計画は、戦後の経済生活で必要不可欠な権利を獲得するための計画であった。フェア・ディールは社会保障の拡充、最低賃金の上昇、国民健康保険の導入、都市開発、そして完全雇用を目指した計画である。しかしながらトルーマンは自らの国内政策をほとんど実現できず、1946年の中間選挙はフェア・ディールへの拒絶のように思われた。共和党の選挙運動は、ローズヴェルトとトルーマンによるリベラリズムの過剰を訴えるものであった。16年振りに共和党は多数党の座を民主党から奪還した。多くの人々はローズヴェルトが去った今、民主党は生き残れないのではないかと思った[vii]

  第80議会でニュー・ディールを解体しようとする共和党のあらゆる試みにトルーマンは対抗した。トルーマンは200回以上の拒否権を主に税制や労働政策といった分野で行使した。ローズヴェルトを悩ませたのと同じ共和党と南部の民主党の保守派の連合は、しばしばトルーマンの拒否権を覆した。議会の圧倒的な反対を意に介さないトルーマンの姿勢は、たとえ大統領の提案が非難にさらされる場合でも、政治的な議論の主題を設定するのは大統領であると、最も保守的な政治的指導者を除くすべての人々に納得させた。

トルーマンの最も重要な拒否権の行使は、タフト=ハートリー法案に対する行使である。同法は、ワグナー法を修正し、労働組合と雇用主に責任を分担させ、労働組合側が経済的圧力をかけることを不当労働行為と規定することでその自由を制限した。また同法は、労働組合員だけを雇用することの禁止、ストライキ前に60日間の冷却期間を設定すること、労働組合の政治献金の禁止、共産党とは無関係であることを労働組合員に宣誓させることなどを求め、労働組合に対する攻撃と見なされた。さらに同法は、全国規模のストライキによって国家が非常事態に瀕した場合、政府が連邦裁判所を介してストライキ中止命令を下すことができると定めている。1947620日、トルーマンは議会に拒否教書を送付し、タフト=ハートリー法案はアメリカの労働政策の基本方針を覆すと批判した。タフト=ハートリー法制定以前は、1935年に定められたワグナー法により、労働者の諸権利に対して法的根拠が与えられていた。ワグナー法はニュー・ディールの革新的な成果の1つであり、それ故にタフト=ハートリー法の適用は労働者の権利を損なうものだとトルーマンは反対したのである。トルーマンの拒否権は覆されタフト=ハートリー法案は成立したが、労働者と中層階級のリベラル派の支持がトルーマンに集まった。

国内政策をめぐる議会との関係で限定的な成功しか収められなかったトルーマンだが、公民権に関して独立した大統領の行動をとる妨げとはならなかった。1946125日、トルーマンは大統領令で大統領公民権委員会を設立した。同委員会は、連邦が保障する公民権の問題全体について調査報告を行う権限が与えられた[viii]。トルーマンは少数者の権利の熱心な推進者ではなかったが、当時の大部分の政治家よりも人種差別に対して何か対策をとろうとしていた。

黒人は1936年に初めて民主党の連合の重要な部分となっていたが、ローズヴェルトは不公正な南部の人種隔離政策に対してほとんど何もしなかった。しかし、第2次世界大戦によってトルーマンは黒人問題を扱わなければならなくなった。戦争中、100万人以上の黒人が多くの選挙人を抱える大きな州に移住した。さらに冷戦によって、トルーマン政権は、ソ連とアフリカ、アジア、そしてラテン・アメリカで影響力の拡大を競い合う際に人種差別はアメリカの不利になることを認識させられた。最終的に、トルーマンは南部の議員に議員と緊密な繋がりを持ち、南部に強い共感を抱く政治家であったが、大統領はすべてのアメリカ人の基本的権利を支持する義務があると信じていた。

トルーマンの主導で開始された人種的不公正に関する全国的な調査は、南部再建の終了以来、長らく忘れられていた重要な問題を再び提起した。南部の民主党の保守派の議員は、トルーマンの公民権に関する提案を妨害した。トルーマンは大統領公民権委員会の報告に基づいて立法措置を議会に提案した。議会が大統領の要請に応じないことを知るとトルーマンは大統領の権限でできることを行った。19487月、トルーマンは2つの大統領令を出した。まずトルーマンは最高司令官の権限に基づいて人種、宗教、原国籍に関係なくすべての兵士に平等な機会を与えるように命じた。この命令は明白に人種差別を非難しているわけではないが、トルーマンはアメリカ軍の統合を準備する委員会を設置した。さらにトルーマンは連邦職員の人種差別を禁じ、採用を監査するために公正採用委員会を設置する命令を出した。この命令はウィルソン政権で行われたような人種差別的な採用慣行を撤廃することを目的とした。

トルーマンの公民権に関する大統領令は、南部の白人の民主党員を離反させ、民主党の伝統的な選挙基盤を損なう恐れがあった。実際、1948年の民主党の党大会が公民権に関する綱領を採択した後、サウス・カロライナ州知事のストロム・サーモンド(Strom Thurmond)は白人優越主義者の支持者とともに離反して第三政党を結成し、トルーマンの当選を脅かした。州権民主党の大統領候補として大統領選挙に参戦したサーモンドは南部の4つの州で勝利した。ミシシッピ州では87.2パーセント、アラバマ州では79.7パーセント、サウス・カロライナ州では72パーセント、ルイジアナ州では49.1パーセントの一般投票を獲得した[ix]。州権民主党の目的は、トルーマンが過半数の選挙人を獲得するのを阻止することであった。そうすれば大統領の選出は下院に委ねられることになり、南部の支持を得るためにトルーマンは公民権に関して譲歩しなければならなくなるだろうと州権民主党は期待したのである。サーモンドの勝利によってトルーマンは39人の選挙人を失っただけであったが、公民権に関するトルーマンの政策は民主党内の亀裂を広げた。その結果、多くの南部の白人が民主党から共和党に支持を変えた。これ以上、党内の亀裂を広げないために1948年の選挙で勝利した後、トルーマンは公民権に関する政策をあまり強調しなくなった。それにも拘わらず、トルーマンが行政権を行使して公民権を推進したことは、黒人にとっても近代的大統領制度にとっても重要な意義を持った。

 2次世界大戦が終結した時、アメリカは、戦勝国の中で突出した有利な立場を得ることになった。アメリカ本土はまったく戦災にさらされることなく、戦時経済で肥大化した生産手段がそのまま残されていたからである。1946年のアメリカの鉱工業生産高は資本主義世界全体の62パーセント1947年のアメリカの金保有額は229億ドルで世界全体の66パーセントを占めていた[x]。経済面だけでなく軍事面でも第2次世界大戦を挟んで大きな変化が見られた。兵員数は、第2次世界大戦前と大戦後ではまったく異なり1940年に45万人だった現役兵員数は、第2次世界大戦中に比べると格段に少ないとはいえ、冷戦期最少の1948年でも144万人に達するようになった。アメリカは平時でも多くの兵員を抱える国家に変貌したのである。また国家歳出に占める名目国防費の割合も飛躍的に増大し、1940年は16.5パーセント(国内総生産の1.4パーセント)を占めるのに過ぎなかった国防費が、平時経済に戻った1947年でも37.0パーセント(国内総生産の5.8パーセント)に達し、冷戦期の中で最も低い値を示した1980年でも22.7パーセント(国内総生産の4.7パーセント)を占めていた。中でも1951年から1970年までの間は軒並み40パーセントを超えていた。冷戦期を通じてアメリカの軍事費は、世界の軍事費の2割から4割を占めていた。他に名目輸出高も1940年の412,400万ドルに対して、1946年の1176,400万ドルと大きく躍進し、毎年100億ドル台を超えるようになった[xi]

 アメリカは、戦後の世界構想として自由貿易に基づく国際秩序を提示した。もちろんそれだけにとどまらず、アメリカは、国連救済復興機関を通じて、他国と協力して緊急性を要する戦災救済を行った。国連救済復興機関は1943119日に発足した組織で、枢軸国の占領から解放された地域を戦災から救うことを主目的とした。アメリカは、国連救済復興機関に出資総額の68パーセントにあたる266,800万ドルを出資した。救済対象国は、主に東欧諸国で後にイタリア、オーストリアが加えられた。しかし、ドイツと日本は終戦後も対象とはならなかった。アメリカが出資金の大部分を拠出していたとはいえ、援助を政治的に利用することは禁止されていた[xii]

 アメリカ国内では、政府が国連救済復興機関に出資することに対する批判が徐々に強まった。ソ連に対する不信感の強まりが原因である。ソ連は、国連救済復興機関による援助が東欧諸国でどのように使われているかを報じようとした記者に対して検閲を行ったり、国連救済復興機関による援助が適正に使われているかどうかを、アメリカが調査しようとしたのに協力しなかったりした[xiii]。こうしたソ連の姿勢もあり、国連救済復興機関が、東欧諸国の支配強化を目論むソ連に利用されているという批判が相次いだ。そのためアメリカ政府は、1947年、国連救済復興機関への出資を差し止めた。資金不足により機能停止に陥った国連救済復興機関はほどなくして解散を余儀なくされた[xiv]

このようなソ連との軋轢が表面化する前、アメリカは戦後の世界構想について極めて楽観的な見方をしていた。第2次世界大戦終結を見ることなく急逝したフランクリン・ローズヴェルトは、戦後の世界構想として、アメリカ、イギリス、ソ連、そして中国の4人の警察官が協力して世界平和を維持する枠組みを考えていた[xv]。そうしたローズヴェルトの世界構想は、すべての加盟国で構成される総会と四大国にフランスを加えた五大国から構成される安全保障理事会という二重構造を持つ国際連合として実現した。そして、帝国主義に基づく植民地の宗主国との関係は、自由貿易に基づくアメリカとの温情的互恵関係に取って代わると考えていた。しかしながら戦争終結直後は、何よりも先に世界各地に展開する兵士達を母国で待つ家族のもとに戻すことが優先課題であった[xvi]。第2次世界大戦が終結した今、世界に対する責任をようやく果たし終えたというのが多くのアメリカ人の気分だった。大部分のアメリカ国民は、戦後の世界平和を維持するための手段としてヤルタ会談を支持していたし、アメリカとソ連の相互理解と信頼を深めようとするローズヴェルトの努力を評価していた[xvii]。しかし、米ソ関係の悪化によりそうしたアメリカ国民一般の希望とローズヴェルトの戦後構想は脆くも崩れ去ることになる。

アメリカは、20世紀に2度の大戦を経験したが、必ずしも積極的に参戦したわけではない。アメリカ国民は、第1次世界大戦を「ラファイエットに借りを返す」ものだと表現していた。アメリカが世界情勢に関与するという明確な意志は見られない。そのことは、第1次世界大戦後に、国際連盟加盟を国民に広く訴えて世論を喚起することにより、議会に圧力をかけてそれを承認させようとしたウィルソンの目論見が失敗に終わったことからも分かる。

 ただ第1次世界大戦後と第2次世界大戦後では、単に孤立主義傾向といってもかなりの差があったことは確かである。第2次世界大戦中、アメリカは海外に領土を求める代わりに基地を設けるべきだという意見が徐々に強まっていた。国際連合加盟についても、圧倒的多数の国民が、侵略を阻止するために自国の軍隊を派遣することがあっても、アメリカは加盟するべきだと考えていた。しかし、こうした態度は、アメリカが積極的に世界情勢に関与し、責任を負い続ける必要性を国民が感じていたことによるのではなく、2度にわたる世界大戦の経験から、そうした惨禍が再び起こらないように願う心情によるものである。

しかし、このように楽観的な気分も、1945年末から1946年初頭のイラン問題を初めとする一連のソ連の行動に対する国民の不信感によって急変することになった。19451118日、イランの一部であったアゼルバイジャンで革命が起き、同月20日、イラン政府は、アメリカに、ソ連がアゼルバイジャン革命を支援するのを止めさせるように求めた。123日、ソ連は、194611日までに連合軍全部隊をイランから撤退させようというアメリカの提案を拒絶した。ソ連軍のイラン駐留期限は、1942年の協定によると本来、194634日だったが、ソ連はそれを守らなかった。さらにソ連はアゼルバイジャンでの駐留継続を表明した[xviii]

19458月のギャラップ世論調査によると、54パーセントの回答者が、ソ連と協調して戦後世界を築いていけると感じていたが、同年10月半ばには44パーセント、19462月末には35パーセントと下落し、さらに3月半ばには、ソ連の外交政策を容認できると答えた回答者は僅か7パーセントであった。アメリカ人の目には、スターリン率いるソ連が、勇敢なる同盟者ではなく、残忍で全体主義的で帝国主義的な存在として徐々に映るようになったのである[xix]。しかも、ソ連がアメリカよりも強力な原子爆弾を持っているという噂が流布し、国民のソ連に対する不信感は募る一方であった。その一方でトルーマンは、少なくとも1945年末まで、もしソ連が自国の安全保障を最大の関心事にしているのであれば、米ソの争点を解決する見込みはまだあると考えていた[xx]

