トルーマン・ドクトリン

 トルーマン・ドクトリンについて研究者の立場から詳細に解説する。トルーマン・ドクトリンの作成過程からその影響に至るまでを説明する。トルーマン・ドクトリンの解説の決定版である。さらにマーシャル・プランについて知りたい方はこちら

第一項 トルーマン・ドクトリンの前触れと先行研究

 

トルーマン・ドクトリンの発表は、政権の内幕を知らない者にとって唐突なものであったかもしれない。トルーマン・ドクトリンの発表の六日前、トルーマンはテキサス州のベイラー大学で外交に関する講演を行っている。その演説の締め括りは以下のようであった。

 

「平和と自由はたやすく達成されるものではない。また力によって達成されるものではない。政治経済において、相互理解と協調、さらにすべての事柄に関して、すべての友邦を公平に扱うことが平和と自由を生む。今、そして未来にかけてそうすることを決心しよう。もし他国が[我々と]同じようにするなら、我々は永久平和と世界平和という目標を達成することができる」[i]

 

この論調には、六日後のトルーマン・ドクトリンで示されたような民主主義と共産主義の対立構図は全く含まれていない。ただ「我々は経済界における巨人である。否が応でも、経済関係の将来は、我々にかかっている。世界は、我々がなすことに注目している。我々は選択しなければならない。我々は、諸国を経済的な平和に導くことも、諸国を経済的な戦争に突入させることもできる」[ii]という言葉は、トルーマンの心情の一端を表しているように思える。実は、トルーマン・ドクトリンの発端となったギリシア問題をこの演説に盛り込むことも検討されていたのである[iii]

次にトルーマン・ドクトリンに駆使されているレトリックの先行研究をいくつかあげておきたい。トルーマン・ドクトリンに関するレトリック研究は、トルーマンに関するレトリック研究の中で最も研究業績が多い。主な研究としては、先述のハルフォード・ライアン(Halford R. Ryan)の『ハリー・S・トルーマン―大統領のレトリック』[iv]、リン・ハインズ(Lynn B. Hinds)とセオドア・ヴィント(Theodore O. Windt, Jr.)の『レトリックとしての冷戦―発端、1945年から1950年』[v]、ロバート・アイヴィー(Robert L. Ivie)の「火事、洪水と反共熱―トルーマン・ドクトリンにおける地球規模の緊急事態のメタファーの動員」[vi]などがある。またロバート・フレージャー(Robert Frazier)は、トルーマン・ドクトリン形成過程において、ディーン・アチソン(Dean G. Acheson)国務次官が大きな役割を果たしたことを実証している。このフレージャーの「アチソンとトルーマン・ドクトリンの形成」[vii]はトルーマン・ドクトリンの再評価に貢献する研究であった。

ライアンの研究は、主にトルーマン・ドクトリンの演説草稿の作成過程を論じ、全体に見られるレトリックの特徴を「超国家レトリック」と呼んだ。そしてトルーマン・ドクトリンの意義は、「合衆国を、アメリカ国民の安全と自由のために国家は存在するという伝統的な公理から、アメリカは共産主義と闘い、民主主義のために世界を安全にする責務を負わなければならないというウィルソン的な意味合いを持つ新しい超国家的な公理へ動かしたこと」[viii]に認められると指摘した。このライアンの指摘は非常に適切なものだろう。

ハインズの研究は、トルーマン・ドクトリンに見られる対共産主義レトリックは、ギリシアとトルコへの援助を納得させるための手段に他ならないと指摘している。「公共情報プログラム」と呼ばれるプログラムを実施することによって、大統領が演説を行う前に、合衆国とソ連のイデオロギー対立を強調し、ギリシアの危機を記者に認識させようと試みたという[ix]。ハインズの研究は、デマゴーグによる大衆操作の問題を考えるうえで非常に有用な指摘であろう。

アイヴィーの研究は、トルーマン・ドクトリンに関わった閣僚達の発言や議員達の会話などを取り上げながら、共産主義の脅威の拡大が、火事や洪水、または疫病に喩えられて語られた例を綿密に追跡している。病気に関して言えば以下の通りである。第二次世界大戦の傷が癒えない病人であるギリシアは、適切な処置を受けなければ健全な民主主義になることができず、簡単に共産主義という疫病に罹ってしまう。疫病が世界に広まれば、アメリカの安全も脅かされる[x]。この研究は、トルーマン・ドクトリンで展開されたレトリックの特質を適切に指摘した研究だと言える。ロバート・アンダーヒル(Rovert Underhill)もトルーマン・ドクトリンの基本構造について言及している。その基本構造とは、以下のような三段論法であるという[xi]

 

1、ソ連の行動は何であれ世界征服計画の一環である。

2、ギリシアとトルコの危機はソ連の行動によるものである。

3、それ故、ギリシアとトルコの危機は、世界征服計画の一環である。

 

 このアンダーヒルの指摘は、非常に明快で優れた指摘である。

 

第二項 ギリシア・トルコ情勢とアチソン発言

 

先述のフレージャーの研究と演説草稿、国務省のスピーチライターであったジョセフ・ジョーンズ(Joseph M. Jones)の回想録[xii]を手がかりに、トルーマン・ドクトリンの草稿作成過程からまず追ってみたい。

後述するが、アチソン国務次官やスピーチライターたちの考えからすると、トルーマン・ドクトリンの主目的は、共産主義の脅威を訴えて冷戦の開始を高らかに告げることではなく、ギリシアとトルコがソ連の支配下に置かれることを阻止するため、さらなる援助を両国に与えることを議会に承認させることであった。第二次世界大戦中、戦費により肥大化した国家財政を平常化するために、緊縮財政を固守しようとしていた議会に、既に行ってきた援助に加えて、さらなる「大規模な」援助を承認させることは、十分な説得力がなければ極めて困難であった。

もちろん、アメリカはギリシアに対してトルーマン・ドクトリン発表以前から援助を行っていた。第二次世界大戦後、ギリシアは戦災により深刻な経済危機に陥っていた。さらにギリシア政府軍と国民解放戦線の内戦が勃発し、政治的にも混迷を深めていた。ユーゴスラビア、ブルガリア、そしてアルバニアといった周辺の社会主義国家が国民解放戦線を支援したせいで、内戦は膠着状態に陥った。

