副大統領エルブリッジ・ゲリー


エルブリッジ・ゲリーは、マサチューセッツ植民地マーブルヘッドの商家に生まれた。11人兄弟の中で最も優秀であったゲリーは1758年にハーヴァード大学に入学し、1762年に卒業した。その後、1765年に修士論文を提出するためにハーヴァード大学に戻っている。学業を終えた後はスペインやポルトガルと魚を取引する家業を手伝った。
 1772年、マーブルヘッドはゲリーをマサチューセッツ植民地議会の代表に選出した。サミュエル・アダムズが通信連絡委員会を結成すると、ゲリーは早くからその一員になった。そして他の植民地に送付された回状を起草した。しかし、こうした急進的な活動に水を差す出来事が起きた。ゲリーやその他の者が行おうとした天然痘の予防接種計画に反対する人々が暴徒と化して病院を焼き払った事件である。人民の暴挙に嫌悪感を抱いたゲリーは公職を辞した。
 1774年、ゲリーはマサチューセッツ革命協議会の一員に選ばれて公職に復帰した。ゲリーの商人としての経験は、民兵隊を組織するにあたって軍需物資を調達する際に役立った。1776年に大陸会議のマサチューセッツ代表に選ばれた後も、ゲリーは軍需物資の調達に手腕を発揮した。ゲリーの姿勢は精励格勤かつ実直であったという。代表の1人として独立宣言の署名者にもなっている。ゲリーが大陸会議に奉職した期間は、1776年から1781年と1783年から1785年までである。
 1786年に起きたシェイズの反乱はゲリーに、そうした反乱を抑止できる強力な中央政府の必要性を痛感させた。それがきっかけでゲリーは憲法制定会議に参加することを決意した。ゲリーの目指した政体は、権力に飢えた貴族によるものでもなく、無秩序な大衆によるものでもなかった。ゲリーにとって優れた資質を持つ人物による統治が望ましい形態であった。しかし一方でゲリーは、ワシントンがシンシナティ協会を利用して軍事独裁制を樹立しようとしているのではないかと疑っていた。
 憲法制定会議でのゲリーの立場は、反乱を抑止できるくらいの権限を中央政府に与えながらも、州の権限とのバランスをとるというものであった。人民に対する不信感から、両院の議員および大統領の一般投票による選出に反対した。
新憲法が成立するとゲリーは1789年から1793年にかけて連邦下院議員を務め、権利章典の制定を支援した。1797年、フランスとの諸問題を解決する使節団の一員に選ばれて渡欧した。XYZ事件が明らかになった時、ゲリーは本国からの指示を受け入れずにパリに留まった。もし自分がパリを出発すれば戦争のきっかけになるかもしれないと恐れたからである。
 帰国後、1810年から1812年にかけてマサチューセッツ州知事を務めた。州知事としての2期目に、ゲリーはいわゆる「ゲリマンダー法案」として知られる法案の成立に寄与した。同法案はマサチューセッツの選挙区を民主共和党に有利なように改定するという内容であった。区割りがサラマンダーの形に似ていたために、ゲリーの名を冠してゲリマンダーという言葉が生まれた。今でもこの言葉は自分が所属する政党に有利なように選挙区を改定するという意味で使われている。
 イギリスに対する強硬姿勢を早くから唱えていたゲリーは、1812年の大統領選挙で副大統領候補に選ばれた。上院が休会に入る時に副大統領が占める議長席を臨時議長に譲るという慣習があるが、平和を唱える議員がその席を占めることを知ると席を譲ることを拒んだ。ゲリーは胸部の出血で在職のまま、ワシントンで亡くなった。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究