トルーマンが米ソの協調を図ろうとしていた一方でスターリンは194629日に、資本主義への敵意をあらわにした演説を行った。アメリカ政府内の強硬派はそれを「遅れてきた宣戦布告」と呼んだ。スターリンの演説は、アメリカの指導層に大きな影響を及ぼした。そして後にソ連封じ込め政策の主唱者として知られるようになったジョージ・ケナン(George F. Kennan)222日に国務省に打電した米ソ関係に関するレポート、いわゆる「ロング・テレグラム」に指導層の関心が寄せられるようになった。その内容の骨子は、ソ連はアメリカとの真の和解が不可能と考えているので、ソ連の過剰な勢力拡大に宥和的に対応するべきではないというものである[xxi]。ケナン自身の回想によれば、このロング・テレグラムが、「ワシントンに及ぼした影響はまさしくセンセーショナル」なものであった[xxii]。ケナンは、指導層がロング・テレグラムに多大な関心を示したことに驚きを示している。ケナンの驚きにも拘らず、ロング・テレグラムが受け入れられたのは、まさにそれが指導層の不安を裏付けるものであったからである。

 こうした状況で、ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)国務長官は、228日、米ソの友好関係を再確認したが、その一方で政治的浸透や強制、圧力によりなされる侵略を認めない旨を発表した[xxiii]。アメリカの政策決定者達は、ソ連は自国の安全保障だけに関心があるだけだという考え方に疑念を抱くようになり、これ以上、ソ連に対して譲歩すべきではないと考えるようになった。ソ連はもはや戦友ではなく、潜在的な敵国に変化しつつあった。

トルーマン自身にもこの頃、決定的な態度の変化が起きる。トルーマンはバーンズに向かってソ連にもはや宥和的に接するべきではないと述べた。トルーマンがこのように述べたのは、ヴィヤチェスラヴ・モロトフ(Vyacheslav M. Molotov)ソ連外相がトルコに、1921年にソ連がトルコに割譲した領土を返還するように要求したのが直接の原因である。815日の会議でもトルーマンは、いかなるソ連の侵略に対しても可能な限りの手段を使って我々は抵抗すると決定すべき時が来たという軍部の結論に対して支持を与えている[xxiv]

 トルーマンが一定期間、ソ連に対する真情を隠していたのとは対照的に、チャーチルは、もはや共産主義の脅威を表明するのに吝かではなかった。ソ連が核の機密を手に入れ、戦後の紛争や混乱の中でその目的を成就するために、それをためらわず利用することをチャーチルは戦時中から恐れていた[xxv]。チャーチルは終戦前からトルーマンにソ連の脅威を訴え、ソ連と事前に合意した境界を越えて東進した英米軍に関して、東欧問題について満足すべき回答が得られるまで撤退すべきではないと要請した。トルーマンは米ソ関係の悪化を望まず、アメリカ軍を事前の合意に従って撤退させるように指示した。そして、ソ連にローズヴェルト政権の外交政策を継承することを約束していた。19463月5日にミズーリ州フルトンでチャーチルは、「世界市民」として、いわゆる「鉄のカーテン演説」を行った。

 チャーチルは、アメリカが未来に対する畏敬の念を抱かせる説明責任を持ち、今まさに世界列強の頂点に位置していると賛辞を述べた。そのうえで国際共産主義が世界各地で全体主義的統制を諸国民に押し付けようとしているとアメリカ国民に警告した。さらにチャーチルは、ソ連が権力の無制限の拡大を望んでいると述べた[xxvi]

トルーマンは、チャーチルのミズーリ州への旅行の案内人を務め、演説にも臨席しているが、鉄のカーテン演説を支持するという公式表明、もしくはチャーチルとの共同声明などは発表していない。それはトルーマン政権がチャーチルの演説にまったく無関心であったわけではない。事実、トルーマン政権は、チャーチルの演説に対する国民の反応を注意深く見守った。世論は概ねアメリカがイギリスと協調してソ連に対抗する考えに否定的であった。

トルーマンは鉄のカーテン演説をよくできていると思っていたが、まだそれを支持する用意ができていないと考えていた[xxvii]。そのため、トルーマンは、鉄のカーテン演説に対して距離を取ることを決断し、ニュー・ヨークで開催されるチャーチルの歓迎会に出席しないようアチソンに指示した[xxviii]

チャーチルの主張を黙認しながらも、トルーマンのソ連に対する姿勢はあくまで宥和的であった。当時のアメリカの立場は、どちらかと言うと米ソ間における衝突よりも、イギリスとソ連の衝突を憂慮しているという立場であった。トルーマンは、イギリスとソ連が中東で覇権を争うことは戦争につながると警告し、中東諸国の主権を守るために国際連合が行っている活動をアメリカは支援すると表明している[xxix]

トルーマンのソ連と宥和しようとする努力にも拘らず、モロトフは527日、英米ブロックが、経済援助を通じて様々な国々に経済的影響力を及ぼそうし、自らの目的を達成する手段としようとしていると非難した。翌28日、バーンズ国務長官はこのモロトフの非難に対する反撃として、ソ連がドイツの産業解体に関する同意を拒否したと非難した[xxx]

トルーマンはソ連とアメリカがこれ以上、相互に権益を認めあうことなど不可能だと考えるようになった。そこでトルーマンはクラーク・クリフォード(Clark M. Clifford)にソ連が国際条約をどのように破っているのかを調べるように指示した。クリフォードはジョージ・エルゼイ(George M. Elsey)の助言を求めた。なぜならエルゼイはホワイト・ハウスの中で大戦中の連合国の関係について様々な情報を得る機会があったからである。エルゼイは、単に事実を集めるだけではなく、ケナンの電報で示された分析と政策形成に関与する人々の見解の間にある溝を埋める必要があると助言した。その助言を受け入れてクリフォードはエルゼイとともに各省庁を回り、米ソ関係に関する見解をまとめた[xxxi]

この結果は「アメリカの対ソ連関係」という報告書、いわゆるクリフォード・エルゼイ報告書にまとめられ、1946924日にトルーマンに提出された。翌日、クリフォードはトルーマンから報告書の写しをすべて渡すように指示を受けた。トルーマンは、この報告書が外部に漏洩するのを恐れて秘匿したという。マーガレット・トルーマン(Margaret Truman)の回想によれば、報告書をほとんど徹夜で読んだトルーマンは、翌朝、「この報告書は鍵をかけて封印しなければならない。あまりに過激であるし、もし今、明らかにしたら非常に良くない影響が生じる」と語ったという[xxxii]。クリフォード・エルゼイ報告書は、ソ連を抑止する十分な軍事力をアメリカが維持する必要性とソ連の脅威にさらされている民主主義国家への支援の必要性を論じた。トルーマンはこうした報告がソ連への非難と判断されるのを避けるために公表を避けようとした。

その頃、米ソ関係について言及することにトルーマン政権が敏感になっていたことはウォレス演説問題からもはっきりと分かる。1946912日に、ニュー・ヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでヘンリー・ウォレス(Henry A. Wallace)商務長官は、トルーマン政権の外交政策を非難する演説を行い、西側諸国がソ連の要望を認識しようとせず、ソ連に資本主義世界に対する疑念を抱かせるような政策を進めていると非難した。ウォレスはかねてよりトルーマン政権内で、ソ連はアメリカにとって何の脅威にもならないと主張していた。ソ連は単に人々の生活水準を上げる競争をアメリカとしているだけだとウォレスは主張し、ソ連との友好関係維持は可能であるとした。

 一連の騒動の後、トルーマンはウォレスを罷免した。トルーマンは、ウォレスの免職を伝えるとともに、アメリカの外交政策の一貫性を強調した。もともとトルーマンとウォレスの間に確執があったことも1つの原因であるが、ソ連への不信感を強めたトルーマンがソ連に対して強硬な姿勢をとることを検討し始め、閣僚の意見統一を図ったことも原因である。

 1947221日、ギリシアに対する軍事的、経済的援助を打ち切るとイギリスがアメリカに通達した。アメリカは、イギリスが手を引くことでギリシアとトルコがソ連の影響下に入ってしまうことを恐れた。ソ連が両国を足掛かりにしてさらにヨーロッパや中東まで勢力を拡大する危険があると考えたからである。アメリカもギリシアとトルコに対して援助を既に行っていたが、トルーマンはイギリスに代わってアメリカがさらなる援助をしなければならないと結論を下した。

しかし、援助を行うためには大きな問題があった。戦時中、アメリカは莫大な戦費を費やしたので、議会は財政を緊縮させようとしていた。またトルーマンは政治的指導力に不足していた。トルーマンには複雑な党派的利害を調整しつつ独自の政策に統合していく十分な指導力はなかった。そのような中でさらなる援助を議会に認めさせることは非常に困難であった。そのためトルーマンは国際共産主義の脅威という強度なイデオロギー的名目を訴えかけることで議会を説得しようとした。

「今日、国家としてのギリシアの存立そのものが、共産主義者の指導の下にテロ活動を行う数千の人々によって脅かされている。彼らは当該政府の権威を至る所で侵犯し、特に北部国境地帯において、その活動が甚だしい。国連安全保障理事会によって指名された調査委員団が現在、北部ギリシアの動乱の実情と、一方にギリシア、他方にアルバニア、ブルガリア、ユーゴスラビアをひかえる辺境地帯における国境侵犯の申し立てについて調査を行っている。この間、ギリシア政府の能力によっては事態に対処することは不可能となっている。ギリシア国軍は兵力が少なく、かつその装備は弱体である。ギリシア国土全体にわたって政府の権威を回復するためには装備補給が必要とされている。ギリシアが自立自尊の民主主義国となるためには援助が必要である。合衆国がこの援助を与えなければならない。我々は既にギリシアに対して、ある種の救済並びに経済援助を行ってきたが、それらはまだ十分ではない。民主主義ギリシアが頼りにできる国は他にはない。民主主義ギリシア政府にその必要とする支援を与える用意と実力を持つ国民は他にはないのである。今日までギリシアを援助してきたイギリス政府は、331日以降、いかなる財政的経済的援助も与えられないことになった。イギリスはギリシアを含む全世界各所において、従来の責任を軽減ないし清算せざるを得なくなったのである。我々は現下の危機において国際連合がいかに援助を与えるかについても考慮した。しかし状況は切迫していて即刻の行動を要する。そして国際連合やその関係機関はその性質上、目下要求されているような援助を与える地位にはないのである。ギリシア政府は、我々に対して我々がギリシアに与える財政的その他の援助の使用にあたっても、それを最も有効に利用すべく助力すること、さらに政府行政の改革も助けることを希望しているという点が、ここで注目されなければならない。ギリシアに与えられるあらゆる資金が我々の手によってその使用を管理され支出されるすべての資金がギリシアを自立へと導き、健全な民主主義が栄えることのできる経済的地盤を確立する役に立つように用いられるということは極めて重要である。いかなる政府といえども完全ではない。しかしながら民主主義の主たる長所の1つは、その下においては欠陥が常に隠されることなく明らかであり、民主的政治過程の下で指摘され、矯正され得るという点にある。ギリシア政府は完全ではない。しかしそれは昨年の選挙によって選出されたギリシア国会議員の85パーセントを代表するものである。692人のアメリカ人を含む外国人の観察するところによれば、この選挙はギリシア国民の意見の公正な表明であったと見なされている。ギリシアの隣国トルコに対しても我々は注意を払わなければならない。独立国にしてかつ健全なる経済を持つ国家としてのトルコの将来は、全世界の自由を愛する人々にとってギリシアの将来に劣らぬ重要性を持っている。今日、トルコの直面している状況は、ギリシアのそれとはかなり異なっている。トルコはギリシアを苦しめたような惨害を被らずにすんだ。そして戦争中に合衆国とイギリスはトルコに対して物資援助を行ってきた。それにも拘わらず、トルコは現在我々の支援を必要としているのである。戦争以来、トルコはその国家的統一を維持するうえで必要な近代化を実現するために、イギリス及び合衆国に対してより一層の財政援助を求めていた。彼らの統一は中東地域における秩序の維持にとって必要不可欠である。合衆国の外交政策の主要目的の1つは、我々自身及び他の国の人々が圧政からの自由の下に生活することのできる条件を作り出すことにある。ドイツ及び日本との戦いにおける基本的な課題はこれであった。我々が勝利を収めたのは、他国に対し、自らの意思を強制し、自己と同様の生き方をしようとする国々との戦いにおいてであった。圧政からの自由の下に、諸国民の平和な発展を保障するために、合衆国は国際連合創設に指導的役割を務めたのである。国際連合は、加盟国すべてが自由と独立を永続させることができるようにしている。もし我々が、全体主義的な体制を押し付けようとする攻撃的な動きに対して自由諸国民が、自由な制度と国家の統一を維持できるように進んで支援しなければ、我々は我々の目的を実現させることはできない。直接的、間接的な攻撃により自由諸国民に押し付けられた全体主義的な体制は、国際平和の根幹を損ない、それ故、合衆国の安全を損なうということは率直な認識に他ならない。世界の数多くの国民が、最近、その意思に反して全体主義的な体制を押し付けられた。合衆国政府は、ヤルタ協定に違反して、ポーランドとルーマニア、そしてブルガリアで行われた強制と威嚇に対して度々抗議を行った。また私はその他多くの国々でも同じように事態が進展していると言明しなければならない。世界史の歴史の中で目下、ほぼすべての国が選択可能な生き方のどちらかを選ばなければならない。そうした選択はよくあることだが自由な選択ではない。多数の意志に基づき、自由な制度、代議制政府、自由選挙、そして個人の自由、言論と信教の自由、政治的抑圧からの自由によって特徴付けられる生き方がある。もう1つの生き方は、少数の意志が多数に押し付けられる生き方である。そうした生き方は、恐怖と抑圧、統制された新聞とラジオ、固定された選挙、そして個人の自由の抑圧に拠っている。私は、外部の圧力か、また武装した少数者により企てられた征服に抵抗する自由諸国民を支援することが合衆国の政策でなければならないと信じる。私は、自由諸国民が自らのやり方で自らの運命を切り開くことができるように支援しなければならないと信じる。私は、我々の支援が、主に、経済の安定と秩序ある政治過程に必要となる経済的、財政的支援を通じて行われるべきだと信じる。それ故、私は当議会に対して、1948630日を以って終結する期間の間に、ギリシア及びトルコに対して4億ドルの援助を与える権限を要請する。資金と同時に私は当議会に対してギリシアとトルコ両国の要請に基づいて、その復興を助け、与えられるべき財政的物資的援助の使用を監督する目的で、両国に対してアメリカ民間人及び軍人を特派する権限を要請する。私はまたギリシアとトルコ両国人の中から選ばれた人々に対して、指導と訓練を施す権限を与えることを勧告する。最後に私は、現下に必要とされる品目、補給物資、及び装備に鑑みて、上述の資金を最も迅速かつ有効に利用することのできる権限を当議会に対して要請する」[xxxiii]