このように経済的にも政治的にも混迷を深めていたギリシアに、19461月、合衆国輸出入銀行が2,500万ドルの借款を与え、さらに19467月、国連救済復興会議が総計35800万ドルの援助を約束している。このような巨額な援助のみならず、さらにイギリス軍が政局安定のためにギリシアに引き続き駐留していた。このような支援にも拘らず、国民解放戦線に対抗するために必要となる戦費の恒常的な増大と国内の経済破綻により、ギリシア政府は機能不全に陥りつつあった。

19468月の段階では、もはやギリシアに対するさらなる援助は不要で、議会に追加予算を求める必要はないとアチソン国務次官は提言している。さらにアチソンは、ギリシアが自力で経済的、政治的混迷を収拾しようと努力するまでは、さらなる援助を約束するべきではないと述べている[xiii]

またトルコでは、ソ連からの圧力が日に日に強まっていた。ソ連はトルコに対して、ダータネルス海峡防衛を両国で共同して行うこと、さらにトルコ領割譲を両国間で協議することを要求していた。トルコ政府はソ連の要求を拒絶したが、ソ連の実力行使に対抗しうる軍備は全く持っていなかった。第二次世界大戦開戦以来、イギリスはトルコに対して大規模な軍事的、財政的援助を与えていたが、アメリカもトルコに総額13100万ドルの経済援助を与えていた。アメリカは、トルコ政府に要求を突きつけるソ連を牽制しようと試みたが、全く効果がなかった[xiv]

1947221日、財政難に苦しんでいたイギリスは、ギリシアとトルコへの軍事的、経済的援助を六週間以内に打ち切る旨をアメリカに通達した[xv]。このイギリスによる通達がトルーマン・ドクトリン発表の直接の契機である。この通達の重要性に着目したアチソンは国務省のスタッフに、関連する事実やギリシアとトルコからのイギリスの撤退が及ぼす影響を分析させた[xvi]

その三日後の224日、国務省と軍の主要メンバーが出席した会議で、ギリシアとトルコがソ連の影響下に入れば、欧州や中東までも脅かされるようになるという認識が確認され、何らかの対処策が必要であるという結論が出された。

もちろんこうした認識は、クリフォード・エルゼイ報告書によれば、従来から存在していた。クリフォードもトルーマンに、報告書に基づいて、今こそ新しい外交政策を形成し、アメリカ国民の支持を結集させるべきだと提言している[xvii]

しかし、この時点では、そうした事態が合衆国の安全保障に重大な影響を及ぼすと指摘されたとはいえ、具体的な影響に関する説明は十分ではなかった。そのうえ、もしギリシアとトルコに援助を与えなければ民主主義と自由を危機にさらすことになるという論理や「全体主義」、もしくは「共産主義」という言葉はまだ導入されていなかった[xviii]

同月27日、議会指導者達を招いた会議で、初めにジョージ・マーシャル(George C. Marshall)国務長官が援助の必要性について説明を行った。しかし、マーシャルの説明があまりに無味乾燥すぎたので、議会指導者達は肯定的な態度を全く示さなかった。議会指導者達からは、「これはイギリスが放棄した火中の栗を拾うことになるのではないか」、「何に賛成せよと言うのだ」、「どれくらいの犠牲を払わなければならないのか」といった質問が相次いだ。

アチソン国務次官はマーシャルが「会議の開始声明でしくじった」[xix]と判断し、マーシャルを通じて大統領に発言の機会を求めた。アチソンは後に自伝で「これは私の危機である。一週間、私はこの案を促進してきた。ここにいる議員達は何が試練にさらされているのかを全く理解していない。それを思い知らせるのが私の責務だ」[xx]と回想している。発言の機会を与えられたアチソンは、ギリシアとトルコの事態の帰趨が、いかにアメリカの安全保障に影響を及ぼすのかを説明した[xxi]

もしソ連がトルコを掌握することに成功すれば、ギリシアやイランにも勢力を拡大させるであろう。それだけではなく、ギリシア自体でも共産勢力が、もし外部から支援を得ることができるようになれば、全土の支配権を握ってしまうだろう。もしギリシアが共産勢力の手中に落ちたら、トルコは遅かれ早かれ屈服させられることになる。ソ連の目的は、東地中海と中東の支配であり、その野望は南アジア、アフリカと際限なく広がっていく。もはやイギリスは世界の大国ではなく、アメリカとソ連だけが世界の大国なのである。両国は全く相容れないイデオロギーを持っている。アメリカは、ソ連の侵略や共産主義者の破壊活動に脅かされている諸国を支援しなければならない。それは単にイギリスが放棄した火中の栗を拾うことではなく、アメリカの安全を守り、自由そのものを守ることなのである。もしソ連が世界の四分の三の人口と三分の二の領土を手に入れてしまえば、アメリカと世界の自由の命運は風前の灯となる。ギリシアとトルコになぜ援助するべきなのか。それは、イギリスが果たしてきた役割を肩代わりすることでもなく、同盟国への人道的な措置でもない。共産主義に対抗するために自由諸国を強化することで、結果的にアメリカの安全と自由を守ることになるからである[xxii]

このアチソンの発言は、議会指導者達の心を大きく揺り動かした。そして議会指導者達は、大統領自身が議会と国民に状況を完全に説明するのであれば、どんな手段をとるにしろ、支持を惜しまないと約束した。トルーマンはそれに応えて、議会と国民に状況を説明する演説を行なうと確約した[xxiii]

出席者の一人であるアーサー・ヴァンデンバーグ(Arthur H. Vandenberg)上院議員は、この時の感想を次のようにまとめている。

 

「正直に言うと、私はすべての事実を知らないので、最近のギリシア情勢に対してどのように答えればよいのかは分からない。私は何か言う前に事実[が知らされるの]を待っている。だがギリシア問題が個別的なものではないことは十分認識している。それどころかギリシア問題は、東側の共産主義と西側の民主主義のイデオロギー的衝突を象徴している。そしてギリシア問題に対して、我々は遠大でまことに運命的な決定を下す必要がある」[xxiv]

 

第三項 演説草稿の作成過程

 

 33日、アチソンは、国務省のジョーンズが作成した草稿を基本草稿として選んだ[xxv]。この時点では、ホワイトハウスのスピーチライター陣は草稿作成に関わっていない。ジョーンズは、随時、アチソンの指摘を取り入れながら草稿を修正していった。ジョーンズの草稿は、37日に初めてホワイトハウスに送付された[xxvi]

