子供


4男
エイブラハム・ヴァン・ビューレン
 長男エイブラハム・ヴァン・ビューレン(1807.11.27-1873.3.15)はニュー・ヨーク州キンダーフックで生まれた。グリーンヴィル・アカデミーで教育を受けた後、16才の時にウェスト・ポイントに進学した。1827年、卒業し陸軍少尉の辞令を得た。西部辺境の歩兵連隊に配属された。5年後、中尉に昇進し、さらに4年後、大尉に昇進した。1837年、父の秘書を務めるために退役した。
 1838年11月27日、サラ・シングルトンと結婚した。サラはサウス・カロライナの富裕な家系の相続人であった。またヴァン・ビューレン政権中、ホワイト・ハウスの公式な女主人を務めた。
 1844年、ポーク大統領によって陸軍の主計官に任命された。さらに1846年、米墨戦争が勃発すると、エイブラハムは陸軍少佐としてモントレーの戦いでテイラー将軍の補佐官として従軍した。そして、コントレーラスの戦いとチュブルスコの戦いにおける軍功により中佐に昇進した。1854年に退役した。
 退役後、エイブラハムはヴァン・ビューレンの業績を編集し出版する事業に携わった。1873年、ニュー・ヨークで亡くなった。
ジョン・ヴァン・ビューレン
 次男ジョン・ヴァン・ビューレン(1810.2.18-1866.10.13)はニュー・ヨーク州ハドソンで生まれた。グリーンヴィル・アカデミーで学んだ後、イェール大学に進学した。1828年に優秀な成績で同校を卒業後、ニュー・ヨーク州オールバニーで法律を学んだ。1831年に法曹界に入った。その直後、ヴァン・ビューレンのイギリス赴任に書記官として同行しイギリスに渡った。しかし、父のイギリス公使任命が上院に拒否されたことにともない帰国した。
 帰国後、弁護士業で成功を収めた。しかし、この頃、もともと好きであったお酒や賭け事にも熱中するようになり、父から「お前が無邪気で無害な道楽と見なしていることは、世間の評判を得るための歳月を無駄にしてしまう」と叱責されている。1838年、カナダ国境問題の解決を期待してヴァン・ビューレンはジョンを個人的な使者としてイギリスに派遣した。ヴィクトリア女王の寵を得たジョンは、その他の王侯貴族の間に「合衆国大統領の子息ジョン・ヴァン・ビューレン」と来賓名簿に記載された。反政権的な新聞は、ジョンに「ジョン王子Prince John」という渾名を付けて非難の対象にした。
 1840年、ジョンは連邦下院議員に当選した。当時の同僚として元大統領のジョン・クインシー・アダムズ、将来の大統領フィルモア、そしてローズヴェルト家のジェームズ・ローズヴェルトなどがいた。奴隷制について反感は抱いていたので、その拡大について反対はしたが廃止を明言することはなかった。廃止は憲法に反すると考えていたためである。
 1841年6月22日、エリザベス・ヴァン・デル・プールと結婚した。1845年、ニュー・ヨーク州検事総長に任命された。1866年、ヨーロッパ訪問から帰国する途中の船上で腎不全により亡くなった。
マーティン・ヴァン・ビューレン・ジュニア
 3男マーティン・ヴァン・ビューレン・ジュニア (1812.12.20-1855.3.19)はニュー・ヨークで生まれた。ヴァン・ビューレン政権期、父の秘書として働いた。ヴァン・ビューレンの伝記を書くための資料を整理した。長患いを治すために療養と医師探しを兼ねてヨーロッパを訪問したが効果はなく、パリで客死した。
スミス・トンプソン・ヴァン・ビューレン
 4男スミス・トンプソン・ヴァン・ビューレン (1817.1.16-1876)はニュー・ヨークで生まれた。3兄マーティンと同じく父の補佐官として働き演説草稿を練った。1842年6月18日、エレン・ジェームズEllen King Jamesと結婚した。最初の妻エレンの死後、1855年2月1日、ワシントン・アーヴィングの姪ヘンリエッタ・アーヴィングと再婚している。 
 スミスはヴァン・ビューレン関連文書の編纂にもあたっただけではなく、『合衆国における政党の起源と推移の研究』の原稿を整理した。ヴァン・ビューレンの事績が今日まで伝わっているのはスミスに拠るところが大きい。

マーティン・ヴァン・ビューレン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究