1836年の大統領選挙でヴァン・ビューレンはジャクソンの後継者として民主党の大統領候補指名を受けた。ホイッグ党は、ヴァン・ビューレンの当選を阻止しようと地域ごとに異なる候補者を擁立した。その中にはウィリアム・ハリソンも含まれていた。ホイッグ党の目的は、それぞれの地域で候補者を擁立することでヴァン・ビューレンが過半数の選挙人を獲得することを阻止し、下院に大統領の選出を任せることであった。しかし、ホイッグ党の戦略は失敗に終わった。ヴァン・ビューレンは6割近い選挙人を獲得して当選した。

しかし、副大統領候補のリチャード・ジョンソン(Richard M. Johnson)下院議員が問題を引き起こした。ジョンソンがアフリカ系アメリカ人の女性との間に子供をもうけたという噂を聞いて23人のヴァージニア州の選挙人はジョンソンに投票することを拒んだ。それによりジョンソンは当選するのに必要な過半数の選挙人を獲得することができなくなった。憲法修正第12条に基づいて、副大統領の選出は上院に委ねられた。その結果、ジョンソンの当選が確定した。上院が副大統領を選んだ唯一の事例である。しかし、1840年の大統領選挙で民主党はジョンソンを指名することを拒んだ。

  トクヴィルが予期したようにジャクソンの後継者であるヴァン・ビューレンは就任当初から難しい局面を迎えた。ヴァン・ビューレンは全国的な経済危機に対処した最初の大統領になった。ヴァン・ビューレンが大統領に就任するやいなや、経済は下降線をたどり始めた。1837年の恐慌は投機によって引き起こされた。西部の土地、製造業、運送業、銀行業、そしてその他の事業への投資ブームは1825年に始まり、信用の過剰供与をもたらした。

 ジャクソン政権が合衆国銀行から預託金を引き上げてペット・バンクに移し変えることによって信用の拡大に寄与した。過剰拡大した経済に対応するために、ジャクソンは18367月に正貨回状を出した。それは公有地の代金として政府に支払うべき貨幣を金貨もしくは銀貨に限る命令であった。市場はジャクソンとその後継者が通貨の引き締めに取り掛かろうとしていると判断した。銀行が債権を回収し始めたために恐慌を引き起こした。

 アメリカの商社は閉業し始め、ニュー・ヨークでは高騰する小麦価格に抗議する暴徒が出現した。ほとんどの銀行が正貨での支払いを差し止め、ジャクソンが合衆国銀行の代わりに打ち立てた州法銀行制度は崩壊した。ヴァン・ビューレンはジャクソンよりも実際的な政治家であったが、ジャクソン主義者の原理に固執して、経済危機に対して政府資金による救済策をとろうとしなかった。通貨を統制するために合衆国銀行のような全国組織を創設するというあらゆる試みをヴァン・ビューレンは否定した。同様にヴァン・ビューレンは財務省が国内流通を促進するために紙幣を発行すべきだという見解も否定した。

 積極的に政府が介入するべきだというホイッグ党の要望を受け入れず、ヴァン・ビューレンの経済危機への対策は控え目なものであった。ヴァン・ビューレンは財務省分局を設立し、政府資金を州法銀行に預ける代わりに独立した国庫に納めることを提案した。財務省分局の権限は制限され、州法銀行は連邦の監督から自由になる。その一方で、連邦政府自身も政府資金を自由に管理運営できる。こうした提案は1840年まで実現することはなかった。連邦政府が経済面でもっと積極的になるべきだと考える民主党の保守派とホイッグ党の同盟がヴァン・ビューレンの提案に反対したからである。1840年の大統領選挙は経済危機の中で行われた。多くの有権者は経済危機の責任が民主党にあると見なした。

 ケンダル対合衆国事件は郵便局に関する事件であり、行政府の管理に関する大統領と議会の争いの1つである。事の発端はジャクソン政権期まで遡る。アモス・ケンダル(Amos Kendall)郵政長官は郵便を配達する民間契約者を監督する査察機関を設立した。契約者はケンダルが不正利得を得ているとしてその代価を請求した。最初、ケンダルは請求を支払うことを拒否した。議会は、財務省の会計官が支払うべきだと認めた額を契約者に支払うことを郵政長官に命じる法を制定した。会計官は、契約者は約161,000ドルを受け取る資格があると結論付けた。ジャクソンの同意を得て、ケンダルは122,000ドル以上を支払うことを拒んだ。

