陸軍長官ヘンリー・ディアボーン


 ヘンリー・ディアボーン(1751.2.23-1829.6.6)は、ニュー・ハンプシャー植民地ハンプトンの農家に生まれた。地元の医師から医学を学んだ後、ポーツマスの著名な医師の下でさらに学んだ。独立戦争が勃発するとディアボーンはニュー・ハンプシャー第1連隊の大尉となり、レキシントン=コンコード間の戦いの支援に赴いた。その後、バンカー・ヒル、サラトガ、モンマス、ヨークタウンの各地を転戦し、中佐に昇進した。ディアボーンは独立戦争で多くの戦いに参加したが、300人以上の兵士を率いたことはなく、戦略の立案や兵站に関する知識は限られていた。1783年6月18日に軍を退役した後、1792年に連邦下院議員に選出された。下院議員としてディアボーンは、マディソンとジェファソンに協力して連邦派に対峙するようになった。
 1801年、ジェファソンは、そうした協力や軍隊経験、北部への政治的配慮を鑑みてディアボーンを陸軍長官に任命した。ディアボーンはジェファソンの方針に忠実に従って、陸軍の規模を縮小し、人事の刷新を図った。ウェスト・ポイントの陸軍士官学校の設立を支援した。またネイティヴ・アメリカンをミシシッピ以西に退去させる計画を立案した。1807年にチェサピーク事件が起きた後、ディアボーンは正規軍の増員を提案したが、議会にほとんど認められなかった。
 ディアボーンは退任後、ボストン港の関税徴集官に任命された。1812年戦争の際にはマディソンに合衆国陸軍上級少将に任命された。ディアボーンはナイアガラ川からニュー・イングランド沿岸に及ぶ北西部管区の指揮を委ねられ、シャンプレーン湖を経てカナダに進攻する命令を受けた。しかし、ニュー・イングランド諸州の知事から民兵隊の動員に関して協力を得ることができず、作戦はほとんど成功をおさめることはなかった。 1813年7月、ディアボーンは司令官を退任した。1815年に名誉除隊した後、モンロー政権下で駐葡アメリカ公使を務めた。 ディアボーンは1824年に公使を辞任後、1829年に亡くなった。

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