トルーマンの説得はトルーマン・ドクトリンとして知られるようになった。トルーマンは大統領として異例なことながら自ら議会の歳入委員会に出席した。トルーマン・ドクトリンの効果により、議会はギリシアとトルコへのさらなる援助を可決した。ギリシアは内乱を鎮圧することに成功し、トルコはソ連の脅威に対抗するのに十分な防備を整えた。ウィルソンやローズヴェルトと違って、トルーマンは、1917年のドイツの無制限潜水艦作戦や1940年のナチスのヨーロッパ征服といった明らかな軍事的脅威にさらされたわけではなかった。そうした軍事的脅威はその後の戦争につながったが、核の時代にはそうした事態に陥るのは避けるべきだとトルーマンは考えた。トルーマンはソ連をその国境内にとどめる封じ込め政策を行った[xxxiv]

トルーマンは回顧録で「しかし、私はまた新たな全体主義の挑戦の前に、合衆国の態度を明らかにし、全世界に知らしめることを欲した。今や直接間接のいずれを問わず、世界平和を脅かす侵略行為は合衆国の安全を危うくするものと見なすことが宣言されたのである。これはアメリカ外交政策に1つの転機を画するものであったと私は信じる」と述べている[xxxv]。トルーマンは、トルーマン・ドクトリンで強力な核軍備を維持し、アメリカ軍をヨーロッパやアジアに駐屯させ、ソ連の帝国主義を抑制するために脆弱な政権に武器供与を行いながらも、脅威にさらされている国家を支援する最善の方法は経済的援助であると主張している。しかし、このトルーマン・ドクトリンは同時に、アメリカに米ソ協調路線を放棄させる結果を招いた。これ以降、世界は冷戦に突入する。以後、約40年間にわたって資本主義と共産主義という2つのイデオロギーの下に世界が二分されることになった。

 封じ込め政策に対する支持を獲得するためにトルーマンは両党の抵抗を克服しなければならなかった。最も激しい抵抗はウォレス率いる民主党のリベラル派によってもたらされた。ウォレスはソ連を敵対者ではなく同盟国と見なす人々の支持を集めた。トルーマン・ドクトリンに反対する共和党員はロバート・タフト(Robert A. Taft)上院議員によって率いられた。タフトは孤立主義の擁護と財政引き締めでよく知られていた。政治的中道の立場を掌握してトルーマンは最終的にソ連に対して宥和的な一派と孤立主義者に勝利した[xxxvi]。トルーマン政権で最も重要なのは、外交政策、特に対ソ連政策に関して議会で超党派の連合を形成することに成功したことである。国際主義的な両党の議員は、共産主義の封じ込めを図るトルーマン・ドクトリン、ヨーロッパの再建を図るマーシャル・プラン、そして、北大西洋条約機構を代表とする第2次世界大戦後のアメリカの国際的介入を維持するその他の外交政策に賛成票を投じた。

 トルーマン・ドクトリンが公表された9日後に?大統領令9835号で連邦職員忠誠審査計画の実施が発令された。連邦職員忠誠審査計画が実施された背景には国内における共産主義者の浸透に対する懸念があった。19456月、政府機密文書漏洩によって国務省職員及び海軍情報将校が連邦捜査局に逮捕されるというアメラシア事件が起きた。さらに1946年、連邦捜査局が提出した調査報告書の中で、財務次官補、国務省政治局長、元ローズヴェルト大統領補佐官が共産主義者の諜報活動に加担した容疑者として名前が挙げられた。こうした政府内に浸透する共産主義者の脅威に対して議会は下院文官委員会小委員会で公聴会を行い、トルーマン政権に連邦職員の忠誠審査方法の改善に取り組むように勧告した。共和党はこうした共産主義者の浸透に対して、トルーマン政権の弱腰を批判した。中間選挙で共和党が勝利を収めたために、過激な赤狩りが法制化されることを恐れたトルーマンは議会の休会中に大統領令で大統領臨時公職忠誠委員会を設置し、連邦政府行政官全体に統一的に実施可能で、しかも対象となる人々の憲法上の諸権利を侵害することのないように考慮された連邦職員忠誠審査計画の立案を命じた。トルーマンは委員会の提案に基づいて連邦職員忠誠審査計画施行を規定する大統領令9835号を発令した。

 大統領令は、行政官志願者の調査、職員の調査、連邦公職委員会の責任、調査の安全装置、判断基準などについて言及している。在職者の忠誠審査は各省庁が担当し、その目的のために各省庁内に忠誠委員会が設置された。行政官志願者を審査する責任は連邦公職委員会が担った。合衆国への忠誠に疑いがあるとして任用拒否、もしくは罷免される根拠となる行為は、治安妨害、諜報活動、反逆、革命ないし暴力による憲法に基づく政体の変革の唱導、情報漏洩、司法長官が全体主義的、共産主義的ないしは破壊活動的と指定した団体の構成員となること、もしくはそうした団体と関係を持つことであった。審査の責任は各省庁及び連邦公職委員会が担ったが、審査のための資料となる情報の収集は連邦捜査局の任務とされた。しかしそうした情報の収集はしばしば人権の侵害ともなりかねない危険な措置であった。トルーマンの忠誠審査計画は、1953年にアイゼンハワーによる国家安全保障の立場から危険分子排除に力点を移した大統領令10450号に基づく新しい計画に引き継がれるまで6年にわたって実施された。その間に475万人の在職者と行政官志願者の忠誠審査が行われ、560人が解雇、もしくは任用を拒否され、6,828の事例が審査中の辞職ないしは志願の取り下げにより審査打ち切りになった。

マーシャル・プランは1948年に大統領の強い要請によって共和党が支配する議会で法制化された。1946年から1947年にかけて、欧州は、戦争による荒廃に加え、例年にない厳しい冬を迎えていた。燃料となる石炭は不足し、電力も滞りがちで、パンを作る小麦にも不自由し、バターさえも満足に入手できない程であった。さらにアメリカからの借款も底をつきかけていた[xxxvii]。このままヨーロッパを放置すれば高まりつつあるソ連の脅威に対抗することができないことは火を見るよりも明らかであった。

例えば19482月、ソ連が支援する共産主義者がチェコスロヴァキアで権力を掌握し、東ヨーロッパで最後の民主主義政体を崩壊させ、ソ連の支配を磐石にした。またたとえソ連からの脅威にさらされなかったとしても、国内の混乱で共産党が勢力を伸ばす恐れがあった。事実、フランスとイタリアでは、対戦中にレジスタンスで活躍した共産党が国民の間で強い支持を受けていた。もし共産党が政権を握ればソ連の影響拡大に繋がることは明らかであった。

マーシャル・プランの端緒は、公的にはディーン・アチソン(Dean G. Acheson)国務次官が194758日にクリーヴランドで行った演説である。この演説はもともとトルーマン自身が行う予定であった。しかし、演説を依頼したセオドア・ビルボ(Theodore Bilbo)上院議員は、議会の中でも悪名高い人種差別主義者だったので、トルーマンは国内の政治関係に悪影響を及ぼすことを憂慮して自ら演壇に立つことをとり止めた。そこでトルーマンはアチソンを代役として派遣した[xxxviii]

58日の演説でアチソンは、欧州経済を立て直し、健全化することがアメリカの追求するべき基本的目的であると述べている。この演説で特に注目すべき点は、旧敵国であるドイツと日本の再建が欧州とアジアの再建には不可欠であると述べた点である。このアチソンの演説は、トルーマン・ドクトリンによって共産主義の脅威に完全にとらわれてしまった国民の目を、現実的な対外援助の重要性に向けさせる役割を果たした。アチソンの演説を聞いてアーサー・ヴァンデンバーグ(Arthur H. Vandenberg)上院議員は、議会の承認無く援助を約束することは、トルーマン・ドクトリンで示された超党派的な精神を損なうものだと批判した[xxxix]

 第2次世界大戦で陸軍参謀長として活躍したジョージ・マーシャル(George C. Marshall)国務長官の名声を利用するために、トルーマンは、計画に大統領の名前を冠してトルーマン・コンセプト、もしくはトルーマン・プランと呼ぶべきだと勧める補佐官の提案を受け入れなかった。ヨーロッパ再建を支援するという発想はマーシャルが194765日にハーヴァード大学で行った演説でよく知られていた。それに加えてトルーマンは、自分よりも多くの人々から尊敬されているマーシャルのほうが計画を売り込むのに向いていると考えていた[xl]。マーシャル・プランの命名の経緯からも分かる通り、共和党に支配されていた議会とトルーマンは極度の緊張関係にあった。そのためトルーマンは一歩身を引いて、マーシャル・プランに関する世論を喚起する役割をアチソンに一任している。アチソンは全国的な遊説旅行を行い、マーシャル・プランの意義を国民に訴えかけた[xli]

マーシャル・プランはヨーロッパ諸国が共同で新規工場建設、水力発電、通貨安定、貿易障壁の削減など復興計画を作成し、それに基づいてアメリカに援助を要請する仕組みであった。そのためイギリスとフランスはヨーロッパ諸国の対応を協議する外相会談にソ連を招待した。しかし、ソ連は招待に応じたものの、アメリカの援助を拒否した。さらにソ連は復興計画に東欧諸国が参加することを禁止した。イギリスとフランスが中心となって復興計画を作成する会談がパリで行われた。その結果、欧州経済協力委員会が設置され、アメリカに要請すべき援助が決定された。トルーマンは要請に応じてヨーロッパ諸国への支援供与と援助計画を実施する経済協力局の設置を議会に求めた。

マーシャルの協力の下、トルーマンは超党派の支持を取り付け、上院外交委員会の議長であるヴァンデンバークと協働した。ヴァンデンバーグはトルーマン政権と共和党議員の間の仲裁役として重要な役割を果たした。ヴァンデンバーグはトルーマンやマーシャルとしばしば会談を行った。さらにヴァンデンバーグが、ポール・ホフマン(Paul Hoffman)を経済協力局の局長に任命するように求めた時に、トルーマンは当初、別の人物を任命するつもりであったが、ヴァンデンバーグの要望を受け入れてホフマンを経済協力局長に任命した。

1948331日、マーシャル・プランは議会を通過した[xlii]。マーシャル・プランは1948年から1951年の4年間にわたって実施された。管轄省庁として相互安全保障本部の前身組織である経済協力局が設立され、総額1315,000万ドルにも達する援助が行われた。援助の内訳は、原材料と半加工品が33パーセント、食糧、飼料、そして肥料が29パーセント、機械と乗り物が17パーセント、燃料が16パーセント、その他日用品が5パーセントであり、主に欧州の危機的状況を救済し、生産基盤を復興させるための援助であった[xliii]

援助を与える条件としてアメリカは、工業生産と農業生産の促進、通貨の信用性の回復と維持、欧州域内および他の国々との貿易促進の3つの条件を提示した。マーシャル・プランの対象となったのは、オーストリア、ベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、フランス、イギリス、ギリシア、アイスランド、イタリア、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、スイス、トリエステ、トルコ、西ドイツの国々である。アメリカが提示した条件からは、世界的な自由貿易を安定させるために、欧州の経済的安定と参加が不可欠であるとアメリカが考えていたことが窺える。

こうした条件の下、実施されたマーシャル・プランは一定の成果をあげた。マーシャル・プラン対象国全体で、対戦前比で工業生産高が35パーセント増大し、同じく農業生産高は10パーセント増大した[xliv]。経済状態の好転にともなって、欧州諸国の軍事支出が増大した結果、ソ連の大陸侵攻を抑止するというアメリカが意図した暫定的な目的は達せられた[xlv]

またトルーマン政権は米州機構の設立によって汎米化されたモンロー・ドクトリンの制度化を行った。19479月、リオ・デ・ジャネイロ条約が締結された。さらに翌年にはボゴタ憲章が成立し、米州機構が創設された。リオ・デ・ジャネイロ条約は平時にアメリカが結んだ初めての同盟であった。アメリカは冷戦下で西半球諸国を国際共産主義の浸透から守ることが重要な外交方針に加えられた。リオ・デ・ジャネイロ条約は、アメリカが北大西洋条約に参加する道を開いたヴァンデンバーグ決議の重要な布石となった。

