近畿巡幸と東北巡幸

昭和天皇 昭和二十二年は、新たな出発を切った天皇制にとって大きな転換期であった。新憲法が施行され、その下で天皇陛下は戦後初めて国会開会式に臨席し、「わたくし」という一人称を使って開会の辞を賜った。それは新憲法の下での天皇陛下の公的地位が明らかにされた瞬間であった。天皇制は新たなる歩みを記しつつあった。

 近畿巡幸は、昭和二十二年6月に大阪府、和歌山県、兵庫県、昭和二十六年11月に京都府、滋賀県、奈良県、三重県の二回にわたって行われている。淡路島のみは昭和二十五年3月の四国巡幸の帰途に行われている。巡幸をお迎えする国民の熱狂はエスカレートし、それを見た保守派の議員や地方政治家の同行希望が殺到した。まるでそれは戦勝記念のパレードのようであったという。大阪府庁前で昭和天皇が御料車から降りられて、おひろいで府庁舎に向かったところ、群衆が殺到し、身動きできない状態になった。事態を収拾するためにMPが空砲を撃つとようやく群集は静まったという一こまもあった。京都駅前でもあまりに大勢の人垣のために御料車が立ち往生することがあった。さらに和歌山県では、熱狂した群集が御料車を取り囲んで御輿のように担ごうとまでしたという。

 近畿巡幸の中で特筆すべき事件は京大天皇事件である。昭和二十六年11月12日、京都市内を視察し終わった昭和天皇は京都大学をご訪問になった。京都大学では今まで一度も起こらなかったことが起きた。「京大生は天皇を歓迎せず」といったプラカードを持った学生たちが君が代ではなくインターナショナルを歌いだしたのである。五百人の機動隊と警官が構内に突入し二千人以上の学生と小競り合いとなった。降車された天皇陛下は初め学生たちが万歳をしていると勘違いされ、ソフト帽を振ってお応えなさろうとされたが異常に気が付かれた。大学当局はこの事件に関して、京大同学会の解散を命じ学生八名を無期停学処分にした。

 一回目の近畿巡幸に引き続いて東北巡幸が行われた。当初は、天皇陛下の静養のために九月に入って涼しくなってから巡幸が行われる予定であったが、天皇御自らが東北巡幸の早期実現を熱望された。さらに東北地方を水害が襲い、そのために延期もやむなしと言われていたこところ、昭和天皇はむしろ水害地を見舞いたいとの熱意を示された。昭和二十二年8月に福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県、山形県の順に巡り、帰途に再度福島県にお立ち寄りになっている。

 福島巡幸では摂氏四十度にもなる常磐炭鉱の切羽まで御自ら足を運ばれ坑夫を激励して回られた。鉱業の発展が日本の復興には欠かせないとお考えになっていたからである。常磐炭鉱を視察後、昭和天皇は仙台に移動するために駅に向かわれ、途中で降車され沿道の歓呼にお応えになった。そのため熱狂した群集が殺到し、大阪巡幸の時と同じくMPが威嚇射撃をしてようやく鎮めるという一こまがあった。  宮城県では、二泊目の宿泊先に県立古川高等女学校が選ばれた。特別な宿泊施設があるわけでもなく、昭和天皇は板の間に茣蓙を敷いて御寝になったという。さらに山形県では、昭和天皇は初めて民間営業の村尾旅館に御宿泊され、「宿屋というものは、人を泊めるのになんと具合よく出来ているものか」と感心されたという。
御製
京都府

 めづらしく晴れわたりたる朝なぎの浦曲にうかぶ天の橋立

 文殊なる宿の窓より美しとしばし見わたす天の橋立


滋賀県

 をさなき日あつめしからになつかしも信楽焼の狸を見れば

 谷かげにのこるもみぢ葉うつくしも虹鱒をどる醒井のさと
 
 うるはしく職場たもちて山すその永原村はすくはれにけり


奈良県

 古の奈良の都のをとめごも新しき世にはた織りはげむ

 大き寺ちまたに立ちていにしへの奈良の都のにほひふかしも

 空高く生ひしげりたる吉野杉世のさま見つついく代へぬらむ


三重県

 はり紙をまなぶ姿のいとほしもさとりの足らぬ子も励みつつ

 色づきしさるとりいばらそよごの実目にうつくしきこの賢島

 美しきあごの浦わのあまをみなとりし真たまは世にぞかがやく


福島県

 あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしぞ見し

岩手県

 さきの旅路今また過ぎてくらぶればゆとりのあるが見えてうれしき

 たへかぬる暑さなれども稲の穂の育ちを見ればうれしくもあるか


秋田県

 水のまがにくるしみぬきしみちのくの山田もる人をあはれと思ふ
お言葉
●「地方へは今後も続けて行きたいと思っている。ことに戦災者や引揚者、遺族は戦争の犠牲者で、一番気の毒に思っているので、できるだけ激励したいと思う。しかし、これらの人々が元気に働いてくれるのを見て嬉しい」(昭和22年5月1日)

