トマス・ジェファソン大統領
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アルバート・ギャラティン財務長官
 アルバート・ギャラティン(1761.1.29-1849.8.13)は、スイスのジュネーブの商家に生まれた。ギャラティン家の先祖はローヌ川上流に領地を持っていたという。スイス共和国成立後も有力な家系であった。しかし、ギャラティンの父は富裕ではなかった。ギャラティンは9才の時、両親と死別し、親類の家に預けられた。13才になるとジュネーブ学園に入学した。ギャラティンの早熟な才能は多くの者が注目するところとなったという。
 学園を卒業後、ギャラティンは1780年にアメリカに渡った。それは、アメリカ独立宣言に感化されて、保守的なジュネーブの上流社会から逃れたくなったためだと伝記作家は書いているが実情は異なるようである。両親から受け継いだ遺産は十分な額ではなかったが、つてをたどって職を得ようとギャラティンは考えなかった。その代わりに、アメリカで貿易と土地投機を行って自らの力で財を成そうと考えたのである。実際、ギャラティンはアメリカの独立を悲劇的なあやまちだと思っていたし、「名誉や作法を知らず品性がない」大衆による「略奪」を遺憾に思っていた。1781年7月、ギャラティンはボストンに上陸した。しかし、ギャラティンの商売はうまくいかず、今度は開拓事業を考案した。協力者を得たギャラティンは、オハイオ川流域の12万エーカー以上の土地の権利を買い取った。ペンシルヴェニア邦ファイエット郡に農園を借りて入植者を集めようと計画した。しかし、ネイティヴ・アメリカンとの衝突や当て込んでいたポトマック川の運河整備の遅れにより事業はなかなか実を結ばなかった。
 1790年10月、ペンシルヴェニア州下院議員にギャラティンは選出された。州議会でギャラティンは小規家や事業家の利益を代表して注目を集めた。さらに優れた報告書を作成したことにより、財政分野の専門家と見なされるようになった。1793年2月28日、連邦上院議員に選ばれたが、アメリカの市民権を得た後、まだ規定の年数を経ていないという告発により失職した。まさにその時、ギャラティンは財務省の内部調査を行うためにアレグザンダー・ハミルトン財務長官に膨大な関連書類の提出を要求している最中であった。
 上院議員の席を失ったギャラティンであったが、その後、西部の民主共和派の圧倒的な支持を得て連邦下院議員に当選し、1795年から1801年まで在任した。下院議員としてギャラティンは、連邦派の財政を攻撃する民主共和派の急先鋒になった。ギャラティンにとって公債は腐敗の温床であり、立法府の無能と行政府の横暴の証であった。公債をできるだけ早期に償還するだけではなく、議会はさらなる借金が増えないように行政府を監視するべきだとギャラティンは主張した。それはまさに下院に恒久的な歳入委員会を設立するという考えであった。そうした考えは『合衆国財政の概要』(1796)と『合衆国の公債、歳入、歳出に関する諸観点V』(1800)に表されている。
 1801年、ジェファソンによって財務長官に任じられたギャラティンは、公債の償還計画に着手した。ギャラティンの節減対策により、トリポリ戦争やルイジアナ購入にも拘わらず、財政は黒字であった。その結果、公債残高は大幅に減少した。さらに節減に努めるだけではなく、1808年には2000万ドルをかけて運河を整備する計画を議会に提案している。この計画は、戦争の危険性が高まっていた時期に提出されたために棚上げされ実現することはなかった。
 しかし、ギャラティンの財政計画は必ずしも順調に運んだわけではなく、出港禁止法の影響を大きく受けた。ギャラティンは出港禁止法に反対していたが、表立って強硬な反対を唱えることはなかった。しかし、ジェファソンに、出港禁止法に時限を設けることや、もし取締りを実際に行う十分な権限がなければ出港禁止法を廃止すべきだと提言している。出港禁止法にともなう歳入の減少は、増税と借入の増加を招く恐れがあったからである。ギャラティンはマディソン政権下でも留任した。