 1948619日、ソ連は、ベルリンの西側管轄地区からソ連管轄地区へのすべての道路通行を禁止した。623日、ソ連は鉄道を封鎖し、ベルリンへの旅客及び貨物をすべて差し止めた。さらにソ連は船舶運送も差し止めた。同日深夜、ソ連当局は、石炭不足を理由として、配電所にソ連管轄地区から西側管轄地区への送電を差し止めるように通達した。624日、ソ連は、ソ連管轄地区からベルリンの西側管轄地区にいかなる物資を供給してはならないという命令を出した。それにより西側諸国はベルリンの西側管轄地区に物資を供給することができなくなった。これによりベルリンは完全に封鎖された[xlvi]

封鎖に関してソ連は、ドイツ西側地区で実施された通貨改革を攻撃的であると非難し、それによりアメリカがポツダム協定に反し、ベルリン占領の権利を自ら放棄したと断定し、ベルリン封鎖に乗り出したと説明した[xlvii]。スターリンが西側諸国との全面対決の危険を冒してまで何故ベルリン封鎖にのりだしたのか、その意図は未だに詳らかではない。

トルーマンは、こうしたソ連の行動を、トルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランに対するソ連側の反撃であると見なしていた。そしてベルリン封鎖に対するトルーマン政権の基本方針は、戦争も降伏も避けつつベルリンに断固として留まることであった。しかし、ベルリン市民が物資不足に陥るのは必至であり、まずはその解決が緊急課題となった。そのために採った手段が空輸作戦で、陸上輸送を強行することにより戦争に発展することを避けた苦肉の策である[xlviii]。結局、この空輸作戦は、321日にもわたり、封鎖が解除されるまでに総計250万トンもの補給物資を運ぶことになった。西側諸国はソ連の圧力に接しても政治統合の進展を緩めなかった。封鎖が解除された同月に西ドイツの憲法にあたる基本法が公布され、西ドイツが成立した。さらに10月、東ドイツが成立し、東西ドイツが並び立った。

新たに樹立された西ドイツ政府は国内政策に関する主権は持っていたが、独自の外交政策は認められず、再軍備も認められなかった。しかし、朝鮮戦争の勃発によって、武力侵攻が実際にヨーロッパでも起こるのではないかという不安が高まった。アメリカは北大西洋条約機構外相会談で、在欧米軍の強化と引き換えに西ドイツの再軍備を提案した。西ドイツの再軍備を警戒したフランスは、西欧各国が提供する部隊で構成される混成部隊に参加させる形式で西ドイツの再軍備を認めるプレヴァン計画を提案した。アメリカはプレヴァン計画に修正を加えたうえで欧州防衛共同体条約を作成した。欧州防衛共同体条約に関する交渉はアイゼンハワー政権に持ち越された。

 政治的主導権を巧みに握ることでトルーマンは1948年の大統領選挙をローズヴェルト時代の可否を問う国民選挙にした。ローズヴェルトは共和党の大統領候補に対して驚くべき逆転勝利を収め、ローズヴェルトの陰から脱却した。トルーマンはニュー・ディールを救って民主党の連帯を再生しただけではなく、議会との戦いで示した断固たる姿勢は立法過程における近代的大統領の優越を確定した。大統領選挙で勝利を収めたトルーマンは、国際連合に対する支持の続行、世界経済復興のための事業の継続、事業諸国を侵略に対して強化する計画に引き続いて、アメリカの世界の平和と自由のための計画の第4点としてフェア・ディールの国際版であるポイント・フォーを就任演説で公表した。

「第4に我々は、科学的先進性と工業的進歩を未開発地域の成長と改善に利用できるようにするという斬新なプログラムに乗り出さなければならない。世界の半分以上の人々が、ほとんど悲惨の極みに近い状態で暮らしている。そうした人々の食べ物は良くない。そうした人々は疾病の餌食である。そうした人々の経済生活は、原始的で澱んだものである。そうした人々の貧困は、彼らにとっても、またより豊かな国の人々にとっても障害であり脅威である。人類は、歴史上初めて、こうした苦しんでいる人々を救う技術と知識を持っている。合衆国は、科学技術、工業技術に関しては諸国の中で抜きん出ている。諸国民を援助するために使うことができる資源は限られている。しかし、我々の測り知れない技術的資源は、絶えず増加し、使いきれない程である。私は、自由を愛好する諸国民が、より良い生活への願望を実現するために、我々の技術的蓄積を利用できるようにするべきだと思う。そして、我々は他国民と協力して、開発を必要とする地域に対して、資本投下を促進しなければならない。我々の目標は、世界の自由国民が自らの努力によって、食糧、衣類、住宅建築材料及び彼らの重荷を軽くする機械力を増産するのを援助することである。我々は、この事業にあたって、他国がそれぞれの技術資源を蓄えるよう提唱するものである。これらの諸国の寄与を大いに歓迎する。これはすべての国が国際連合とその関係専門諸機関を通じて協力する共同事業である。それは平和と方法と自由を達成するための全世界にわたる努力でなければならない。この計画は、我が国の財界、民間資本、農民、労働界の協力を得れば、他の国々の産業力を著しく増大し、その生活水準を実質的に高めることができるであろう。そして、これらの新しい経済開発は、その対象となる地域の住民の利益になるように工夫され管理されなければならない。投資家に対する保障は、これらの開発に資源と労働を提供する国民の利益に対する保障と釣り合いがとれたものでなければならない。古い帝国主義、外国の利潤のための搾取は我々のこの計画とはまったく縁のないものである。我々が目指しているところは、万事を公平に取り扱う民主的な観念に基づいた開発計画に他ならない。我が国をはじめあらゆる国々は世界の人的、物的資源をより良く利用しようとする建設的計画から大きな利益を受けるであろう」[xlix]

ポイント・フォーはトルーマンの就任演説をアメリカ国民だけではなく世界の諸国民に向けた民主主義的な宣言とした。ポイント・フォーは発展途上国への技術援助である。種子、肥料、耕作法、播種法、収穫法、穀物貯蔵法などの知識を農村に普及させ、マラリア、赤痢、トラコーマ、牛疫といった疫病の治癒法を教授し、道路、運河、ダム、学校、病院といった社会基盤整備のための援助をするというのが計画の具体的な内容である。計画を実施する機関として半独立の技術協力庁が設立されたが、計画の実施は様々な機関に担われることになった。国連の諸機関、米州機構の他に連邦各省庁が分担して計画の実施にあたっている。技術協力庁の施策は、技術援助を主体とし、民間資本投入への道を開こうとするもので、アメリカ政府のみならず民間企業が参加し、被援助国の積極的な協力を期待した。実質的にポイント・フォーは共産主義の拡大に対するアメリカの対抗策であった。経済発展の支援を通じて後進国と友好協力関係を保つことで共産主義の浸透を防止しようという考え方である。ポイント・フォーは国際開発法によって19505月に法制化された。

しかし、NSC-68の中ではポイント・フォーは十分な効果をあげていないと指摘されている[l]。それにも拘らず、政府支出の額は1950年代と1960年代を通じて増大し続け、支出総額は1,500億ドルを超えた。しかし、その援助は無駄に使われることが多かった[li]

またポイント・フォー計画自体に内在する問題もあった。計画の具体的な過程として重要だったのは、各分野の技術者を援助対象国の政府機関に派遣することであった。ただアメリカから援助対象国に派遣された技術者は、本国の指令により短期間で転属させられることが多く、同じ場所に腰をすえた長期間にわたる開発に参与できなかった。技術を伝える十分な時間と機会が不足していただけではなく、技術を伝えるべき発展途上国側の技術者も圧倒的に不足していた[lii]。このようにポイント・フォー計画は必ずしも成功したとは言えない。

北大西洋条約は、マーシャル・プランに並んで西欧諸国を冷戦構造に組み込む重要な枠組みであった。その北大西洋条約によりアメリカは最終的に西欧との同盟関係を構築することを明確にしたが、それは、西欧の伝統主義的な外交から距離をおくというアメリカの立場から大きく逸脱するものであった。

 1948年、アーネスト・ベビン(Ernest Bevin)英外相はアメリカ国務省にアメリカ諸国と諸主権国家の後援による、何らかの形の西欧同盟を作ることを提言した[liii]19482月にチェコスロヴァキアで共産主義者のクーデターが勃発したことで西欧諸国の危機感はさらに高まった。194834日、ブリュッセルにベネルクス三国と英仏の代表が集まり、同年317日ブリュッセル条約が調印された。

 トルーマン政権内部では、アメリカを含む集団的自衛権を明らかにし、ソ連による攻撃を抑止する必要性が説かれていた。具体的には、アメリカは、ベネルクス三国と英仏を合わせた5ヶ国と、ソ連が近い将来ドイツやオーストリアに軍事行動を仕掛けた場合の実際的な軍事計画を話し合う必要があった。しかし、軍事計画と銘打っていても、実質的にソ連に対抗できる軍事力はまるでなかったので、軍事プランとはすなわち撤退計画のことであった。そのため、ソ連に対抗することを目的にするならば、アメリカが明確に同盟に参加することが必要だったのである。アメリカは、5ヶ国のみならず、ブリュッセル条約を基にして、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ポルトガル、そしてスウェーデンにまで範囲を広げた集団安全保障体制を構想した。

 19484月、アーサー・ヴァンデンバーグ上院議員が中心となってヴァンデンバーグ決議が可決された。第2次世界大戦以前から著名な孤立主義者であったヴァンデンバーグが、国際平和追求という国連憲章の理念はアメリカの憲法に抵触しないと闡明し、さらに国連憲章に明記されている集団自衛権を容認する決議を採択する音頭を取ったことは上院の外交方針が大きく変わったことを意味している[liv]。つまり、この決議は、欧州防衛に対するアメリカの参加の正当性を保障し、アメリカを孤立主義から脱却させるものであった。

  アメリカと西欧諸国が北大西洋条約を締結するにあたって深刻な問題はなく、194944日にワシントンにて北大西洋条約が締結された。調印式でトルーマンは、北大西洋条約は北大西洋を取り巻く国々に対する侵略行為であるというソ連の非難に答えて、北大西洋条約は多くの国々の自発的意志によるものであり、ソ連が他の国に自国の制度を押し付けている手法とは違うものだと述べている。トルーマンは、北大西洋条約をめぐる西欧諸国との観点の相違をふまえながら、同時に北大西洋条約にアメリカが参加する意義を議会に納得させる必要があった。

 幸いにも米議会は北大西洋条約に対しては概ね肯定的であり、上院でワシントン・イヴニング・ポスト紙の「トルーマン氏の偉大な役割」という社説が紹介されたり、条約調印式に議員が出席できるようにするため、午後の議会を休会させたりする一幕もあった。

 しかし、ロバート・タフト上院議員のように北大西洋条約調印に反対する議員もいた。最終投票で北大西洋条約批准に反対票を投じたのは13人で、そのうち11人が共和党員であった。北大西洋条約を承認するよう議会に要請することは、議会に事実上、外交に関する機能を放棄させることだとタフトは述べている。

  1次世界大戦後に、ウィルソンは国際連盟加盟を議会に承認させるために、加盟の意義を国民に訴えたが失敗している。その轍を踏まないためにもトルーマン政権は慎重に行動しなければならなかった。例えばトルーマンは軍事援助プログラムを議会に提出する時期を条約が承認されるまで延期している。トトルーマンは、上院を説得しやすくするために、北大西洋条約は、アメリカが一方的に西欧諸国に介入するのではなく、あくまでアメリカの安全保障も視野に入れつつ、相互扶助に基づく関係を築くための条約であると繰り返し述べている。議会に呼びかけるとともにトルーマンは直接国民に呼びかけている。

 当時の世論調査では、「上院は北大西洋条約を批准すべきか否か」という質問に対して、調査対象のうち67パーセントが批准すべきだと答えている[lv]。トルーマンは、こうした国民の支持を上院に示し、条約の早期批准を迫ったのである。1950721日、上院は北大西洋条約を承認した。北大西洋条約の目的は、国際連合憲章に沿いながら国際的紛争の平和的解決に努める一方で、ヨーロッパまたは北アメリカで条約加盟国に対する武力攻撃が行われた場合、全加盟国への攻撃と見なして集団的自衛権を行使することによって北大西洋を地域の安全を回復するために協力するという集団安全保障の確立である。加盟国は、武力攻撃に対する抵抗力を維持発展させるために継続的に相互援助を行い、加盟国の安全について協議し、さらに経済的協力に努める他、同条約実施について審議するために加盟国代表で構成する理事会、補助機関を設ける。さらにアメリカは平和時に軍隊をヨーロッパに常駐させるというアメリカ史上前例のない措置をとることになった。これにより、アメリカが北大西洋条約で中心的役割を果たすことがはっきりと示されたのである。トルーマン政権は、巧みな手腕で上院の支持を取りつけつつ、アメリカのモンロー主義的な外交方針から脱却し、北大西洋条約への参加という明確な姿勢を打ち出したのである。

