フランクリン・ピアース 第14代アメリカ合衆国大統領

フランクリン・ピアース

Franklin Pierce

生没年(1804年11月23日〜1869年10月8日)
在任期間(1853年3月4日〜1857年3月4日)
 


フランクリン・ピアース大統領の概要
父は地元の名士
 フランクリン・ピアースはニュー・ハンプシャー州ヒルズボローで生まれた。父ベンジャミン(1757.12.25-1839.4.1)と母アンナ(1768-1838.12)の8人の子供の中で6番目であった。父ベンジャミンはニュー・ハンプシャー州知事を務めている。ピアースは15才の時にボードウィン・カレッジに入学した。卒業後、法律を学んで弁護士になった。

米墨戦争の勇士
 父ベンジャミンが州知事を務めるかたわら、ピアースもニュー・ハンプシャー州下院議員として政治家としての一歩を踏み出した。その後、連邦下院議員、連邦上院議員を歴任した。ニュー・ハンプシャー州の民主党の領袖として重きをなした。米墨戦争が勃発すると、大佐の辞令を受けて出征した。コントレーラスの戦いで負傷し、帰還後、勇士として迎えられた。混戦であった1852年の民主党大統領候補指名で急浮上し指名を獲得した。

カンザス=ネブラスカ法をめぐる対立
 ピアースが大統領に就任した直後に成立したカンザス=ネブラスカ法をめぐって南北の対立が激化した。ピアースは法案を支持したことで北部の法案反対派からの支持を失い、大統領候補指名を獲得することができなかった。


フランクリン・ピアース政権の概要

カンザス=ネブラスカ法

 ジャクソニアン・デモクラシーの時代を通じて強化された大統領制度であったが、奴隷制問題によってもたらされる危機に十分に対応することはできなかった。この時代の最後の2人の大統領であるピアースとブキャナンは、民主党内の北部と南部の派閥をまとめようとして無駄な努力をした決断力のない人物であった。彼らは奴隷制度を政治的問題として無害にしようと努めた。しかし、そうした努力は遅きに逸した。奴隷制度をめぐる亀裂は、彼らの緊張を緩和しようとする努力によって余計に悪化するだけであった。
 1854年のカンザス=ネブラスカ法は、ピアースが南北の緊張を和らげようとして失敗した顕著な例である。準州委員会のスティーヴン・ダグラス上院議員は、アイオワとミズーリの西にネブラスカ準州を設立する法案を提出した。準州はカンザスとネブラスカに分けられた。さらにダグラスは奴隷制度を全国的な政治的問題から除外しようと考え、カンザス=ネブラスカ法に奴隷制度を認めるか否かは、その州の住民が決定するべきであるという住民主権の原則を盛り込んだ。住民主権の原則は、北緯36度30分以北における奴隷州の禁止を規定した1820年のミズーリ妥協を廃棄し、北西部への奴隷制度の拡大を認めるに等しいものであった。
 ダグラスの住民主権に関する議論は3ヶ月も続いた。ピアースは住民主権の原則が認められるように、官職任命権の行使も含めて大統領として影響力を最大限活用した。1854年5月25日、カンザス=ネブラスカ法案は、下院を辛うじて通過した後、上院で大差で可決され、ピアースは法案に署名した。しかし、6ヶ月もしないうちに、ミズーリ妥協の廃棄が奴隷制度問題を解決するどころか悪化させ、民主党を分裂させていることが明らかになった。期待に反してピアースが強力なリーダーシップを発揮することによって、皮肉にも民主党は統治機構としての崩壊を早めた。
 カンザスの奴隷制度が住民主権によって決定されることになると、奴隷制度廃止論者と奴隷制度擁護派がそれぞれカンザスに流入した。1855年、奴隷制度廃止論者はトピーカで憲法制定会議議会を開催してカンザスを自由州にしようと試みた。奴隷制度擁護派は北西部からの移民を阻止しようとし、奴隷制度廃止論者の入植地であるローレンスを襲撃した。その結果、奴隷制度擁護派と奴隷制度廃止論者の間で内戦が勃発した。ピアースは奴隷制度を認めるか否かを決定する権利は州にあると信じていた。カンザスの流血は奴隷制度廃止論者によって引き起こされたとピアースは考えていた。