 新憲法発布の際の記者会見で述べられたお言葉。

●「明るい気持ちでしっかりやろうね」(昭和22年6月5日)

 大阪巡幸の際に昭和天皇は、戦災で苦しむ人のための施設である博愛社をご訪問され、戦争未亡人をこう激励された。

●「熱烈な歓迎を受けて、誠にうれしかったが、ケガ人が出はしないかと心配だった。あまり一ヶ所に混雑しない方が皆によく会えてよいと思う」(昭和22年6月)

 記者会見の席上でのお言葉。

●「君はいけるだろう、飲んでごらん」(昭和22年6月12日)  

 兵庫巡幸の際、灘の酒造会社をご視察された際に、利き酒をするように勧められた昭和天皇は隣にいた松平宮内府長官にそれを譲ろうとされた。

●「この夏は東北を廻らねばならぬ」(昭和22年夏)

 大阪、和歌山、兵庫巡幸を終えた昭和天皇は、酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近の言葉を斥けられた。

●「国民はみな汗を流して働いている。自分のからだは心配に及ばない」(昭和22年夏)

 大阪、和歌山、兵庫巡幸を終えた昭和天皇は、体調を心配して酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近の言葉を斥けられた。

●「地方の人達にはなるべく自由に迎えるように、学童たちをどうしてもならばせるときは日陰をえらぶように」(昭和22年夏)

 東北巡幸を前に、酷暑による国民の労苦を思われた昭和天皇のお言葉は各地方官庁に伝えられた。

●「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物を着たって当たり前だが、日本は敗けて、今みんな着る物も無くてこまっているじゃあないか。洋服なんかつくる気になれない」(昭和22年夏)

 東北巡幸を前に、洋服の新調を提案する入江侍従に昭和天皇はこうお答えになり提案を斥けられた。

●「国管の対象にならない小さいやまの労働者の厚生策はどうなっているか、やまの大小によって労務者の待遇、取扱いなどに差別をつけるようなことのないようにせよ」(昭和22年7月12日)  

 福島巡幸の際に常磐炭坑をご視察される予定になっていた昭和天皇は、石炭の生産状況について担当大臣に説明をお求めになり、炭坑労働者の福利厚生に注意を払うように促された。

●「石炭は大切だから、どうか増産のためにがんばってください」(昭和22年8月5日)

 福島巡幸の際に常磐炭坑をご視察になった天皇陛下は出迎えた労働組合幹部の一人である三森鉄一郎氏にお声をかけられた。

●「苦しいだろうが再建日本のためにお互いやろうね」(昭和22年8月7日)

 岩手巡幸の際に昭和天皇は戦災者と戦死者遺族を前にして激励された。お互いというのは国民のみならず天皇ご自身も指されているお言葉である。

●「皆に会うのがうれしいので疲れを覚えない。子どもたちの元気で無邪気な顔を見ると楽しい気がする。身体の調子もかえっていいくらいだから安心してほしい」(昭和22年8月)

●「殊にひどかった秋田県には是非行って状況を視察激励してやりたい」(昭和22年夏)

 東北を水害が襲ったとお聞ききになると昭和天皇はこうおっしゃって東北巡幸の早期実現を側近に促された。

●「石油は大切なものであるから、よく勉強して頑張ってほしい」(昭和22年8月13日)  

 秋田巡幸の際に昭和天皇は日本石油秋田製油所をご視察され、佐々木社長にこう述べられた。

●「天候の不順や肥料の不足で難儀だろうが、食糧増産にどうかがんばってもらいたいものだね」(昭和22年8月16日)

 山形巡幸の二日目に昭和天皇は荻野村開墾地をご訪問され、昭和集落の人々に励ましのお言葉をかけられた。

●「宿屋というものは、人をとめるのになんと工合よくできているものか」(昭和22年8月16日)

 山形巡幸の際に村尾旅館に御宿泊された昭和天皇は、物珍しそうに旅館内をご覧になりこうおっしゃた。昭和天皇は、それまでの巡幸では知事公舎や名士の邸宅、学校などを御宿泊所とされていたので、民間旅館に御宿泊されたのは村尾旅館が初めてであった。

●「斎藤、病気はどうか」(昭和22年8月16日)

 山形巡幸の際に昭和天皇は、御宿泊先である村尾旅館に歌人の斉藤茂吉氏と結城哀草果氏を招き、短歌についてご歓談された。斉藤茂吉氏は前年に三か月にわたり病臥していたので昭和天皇は斉藤茂吉氏の体調を気遣われたのであろう。
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