 トルーマン政権は中国で蒋介石の国民党への支援に失敗し、中国喪失の責任を糾弾された。国民党と共産党の対立は抗日戦線が維持されている間は沈静化していたが、日本降伏後、対立が一気に表面化した。国民党と共産党は競って日本の占領地を解放した。アメリカは国民党軍の輸送支援を行った。国民党と共産党は各地で武力衝突を起こした。そのため重慶で会談が開催され、蒋介石と毛沢東は19451010日に双十協定を締結した。この協定により内戦勃発の危機はひとまず回避された。

トルーマンが望んでいたことは、平和的、民主的な手段による中国の統一であった[lvi]。またこの当時、多くのアメリカ国民は、国民党が共産党を内戦で制圧しようとすることに反感を持っていた。また親ソ感情を持たないか、もしくは反ソ感情を持つ者でも、中国共産党に対して反感を抱く者は少なかった。この頃、アメリカ国民が最も危惧していたのは、満州がソ連の傀儡国家になることで、それを阻止するために中国に介入することが求められていた[lvii]

 双十協定締結後、さらに翌年110日、アメリカの仲介で停戦協定が締結された。解決の見通しが明るいというジョージ・マーシャル特使の報告を受けて、トルーマンは年内にすべてのアメリカ軍を撤退させることができると思っていた[lviii]。こうしたアメリカの和解仲介の努力にも拘らず、国民党と共産党の対立はおさまらず内戦が勃発した。アメリカは1946年末には仲介者としての立場を放棄し、国民党を財政的にも軍事的にも援助した。大戦終結から1948年までに国民党への支援は総額30億ドルにのぼった。

アメリカが国民党を支援したのにも拘らず、国民党は共産党の勢力拡大を抑えることができなかった。共産党の勢力は、1937年には僅かに全中国の1パーセントの領域、500万人の人口を支配下におくのみであったが、1945年には約1割の領域、全人口の約4分の1の人口を支配下におくようになり、さらに1948年には約4分の1の領域、約3分の1の人口に支配力を及ぼすまでに伸張した。

 こうした情勢をふまえて、国務省は19482月に中国援助計画を議会に提出した。この計画は前年の10月から準備されていた。1110日にマーシャルは、両院外交委員会で中国援助計画を作成中であると証言している。マーシャルは証言の中で、中国の内戦が悪化している情勢について述べ、唯一の正当な政府である国民党政府が極東における影響力を維持するために支援を行うべきだと述べている。

 中国援助計画に対して、下院は、軍事援助に関してギリシアとトルコに行っている援助と同様の条件を課すように提案したが、上院はそれを拒否し、相談に応じて用途を指定すべきだとした。議会はギリシアとトルコに対する援助のような自由裁量権をトルーマン政権に与えなかった。アメリカの長期的目的は、中国に親米的な政権を樹立し、極東におけるソ連の勢力拡大を阻止することであった。国民党政府が、その役割を担うことができなければ、アメリカが国民党政府の責任をとるべきではないというのは当然の帰結であった。

 トルーマンは中国政策に関してあまり発言することはなかった。それは静観政策の反映である。国民党政府に対する援助を打ち切れば、国民党政府は急速に崩壊し、アメリカの長期的目的が実現できなくなる。しかし、援助を安易に増やすこともできなかった。もし国民党への援助を増やすと、それに対抗すべく、ソ連も共産党に対する援助を増やすことが予想される。その結果、援助合戦が始まり、最終的には地理的な利点があるソ連が勝利する。つまり、トルーマン政権は援助を打ち切ることもこれ以上増やすこともできず、ただ成り行きを見守るしかなく、国民に中国情勢について詳細に伝えることもなかった。

 国民に中国情勢について詳細に伝えることは、国内外での蒋介石の威信を損なうことになり、却って国民党政府の瓦解を助長してしまう恐れがあった。しかし、一方で国民党政府の腐敗を伝えずにおけば、国民党政府がいずれ瓦解した時に、トルーマン政権は腐敗を放置して援助していたことで非難をうける[lix]。そのようなジレンマがあった。しかしながら、国民党政府への支援を継続すれば、国民党政府の瓦解を当面の間は防ぐことができるし、国民党を支持する議員たちのマーシャル・プランに対する反発を避けることができる[lx]。トルーマン政権にとってはマーシャル・プランが最大の懸案事項であり、中国情勢を持ち込むことで国内の分裂をもたらす可能性は排除すべきであった。いずれにせよトルーマンにとって中国情勢に下手に言及するよりも沈黙を守るほうがよかったのである。

 アメリカにとって最大の脅威は、単に中国が共産化することではなく、ソ連が中国に対する影響力を拡大し、さらに共産主義を東南アジアに広めることであった。ソ連が中国を支配下におき、中国の資源と人口を使ってアメリカの安全保障を脅かさないようにしなければならなかった。

 1948119日、蒋介石はトルーマンにさらなる迅速な軍事的支援を求めた。しかし、トルーマンは蒋介石にできるだけの支援は既に行っていると回答しただけであった。19492月末、共産党軍はますます優勢になり、満州と華北は共産党の支配下に完全に入った。19494月、毛沢東が揚子江越えに成功し、中国南部まで勢力を拡大すると、アメリカは国民党への支援を停止した。

 19498月に国務省は中国白書を発表し、国民党政府の敗北と共産主義の勝利を認めた。国民党の腐敗が指摘され、中国共産党がソ連と同一視された。トルーマン政権は共和党議員を中心としたチャイナ・ロビーに中国喪失の責任を厳しく追及された。共産党政府による勢力拡大をもはや阻止できないという現実を直視したトルーマン政権は、中国本土に関する経済的利益の存続を目指して、門戸に足をとどめるという現実的な路線の選択を模索し始めた[lxi]

 共産党は確実に支配領域を拡大し、遂に1949101日、中華人民共和国の建国を宣言した。共産党政府は建国を機に諸外国との外交関係構築に着手した。それはアメリカに対しても例外ではなかった。しかし、共産党政府とアメリカ政府が通常の外交関係を構築する前に、まず奉天問題を解決しなければならなかった。奉天問題とは194811月に奉天で共産党軍がアメリカ政府関係者を拘禁した事件である。しかし、この問題は194912月に解決され、共産党政府とアメリカ政府の通常の外交関係構築の道が開けた[lxii]

 実はトルーマンは共産中国に対して強硬な態度を示すべきだと考えていたが、アチソンの意見は異なっていた。アチソンは、トルーマンに共産中国に対する政策には2つの選択肢があると説明している。1つ目は、共産中国の体制に反対し、隙があれば打ち倒すという政策である。そして、2つ目は共産中国政府がソ連の言いなりにならないようにする政策である。アチソンは後者の政策を選択するほうがよいとトルーマンに勧め、共産中国と貿易を継続するべきだと提言している[lxiii]

 しかし、アメリカ国内では、台湾を共産中国の手に渡さないために積極的な措置を取るべきだという、国民党を支持する議員や軍部の高官などからのトルーマン政権に対する圧力が高まった。共産中国はそうしたアメリカ国内の情勢を察知して、アメリカ政府と国民党政府の間でアメリカが台湾を占領するという密約ができていると非難した[lxiv]。こうした事態に対応してトルーマンは、195015日にアメリカは台湾に対して軍事援助ならびに軍事的な助言を行わないという声明を発表した[lxv]。この声明は、アメリカ国内の圧力にも拘らず、トルーマン政権が国民党政府に対する支援を放棄すると明言したに等しい。まさに共産中国に対する最大限の譲歩であった。

 しかし、共産中国は、北京にあった外国政府の元軍用宿舎をアメリカの厳重な抗議に反して接収した。その結果、114日、国務省は中国本土から関係者をすべて引き揚げる旨を公表した。しかし、共産中国とアメリカの関係が断絶したわけではなく、貿易は継続されていた。

 そうした最中、国民党軍が上海を爆撃したことで共産中国とアメリカの関係はさらに悪化した。さらに214日、共産中国はソ連と30年間の友好条約を締結した。関係正常化を目指した水面下での交渉も、台湾問題が解決しないかぎり交渉しないという共産中国の姿勢により頓挫した。遂に410日、北京のアメリカ領事館が閉鎖され、アメリカは中国本土から手を引くことになった[lxvi]。中国共産党政府との和解はニクソン政権まで持ち越されることになった。

 トルーマン政権は中国で失敗したが日本では顕著な成功を収めた。日本の軍事占領は1945年から1952年まで続いた。トルーマンはマッカーサーを連合国最高司令官に任命し、日本の完全な統治権を委ねた。ソ連にワシントンの極東委員会の代表権を与え、委員会の意見が統一されない場合はマッカーサーに最終判断を行う権限を認めることでソ連を日本統治の埒外に置くことができた。マッカーサーは秘密警察を廃止し、軍国主義者を追放し、戦争を推進した秘密結社を根絶やしにし、財閥を解体し、農地改革を実現した。さらに民主主義的な憲法と議会を導入するように日本政府に働きかけた。婦人参政権が実現され、宗教上の差別が撤廃され、国家神道は廃止された。こうした占領政策が行われる一方で日本には多くの物資が運び込まれた。アメリカの経済学者の一団が日本の実業界を再編し、手工業や重工業のための市場を見つけるための顧問を務めた。公衆衛生が推進され、ジフテリア、赤痢、チフス、コレラといった疾病が激減した。日本占領の成功は、日本を西側陣営の一員としてアジアの冷戦戦略で中核となる存在にすることを可能にした。

トルーマン政権期からジョゼフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)上院議員を中心とする反共運動が吹き荒れた。その前兆となる代表的な事件はアルジャー・ヒス事件とローゼンバーグ事件、そして、ハリウッド・テン事件である。194710月、ハリウッドの関係者が共産党との関係を追及された。彼らは言論の自由を規定した憲法修正第1条に基づいて証言を拒否したので議会侮辱罪で告訴された。
 ヒス事件は、19488月に元共産党のスパイと自称する人物が下院非米活動委員会で証言し、国務省顧問のアルジャー・ヒス(Alger Hiss)が共産党のスパイであることを暴露したことによる。ヒスはそれを否定したが結局、5年の禁固刑の判決を受けた。
 ローゼンバーグ事件は1950年にアメリカで起きたスパイ事件である。近年のヴェノナ文書解禁で有罪であることがほぼ確実視されている。第2次世界大戦中、アメリカで原子爆弾開発に関係したイギリスの学者がソ連のスパイとして逮捕され共犯者が洗い出された。その結果、 ローゼンバーグ夫妻が原子力開発の機密をソ連に漏洩した罪状で逮捕され死刑判決を受けた。国際的な助命活動にも拘らず19536月に処刑が実行された。こうした事件はアメリカ国内で共産主義を恐れる世論が高まっていたことを反映している[lxvii]

195029日、マッカーシー上院議員は、ウェスト・ヴァージニア州のウィーリングで何かの書類を手に持ってひらひらさせながら、「私の意見では、最も重要な政府機関の1つである国務省は完全に共産主義者によって蝕まれている。確かに共産党に忠誠を誓う者か、共産党の正党員であると思われる57人の証拠を私は握っている。それにも拘らず、彼らは我が国の外交政策を形成する手助けを依然として続けている」と告発した[lxviii]。マッカーシーは、ローズヴェルトとトルーマンが率いてきた民主党が共産主義者と共謀してアメリカを共産主義勢力に渡そうとしたと非難した。マッカーシーによれば、ローズヴェルトはソ連を助けるために第2次世界大戦に参戦し、ヤルタでスターリンの要求に唯々諾々と従った。

 220日、マッカーシーは上院でも同様の告発を繰り返した。もちろんマッカーシーが行ったような告発は以前にも行われたことはあったがあまり注目されることはなかった。特にマッカーシーの告発が広く注目を集めたのはアルジャー・ヒス事件とローゼンバーグ事件、そして、ハリウッド・テン事件などその当時の状況によるものである[lxix]

  さらに1949923日、ソ連が原爆実験に成功したことを国民は伝えられた[lxx]。そして、1950年頃にはアメリカ国民はソ連が世界を共産化するための明確な戦略を持っていると信じるようになった。また国民は、ソ連がアメリカ国内での破壊活動と直接攻撃によってアメリカの安全保障を脅かすと信じていた。さらにソ連との対決は善と悪の戦いであり、ソ連の拡大を封じ込めるだけではなく、奴隷化された人々を解放しなければならないという極端な反共主義に世論は傾斜していた。世論は国内外での共産主義に対する勝利を求めるようになった[lxxi]。このようなアメリカ国民の心情の変化があったからこそマッカーシーの告発は注目を集めたのである。

 マッカーシーの告発を受けてミラード・タイティングス(Millard Tydings)上院議員を長とする特別委員会、いわゆるタイディングス委員会は、告発の真偽を確かめる調査を開始した。マッカーシーはタイディングス委員会に、疑わしいと思われる110名のリストを提出した[lxxii]

  マッカーシーの発言に対応するためにトルーマンは、ホワイト・ハウスの職員を組織して対策委員会を作った。問題となったのは忠誠審査ファイルを議会に開示するか否かであった。トルーマンは19483月に議会にファイルを開示しないという大統領令を公布していたからである。議会への忠誠審査ファイル開示に対して司法省や連邦捜査局から反対する声があがっていた。トルーマンはその意見に従って議会に忠誠審査ファイルを開示することを認めなかった。

 マッカーシーはトルーマンの決定に対して、「必要なすべてのファイルの解放を横暴にも拒否して調査を遅らせていることは許し難いことであり、国家の安全保障を脅かすことになると思う」という電報を送った[lxxiii]。さらにマッカーシーはトルーマンがファイルを開示しないのは行政上の失策を隠すためだと非難した。こうしたマッカーシーの主張に多くの議員が同調した。

