ミラード・フィルモア 第13代アメリカ合衆国大統領

ミラード・フィルモア

Millard Fillmore

生没年(1800年1月7日〜1874年3月8日)
在任期間(1850年7月10日〜1853年3月4日)
 


ミラード・フィルモア大統領の概要
徒弟奉公
 ミラード・フィルモアはニュー・ヨーク州カユガ郡サマーヒルで生まれた。父ナサニエル(1771.4.19-1863.3.28)と母フェーベ(1780-1831.5.2)の9人の子供の2番目であった。父ナサニエルは小作人で貧しい家庭であった。そのためフィルモアは徒弟奉公に出された。しかし、フィルモアは自ら自由を買い戻して教師になった。さらに法律を学び法曹界に入った。

ホイッグ党の有力者
 ニュー・ヨーク州下院議員がフィルモアの政治経歴の始まりであった。その後、連邦下院議員に当選し、下院歳入委員会の長にも選ばれた。フィルモアはホイッグ党の中で北部を代表する一人として知られるようになった。ニュー・ヨーク知事選挙で民主党候補に敗れた後、1848年の大統領選挙でテイラーとともに戦う副大統領候補を探していたホイッグ党の指導者達の目に留まった。

1850年妥協の成立
 テイラーが在職中に病死するとフィルモアは副大統領から昇格し大統領に就任した。1850年妥協を支持し、諸法案に署名した。しかし、妥協に反対する閣僚の多くが辞任した。1852年、ホイッグ党から大統領候補指名を獲得することに失敗し、引退を余儀なくされた。引退後もアメリカ党から大統領選に出馬したが落選した。



ミラード・フィルモア政権の概要
1850年の妥協

 1850年の奴隷をめぐる論争が佳境を迎える前にテイラーは死去した。テイラーの後継者のフィルモアは、大統領の権限を制限するというホイッグ党の原理を確認したが、重大な国内問題を議会の決定に委ねようとはしなかった。しかし、フィルモアは1850年の妥協が成立するのを見守った。フィルモアは大統領になる前から1850年の妥協を支持していた。1850年の妥協が奴隷制度をめぐる最終的な解決策になると信じ、もし上院で票が均衡する場合は、妥協を支持するほうに副大統領として決定票を投じるとフィルモアはテイラーに伝えていた。フィルモアの支持は政治的に重要であった。テイラーが死去する前は20人から30人の議員が妥協に強固に反対していたが、フィルモアの支持が明らかになってからは劇的に態度を変えた。フィルモアは1850年9月に、地域的な争いは最終的な解決が行われたと宣言した。
1850年の妥協が成立するのを見守ったフィルモアは逃亡奴隷取締法を積極的に施行した。マサチューセッツ州が逃亡奴隷取締法に違反した市民を告発するのに協力を拒んだ際にフィルモアは、北部であれ南部であれ、連邦法を無効にする権利を認めないと宣言した。しかしながら、逃亡奴隷が保護されている北部で大統領が逃亡奴隷取締法を遵守させる手段は実質的になかった。

極東政策

 西漸運動を進めてきたアメリカは米墨戦争によって広大な領土を獲得し、太平洋国家となった。さらに1844年に中国と望廈条約を結び、アメリカは西欧列強と同様の貿易上の特権を手に入れていた。しかし、中国貿易は中国国内の混乱によって大きな打撃を受けた。また当時、盛んだった捕鯨業の中継基地を確保することも重要であった。こうした事情によって極東に対するアメリカの関心は高まった。
 そこでフィルモアはマシュー・ペリー(Matthew C. Perry)を日本に派遣した。1852年11月、ペリー率いる4隻の艦隊は極東に向けて出港した。ペリーは、難破したアメリカ船員を救助し、アメリカ船に石炭やその他の物資を提供し、少なくとも1つの港をアメリカとの交易のために開くことを日本に約束させるようにフィルモアから命じられた。ペリーはアフリカ西岸沿いに大西洋を南下してインド洋に至り、マラッカ海峡、香港、上海を経て、1953年5月に那覇、そして6月に小笠原諸島に到着した。7月に浦賀沖に艦隊を進めたペリーは大統領親書の受理を幕府に要求した。ペリーは長崎に回航するように求める幕府の要請を拒絶し、江戸湾に侵入した。幕府は大統領の親書を受理した。ペリーは12ヶ月以内にまた寄港することを約して日本を離れた。ペリーは香港に立ち寄った後、日本に戻り、1854年に日米和親条約を締結した。日米和親条約は下田、函館の開港、燃料、食糧などの補給、難破した米船の船員の救難、保護、米領事の下田駐在などを取り決めている。1855年1月、ペリーはアメリカに帰還した。

結語


 フィルモアが大統領職を引き継いだ時、既にホイッグ党崩壊の前兆は既に示されていた。主要なホイッグ党員は、西部の準州への奴隷制度の拡大に反対する自由土地党のような政党に鞍替えしていた。1852年の大統領選挙で、ホイッグ党は州権を尊重するフィルモアの代わりに奴隷制度反対派のスコットを大統領候補に指名した。しかし、スコットは大統領選挙で42人の選挙人しか獲得できずピアースに敗れた。主に北部のホイッグ党員から構成される奴隷制度反対派は1854年の共和党の結成に加わった。1856年の大統領選挙が、ホイッグ党が大統領候補を立てた最後の機会となった。
歴代アメリカ合衆国大統領研究