ジョーンズが作成した34日付の草稿を見ると、「二つの選択可能な生き方」を述べた部分、ギリシアとトルコの現状を分析した部分、そして最後の議会に援助を要請する最終部分が早くも出揃っている。この草稿で特に注目に値する点は、「自由な人々の世界を維持しようという我々の政策とは、すなわち、ファシストであれ、ナチスであれ、共産主義者であれ、他国に独裁体制を押し付けようとする者のいかなる種類の侵略行為にも我々は抵抗することである」[xxvii]というフレーズがある点である。このフレーズは後に削除されている。何故このフレーズは削除されたのだろうか。

フレージャーは、草稿作成過程にケナンが関与していたと示唆している。ケナンは、様々な状況に柔軟に対応できなくなる恐れがあるので、アメリカが苦境に陥っている自由諸国を援助するという普遍的な政策を公表することに反対していた。フレージャーは、このケナンの意見は結局受け入れられなかったと述べているが[xxviii]、上記のフレーズの削除には、ケナンの意見が反映されていると考えられる。

37日の閣僚会議以降、ジョーンズの草稿にクリフォードとジョージ・エルゼイ(George M. Elsey)の手が加えられた。エルゼイは、クリフォードやマーフィーとともに、トルーマン政権下で活躍したスピーチライターである。アンダーヒルは、「ジョージ・エルゼイがトルーマンのスピーチで果たした役割は、『補佐官』という肩書きが示す以上のものであった」[xxix]とエルゼイの業績を高く評価している。

トルーマン自身はちょうどこの頃、メキシコへ外遊していたので草稿作成についてほとんど関与していなかった。草稿作成段階の随所で承認を与えていたとはいえ、トルーマンは310日までその詳細を把握していなかった。

演説草稿を見たエルゼイは、同日、クリフォードにその内容についてコメントを書き送っている。エルゼイは、「極端な」演説を行なうことは時期尚早であると述べている。その理由として、第一に準備に要した時間が不十分であること、第二に最近のソ連の行動の中で適当な口実に使えそうな表立った行動が特に見当たらないこと、第三に国民はまだ演説を受け入れる準備ができていないので事前の誘導が必要であること、第四にモスクワ外相会談を頓挫させる可能性があることの四つをエルゼイはあげている。最後にエルゼイは、「以上の理由から、来週のメッセージは範囲を絞るべきだと私は思う。私は、『アメリカが欧州復興の責を担う』という主題を[選択するように]推奨する」と付け加え手紙を締め括っている[xxx]

このエルゼイの意見に対してクリフォードは、もしギリシアとトルコに対する援助を世界的な共産主義の脅威と関連付けて説明しなければ、議会から援助の承諾を得ることは難しいと考えていた。さらにクリフォードは、エルゼイの意見を聞いて、「私たちが、ここ少なくとも六カ月間、見てきたように、今こそアメリカ国民に事実を伝え、国民の理解と支持を求める好機である」[xxxi]という信念を固くしたという。そしてクリフォードは、エルゼイに対して「この演説は、戦争が終わっていないのだと、どうにかして人々に悟らせるキャンぺーンの火蓋を切るものでなければならない」[xxxii]と語った。

クリフォードがエルゼイの意見を却下したために、結局、エルゼイの意見は演説草稿に反映されることはなかったが、トルーマン・ドクトリン公表に関して政権内部の一部で慎重論があったことが窺える。また外相会談のためモスクワに向かっていたマーシャル国務長官は、パリで草稿を受け取り、「演説の中の反共主義が激烈過ぎる」[xxxiii]と評したが、結局、若干の訂正を除いて承認を与えている。

ただ、「極端な」演説に最も積極的なアチソンでさえも、トルーマン・ドクトリンの公表により、ヒステリックな反共主義を誘発することを憂慮していた。それは、「我々は挑発的に話すべきではない。つまり、我々は、ソ連を直接非難しないようにする代わりに、はっきりとソ連に関連付けずに、共産主義の拡大について話すべきだ」[xxxiv]というアチソンの言葉からも分かる。またアチソンによれば、ケナンが草稿を強硬すぎると評価したのとは対照的に、クリフォードは草稿を軟弱すぎると評価していたという。アチソンはそうしたクリフォードに対して、「マーシャルの威光を利用して、私は、クラーク(クリフォード)[草稿への]加筆を撤回させ、マーシャルが認めたそのままの草稿を[大統領に]勧めるように指示した」[xxxv]と述べている。

アチソンにとって「極端な」演説とは、あくまで、ギリシアとトルコへの援助を議会に認めさせるのに十分な「共産主義の脅威」さえ表現できる演説であればよかったのであり、アメリカ国民に、「完全で包み隠されていない情報を政府が与えることで、ギリシアにおける現在の情勢によって生み出された問題に対して、アメリカ国民が理性的な意見を形成することを可能にする」[xxxvi]演説であればよかったのである。

37日付の草稿と最終稿を比較すると、最終段階でクリフォードとエルゼイが修正した点が浮かび上がってくる。まず大きな違いは、論の展開である。37日付の草稿では、導入部分、「二つの選択可能な生き方」、世界に及ぼすその影響、ギリシアとトルコの情勢、議会への要請という順序で論が展開されている。一方、最終稿では、導入部分、ギリシアとトルコの情勢、「二つの選択可能な生き方」、世界に及ぼすその影響、議会への要請という順序で論が展開されている[xxxvii]。こうした論の展開に関する変更は、演説の主題をギリシアとトルコに限定するか、それともアメリカの世界政策の中にギリシアとトルコの情勢を位置付けるかという選択に即して行われている。

アチソンは、37日付の草稿について、まだ主題がギリシアとトルコの情勢に限定されているように感じられるので、その点を修正するように指示している[xxxviii]。アチソンが修正を指示したのは、演説の主題をギリシアとトルコに限定した場合、議会を納得させるのには不十分であると考えたからである。またクリフォードも37日付の草稿は、「大統領の演説としては、あまり歯切れの良いものでもないし強い調子のものでもない」[xxxix]と評価し、以後の草稿作成を自らの監督下においた。

導入部分についてもクリフォードとエルゼイは多くの変更を加えている。37日付の草稿では導入部分は以下の通りである。

 

「今日、私は、我が国の外交と安全保障に影響する重大な問題に関する考察と決断を求めるために議会に臨席している。合衆国政府にイギリス政府が、ギリシアへの経済援助を続けられなくなると伝えてきた」[xl]

 

代わりに最終稿では導入部分が以下のように変更されている。

 

「今日の世界が直面している重大な状況により、私は両院合同会議に出席を余儀なくされた。我が国の外交と安全が関わっている。私は今回あなた方に現在の難局の一面に関する考察と決断を求めているが、それはギリシアとトルコに関することである」[xli]

 