 結局、トルーマンはタイディングス委員会にファイルの開示を認めている。トルーマンは単にマッカーシーたちの圧力に屈したのではなく、マッカーシーの発言を封じるためにタイディングス委員会に協力したのである[lxxiv]。最終的にタイディングス委員会は、マッカーシーの告発を「欺瞞と捏造」であると断定した。そして、マッカーシーがアメリカ国民を信じがたい規模のヒステリーと恐怖の波をもって煽動しようとしたと非難した[lxxv]。しかし、マッカーシーはタイディングス委員会を共産主義に対して弱腰であると反対に非難し、広報会社や各種政治団体から莫大な資金を得てタイディングス委員会を攻撃したのでタイディングスは再選に敗れてしまった。マッカーシーは過激な反共レトリックを用いて大統領にもまさるとも劣らない権勢を手に入れたのである。

 トルーマンの最も政治的犠牲を払った行動は国際的な安全保障に関する領域における行動である。第2次世界大戦を終結させた1945年の日本に対する原子爆弾の使用と1950年の朝鮮への派兵がそうした行動に含まれる。朝鮮への介入は最高司令官としての大統領の権限の拡大をもたらした。初めてアメリカ軍は全面的な戦争を議会の承認なしで行った。

1950624日、ワシントンにソウルから、北朝鮮軍が「今朝、韓国の領土に対し数カ所にわたって侵略を開始した」という一報が入った。トルーマン大統領はその時、ホワイト・ハウスを離れていたが、電話で一報を聞きワシントンに帰還した。トルーマンの帰還を迎えて行われた閣議では、共産主義勢力の挑戦に応えなければアメリカの威信が失墜するという見解で一致した。そして、韓国軍に武器供与すること、韓国軍支援するために海軍には北朝鮮の攻撃目標に対する艦砲射撃を、空軍には北緯38度線一帯への空爆を行わせることを決定した。それに加えて、北朝鮮の越境攻撃に対して抗議を行うように国連安全保障理事会に働きかけた。国連安全保障理事会は北朝鮮に38度線以北への撤退を求める決議を採択した。627日、韓国軍が大きな損失を受けていたために、国連安全保障理事会は韓国への全面的な支援提供を加盟国に求めた。トルーマンは、マッカーサーに韓国軍の支援を指示し、大統領声明で韓国軍に対する支援と台湾海峡への第7艦隊派遣を発表した。さらに77日、国連安全保障理事会は、マッカーサーを指揮官とする国連軍の派遣を決定した。また同日、トルーマンは徴兵制を復活させた。719日、トルーマンはアメリカ国民に向けて朝鮮戦争の勃発を伝えた。

「国民諸君、今日正午に私は議会に朝鮮情勢について教書を送った。私はあなた方に今夜、その情勢とそれが合衆国の安全と我々の世界平和の希望にとって何を意味するのか、話したいと思う。朝鮮は数千マイル離れた小さな国であるが、そこで起こっていることはすべてのアメリカ人にとって重要なのである。625日日曜日、共産軍が大韓民国を攻撃した。この攻撃は、国際共産主義運動が独立国家を征服するために武力侵略を進んで行ってきたということをまったく疑いもなく明らかにしている。そのような攻撃行為は、すべての自由諸国の安全に対して現実的な危険を生み出す。朝鮮に対する攻撃は、平和のあからさまな侵害であり、国連憲章に違反している。朝鮮での彼らの行為により、共産主義の指導者は、国連が拠って立つ基本的な道義的原則を軽視していることを示した。これは、人類が平和と自由の中で生きることができる世界を築こうとする自由諸国の努力に対する直接的な挑戦である。この挑戦は真っ向からのものである。我々は真っ向からその挑戦に立ち向かうだろう」[lxxvi]

朝鮮戦争のような戦争は代理戦争と呼ばれた。米ソが直接的に対決するのではなく、両陣営に属する国を通じて間接的に対決したからである。北朝鮮の背後にはソ連と中国代表とする東側諸国が、韓国の背後にはアメリカを代表とする西側諸国がついていた。トルーマンは朝鮮戦争によってもたらされた脅威を地域に限定された脅威ではなく世界的な脅威だと見なした。ただ朝鮮戦争はアメリカの公式見解では「戦争」ではなかった。なぜなら議会から正式な宣戦布告を取り付けていないからである。そのためトルーマンは朝鮮戦争を「警察行動」と呼んでいた。朝鮮戦争以後、アメリカは「宣戦布告なき戦争」が常態化した。

 トルーマンの朝鮮への介入は、戦後、超大国になったアメリカが絶えず積極的に国際問題に関与したことの当然の帰結であった。1945年、上院は圧倒的多数で国連憲章を批准し、国際連合参加法が制定された。国際連合参加法は、国連の決定にアメリカが従うことを意味していた。トルーマンは、同法を、朝鮮で合衆国軍を展開する正当化の根拠とした。韓国を支援するという国連安保理の決定の下、大統領は国連憲章の安全保障理事会の一般的権能を定めた第39 条と軍事的措置を定めた第42条に基づいてその決定に従う義務があるとトルーマンは論じた。

 またトルーマンは議会に軍備増強と軍事支出の承認を求めたが、朝鮮での行動を、大統領は議会に相談することなく合衆国軍を行使できる包括的な権限を持つと主張することで擁護した。確かにトルーマンは大統領が宣戦布告なしで最高司令官の役割を果たした豊富な前例を引くことができた。しかし、そうした前例は、海賊を取り締まったり、外国の混乱によって危険にさらされたアメリカ市民を保護したりするなど限定された介入に関連するものであった。共産主義に対する冷戦と自由世界の指導者としての大統領の新しい責任は、外交政策における議会の役割を減じさせるとトルーマンは思っていた。またトルーマンは、戦争がもはや前もって宣戦布告されることがなくなったので、議会の宣戦布告する権限は休止状態にあると考えていた。その代わりに大統領が宣戦布告なき戦争を行う機会は増大した。第2 次世界大戦後の30年間で実に215回もの軍事行動がとられた[lxxvii]

 国連軍が到着するまでに北朝鮮軍はソウルを陥落させ、大韓民国軍を釜山半島に包囲していた。マッカーサーは釜山を陥落させてはならないと的確に判断した。釜山は日本を経由して行われる補給基地として戦略的重要性を持っていた。もし釜山を失えば海に追い落とされることになり、朝鮮南部の奪還さえ難しくなることは明らかであった。マッカーサーは釜山の北部と西部に非常線を設置し、第8軍を配置した。さらにマッカーサーは仁川上陸作戦を決行して水陸両面の反抗作戦を開始した。北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、9月末にソウルは解放された。反攻作戦に衝撃を受けた北朝鮮軍は釜山防衛線から撤退を開始した。マッカーサーは北緯38度線を越えて北朝鮮軍を追尾し、10月に平壌を占領した。38度線を越えて北朝鮮領内に侵攻するか否かについては意見が分かれていた。金日成政権を打倒し、韓国による朝鮮統一を行うべきだという意見と北朝鮮への侵攻は中ソの軍事介入を招く恐れがあり、同盟国の支持も得られないので避けるべきだという意見があった。トルーマンは中ソの軍事介入を招かないように北朝鮮軍を殲滅する目的で北朝鮮領内に侵攻することをマッカーサーに認めた。国連総会も朝鮮半島の統一を前提とした決議を採択した。こうした強硬な政策の裏側には、トルーマン政権の共産主義に対する弱腰を批判する声に対抗しなければならないという事情があった。

10月にウェイク島で行われた会談でトルーマンは、朝鮮戦争に中国共産軍が介入する危険性を指摘した。マッカーサーはそうした危険性を否定した。マッカーサーは、平壌と元山はすぐに陥落し、国連軍は鴨緑江まで進軍して戦争は終結するだろうと主張した。しかし、マッカーサーの見解とは裏腹に1124日、中国共産軍は韓国軍部隊と西部で衝突した。さらに中国共産軍が正面攻撃を開始したために国連軍は撤退を余儀なくされた。マッカーサーは、鴨緑江の橋とその北側の中国軍の集結地域を爆撃し、蒋介石に中国本土に侵攻させ、全中国沿岸を封鎖するように提案した。マッカーサーの提案は戦争を拡大させるものだとして受け入れられず、中国領とソ連領に侵入するいかなる攻撃も禁止された。国連軍は中国共産軍によって南に押し戻された。いわゆる「12月の退却」の始まりである。19501216日、トルーマンは以下のような国家非常事態宣言を発令した。

 「共産帝国主義による世界征服は、世界に解き放たれている[共産]侵略軍の目標であるが故に、もし共産帝国主義の目標が達成されるならば、アメリカ国民は、神の助けで築き上げてきた充実した豊かな生活をもはや謳歌できなくなり、後の世代は、それぞれが選択するものを崇拝する自由、自分達が選択するものを読んだり聞いたりする自由、政府を批判する権利も含まれる自由に話す権利、政府を構成する人々を選択する権利、自由に団体交渉をする権利、自由に民業に従事する権利、そして我々の生活様式の一部である他の多くの自由と権利の恩恵をもはや享受できなくなるが故に、ますます増大する共産主義者の侵略軍の脅威により合衆国の国防ができるだけ迅速に強化される必要があるが故に、今、それ故、私、ハリー・S・トルーマンは、アメリカ合衆国大統領として国家非常事態をここに宣言し、国家の安全に対するありとあらゆる脅威を撃退し、国連の活動において責務をまっとうし、永久平和をもたらすために陸海空そして民間防衛をできるだけ迅速に強化することを要求する」[lxxviii]

 国連軍は「12月の退却」後、19511月末には勢いを盛り返し、同年3月には再び38度線を越えている。しかし、それ以降いわゆる「鉄の三角地帯」をめぐって共産軍と国連軍は膠着状態に陥った。トルーマンは停戦を実現し、アジアに戦火が拡大するのを阻止し、ソ連の介入を未然に防ぐために北朝鮮に交渉を申し出た。

 かねてより中国の介入に対して強硬策をとるように提案していたマッカーサーは公然とそうした措置に対する不同意を示した。マッカーサーの支持者は議会にもいた。トルーマンは最高司令官としての権威に挑戦したとしてマッカーサーを解任した。マッカーサーを罷免した主要な理由は、マッカーサーが共産主義勢力との全面戦争を起そうとしているとトルーマンが確信していたことである。休戦会談を進めようとしていたトルーマンにとってマッカーサーの姿勢は容認できるものではなかった。マッカーサーの解任によって文民統制の原理が明示され、政策決定者である文民と政策遂行者である軍人の関係が規定された。マッカーサーの解任についてトルーマンは以下のように演説している。

 「我々が直面せざるを得なかった問題は、全面戦争に訴えることなく共産主義者の征服計画を阻止できることができるかどうかということである。我が政府及び協力的な国際連合諸国は、全面戦争なしに[侵略を]食い止める最善の見込みは、朝鮮における攻撃に対抗し、それを朝鮮で撃退することにあると信じている。これこそまさに我々が実行してきたことである。それは困難で苦悩の多い問題である。しかし、これまでのところそれは成功を収めてきた。これまでのところ、我々は第3次世界大戦を防止してきた。これまでのところ、我々が朝鮮で限定戦争を戦うことによって、侵略が成功して全面戦争を引き起こすことを阻止してきた。そして、全自由世界が共産主義の侵略に抵抗する力が大きく強められたのである。しかしながら、諸君は次のように反問するかもしれない。なぜ我々は満州や中国自体に爆撃を加えないのか。なぜ我々は中国国民政府軍を援助して中国本土に上陸させないのか。もし我々がこうした行動をとるのであれば、全面戦争を始める非常に重大な危険を冒すことになる。それが発生すれば、我々が防止しようとしているまさにその事態を招来することになろう。もしこうした行動に出るのであれば、我々はアジア大陸での巨大な戦争に巻き込まれてしまい、全世界にわたって我々の任務は限りなく困難の度を加えるであろう。我が兵力が共産中国との全面的な戦争に投入されてしまうこと程、クレムリンの野望を満足させることがあるだろうか。私が戦争を朝鮮に限定するように努力すべきだと信じるのは、次のような死活的に重要な理由からである。すなわち我が戦闘員の貴重な生命が決して浪費されず、我が国と自由世界の安全保障が不必要に危殆にさらされないようにするため、そして第3次世界大戦を防止するためである。数多くの事件によってマッカーサー将軍がこの政策に同意しないことが明らかにされた。したがって私は我々の政策の真の目的と目標について疑惑や混乱をなくすためにマッカーサー将軍を解任することが絶対必要と考えたのである」[lxxix]