 契約者は法廷で議会の法によって請求の支払いは自由裁量が認められない事務的な行為となると主張した。それに対してケンダルは、行政府によるいかなる支払いも自由裁量を認められる行為であると反論した。自由裁量が認められるか否かはマーベリー対マディソン事件まで遡る。マーシャル最高裁長官は、自由裁量を行使でき、国家にのみ説明責任を負う大統領の権限と法によって割り当てられた事務的義務を果たさなければならない大統領の下僚の法的義務を峻別した。

 コロンビア特別行政区の巡回裁判所の判決は、マーベリー対マディソン事件の判決に依拠して、大統領は行政官が適切な動機で実直に行動しているか配慮する以外の監督権を持たず、法を解釈する権限を持たず、行政府の行動が法に適合しているか確認する権限を持たないという判断を下した。最高裁は大統領の監督権をそれほど狭義に解釈していない。スミス・トムソン(Smith Thompson)判事は、行政官によって自由裁量が認められる行為を執行するのに使われる大統領の行政権と法によって定められ、郵政長官も大統領も否定したり統制したりする権限を持たない単なる事務的行為を明確に区別した。最高裁は、行政官は大統領の絶対的な指示の下にあるわけではないと主張した。行政官の義務は大統領によって統制されるが、憲法によって保護される権利が否定されず適切だと考える義務を議会が行政官に課すことができないという考え方は危険な原理である。そうした場合、行政官の義務と責任は大統領の指示に従うのではなく法の統制に従う。最高裁は巡回裁判所の職務執行令状を支持し、郵政長官の義務は自由裁量が認められない義務であり、財務省の会計官が認めた額をそのまま契約者に支払わなければならないと命じた。

 最高裁の判決に勇気付けられた契約者はさらにケンダルに支払いが遅れたことによる利子と訴訟費用を請求した。ホイッグ党員から構成される陪審団は12,000ドルの損害賠償を支払う責任がケンダルにあると認めた。しかし、最終的にケンダル対ストークス事件で最高裁は、最初の判決で既に契約者は法的救済を得ているので十分であるとして訴えを棄却した。

 ケンダル対合衆国事件で重要な点は、大統領が行政組織に対して絶対的な権限を持っていないと判断された点である。コロンビア特別行政区の連邦裁判所は、議会によって割り当てられた資金を使うような自由裁量が認められない事務的な義務だと考えられる行為に対して行政官に職務執行令状を発行している。連邦裁判所はケンダル対合衆国事件に倣って、もし権利を侵害された者が自由裁量を認められない法が遵守されていないと主張した場合、大統領の権威を犠牲にしてでも法を支持することが期待された。

 カナダの反乱に対してヴァン・ビューレンは中立を貫きイギリスとの衝突を避けた。カナダの反乱軍がイギリスの支配を覆そうと蜂起した。反乱軍はトロントを襲撃したが失敗し、ナイアガラ川のネイヴィ島にカナダの独立を目指して亡命政府を樹立した。反乱軍に同情的なアメリカ人は蒸気船キャロライン号でネイヴィ島に物資を運んだ。183712月、イギリスから命令を受けたカナダの民兵がアメリカの領域内でキャロライン号を拿捕し、火を放って、ナイアガラの滝に投げ込んだ。1人のアメリカ人が死亡し、数人が負傷した。ヴァン・ビューレンは連邦軍をその地域に派遣したが、イギリスとの戦争を求める声に抵抗した。ヴァン・ビューレンはイギリスに抗議するとともに反乱軍の首謀者と反乱軍に協力するアメリカ側の義勇軍の指導者を告発した。ヴァン・ビューレンは両者を投獄し、義勇兵の武装解除を行った。

 アメリカとイギリスの関係はさらにアルーストゥック戦争で悪化した。メイン州とカナダのニュー・ブランズウィック州の間の境界は明確に定められていなかった。アメリカとカナダは約768万エーカーのアルースゥック川沿いの土地の領有権を主張した。18392月、アメリカが領有権を主張している地域にカナダの木材切り出し労働者が入り込み、それに抗議したメイン州上院議員を捕らえた。メイン州とニュー・ブランズウィック州はお互いに民兵を召集し、国の支援を求めた。ヴァン・ビューレンは支援を与える代わりにウィンフィールド・スコット(Winfield Scott)を派遣し平和的解決にあたらせた。227日、暫定協定が結ばれた。最終的な境界問題の解決はタイラー政権によってなされた。