前者と比較して、緊迫度がさらに増していることが読み取れる。いかに聴衆を演説に引き込み、危機を認識させるかという問題意識を基にしてこうした変更が加えられている。導入部分の変更に加えて議会への要請の部分についても変更が多く加えられている。37日付の草稿では、議会への要請の部分は以下のように始まっている。

 

 「それ故に、トルコに援助を与えるべきであるというのが私の意見である。我々は[トルコに]そうした援助を与えうる唯一の国である。そしてそうすることが我々の大きな利益となる」[xlii]

 

 最終稿では、以下のように変更されている。

 

「この宿命的な瞬間に、我々がギリシアとトルコに援助を与えなければ、その影響は東洋だけではなく西洋にも遠く及ぶだろう。我々は迅速かつ決然とした行動を起こさなければならない」[xliii]

 

この最終稿の表現を見ると分かるように、「私の意見」という言葉が削除され、全体的に強く断定する調子に改められている。断固たるトルーマンの決意が読み取れる部分であり、それに続く議会への要請の部分を際立たせている。次は最終稿、すなわち実際に発表されたトルーマン・ドクトリンの文言をさらに詳しく分析していく。

 

第四項 ドクトリンの最終稿と本来の公表目的

 

「最近、世界の多くの国々の人民が、彼らの意思に反して全体主義政権に支配されることになった。合衆国政府は、ヤルタ協定違反やポーランド、ルーマニア、ブルガリアにおける圧制と恫喝に度々抗議してきた」[xliv]

 

トルーマンは、譲歩としてソ連を名指しで批判することを避けている。しかし、「全体主義政権」とは共産主義政権のことであり、「ヤルタ協定違反」をしているのはソ連であることは聴衆にとって容易に理解できることであったに違いない。この「ヤルタ協定違反」は、草稿作成の最終段階で付け加えられている。

 

「世界史上の現時点では、あらゆる国々は、二つの選択可能な生き方から一つを選ばなければならない。いつも自由な生き方が選択されるとは限らない。一つの生き方は、多数者の意志に基づき、自由な国家制度、代議政府、自由選挙、個人の自由の保障、言論と信教の自由、そして政治的抑圧からの自由などで特徴付けられる。もう一つの生き方は、少数者による多数者の抑圧に基づく。それは、恐怖と抑圧、出版、ラジオの統制、見せかけだけの選挙、そして個人の自由の抑圧に基づいている。」[xlv]

 

もちろんここで言及されている「二つの選択可能な生き方」とは民主主義と共産主義であることは疑いようもない。自由というアメリカ人にとってお馴染みの伝統的理念を持ち出し、それがあるかないかで、善悪の判断を行うという非常に明白で分かり易い構図を打ち出している。

さらに七ヵ月後の演説の中でトルーマンは、「今、世界には二つのイデオロギーがある。我々は、合衆国憲法の下にあり権利章典を有している。個人の権利は、我々の政体を構成するにあたって最も大事なものである。一方のイデオロギーは、個人が国家の奴隷であり、国が命じる所に個人が送られ、国家が命じる通りに個人が行為し、国家が命じる通りに行動すると思っている」[xlvi]と述べ、自由対隷属というさらに深化させた構図を示している。

自由とネガティヴな何かを対置させる手法は、パトリック・ヘンリー(Patrick Henry)の「自由か死か」演説[xlvii]以来、踏襲されてきた手法である。トルーマンは上院議員時代、自らの演説の中で、「自由か死か」演説の由来は、ヘンリーのフリーメーソン的な教養であると言及したことがあった[xlviii]。こうした構図に加えてトルーマン・ドクトリンには以下のような際立って特徴的な部分がある。

 

「自由な人民が外国の圧力や武装した少数者によって仕組まれた服従に抵抗するのを援助することが、合衆国の政策でなければならないと私は信じる。我々は、自由諸国民が彼ら自身の運命を彼ら自身のやり方で決定できるように支援しなければならないと私は信じる。我々の援助は、主に、経済的安定と秩序ある政治過程に必要不可欠な経済的かつ財政的援助を通じて行われるべきだと私は信じる」[xlix]

 

この部分は「私は信じる」という表現で始まる文が三つ並んでいる。もともと国務省の草稿では、「自由諸国民が彼ら自身の運命を彼ら自身のやり方で決定できるように我々が援助することは、我々の安全保障にとって必要不可欠であり、我々の援助は主に経済的安定と秩序ある政治過程に必要不可欠な経済的かつ財政的援助という形式でなければならない」[l]と一文で表現されていた。この一文の前にアチソンが、「自由な人民が外国の圧力や武装した少数者によって仕組まれた服従に抵抗するのを援助することが、合衆国の政策でなければならないと私は信じる」[li]という一文を挿入した。ケナンはこの一文について、条件を満たすことさえ証明できれば、どの国に対しても援助を行うと約束するべきではないと主張している[lii]

39日にこの部分を見たクリフォードとエルゼイは、さらにそれを印象的にするための案を練った。翌朝、エルゼイが、この部分を三つの文に分け、さらに「私は信じる」という言葉で三つの文を始める案を思いついた。クリフォードはエルゼイの案に賛成し、これらの三つの文を「信条」と呼んだ[liii]。演説はこの「信条」の部分を過ぎて以下のように続く。

 

「全体主義政権の種は貧困と欠乏の中で育てられる。この種は貧困と紛争の悪しき土壌の中で成長し拡散していく。この種は、よりよい生活への人民の希望が絶たれた時に最も成長する。我々は我々の希望を生かし続けなければならない。世界の自由な人民は、彼らの自由を維持するために我々の援助を期待している。我々がリーダーシップをとることに躊躇するならば、世界の平和を危険にさらすことになり、我が国の繁栄も危険にさらすことになる」[liv]

 

この部分は草稿作成の最終段階で付け加えられた部分で、全体主義を「貧困」の側に、民主主義を「繁栄」の側に位置付けることにより、全体主義から民主主義を守る手段として援助を正当化している。さらに援助は自由を守るために行われるものだとして、援助の道義的な側面を強調している。そして、世界の平和が損なわれればアメリカの繁栄も損なわれるという一種のドミノ理論を展開している。

トルーマン・ドクトリンの本来の目的は、財政援助に必要な予算を議会に認めさせることであり、共産主義の脅威をあらわにすることは主目的ではなかった。トルーマン・ドクトリンが発表される少し前に、ハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover)元大統領が欧州の視察から帰還し、欧州を復興させるためには巨額な財政援助が必要となるので、議会は慎重に援助の可否を考慮すべきだと訴えた。さらに民主党議員達は、トルーマン政権はイギリスの対ギリシア政策を支援すべきではないと警告していた。議会は予算の削減を審議していたので、ヴァンデンバーグの支持にも拘らず、財政援助に消極的だった[lv]。そのような議会を説得するためにトルーマン・ドクトリンという劇薬が必要だったのである。