 19517月、ソ連の提唱により休戦会談が始まった。休戦協定はトルーマン大統領の任期内には実を結ぶことはなくアイゼンハワー政権に引き継がれることになった。休戦会談開始よりトルーマンの任期終了までの1年半は、散発的な戦闘と捕虜問題をめぐっての休戦会談の紛糾に終始する。捕虜解放の手法についてアメリカは自由解放を主張する一方、共産側は強制送還を主張していた。約13万人の共産側捕虜のうち半数近くが帰国を望んでいなかった。捕虜問題は表面的なものにすぎず、実相は威信をかけての米中間の争いという政治的戦争にすぎなかった[lxxx]。さらに韓国の李承晩大統領は休戦に反対し北進を主張して休戦会談を阻害した。朝鮮戦争によってトルーマン政権の支持率は低迷したが、韓国、さらに日本を共産主義の脅威から守った点でアメリカの冷戦戦略上で大きな意義があった。また国際連合が必要とあれば断固として戦うという姿勢を実際に示したことも重要であった。しかし、朝鮮戦争は中国やソ連との関係を平常化する一縷の望みも完全に粉砕した。ソ連はアメリカに対する警戒心を高め、中国に軍事援助を与えることで中国を軍事大国化する結果をもたらした。

朝鮮戦争は新たな冷戦状況に対応するために起草されたNSC-68の有効性を示した。NSC-68は国家安全保障会議によって作成され、トルーマン大統領に冷戦時代の基本方針を示す報告書として提出されたものである。NSC-68は、朝鮮戦争勃発前の195047日に国務省と国防総省の共同報告として大統領に提出された。それは戦後の国際秩序が米ソによって分断される二極構造であり対決が不可避であることを認め、ソ連が国際共産主義を広めようと膨張していることを認めている。水爆開発と通常兵力の増強を通じてアメリカの防衛力を強化し、ソ連に圧力を加えることで、直接戦争に訴えることなくソ連の力を減退させ、最終的には自壊に導くことを骨子としている。こうしたNSC-68の方針は朝鮮戦争の勃発により説得力を持つようになり、アメリカの冷戦体制が大幅に軍事化されるようになった。

サン・フランシスコ条約によりアメリカは日本をアジア非共産圏の要に据えた。アメリカは大戦終結後、日本の民主化、非軍事化を目指して占領改革を行った。しかし、冷戦が顕在化し、中国国民党が共産党に対して劣勢に立たされるようになるとアメリカは戦略拠点としての日本の経済復興を重視するようになった。朝鮮戦争の勃発を契機に対日講和条約が推進された。その結果、195198日にサン・フランシスコ講和条約が日本と連合国48ヶ国との間で締結された。同条約は、日本を平等な一員として国際社会に迎え入れ、日本軍が直接侵略した国以外の連合国の賠償請求権を放棄するという寛大な内容であった。サン・フランシスコ講和条約に合わせて日米安全保障条約が締結され、日本はアメリカのアジアにおける冷戦戦略の主要な一翼を担うことになった。

 外交政策においてさえ近代的大統領の権限に依然として制限が課されていた。トルーマンは泥沼化した朝鮮戦争によって国民からも議会からも批判を受けていた。最も重要なことは、朝鮮戦争によって大統領に経済を規制する非常時の権限が与えられるというトルーマンの主張が1952年のヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対ソーヤー事件の判決で否定されたことである。朝鮮戦争の遂行は鉄鋼の需要を高めた。鉄鋼産業と労働者の間で争議が起き、労働組合によるストライキ宣言で争議は頂点を迎えた。まず連邦中立仲裁機関が交渉にあたったが失敗した。さらにトルーマンは連邦賃金安定委員会に問題を付託したが同じく失敗した。195244日、労働組合は同月9日からストライキを呼びかけることを発表した。それに対応してトルーマンはチャールズ・ソーヤー(Charles Sawyer)商務長官に製鋼所を接収して操業を続けさせるように指示した。争点となったのは、大統領に戦時権限の下、商務長官に製鋼所を接収させる権限があるのか否かという点であった。

最高裁は、大統領は国家産業を統制する司令官ではなく軍隊だけの司令官であり、大統領の義務は議会が制定した法の執行に配慮することであるから、大統領にそのような権限はないという解釈を示した。大統領の権限は、憲法または法から生じなければならないが、私有財産を差し押さえる権限を大統領に委託するような憲法の条項または法は存在しない。私有財産の差し押さえは立法府の決定すべき事項であって軍隊の司令官がなすべき事項ではない。最高裁は大統領が憲法上の権限を逸脱していると判断し、大統領の権限の拡張を抑制したのである。

最高裁の判決は多くの人々を驚かせた。大統領が労働争議に介入した先例をトルーマンは引いた。セオドア・ローズヴェルトは無煙炭ストライキの間、もし仲裁が失敗に終われば、鉱山を接収して操業すると宣言した。真珠湾攻撃の6ヶ月前、フランクリン・ローズヴェルトは、カリフォルニア州イングルウッドのノース・アメリカン・アビエーション・プラントを接収し、そうする権限は憲法と法の集合に由来すると主張した。1866年まで最高裁は大統領の特権の行使を違反と認める判決を下さなかった。南北戦争後、ミリガンの申し立てによる事件で最高はリンカンによる南北戦争中の軍事裁判の利用は無効であると判定した[lxxxi]。おそらくトルーマンは、最高裁がローズヴェルトとトルーマン自身が任命した判事によって占められていたので、政権の見解が支持されると期待したのであろう。

最高裁の判決は大統領の最高司令官としての権限を厳しく制限した。2人の判事が大統領が非常時大権を持つか否か疑問を呈した。その他の4人の判事は、議会はタフト=ハートリー法を制定することによって労働争議を解決する手段として大統領が差し押さえを行う権限を明らかに否定しているという見解を示した。ジャクソン判事は次のように、大統領が議会に反する権限を行使した場合にそれを審査する最高裁の基準を論じた。大統領の行動が明確か暗黙かを問わず議会の授権に準拠している場合は、大統領の権限は大統領独自の権限と議会が委任した権限を含む。大統領の行動に関する最も難しい事例は議会の授権がないか、議会が大統領の権限を否定している場合である。法が制定されていない場合、大統領と議会が競合する権限を持つ曖昧な領域がある。そうした領域では、権限の正当性は法の抽象的な理論よりも状況、出来事の緊急性による。しかし、トルーマンの差し押さえは議会によって制定された法を否認するものであり、明らかに大統領の権限の限界を逸脱している。

ヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対ソーヤー事件は、大統領といえども超法規的存在ではないという概念を再確認した重要な事例であった[lxxxii]。トルーマンの敗北は、大統領は拡大された権限を慎重に行使しなければならないことを意味した。それにも拘わらず、最高裁は最高司令官としての大統領の権限に致命的な打撃を与えなかった。実際、もし議会が、大統領に製鋼所の操業を続けさせる別の方法を提示するタフト=ハートリー法を制定していなければ、最高裁はトルーマンの差し押さえを支持しただろう。

 こうした抑制にも拘わらず、トルーマン政権は近代的大統領制度を再確定した。トルーマンは、大統領が特別な政治的才能や人気がなくても重要な目的を達成し、少なくとも主要な国内政策と外交政策を主導できることを示した。トルーマンは大きな政府の出現という新しい政治的状況に適応することに部分的に成功を収めた。国内での福祉国家と国外でのアメリカによる自由世界の主導は、主要な責任をホワイト・ハウスに集中させた。

またトルーマンは大統領制度を組織として定型化することで大統領制度の発展に寄与した。フランクリン・ローズヴェルトによって大統領府が創設されたが、大統領府の職員は明確に体系化されておらず、ローズヴェルト個人の意向を強く反映していた。トルーマンは大統領府を体系的に組織した。トルーマン政権においてホワイト・ハウス事務局の職掌は明確に分化された。トルーマンはローズヴェルトよりも予算局を有効に活用し、大統領の行政上の義務を果たした。トルーマンは予算局に、各省庁が求める立法要請を調整し、ホワイト・ハウスによる立法要請と大統領令を起草する責任を負わせた。結果としてトルーマンは、大統領が諸問題に対して決定を下すだけで済むような諮問制度を確立した。

 議会はトルーマンが大統領制度を体系化する手助けをした。議会の主導によって設立された経済諮問委員会や国家安全保障会議は、大統領が経済政策や外交政策を形成する手助けをした。経済諮問会議は大統領によって指名され、上院によって承認される3人の経済学者から構成される。経済情勢を分析し、政府がなすべきことを大統領に助言するのが役割である。国家安全保障会議は、軍部とその他の政府各省及び機関が国家の安全保障に関する事項につき一層効果的に協力することを可能にするために、国家の安全保障に関係する国内、外交、軍事の政策の統合に関して大統領に勧告することを任務とする機関で、大統領、副大統領、国務長官、国防長官、事務局長から構成される。統合参謀本部議長、中央情報局長官、その他の閣僚やホワイト・ハウスの職員を含むこともあった[lxxxiii]多くの議員は経済諮問委員会や国家安全保障会議が経済政策や外交政策における大統領の自主性を抑制するように期待したが、トルーマンは両組織を大統領の顧問団の一部として有効に活用した。

 現代的な全体戦争の要請に応じるために軍事政策、外交政策、内政政策を統合調整することを目的とした国家安全保障法によって、さらに国際問題に対する大統領の影響力を高める2つの行政組織と国家安全保障会議が設立された。1つは中央情報局である。中央情報局は冷戦時代の外交的、軍事的戦略を展開する新しい強力な武器となった。トルーマン政権期、中央情報局は劇的に拡大され、47ヶ国に6,000人もの秘密要員を抱え、8,000万ドルの予算を使うまでになった[lxxxiv]。トルーマンは中央情報局が秘密警察になることを恐れたが、広範囲にわたる諜報活動の一元化は中央集権化と責任の所在の明確化を望むトルーマンにとって望ましいものであった。

 もう1つの行政組織は国防総省である。国防総省は陸、海、空の三軍を統括する中央省庁である。第2次世界大戦の終わりまでに、議会は混乱を極めている軍組織の整理統合が必要であることを痛感していた。トルーマンもそうした考えに同意していた。1947年に国防総省の前身である国軍が創設された。国軍の長には国防長官が置かれ、陸、海、空の三軍の軍事行動を調整する責任を負った。この仕事は非常に困難な仕事であり、初代国防長官となったジェームズ・フォレスタル(James Forrestal)は神経衰弱になり自殺に追い込まれた程である。フォレスタルとトルーマンは、国家安全保障法に修正を提案した。修正は1949年に法制化された。修正によって国防長官の権限が強化され、国軍は国防総省に改組された。さらに軍組織を中央集権化するために、1949年の修正によって、国防長官と大統領に軍事的助言を行う統合参謀本部議長の職が設置された。こうした変革によって陸、海、空の三軍の間の競争がなくなったわけではないが、新しい省の創設によって大統領の軍事政策を指示する権限が強まった。また国防総省の下に国家安全保障局が中央情報局の提言によって1951年に設けられた。設立目的は、諜報能力を強化し、諜報の伝達を防護することである。国家安全保障局は、電子諜報、暗号解読、暗号化などを調整する。アメリカの国家安全保障を維持するために国家安全保障局は大統領にとって不可欠な機関となっている[lxxxv]。さらに1986年のゴールドウォーター=ニコラス法の制定により、大統領の軍部に対する権限は強化された。同法によって、統合参謀本部議長の選定は統合参謀本部ではなく大統領が行うようになった[lxxxvi]

 元大統領のフーヴァーはトルーマンの大統領制度を強化しようという試みを手助けした。第2次世界大戦直後、政府の縮小を望む幅広い意見の統一があった。そうした見解は、政府に効率性と経済性を求める初期の革新主義の理念と大恐慌、戦争、大規模な軍の解散に引き続く数多くの機関や計画の管理の再調整の必要性に端を発していた。共和党が多数を占めた第80議会はフーヴァーを行政府の組織に関する委員会の長に任命した。行政府の組織に関する委員会は第1フーヴァー委員会と呼ばれる。同委員会は大統領と議会がそれぞれ指名する委員から構成され、共和党員と民主党員が同じ数になるように調整された。同委員会の仕事は、共和党の議会指導者の考えでは、ニュー・ディールで実施された計画への攻撃の基盤を作ることであり、ローズヴェルトのような大統領が出現しないために行政府の権限を制限することであった。しかし、大統領職経験者として行政府の問題をよく理解していたフーヴァーは近代的大統領制度を強化する必要があると考えた[lxxxvii]

 フーヴァー委員会の1年目はその任務に関する議論に費やされた。提言を政府の運営能力を改善するための管理上、構造上の変革に限定すべきか、機関や計画を廃止するように求めて具体的な政策にまで踏み込むべきかが問題であった。この議論はトルーマンの大統領選挙での勝利によって決定された。同委員会は、考察の焦点を政府の縮小から大統領と閣僚の管理権限の強化に移した。トルーマンはニュー・ディールを防衛しようとしたが、革新主義の科学的な管理の理念にも共鳴していた。したがってトルーマンとフーヴァーの理念はそれ程、違いがあるわけではなかった。同委員会は調査を特別調査委員会に振り分けた。この決定は重要であった。なぜなら、予め方向性が決められていない場合、同委員会が考えるべき分析や提言の方向性に影響を及ぼしたからである。それぞれの特別調査委員会が提言とともに報告を委員会に提出した。委員会でまとまった報告は作成されず、19の別々の報告が大統領と議会に行われ、最後の報告は19495月に行われた。

