1840年の大統領選挙ではホイッグ党の大統領候補ウィリアム・ハリソンが勝利を収めた。ハリソンの勝利はジャクソン主義者の国内政策だけではなく制度的業績に挑戦するものであった。ホイッグ党はジャクソン政権期に起きた大統領の権限拡大に反対していた。クレイやウェブスターといったホイッグ党の指導者は1837年の恐慌を議会の力を取り戻す好機と見なした。1840年の大統領選挙でクレイは有力な候補と見なされていた。クレイは反ジャクソン的な一派の指導者でありホイッグ党の立役者であった。しかし、ホイッグ党は1812年戦争におけるティペカヌーの戦いの英雄であるハリソンのほうがクレイよりも当選が確実だと考えてハリソンを大統領候補に指名した。クレイは敵が多かったが、ハリソンは全国的な知名度があるうえに、論争を呼ぶ問題に関しては明確な態度をとっていなかった。それ故、誰の反感をかうこともないと期待されたのである。ハリソンは大統領の任期を1期に限り、財務省を大統領の統御から解放し、拒否権を違憲の場合のみに限るという改革案を支持していた。それはクレイやその支持者にとって慰めとなった。

 1840年の大統領選挙では深刻な争点はなかったが、ハリソンは1期を務めた後に大統領職を辞職することを表明していた。ウェブスターとクレイが執筆に助力したハリソンの就任演説では、その大半が大統領による権力簒奪の批判にあてられている。ハリソンは、大統領選挙中に繰り返されたホイッグ党の主張を脚色し、もし自らの提案が実行されれば大統領職は単なる名目上の職になるだろうと主張した。ハリソンは、大統領が人民の要求をより良く理解するべきだという考えを非常識な考えとして斥けた。ハリソンは憲法の制定者が財務長官を大統領から独立した存在にしなかったことを残念に思った。財務長官は議会の要請のみで罷免されるべきだとハリソンは考えていた。ハリソンは罷免に至るすべての状況を議会に伝えることなく財務長官を罷免することはないと誓約した。ジャクソン主義者はそうした考えをホイッグ党の指導者が大統領を議会の傀儡にしようとしているのではないかと疑った[i]。ハリソンの主張は、大統領職に関する政治的理解に基づいていたわけでもなければ、大統領が議会の攻撃に対して自らを擁護する必要性を認識していたわけでもなければ、提案を実行するのに現実的な方針が示されていたわけでもなかった。もしハリソンが中途で病死せずに大統領職を継続していたら、大統領制度は容易に回復できない程の痛手を被ったかもしれない。

  大統領制度におけるジャクソン主義者的な要素はホイッグ党の挑戦にも拘わらず生き残った。1840年までに大統領制度の重要性は民衆の心に深く根をおろしていた。もはや大統領はジェファソン主義者の時代のように弱い立場に戻ることはできなかった。1840年の選挙戦の中でホイッグ党は大統領制度の恒久的な変化に図らずも貢献した。ジャクソンの政敵は民主党が大統領選挙で用いる大衆的な選挙戦術を好ましく思っていなかった。しかし、そうした選挙戦術に悉く敗北したホイッグ党は1840年の選挙で自らも大衆的な選挙戦術を採用するに至った。政党のプロパガンダのために新聞を買い上げたり、大規模な集会を開いたり、政党の演説家に遊説をさせたりして、できるだけ多くの有権者を動員しようとした。

 民主党に打ち勝つためにホイッグ党は、以前は軽視していたスローガンや歌やシンボルといった要素を重視するようになった。「ティペカヌーとタイラーも」というスローガンが考案され、丸太小屋の生まれであることが大統領選挙で初めて重要なシンボルとなった。民主党のジャーナリストは教養のないハリソンについて「彼に林檎酒1樽と年金2,000ドルをやればよい。そうすれば彼は彼の残された日々を丸太小屋で座って過ごすだろう」と記した[ii]。ホイッグ党の宣伝者はそれをハリソンの利点に変えた。ハリソンは「丸太小屋と林檎酒の候補」となり、そうしたイメージは多くの有権者の心をとらえた。丸太小屋のバッジ、丸太小屋の歌、丸太小屋の新聞、パレードの山車、そして林檎酒の樽が至る所で見られた。多くの町で実物の丸太小屋が建てられ、壁にはアライグマの皮がかけられていたり、アライグマが歩き回ったりしていた。ハリソンは大統領候補として初めて公衆の面前で選挙演説を23回行った。

 そうした選挙戦術は国中で著しい熱狂をもたらした。ヴァン・ビューレンはもともと控え目な性格であったが、衣装は人目を引く豪華なものであり、「丸太小屋」の候補であるハリソンに対して勝ち目はなかった。約240万人の有権者が投票した。全有権者の80.2パーセントを占める。その数字が破られたのは1860年と1876年の2回のみである[iii]。ハリソンは、イリノイ州とミズーリ州を除く西部、ニュー・ハンプシャー州を除くニュー・イングランド、そして、ヴァージニア州とサウス・カロライナ州を除く南部を獲得する地滑り的勝利を収めた。皮肉なことにも民主党の選挙戦術を効果的に模倣したホイッグ党は、大統領が民衆の指導者であるというジャクソン主義者の概念を図らずも強化することになった。ホイッグ党は強力な大統領に反対したが、大統領制度をジェファソン主義者の時代に戻すことはもはやできなかった[iv]

 ハリソンは短い任期にほとんど何も達成することはできなかったが、猟官者を退けた。ハリソンのポケットは請願書で溢れ、ホワイト・ハウスは猟官者でいっぱいになった。ハリソンは猟官制度を撲滅したいと真剣に検討していた。ハリソンは、職務怠慢でのみ現職の公職者を罷免するように命じた。



[i] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947),89.

[ii] John de Ziska, the Baltimore Republican, December 11, 1839.

[iii] William M. Goldsmith, ed., Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea House Publishers, 1974), 2:647.

[iv] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947),108.


ウィリアム・ハリソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究