そもそも「トルーマン・ドクトリン」という名前自体、演説後にモンロー・ドクトリンになぞらえて新聞各紙でそう呼ばれるようになったにすぎない。実は、演説原稿の中に「ドクトリン」という単語はない。チャーチルの「鉄のカーテン」演説のように、演説全体のタイトルとなるような文句が演説中になかったために「トルーマン・ドクトリン」という無骨な名称が冠せられるに到ったのである[lvi]

 

第五項 ドクトリンに対する諸反応とその効果

 

トルーマン・ドクトリンに対する諸反応を調べてみると、共産主義の拡大を阻止する明白な計画を示したとトルーマン・ドクトリンを評価する賛成意見が圧倒的に多かったが、反対意見がなかったわけではない。エルゼイの懸念は全く見当はずれではなかったのである。

ライアンは、演説をラジオで聴いた人々が大統領に送ったメッセージを数多く紹介している。賛成を表明した聴衆にとって、大統領の演説は善と悪を峻別して世界を分かりやすくしてくれるものであった。また、大統領の演説に賛成しない者は共産主義支持派であるという極端な意見を持つ聴衆も少なくなかった。

一方、反対派の意見には、ギリシアとトルコへの援助の有効性を疑問視する意見や、そもそもギリシア政府は反民主主義的な政府であるから援助対象としてふさわしくないという意見があった[lvii]。他にもアメリカの単独行動が国連の威信を損なうことになるという意見や、もし共産主義の浸透を阻止するために、ギリシアやトルコ以外の他の国にも援助が拡大されるのであれば、アメリカ経済はそれに対応できなくなるという意見、ソ連と衝突する危険性が増すという意見などがあった[lviii]

トルーマンと袂を分かったヘンリー・ウォレス(Henry A. Wallace)314日のデイリー・ワーカー紙上で「トルーマン計画は戦争を引き起こす」という見出しの下、トルーマンの政策を批判している。

 

「昨日、1947312日はアメリカの歴史上、転換点となる日でした。アメリカ国民の皆さん、我々が直面しているのはギリシアの危機ではなく、アメリカの危機です。まさにアメリカの精神の危機なのです」[lix]

 

ウォレスは、「非民主主義的なギリシアとトルコ政府」に援助を与える計画は、アメリカの理念を損なうものであると酷評し、アメリカ国民がその事実を認識する必要性を訴えている。またアメリカ国内の共産党は、トルーマン・ドクトリンを帝国主義の現れと断罪し、ヒトラーがソ連を攻撃した時に行った演説と全く同様だと非難した[lx]。そして、ウォレスは議会に対して、もしギリシアとトルコへの援助を承認すれば、「アメリカは世界で最も憎まれる国になるだろう」[lxi]と警告した。さらに4月にウォレスはイギリスで、トルーマン・ドクトリンとトルーマン政権の対ソ政策を批判し、米ソ関係の改善にイギリスが協力するように呼びかけている[lxii]

同じくトルーマン・ドクトリンを聞いたジョセフ・ケネディ(Joseph P. Kennedy)は、ニューヨーク・タイムズに対して、そのような小国に援助するのは無駄であるから、アメリカは共産主義を放置すべきであり、お金はアメリカを豊かにするために国内に留めておくべきだと語っている[lxiii]

しかし、ごく一部の新聞を除いて、トルーマン・ドクトリンに対する新聞各紙の論調は圧倒的に好意的であった。新聞各紙は、トルーマン・ドクトリンが、モンロー・ドクトリン以来の歴史的決断であり、共産勢力の拡大により危機に瀕している弱小国を救うために議会は、党派的利害を忘れて大統領を支持するべきだと説いた。新聞の中には、トルーマン・ドクトリンをローズヴェルト大統領の「隔離演説(Quarantine Speech)[lxiv]と比較し、トルーマン・ドクトリンは、ソ連の脅威に対抗するには穏やかすぎると説く新聞さえあった[lxv]

さらにトルーマンの支持率に注目すると、1946年の中間選挙後の支持率は32パーセントにすぎなかったが、トルーマン・ドクトリン発表後、60パーセントにはねあがっている[lxvi]。世論調査によると、演説について何か聞いたことがあるか、もしくは読んだことがあると答えた人の割合は76パーセントであり、ギリシアへの援助を認めるべきだという意見を持つ人の割合は61パーセントであった[lxvii]。もちろん、支持率の上昇には他の内政的要因もあったが、トルーマン・ドクトリンが大きな要因となったのは間違いない。こうした点からすれば、トルーマン・ドクトリンに関するレトリック戦略は成功をおさめたと言える。

しかし、反共主義がもたらす一つの危険性として、大統領の政策に反対する者が共産主義に与する反アメリカ的・反民主主義な分子として封殺されうる可能性があったことは否めないだろう。さらに議会では、予算緊縮を求める傾向が濃厚な共和党議員でさえ、大統領の政策を拒否すれば共産主義によるドミノ倒しが起こり、アメリカに深刻な脅威を及ぼす可能性があると考えたので、積極的に反対しなかった[lxviii]

またトルーマン・ドクトリンで駆使された反共産主義レトリックの危険性を油井大三郎は次のように述べているが、まさに肯綮に当たる。

 

「このようなイデオロギー・ポリティクスは両刃の刀であり、逆に、合衆国の外交を自縛する効果ももった。(中略)世界各地の紛争をすべて東西関係に解消する思考枠組の固定化を招き、民族解放運動や自生的革命運動をも『間接的侵略』と把握する結果、それらの運動の固有の論理を見落とすことによって、かえって泥沼的な介入を招くことになった」[lxix]

 

このようにトルーマン・ドクトリンにより、対ソ連・対共産主義レトリックの方向性は、「平和共存」から反ソ反共に一転することになった。上記のようなレトリックに加え、他にも全体主義[lxx]と共産主義を同一視する手法が展開されている。

 

「全体主義国家には違いなどない。ナチスや共産主義、ファシストもしくはフランコその他とあなた方が何と呼ぼうが私は気にしないが、とにかく彼らは同じようなものである」[lxxi]

 

