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昭和天皇の全国巡幸 |
はじめにこのページは歴代アメリカ大統領とは何も関係ありません。私が調べた昭和天皇の全国巡幸についてまとめています。詳しくは昭和天皇の全国巡幸アーカイブス出版(2008年)を参照して下さい。ただ絶版になっているので入手が難しいかもしれません。一つ注意点として述べておきたいことがあります。私は政治的に右翼でもありませんし、左翼でもありません。一人の元首としてどのように行動したかという観点から昭和天皇の事績を調べました。その点ではアメリカ大統領を見る眼と特に変わりません。特に戦後日本の建て直しと天皇がどのように関わったのかに興味があります。 目次前書き日本の戦後と天皇巡幸 関東巡幸と東海巡幸 近畿巡幸と東北巡幸 甲信越北陸巡幸と中国巡幸 九州巡幸と四国巡幸 北海道巡幸 九州巡幸の県別詳細 全国巡幸日程表 県別巡幸先一覧 皇室用語一覧 コラム 天皇の御料車と御召列車 埼玉村の農婦 昭和天皇の日常、および研究生活 山道で村娘と立ち話 天皇陛下はどこかいな 永井博士を見舞う 昭和天皇ご一家 前書き昭和の時代が永遠のものとなってからもうすぐ二十年が経とうとしている。昭和天皇の大葬の礼がテレビで放映された時、私はまだ子どもだったが、子ども時代を彩る一つの鮮明な記憶として脳裏に焼き付いている。戦後、天皇陛下は「人間宣言」によって神ではなく国民統合の象徴となった。国民の皇室への関心は、昭和の末期には、少し薄れているようにも思えた。そうした時に、昭和天皇が崩御し、大葬の礼がしめやかに行われたのである。テレビでは昭和天皇の特集が繰り返し流され、昭和天皇を題材とした書籍が巷に溢れた。昭和という時代は、日本にとってまさに激動と苦難の時代であったことを国民は再認識した。昭和天皇の功罪について様々な論があろうとも、昭和天皇が昭和という時代の渦中の中心におられたというのは誰もが否定しようもない事実である。また皇室が世界でも類をみない存在だということも確かである。イギリスにも長く続く王朝はあるが、日本の天皇制とは全く異質で「万世一系」とは決していえない。昭和天皇の全国巡幸は、この世界でも類を見ない唯一の存在である天皇制が日本開闢以来、最大の存続の危機を迎えた時に行われた。 実は、巡幸が開始される前、天皇陛下をはじめ側近たちは、国民が天皇陛下を石もて迎えるのではないかと恐れていた。しかし、事実は全く逆であった。国民は全国津々浦々で昭和天皇の巡幸を熱狂的に歓迎したのである。それは、GHQが、天皇制が強大になり過ぎるのを恐れて巡幸を一時期中断させた程である。 全国巡幸は、戦前の軍国主義と結び付いた神格的な天皇制から、戦後の民主主義と結び付いた大衆的な天皇制への脱皮を多くの国民に強く印象付けたのである。また天皇陛下から激励を受けた多くの国民は復興への意志をあらためて強くしたのであった。 日本の戦後と天皇巡幸 「今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。爾臣民の衷情も朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運の趨くところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきをしのび、もって万世のために太平を開かんと欲す」という所謂、玉音放送をもって戦争は終結した。終戦に対する全国民の反応は様々であったが、一様に虚脱感に襲われたのは言うまでもない。それは、全国民の心の中から、一丸となって大東亜共栄圏建設ために尽くすという長年教え込まれてきた大義が失われたからであり、同時に絶えまない生命の危機に脅かされずにすむという安堵が芽生えたからである。また多くの全国民は日々の生活に追われながらも、これから日本はいったいどうなるのかという底知れぬ恐怖に息をひそめていた。国の秩序は乱れ、物価は高騰し、国民はその日の炊ぎにも事欠くありさまだった。道徳は頽廃し、不法な闇市が横行した。未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには、全国民の真心を喚起することが先決であった。国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむことが日本の復興には不可欠であった。 昭和天皇は全国巡幸の意義について以下のように語られている。 「この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けた。この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」 マッカーサーはこの天皇の全国巡幸に全面的な支持を与えている。多くの日本人にとって天皇は戦禍からの救済者であったから、占領統治をスムースに行うためにGHQは天皇の権威を利用しようと考えたのである。