 多くの検討を経た後でフーヴァー委員会が提出した報告は、1937年にブラウンロー委員会が提出したローズヴェルトの行政府の再編を支持した報告と非常に類似した内容であった。フーヴァー委員会は、特に拡大された行政府の広範囲にわたる活動を大統領が監督するには助力が必要であると論じた。政策を形成し規制を定める責任を大統領、中核的な管理機関、各省庁の長官に集中させるべきである。フーヴァー委員会は、独立委員会への機能の拡散を非難し、階層的な構造を形成するべきだと提唱した。同委員会は大統領府の発展を歓迎し、大統領府の構成機関を強化するように提言した。フーヴァー委員会の提言は1949年行政組織再編法の基盤になった。同法は、大統領に多くの省庁や独立規制委員会に重要な変更を加える権限を認めている。また連邦資産管理業務法によって一般調達局が設立された。しかしながら省庁の機能の再編に集中することは、行政府の管理者としての大統領職の機能を高めるという目的を曖昧にする結果をもたらした。

 特に重要なのは1950年に公表されたトルーマンの再編計画第8番である。トルーマンは独立規制委員会に大統領の影響が及ぶようにする規定を盛り込み、委員を罷免する完全な権限を大統領に認めないハンフリーズの遺言執行人対合衆国の判決の効果を相殺しようとした。再編計画により、独立規制委員会の長は大統領によって任命され、大統領の随意で在任できることになった。その代わりに独立規制委員会の長は委員会の構成員を任命し、その活動を監督する大幅な権限を与えられた。結果的に大統領は以前よりも独立規制委員会に指示を与えやすくなった[lxxxviii]

  行政府の再編に対するフーヴァーの支持は、近代的大統領制度の形成に関して政治的な意見の一致があったことを示している。また行政府の管理の問題に関するフーヴァーの提言は、大統領制度を最も困難な仕事をやり遂げるための適切な組織に変革するうえで超党派的な支持を形成した。

 トルーマン政権末期、いわゆる「トルーマン・スキャンダル」が相次いで暴露された。有力な民主党員を友人に持つ有罪人に特赦が与えられたことが問題になった。さらに公職者の収賄が明るみに出た。トルーマンの軍事顧問が香水密輸業者に協力し、贈り物を受け取っていた。また復興金融公社貸付監査官の妻が夫が融資を決定した見返りに贈り物を受け取っていたことが発覚した。他にも司法省税務局で違反者に手心を加えた事例が暴露され、2人が収監された。こうしたスキャンダルに対してトルーマンは司法省の浄化を行い、復興金融公社の組織を再編した。しかし、トルーマンの対処にも拘わらず、トルーマン・スキャンダルは1952年の選挙で朝鮮戦争に加えて民主党の重荷となった。

 冷戦と原爆の登場は新たな権限を大統領に与えた。原爆により大統領は他国を議会の承認なく滅ぼすことができる力を手に入れた。また最高司令官の役割に対する理解も変化した。第2次世界大戦後、アメリカ人が大統領を戦時でないのにも拘わらず最高司令官と見なすことは珍しくなくなった。大統領は軍の最高司令官ではなくアメリカ国民の最高司令官になったのである。本来は最高司令官の役割は戦時に限られた一時的なものであったが、冷戦期において恒久的なものとなった。トルーマンは、戦後世界の新しい秩序を構築し、冷戦構造の中で世界におけるリーダーシップを確立した点で第2次世界大戦後の歴代大統領の中で最も創造的な大統領であった[lxxxix]



[i] Harry S Truman, Memoirs (Dobleday, 1955), 1:4-5.

[ii] Larry Berman, New American Presidency (Little Brown, 1987), 212.

[iii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)6:121-123

[iv] Radio Report to the American People on the Potsdam Conference, August 9, 1945.

[v] Harry S Truman, Memoirs (Dobleday, 1955), 1: 483.

[vi] Harry S Truman, Memoirs (Dobleday, 1955), 1:485-486.

[vii] William E. Leuchtenburg, In the Shadow of FDR: From Harry Truman to Ronald Reagan (Cornell University Press, 1985), 23.

[viii] William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 3: 1568-1569.

[ix] CQ Press, Presidential Elections 1789-2008 (CQ Press, 2010), 156.

[x] 有賀貞・志邨晃祐・平野孝編、『アメリカ史』(山川出版社、1993)2:319-20

[xi] Susan Carter eds., Historical Statistics of the United States: Earliest Times to the Present (Cambridge University Press, 2006), 5: 334, 355, 367-368, 371, 455.

[xii] Legislative Reference Service, Library of Congress, U.S. Foreign Aid: Its Purposes, Scope, Administration, and Related Information (Greenwood Press, 1968), 21-28.

[xiii] Raymond Dennett and Robert Turner eds., Documents on American Foreign Relations (Princeton University Press, 1948), 8: 364.

[xiv] John Campbell, The United States in World Affairs, 1945-47 (Harper and Bros, 1947), 338.

[xv] Thomas Langston, The Cold War Presidency: A Documentary History (A Division of Congressional Quarterly, 2007), 2.

[xvi] Lynn B. Hinds and Theodore O. Windt, Jr. The Cold War as Rhetoric: The Beginnings, 1945-1950 (Praeger, 1991), xvii.

[xvii] Athan Theoharis, Seeds of Repression: Harry S. Truman and the Origins of McCarthyism (Quadrangle Books, 1971), 30-31.

[xviii] Legislative Reference Service of the Library of Congress, Trends in Russian Foreign Policy since World War I (Government Printing Office, 1947), 39-41.

[xix] Alonzo L. Hamby, Man of the people: A life of Harry S. Truman (Oxford University Press, 1995), 346.

[xx] John Lewis Gaddis, The United States and the Origins of the Cold War, 1941-1947 (Columbia University Press, 1972), 284.

[xxi] 石田正治、『冷戦国家の形成』(三一書房、1993)44-45

[xxii] George F. Kennan, Memoirs: 1925-1950 (Little Brown and Company, 1967), 51.

[xxiii] Legislative Reference Service of the Library of Congress, Trends in Russian Foreign Policy since World War I (Government Printing Office, 1947), 41.

[xxiv] John Lewis Gaddis, The United States and the Origins of the Cold War, 1941-1947 (Columbia University Press, 1972), 336.

[xxv] Letter from R. Henry Norweb to Harry S Truman, February 7, 1945

[xxvi] Clark M. Clifford, Counsel to the President: A Memoir (Random House, 1991), 106.

[xxvii] Alonzo L. Hamby, Man of the people: A life of Harry S. Truman (Oxford University Press, 1995), 348.

[xxviii] Clark M. Clifford, Counsel to the President: A Memoir (Random House, 1991), 108.

[xxix] Legislative Reference Service of the Library of Congress, Trends in Russian Foreign Policy since World War I (Government Printing Office, 1947), 42.

[xxx] Legislative Reference Service of the Library of Congress, Trends in Russian Foreign Policy since World War I (Government Printing Office, 1947), p.43.

[xxxi] Clark M. Clifford, Counsel to the President: A Memoir (Random House, 1991), 110-112.

[xxxii] Margaret Truman, Harry S. Truman (Morrow, 1973), 347.

[xxxiii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1958)、別:251-256

[xxxiv] Alonzo L. Hamby, Man of People: A Life of Harry S. Truman (Oxford University Press, 1995), 387.

[xxxv] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1958)、別:249

[xxxvi] Alonzo L. Hamby, Man of People: A Life of Harry S. Truman (Oxford University Press, 1995), 393.

 [xxxvii] Herbert Feis, From Trust to Terror: The Onset of the Cold War, 1945-1950 (Anthony Blond, 1971), 233-34.

[xxxviii] Clark M. Clifford, Counsel to the President: A Memoir (Random House, 1991), 143.

[xxxix] Clark M. Clifford, Counsel to the President: A Memoir (Random House, 1991), 144.

[xl] Alonzo L. Hamby, Man of People: A Life of Harry S. Truman (Oxford University Press, 1995), 395.

[xli] Thomas Langston, The Cold War Presidency: A Documentary History (Division of Congressional Quarterly, 2007), 50.

[xlii] Thomas Langston, The Cold War Presidency: A Documentary History (Division of Congressional Quarterly, 2007), 50.

[xliii] Legislative Reference Service, U.S. Foreign Aid: Its Purposes, Scope, Administration, and Related Information, 41.

[xliv] Lorna Morley and Felix Morley, The Patchwork History of Foreign Aid (American Enterprise Association, 1961), 21-22.

[xlv] Michael Hogan, The Marshall Plan: America, Britain, and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952 (Cambridge University Press, 1987), 393.

[xlvi] Thomas Langston, The Cold War Presidency: A Documentary History (Division of

Congressional Quarterly Inc., 2007), 51.

[xlvii] Herbert Feis, From Trust to Terror: The Onset of the Cold War, 1945-1950 (Anthony Blond, 1971), 341-344.

[xlviii] Peter Boyle, American-Soviet Relations: From the Russian Revolution to the fall of Communism (Routledge, 1993), 61.

[xlix] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1958)、別:303-305

[l] Dennis Merrill ed., Documentary History of the Truman Presidency (University Publication of America, 1996), 7: 376.

[li] ジョンソン、ポール『アメリカ人の歴史』 (共同通信社、別宮貞徳訳、2002)307

[lii] John Montgomery, Foreign Aid in International Politics (Prentice-Hall, 1967), 40-41.

[liii] Hastings L. Ismay, NATO: The First Five Years 1949-1954 (North Atlantic Treaty Organization, 1954), 5-7.

[liv] Hastings L. Ismay, NATO: The First Five Years 1949-1954 (North Atlantic Treaty Organization, 1954), 175.

[lv] American Institute of Public Opinion, The Gallup Poll: Public Opinion, 1935-1971 (Random House, 1972), 2: 829-830.

[lvi] Letter from Harry S Truman to George C. Marshall, December 15

[lvii] Letter from Lattimore to Ambassador Pauley, November 28

[lviii] Letter from Harry S Truman to Hugh De Lacy, February 15

[lix] Letter from A. C. Wedemeyer to George C. Marshall, July 29, 1947

[lx] Willam W. Stueck, Jr. The Road to Confrontation: American Policy toward China and Korea, 1947-1950 (The University of North Carolina Press, 1981), 54-55.

[lxi] James M. Grasso, Truman’s Two-China Policy, 1948-1950 (M. E. Sharpe, Inc., 1987), 7-10.

[lxii] James M. Grasso, Truman’s Two-China Policy, 1948-1950 (M. E. Sharpe, Inc., 1987), 97-102.

[lxiii] James M. Grasso, Truman’s Two-China Policy, 1948-1950 (M. E. Sharpe, Inc., 1987), 108-113.

[lxiv] Willam W. Stueck, Jr. The Road to Confrontation: American Policy toward China and Korea, 1947-1950 (The University of North Carolina Press, 1981), 137-142.

[lxv] Willam W. Stueck, Jr. The Road to Confrontation: American Policy toward China and Korea, 1947-1950 (The University of North Carolina Press, 1981), 142.

[lxvi] James M. Grasso, Truman’s Two-China Policy, 1948-1950 (M. E. Sharpe, Inc., 1987), 113-119.

[lxvii] Earl Latham, The Communist Controversy in Washington: From the New Deal to McCarthy (Harvard University Press, 1966), 184-194.

[lxviii] Ellen Schrecker, The Age of McCarthyism: A Brief History with Documents (Bedford Books, 1994), 212.

[lxix] Robert Griffith, The Politics of Fear: Joseph R. McCarthy and the Senate (University of Kentucky Press, 1970), 48-51.

[lxx] Ellen Schrecker, The Age of McCarthyism: A Brief History with Documents (Bedford Books, 1994), 32.

[lxxi] Athan Theoharis, Seeds of Repression: Harry S. Truman and the Origins of McCarthyism (Quadrangle Books, 1971), 28-29.

[lxxii] Earl Latham, The Communist Controversy in Washington: From the New Deal to McCarthy (Harvard University Press, 1966), 10-13.

[lxxiii] Athan Theoharis, Seeds of Repression: Harry S. Truman and the Origins of McCarthyism (Quadrangle Books, 1971), 164.

[lxxiv] Richard M. Freeland, Truman Doctrine and the Origins of McCarthyism: Foreign Policy, Domestic Politics, and Internal Security, 1946-1948 (Knopf, 1972), 348.

[lxxv] Earl Latham, The Communist Controversy in Washington: From the New Deal to McCarthy (Harvard University Press, 1966), 11.

[lxxvi] Radio and Television Address on the Situation in Korea, July 19, 1950.

[lxxvii] 丹羽巌、『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993)64

[lxxviii] Harry S Truman, Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1950 (Government Printing Office, 1965), 746-747.

[lxxix] Speech Explaining the Firing of Douglas MacArthur, April 13, 1951.

[lxxx] 神谷不二、『朝鮮戦争―米中対決の原形』(中央公論社、1990)169

[lxxxi] Richard M. Pious, The American Presidency (Basic Books, 1979), 66-67.

[lxxxii] Maeva Marcus, Truman and the Steel Seizure Case: The Limits of Presidential Power (Columbia University Press, 1977), 248.

[lxxxiii] 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)88

[lxxxiv] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 229.

[lxxxv] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 392-393.

[lxxxvi] Alonzo L. Hamby, Man of People: A Life of Harry S. Truman (Oxford University Press, 1995), 309-311.

[lxxxvii] Peri E. Arnold, Making the Managerial Presidency: Comprehensive Reorganization Planning, 1905-1980 (Princeton University Press, 1986), 127.

[lxxxviii] Martha Derthick and Paul J. Quirk, The Politics of Deregulation (Brookings, 1985), 61-74.

[lxxxix] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 227.


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