ナチスやファシストは、言うまでもなくアメリカにとって、第二次世界大戦中、自由の敵であり、侵略者であった。そのナチスやファシストと共産主義を同一視する手法は、共産主義に対してマイナスイメージを持たせるレトリックとして非常に効果がある。

しかし、このような共産主義の脅威を強調するレトリックは、先に反共産主義レトリックがもたらす危険性を示した時に述べた通り、議会と国民の支持を集める手段として利用されている。トルーマンは、194811月に自ら大統領に当選するまで、国民を代表する大統領として議会に臨むことができなかった。極言すれば前任者の政策を継続することが当然視され、トルーマン自身の政策を一期目で展開するためには何らかの工夫が必要であった。

ヴァンデンバーグ上院議員は、1947227日、大統領との会談の席上で、トルーマン・ドクトリンへの支持を取り付けるために、大統領自身が議会で演説を行い、国民を「怖がらせる」必要があると示唆している[lxxii]。なぜなら外交政策に対する国民の関心はあまりあまり高くなく、世論調査によると調査対象者のうち30パーセントが外交政策に対して無関心で、さらに45パーセントが関心は少しあるがあまりよく分からず、ある程度の知識と関心を持っていた回答者は僅か25パーセントにすぎなかった[lxxiii]。一方、レトリックを駆使した政権サイドもその行き過ぎを感じていたようである。

アチソンは、324日の上院外交委員会で、ギリシアとトルコへの援助は今後のアメリカの政策の先例とならず、将来、援助を求められた場合、「問題となる国が本当に援助を必要としているのか、その要求がアメリカの外交政策に見合っているのか、援助の要求が誠実であるのか、そして合衆国による援助がその国の問題に対応するのに効果的であるのか」[lxxiv]を個別に検討したうえで、援助を行うべきだと証言している。また政策企画本部は、523日の報告書の中で、トルーマン・ドクトリンの主目的は共産主義の脅威への対抗であり、その目的に沿えば世界中のどんな国であろうと経済援助を行うという一般的な認識が間違いであると示唆している[lxxv]。このようなことから、トルーマン政権が、ドクトリンを発表してから暫くの間、トルーマン・ドクトリンの拡大解釈を戒めていたことが分かる。さらにトルーマンは、トルーマン・ドクトリンの九日後に発令された忠誠審査プログラムに関して次のように述べている。

 

「私は、共産主義政党が合衆国政府を引き継いでも心配はないと思う。しかし私は、合衆国政府に忠誠を抱かない人物が合衆国の公職に就くことには反対する。それらは全く違うことだ。我が国が共産主義化していく心配はないと思う。我々はちょっと敏感になりすぎている」[lxxvi]

 

この言葉からするとトルーマンは国民感情の激化を危惧していたように見える。もちろん忠誠審査プログラムは、共産主義の国内への浸透を防止することが主な目的であったことは言うまでもない。トルーマン・ドクトリン公表で国民感情が反共産主義へ過剰に傾斜している状況において忠誠審査プログラムを導入することはさらなる反共主義の激化をもたらす可能性が高い。そのためトルーマンはこのような反共主義の行き過ぎを戒めたのである。ギリシアとトルコがソ連の支配下に置かれることを阻止するため、さらなる援助を両国に与えることを議会に承認させるという主目的さえ達成することができればよかったのである。さらなる過激な反共主義を巻き起こす必要は全くなかった。

トルーマン大統領の要請をうけた米国議会はギリシアとトルコへの援助を認めるギリシア・トルコ援助法を通過させた。上院では賛成67票反対23票、下院では賛成287票反対107票という圧倒的な支持が寄せられた[lxxvii]

まずギリシアに対する援助は主にギリシア政府軍を強化するために使われた。新しい装備を整えたギリシア政府軍は、国民解放戦線を抑えることができるようになった。政策企画本部によれば、「ギリシアに対する共産主義支配の拡大を防止するという消極的な意味では、この計画は成功をおさめた」[lxxviii]が、国民解放戦線を完全に撃退するまでは長い時間がかかった。後にユーゴスラヴィアから国民解放戦線への支援が途絶えたこともあって、ギリシア政府はようやく国民解放戦線によるゲリラ活動を終息させることができた。

ユーゴスラヴィアから国民解放戦線への支援が途絶えたのは、ユーゴスラヴィアとソ連の関係が悪化したことが一因である[lxxix]。アメリカは、ソ連支配から脱しようとしたユーゴスラヴィアに歩み寄りの姿勢を示し、同国に対して1950年から1956年にかけて、8400万ドルにのぼる援助を行っている[lxxx]

 またトルコに対する援助は、情報がほとんど残っていないために詳細は明らかではないが、多くの学者は、トルコに対する軍事援助が、トルコ政府軍の強化に役立ち、アメリカとトルコの関係を好転させたと肯定的な評価を下している。そうした肯定的な評価が下されたのは、ソ連の勢力拡大を阻止するために、アメリカはトルコと友好関係を保たなければならないと多くの学者が考えていたからである[lxxxi]。 

ギリシア政府とトルコ政府は、民主主義的な政府とは言えないので援助を与える対象として適当ではないという批判もある中で[lxxxii]、さらにこれだけの援助を実現させたことは大きな成果であった。



 [i] Address on Foreign Economic Policy, Delivered at Baylor University, March 6, 1947 in Public

   Papers of the President of the United States: Harry S. Truman, 1947 (Washington:

   Government Printing Office, 1963), p.147.

 [ii] Ibid., p.168.

 [iii] A Note from Joseph M. Jones to Loy Henderson, February 28, 1947 in Joseph M. Jones

   Papers, box 1.

 [iv] Halford R. Ryan, Harry S, Truman: Presidential Rhetoric (Westport: Greenwood Press,

   1993).

 [v] Lynn B. Hinds and Theodore O. Windt, Jr. The Cold War as Rhetoric: The Beginnings, 1945-

   1950 (New York: Praeger, 1991), chapter 5. 

 [vi] Robert L. Ivie, “Fire, Flood, and Red Fever: Motivating Metaphors of Global Emergency in

   the Truman Doctrine Speech” in Presidential Studies Quarterly v.29 (3) 1999, pp.570-591

 [vii] Robert Frazier, “Acheson and the Formation of the Truman Doctrine” in Journal of Modern

   Greek Studies, v.17 (2) October 1999, pp.229-51.

 [viii] Ryan, Harry S. Truman, p.28.