 ヴァン・ビューレンはテキサス併合を拒んだ。1836年、テキサスはメキシコから独立した。テキサスはアメリカに州として加入することを望んだ。北部人は、新たな奴隷州が連邦に加わることを嫌ってテキサス併合に反対した。奴隷制度廃止論者は、テキサス併合を奴隷制度を拡大するための陰謀と見なした。ヴァーモント州議会は、国内の奴隷制度を認める憲法を有するいかなる州の連邦加入に反対することを表明している。

その一方で南部人と西部人はテキサス併合に賛成していた。奴隷制度擁護派は、ある州を奴隷制度の故を以って除外することは連邦を崩壊させることになると警告した。奴隷州は1820年ミズーリ協定によって不利な立場に置かれていると考え始めた。自由州は13州、奴隷州は13州で一時は均衡していたが、奴隷州として新たに加入してくると考えられる州はフロリダだけであったのに対して、自由州として新たに加入してくると考えられる州はウィスコンシン、アイオワ、ミネソタの3つであった。テキサスを併合することで、テキサスをいくつかの奴隷州に分割すれば政治的均衡を回復できると奴隷州は考えた。

ヴァン・ビューレンは、奴隷制度は地域的な問題であり、全国的な問題ではないとする南部の姿勢に同調していたが、テキサス併合については北部人の見解を支持した。ヴァン・ビューレンはテキサス併合に反対した。なぜならテキサス併合が奴隷制度をめぐる議論を過熱させ、地域的な利害の衝突を激化させると考えたからである。

その一方でヴァン・ビューレンはアミスタッド号事件で黒人をスペイン政府に引き渡そうとした。18392月、ポルトガルの奴隷商人がシエラ・レオネから一団の黒人を誘拐した。商人は黒人達を2人のスペイン人農園主に奴隷として売却した。農園主達は黒人達をアミスタッド号に乗せてキューバに運ぼうとした。71日、アフリカ人達が船を占拠し、船長と料理人を殺害したうえ、農園主達にアフリカに進路を戻すように要求した。824日、アミスタッド号はニュー・ヨーク州ロング・アイランド沖でアメリカ船に拿捕された。農園主達は解放され、アフリカ人達は殺人罪の嫌疑で収監された。殺人罪の嫌疑は棄却されたものの、農園主達が黒人達に対する財産権を主張したために、彼らの収監は解かれなかった。

ヴァン・ビューレンは駐米スペイン公使の要求に従って船を所有者に変換しアフリカ人達をキューバに送ることに同意したが、奴隷廃止論者達はそれに反対した。18411月、アミスタッド号事件は最高裁に持ち込まれ、ジョン・クインジー・アダムズがアフリカ人達の弁護を務めた。アダムズはヴァン・ビューレン政権が裁判に介入しようとしていることを非難し、アフリカ人の自由を取り戻すために尽力した。最終的に最高裁は、アフリカ人は奴隷でも海賊でもなく自由人であり、故郷から誘拐されて不法にアミスタッド号に乗せられたことを認め、アフリカ人全員をアフリカに送還する裁定を下した。しかし、スペイン政府は諦めず補償を求め続け、歴代政権はリンカン政権までそうした要求が正当であると認め続けた。

 ジャクソン政権期とヴァン・ビューレン政権期にかけて全国的な政党組織の萌芽が見られた。各州で憲法が修正され、公職に就くための宗教資格と財産資格は撤廃され、成人男子選挙権が拡大した。多くの公職が選挙で選ばれるようになった。連邦と地方の政治は極めて緊密に繋がり、地方の政治情勢が大統領選挙に影響を及ぼすことも稀ではなく、反対に大統領の政策が地方の選挙の結果を左右することも珍しくなかった。州政府は有権者を引き付けるために、連邦議会に影響を及ぼそうとその範疇に属さない連邦の問題に関する決議案の起草に多大な努力を払った。

 公職の候補者を指名する党大会が全国に広まった。地方の党幹部会は郡党大会に代議員を送り、郡党大会では郡の公職の候補者を指名し、州党大会への代議員を選出した。州党大会では、州の公職の候補者を指名し、大統領候補を指名し綱領を決定する全国党大会に送る代議員を選出した。蒸気船と鉄道の発達によって政治家は多くの場所で演説することができるようになり、遊説旅行が行われるようになった。有権者は政治に積極的な関心を示すようになり、政党への忠誠心を高めた。しかし、選挙による公職の多様化と猟官制度は政界を著しく腐敗させ、公職制度を堕落させた。

マーティン・ヴァン・ビューレン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究