ガズデン購入

 ピアース政権はメキシコから現代のアリゾナ州とニュー・メキシコ州にあたる2,900万エーカーの土地を1,000万ドルで購入した。購入が行われたのは南部の大陸横断鉄道を通す候補地になっていたからである。購入はジェームズ・ガズデン(James Gadsden)駐墨アメリカ公使の名前に因んでガズデン購入と呼ばれる。カズデン購入によってアラスカを除いて現代のアメリカの大陸領域が定められた。

キューバ問題

 さらにピアース政権はスペイン植民地のキューバ獲得を検討した。キューバがアメリカ商船であるブラック・ウォリアー号を拿捕し、スペインは国内の擾乱に直面していたのでキューバ獲得の好機であるように思われた。ピアースは議会にブラック・ウォリアー号事件をスペイン本国に通達すべきだと勧告した。アメリカは賠償と名誉の回復をスペインに求めた。それに応じてスペイン政府はアメリカに謝罪を行った。ブラック・ウォリアー号事件はピアースの対キューバ政策を変える一因となった。
 ウィリアム・マーシー(William L. Marcy)国務長官は、駐西アメリカ公使にキューバを1億3,000万ドル以下で買い取る交渉をスペイン政府と行うように訓令した。さらにピアースはヨーロッパ諸国のアメリカ公使にスペインにキューバをアメリカに売るように圧力をかけるよう訓令した。ベルギーのオステンドで会合した公使達はオステンド・マニフェストをまとめた。オステンド・マニフェストは、アメリカは購入の他の手段に訴えてでもキューバを獲得すると示唆することで、ヨーロッパの銀行家にスペインに圧力をかけさせ、キューバ売却を認めさせる提案である。オステンド・マニフェストの内容は機密だったが、報道に漏出し、議論を引き起こした。キューバは奴隷植民地であったので、キューバの獲得は奴隷制度擁護派の勢力を伸ばす試みであると奴隷制度廃止論者は強く非難した。その結果、ピアース政権はオステンド・マニフェストを否認せざるを得なくなった。

グレータウン事件

 ピアース政権は中央アメリカをめぐってイギリスと対立した。イギリスはアメリカの影響力の拡大を抑えようとクレイトン=バルワー条約を既に結んでいた。クレイトン=バルワー条約をアメリカはイギリスが中央アメリカにおけるすべての植民地を放棄するものだと解釈したが、イギリスは既存の植民地はこれまで通り維持されると主張した。
 グレータウンで起きた事件によって米英関係はさらに悪化した。グレータウンでアメリカ公使が暴行を受けたのでピアースは軍艦サイエイン号を派遣して謝罪を求めた。謝罪を得ることができなかったのでサイエイン号はグレータウンを砲撃して破壊した。イギリス政府は賠償金を要求したが、クリミア問題に巻き込まれるようになったのでそれ以上、事件に深入りしなかった。

結語

 1856年6月、民主党はシンシナティで全国党大会を開いた。有力な大統領候補は、ピアース、ブキャナン、ダグラスの3人であった。3人とも奴隷制度の合憲性を支持していた点では変わらなかったが、ブキャナンは国外にいたためにカンザス=ネブラスカ法をめぐる争いに距離を置くことができた。さらにブキャナンはオステンド・マニフェストの起草に関わったことから南部で人気を得ていた。ピアースはカンザス=ネブラスカ法の制定に積極的に関与したこと、そしてカンザスの流血を止められないことから支持を失い、大統領候補指名をブキャナンに奪われた。
歴代アメリカ合衆国大統領研究