 [ix] Hinds and Windt, The Cold War as Rhetoric, pp.143-145. ハインズが指摘している、国民を納

   得させるために予め記者から大統領の新政策への支持をとりつける試みというのは、アチソンが

   1947227日、新聞記者を集めてオフレコの会談を行ったことを指している。その会見で

   アチソンは、まずギリシアに関するトルコの覚書について触れ、さらにギリシア情勢と東地中海

   地域の安全保障の関係を説明し、最後に大統領がギリシアへの援助を認可するように議会に要

   請することを伝えた。この会談の後にもアチソンは、ラジオのコメンテーターやコラムニストな

   どを呼んでオフレコの会談を何度か行っている(Joseph M. Jones, The Fifteen Weeks:

   February 21-June 5, 1947 (New York: The Viking Press, 1955), p.144)

[x] Ivie, “Fire, Flood, and Red Fever: Motivating Metaphors of Global Emergency in theTruman

   Doctrine Speech,p.575.

[xi] Robert Underhill, The Truman Persuations (Ames: The Iowa State University Press, 1981),

   p.305

[xii] Joseph M. Jones, The Fifteen Weeks: February 21-June 5, 1947 (New York: The Viking Press,

   1955).

[xiii] Memorandum for the President, August 7, 1946 in Truman Library, Online Documents,

   Truman Doctrine.

[xiv] Legislative Reference Service, U.S. Foreign Aid: Its Purposes, Scope, Administration, and

   Related Information (New York: Greenwood Press,1968), pp.29, 106, 110

[xv] John Rourke, Congress and the Presidency in U.S. Foreign Policymaking: A Study of

   Interaction and Influence, 1945-1982 (Boulder: Westview Press, 1983), p.49.

[xvi] Dean Acheson, Present at the Creation: My Years in the State Department (New York:

   Norton, 1969), p.218.

[xvii] Clark M. Clifford, Counsel to the President: A Memoir (New York: Random House, 1991),

   p.132.報告書では、ギリシアとトルコについて、「ソ連は、ギリシアからのイギリス軍撤退とギ

   リシアに『友好的な』政府を樹立することで得られる利益について関心を抱いている。ソ連は、

   トルコを傀儡国家とすることで東地中海を支配するための足場にしようとしている。ソ連の長期

   的な目的は、中東全域の政治的、軍事的かつ政治的支配である」と述べられている。

[xviii] Frazier, “Acheson and the Formation of the Truman Doctrine,” p.233.

[xix] Acheson, Present at the Creation, p.219.

[xx] Ibid.

[xxi] Memorandum for the File, The Drafting of the President’s Message to Congress on the Greek

   Situation in Truman Library, Online Documents, Truman Doctrine.

[xxii] Jones, The Fifteen Weeks, pp.140-141.

[xxiii] Memorandum for the File: The Drafting of the President’s Message to Congress on the Greek

   Situation, March 12, 1947 in Joseph M. Jones File, box 1.

[xxiv] Arthur H. Vandenberg, Jr. ed., The Private Papers of Senator Vandenberg (Boston: Houghton

   Mifflin Company, 1952), p.340.

[xxv] Ryan, Harry S, Truman, p.20; Memorandum for the File, the Drafting of the President’s

   Message to Congress on the Greek Situation in Joseph M. Jones Papers, box 1.

[xxvi] Memorandum for the File, The Drafting of the President’s Message to Congress on the Greek

   Situation in Truman Library, Online Documents, Truman Doctrine.

[xxvii] Draft 3/4/47, President’s Message to Congress on the Greek Situation in Truman Library,

   Online Documents, Truman Doctrine.

[xxviii] Frazier, “Acheson and the Formation of the Truman Doctrine,” p.238.

[xxix] Underhill, The Truman Persuations, p.208.

[xxx] Letter from George M. Elsey to Clark McAdams Clifford, March 7, 1947 in George M. Elsey

   Papers, box 17.

[xxxi] Clifford, Counsel to the President, p.133.

[xxxii] Ibid.

[xxxiii] Frazier, “Acheson and the Formation of the Truman Doctrine,” p.239.国務省内部でも、国民に

   我々の新しい政策を売り込むことができる唯一の方法は、共産主義対民主主義という構図を主題

   にすることだという意見があった(Noam Chomsky, Towards a New Cold War: Essays on the

   Current Crisis and How to We Got There (New York: Pantheon Books, 1973), p.20)

[xxxiv] Untitled Draft on Drafting Process of Truman Doctrine in Joseph M. Jones Papers, box 1.

[xxxv] Acheson, Present at the Creation, p.221.310日にクリフォードはホワイトハウスで手を加え

   た草稿を国務省のスタッフに見せた。いくつかの文言について国務省のスタッフは難色を示した

   が、クリフォードはそれを即座に削除したという。クリフォードが削除にすぐに同意したのは、

   おそらく、それがクリフォードの発案ではなかったからだろうとジョーンズは推測している

   (Memorandum for the File, the Drafting of the President’s Message to Congress on the Greek

   Situation in Joseph M. Jones Papers, box 1)

[xxxvi] Information Program on United States Aid to Greece, undated, 1947 in Joseph M. Jones

   Papers, box 1.

[xxxvii] ジョーンズがクリフォードの指示で構成順序を改めた(Memorandum for the File, the Drafting

   of the President’s Message to Congress on the Greek Situation in Joseph M. Jones Papers,

   box 1)

[xxxviii] Memorandum for the File, The Drafting of the President’s Message to Congress on the Greek

   Situation in Truman Library, Online Documents, Truman Doctrine.

[xxxix] Clifford, Counsel to the President, p.134.

[xl] Suggested Draft 3/7/47, the President’s Message to Congress on the Greek Situation in

   Truman Library, Online Documents, Truman Doctrine.

[xli] Special Message to the Congress on Greece and Turkey: The Truman Doctrine, March 12,

   1947 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1947, p.176.

[xlii] Suggested Draft 3/7/47, the President’s Message to Congress on the Greek Situation in

   Truman Library, Online Documents, Truman Doctrine.

[xliii] Special Message to the Congress on Greece and Turkey: The Truman Doctrine, March 12,

   1947 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1947, p.176.

[xliv] Ibid., p.177.

[xlv] Ibid., pp.177-178.

[xlvi] Remarks and Question and Answer Period with the National Conference of Editorial

   Writers, October 17, 1947 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S.

   Truman, 1947, p.470.

[xlvii] アメリカ学会『原典アメリカ史』第一巻(岩波書店、1950)136頁。

[xlviii] Underhill, The Truman Persuations, p.83.

[xlix] Special Message to the Congress on Greece and Turkey: The Truman Doctrine, March 12,

   1947 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1947, p.178.

[l] Clifford, Counsel to the President, p.136

[li] Ibid., p.136.

[lii] George F. Kennan, Memoirs: 1925-1950 (Boston: Little Brown & Company, 1967), pp.320-

   321.

[liii] Clifford, Counsel to the President, p.136.

[liv] Special Message to the Congress on Greece and Turkey: The Truman Doctrine, March 12,

   1947 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1947, p.180.

[lv] Acheson, Present at the Creation, p.223.

[lvi] 「トルーマン・ドクトリン」という呼称についてトルーマンは後に「あの政策がトルーマン・ド

   クトリンと名付けられたことに対して何も感銘を受けなかった。マーシャル・プランのように、

   トルーマン・ドクトリンは合衆国の外交政策の一部に過ぎず、結局は歴史がトルーマン・ドクト

   リンについていかに述べるかだ」とクリフォードに宛てた手紙の中で語っている(Clifford,  

   Counsel to the President, p.139)

[lvii] Ryan, Harry S. Truman: Presidential Rhetoric, p.33.

[lviii] Public Comment on the President’s Message, undated, 1947 in Joseph M. Jones Papers, box

   2.

[lix] Daily Worker, March 14, 1947.

[lx] Memorandum, Reaction of the Communist Party Leadership and Its Press to the Speech of

   President Truman before the Joint Session of Congress on March 12, 1947, March 18, 1947

   in President Harry S. Truman’s Office Files, 1945-1953 Part 3: Subject File, Communist

   Data, 1945-1950.

[lxi] Clifford, Counsel to the President, pp.138-139.

[lxii] Denise Merrill ed., Documentary History of the Truman Presidency, v.14 (Bethesda:

   University Publication of America, 1996), pp.23-28.

[lxiii] Ibid., p.138.

[lxiv] 「隔離演説(Quarantine speech)」は、フランクリン・ローズヴェルトが、1937105日に

   シカゴで行なった演説である。正式名称は、“The Will for Peace on the Part of Peace-Loving

   Nations Must Express Itself to the End That Nations May Be Tempted to Violate Their

   Agreements and the Rights of Others Will Desist from Such a Course.”である(Samuel

   Rosenman ed., The Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt, v.6 (New York:

   Russell & Russell, 1969), pp.406-411)。その演説でフランクリン・ローズヴェルトは、日独伊を

   隔離し、集団安全保障体制にアメリカが参加すべきだと説いたが、結局、国民を納得させようと

   いう試みは失敗に終わっている。失敗の原因としては、第一次世界大戦後、孤立主義への回帰傾

   向が強くなっていたことに加えて、真珠湾前夜まで議会が外交に関して主導権を握っていたこと

   があげられる(W. Stull Holt, Treaties Defeated by the Senate: A Study of the Struggle

   between President and Senate over the Conduct of Foreign Relations (Union : The Law Book

   Exchange, Ltd., 2000), pp.121-307; Karlyn K. Campbell and Kathleen H. Jamieson, Deeds

   Done in Words: Presidential Rhetoric and the Genres of Governance (Chicago and London:

   The University of Chicago Press, 1990), pp.112-113)

[lxv] Editorial Reaction to Current Issues, March 19, 1947 in President Harry S. Truman’s Office

   Files, 1945-1953 Part 3: Subject File, Foreign Affairs, Greece 1945-1952. 

[lxvi] Hinds and Windt, The Cold War as Rhetoric, p.158.

[lxvii] Results of a Nationwide Telegraphic Survey Conducted by the National Opinion Research 

   Center, Denver, March 18-20, 1947 in Joseph M. Jones Papers, box 2.さらにギャラップ調査

  でも同様の調査が行われた。トルーマン・ドクトリンについて聞いたことがあるか、もしくは読

   んだことがある人の割合は75パーセントを占めている。さらにギリシアとトルコを支援する理

  由は何かという質問に対しては、47パーセントの人が、共産主義を抑止し、ソ連の拡大を止め

   るためだと答えた(Confidential Gallup Results, undated in Joseph M. Jones Papers, box 2)

[lxviii] William E. Pemberton, Harry S. Truman: Fair Dealer and Cold Warrior (Boston: Twayne,

   1989), pp.96-97.

[lxix] 油井大三郎「中心=周辺関係の再編とトルーマン・ドクトリン」『国際政治』v.701982年、25-26

   頁。

[lxx]「全体主義」という言葉は、1920年代から社会科学分野で分析用語として使用され始めた。もと

   もとは肯定的な意味でも否定的な意味でも使用される言葉であった。アメリカでもニュー・ディ

   ールに関連して使用され早くから知られていた。エリック・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff)

   が『戦争国家』の中で、ナチスと全体主義を結び付けた結果、否定的な意味合いを帯びるように

   なった(Thomas E. Lifka, The Concept “Totalitarianism”and American Foreign Policy1933-

   1949 (New York: Garland Publishing, 1988)

[lxxi] The President’s Special Conference with the Association of Radio News Analysts, May 13,

   1947 in Public Papers of the Presidents of the United States: Harry S. Truman, 1947, p.238.

[lxxii] Underhill, The Truman Persuations, p.222.

[lxxiii] Lester Markel etc., Public Opinion and Foreign Policy (New York: Harper, 1949), p.9.

[lxxiv] John L. Gaddis, The United States and Origin of the Cold War, 1941-1947 (New York and

   London: Columbia University Press, 1972), p.351.

[lxxv] 斉藤勝称「トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン―G. F. ケナンの『封じ込め』構想を

   中心として―」『大阪外國語大學學報文化編』v.431979年、55頁。

[lxxvi] The President’s News Conference of April 3, 1947 in Public Papers of the Presidents of the

   United States: Harry S. Truman, 1947, p.191.

[lxxvii] The GOP Record of Obstruciton on Foreign Policy in Clark M. Clifford Papers, box 24.

[lxxviii] Report on United States Aid to Greece in Department of State, Policy Planning Staff Papers

   1947-1949, v.2 (New York and London: Garland Publishing, Inc., 1983), p.499.

[lxxix] The Attitude of This Government toward Events in Yugoslavia, June 30, 1948 in Policy   

   Planning Staff Numbered Papers, 1947-1949.

[lxxx] Legislative Reference Service, U. S. Foreign Aid: Its Purposes, Scope, Administration, and

   Related Information, p.34

[lxxxi] John Hurewitz, Middle East Dilemmas (New York: Harper & Bros, 1953), pp.200-204.

[lxxxii] Daily Worker, March 14, 1947.

 
ハリー・トルーマン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究