全国巡幸は昭和二十一年の神奈川県を皮切りに昭和二十九年の北海道を最後として足かけ八年半にかかって行われ、全行程は三万三千キロ、総日数は百六十五日に及ぶ。 全国巡幸により国民は、天皇陛下を一人の「人間」として身近な存在に感じるようになった。これまで国民にとって、天皇陛下は雲の上の存在であり、現世にいまします神、すなわち現御神であった。大部分の国民は、天皇陛下の御姿を拝するどころか肉声も聞くこともまれであった。戦前にも巡幸は行われているが、それは天皇陛下が臣民の様子を視察する性質のものである。 昭和二十一年1月の「人間宣言」に引き続いて行われた全国巡幸は、天皇陛下が一人の「人間」として国民の中に立ち入られ親しみを交わす大衆天皇というイメージを全国民に定着させたという点で画期的なものであった。 戦後、皇室は国民に開かれたものとなった。皇室が担う役割は、戦前と戦後で全く違っている。家父長制を基に日本を階層化するための絶対的な模範、それが戦前の皇室が担う役割であった。しかし、戦後はGHQによる民主化指令により、皇室は、大衆の支持を基にした「幸福な家庭」という理想的な模範という役割を割り当てられるようになる。戦後まもなくしてから、従来では全く見られなかった皇室の御写真が公開されるようになり、マスコミはそれらをこぞって紹介した。 特に皇太子明仁殿下(現天皇陛下)と正田美智子様(現皇后陛下)の婚約発表を契機にした所謂「ミッチーブーム」は、従来の皇室のイメージをがらりと変えた。それ以来、マスコミは、「皇室アルバム」を代表とするテレビ番組や週刊誌のグラビアなどで皇室関係記事をたくさん紹介するようになり、皇室は現在のように広く大衆に親しまれる存在になった。昭和天皇の全国巡幸には、そうした広く大衆に親しまれる皇室というイメージの土台を形作った大きな意義がある。 関東巡幸と東海巡幸 昭和二十一年2月、新日本国憲法の草案作成が着々と進んでいた。アメリカによる草案提示は、日本の天皇制を完全に無力化するものであった。また一方で、戦争責任を負って昭和天皇は退位すべきだという論もささやかれていた。「人間宣言」の後に国民はどのように天皇陛下を迎えるのか天皇陛下も側近も全く予測できなかったのである。天皇陛下の存在意義が国民に試されようとしていた。昭和天皇は、全国巡幸に先立って1945年11月に終戦報告のために伊勢神宮に親拝しているが、国民の中に御自ら身を運ばれるという試みは今回が戦後初めてであった。昭和二十一年2月19日、三台の御列が皇居を出て神奈川県に向かった。沿道の者は誰も天皇陛下の鹵簿だとは気付いていないようであった。全国巡幸の幕は静かに切って落とされたのである。御料車から降りられた昭和天皇のお召し物は、背広にソフト帽というごくありきたりの服装であり、それはまさに新しい平和国家日本を象徴であった。そうして「人間」になった天皇陛下を国民は親しみを持ちながらも熱狂的に歓迎した。昭和天皇が平和産業転換展御視察を終えられて会場の新宿伊勢丹の玄関からお出ましになろうとした時に、巡幸を聞き知った人々が自然に集まり、期せずして一斉に万歳の声が巻き起こった。 関東巡幸はまとめて一度に行われたものではなく、昭和二十一年の2月から12月までの期間に神奈川県、東京都、群馬県、埼玉県、千葉県、茨城県の順で一県ずつ行われた。千葉巡幸の際に御召列車内で一泊するまでは、二日にわたる場合も日帰りで巡幸されている。栃木県だけは、昭和二十二年9月に那須御用邸に滞在しながらの巡幸である。 実は巡幸中の天皇陛下を写真におさめることは、戦前では全くありえないことであった。一般人が天皇陛下の御写真をとることはおろか、カメラマンでさえも宮内省の許可を得ていなければならなかった。さらに天皇陛下から少なくとも二十メートルの距離をとる必要があったし、背中を写すことも許されなかった。ましてや神である天皇が笑う御写真を撮ることは厳禁されていた。しかし、全国巡幸からそういうことは全くなくなり、神奈川巡幸で昭和電工御視察の際などは、海外の新聞や通信社のカメラマンや米兵が殺到し、天皇陛下のお身体に触れて押したり引っぱったりして写真を撮影する騒ぎにまでなった。 東海巡幸は、昭和二十一年6月の静岡県、昭和二十一年10月の愛知県、岐阜県と二度に分けられて行われた。岐阜県は飛騨高山地方のみ日程の都合により昭和二十二年11月に持ち越されている。 愛知県巡幸では一つの事件が起きた。昭和二十一年10月22日、愛知県庁の前で一人の男性が群集に袋叩きにあっていた。その男性は、昭和天皇を歓迎するために集った群衆を前に、「天皇は万世一系ではない」と演説を始め、その内容に激怒した群集が襲いかかったというのが事件の実相であった。あやうくその男性は群集に踏み殺されそうになったが、すんでのところで警察に保護された。天皇陛下に対する国民の歓迎の熱狂ぶりが窺い知れる。 <御製> 栃木県 ざえのなき媼のゑがくすゑものを人のめづるもおもしろきかな 茨城県 たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて 水戸の町あけそめにけりほのぼのと常陸ざかひの山もみえきて <お言葉> ● 「何年つとめているのか、住宅や生活に不便はないか」 (昭和21年2月19日) 昭和天皇が全国巡幸を始めるにあたり、庶民第一号として声をかけたのが昭和電工の前場圧縮機係長であった。その際の第一声である。昭和天皇自身が一般国民に親しく質問するのは戦前ではほとんどありえないことであった。 ●「寒くはないか」(昭和21年2月20日) 神奈川巡幸の際に昭和天皇は、鴨居擁援護所にお立ち寄りになり引揚者の子どもをおなぐさめになった。 ●「これでいいのだ。もうこういう時代だ」(昭和21年2月20日) 神奈川巡幸から還御された昭和天皇は、髪の乱れを気にされた皇后陛下に対してこうお答えになった。髪が乱れたのは、巡幸の際に昭和天皇が何度もお帽子をとられて会釈されたからである。 ●「あそう、戦争中はまことにご苦労だった」(昭和21年2月20日) 昭和天皇は、神奈川巡幸の際、先日ナウル島から引き揚げてばかりの松沢元海軍大尉に対し労いのお言葉をかけられた。 ●「お家はどこ。焼かれたの」(昭和21年3月1日) 東京巡幸の際に、昭和天皇は、都立第四高等女学校にお立ち寄りになり、職員生徒たちを労われた。 ● 「病気の状況はどうか、苦しいだろうね、痛むか、夜は眠れるか」 (昭和21年3月25日) 群馬巡幸の際に、昭和天皇は国立高崎病院にお立ち寄りになり、上半身を起こそうとした重病患者を押しとどめられこうおなぐさめになった。 ●「朝から晩までの看護で随分つかれるだろうね。体に十分注意して看護につとめるように」(昭和21年3月25日) 同じく国立高崎病院で看護婦の労苦をおなぐさめになった。 ●「大丈夫か」(昭和21年3月25日) 群馬巡幸の際に昭和天皇は、御料車から降車されようとした。運転手が先に降りるためにドアを開けたところその取手が最敬礼している大澤農業会長の眉間に当たり出血した。驚いた昭和天皇は思わずこうおっしゃって侍医をお呼びになった。 ●「あ、危ないよ」(昭和21年3月25日) 群馬巡幸の際に昭和天皇は前橋の戦災地を御料車から降りられてお歩きになった。群衆に押され一人の子どもが転んだ。その時に昭和天皇は咄嗟にお声をかけられた。 ●「とにかく、大変だろうけど頑張ってください」(昭和21年3月28日) 埼玉巡幸の際に昭和天皇は、麦畑で農作業をする二人の農婦にお声をかけられた。二人の農婦は何を聞かれても答えはならないと事前に注意されていたという。 ●「大漁だね」(昭和21年6月7日) 千葉巡幸の際に銚子港の岸壁にお立ちになった昭和天皇は、漁から帰ってきたばかりの船に向かって呼びかけられた。漁師が「こんなに捕れました」と魚を担ぎあげると、昭和天皇は間髪入れずこうおっしゃって漁師を労われた。 ●「かわいそうに。銚子の人はどんなに苦しんだろう」(昭和21年6月6日) 千葉巡幸に向かう御召列車の中で入江侍従から銚子の戦災状況について聞いた昭和天皇はこうおっしゃって悲しまれた。 ●「戦災の国民を考えれば私は平気だ。十日間くらい風呂に入らなくてもかまわない」(昭和21年6月6日) 千葉巡幸の際、御宿泊に適当な施設がなかったために、御召列車を貨車引き込み線の「新生駅」に停車させて御宿泊所とした。当時の御召列車には宿泊設備はおろか風呂もついていなかった。それを気にした側近に対して昭和天皇はこうおっしゃったのである。ただ昭和天皇はもともと入浴がお好きではなかったと言われている。 ●「よく働くね、しっかりやってくれ。肥料が沢山できれば、食糧も沢山できるのだからね」(昭和21年6月18日) 静岡巡幸の際に昭和天皇は日本軽金属清水工場をご視察になり、従業員をこう激励された。 ●「お茶を作るのは食糧を作るのと同様だ。少しでも増産するように。静岡は茶の名所だから期待している」(昭和21年6月18日) 静岡巡幸の際に昭和天皇は丸三製茶再製工場をご視察されこう激励された。 ●「それは気の毒だったね。お家の者は全部無事」(昭和21年11月18日) 茨城巡幸の際に昭和天皇は、八千人の児童の奉迎をお受けになり、親しく戦災児童に戦災について状況をご質問された。 ●「崩れたね」(昭和21年10月下旬) 愛知巡幸の際に、歓迎の人垣が押されて崩れたのをご覧になり、昭和天皇はその熱狂ぶりを非常に喜ばれたという。 ●「このお芋は、ここでとれましたか」(昭和21年10月23日) 愛知巡幸の際に昭和天皇は赤池集落にお立ち寄りになり、掘り出されたサツマイモの前にしてこう尋ねられた。 ●「これが戦災者、引き揚げ者たちの子どもですか」(昭和21年10月25日) 岐阜巡幸の際に昭和天皇は引揚者の子どもための厚生寮をご訪問され、園長にこうお尋ねになり、一人の子どもの頭を優しくなでられた。 近畿巡幸と東北巡幸 昭和二十二年は、新たな出発を切った天皇制にとって大きな転換期であった。新憲法が施行され、その下で天皇陛下は戦後初めて国会開会式に臨席し、「わたくし」という一人称を使って開会の辞を賜った。それは新憲法の下での天皇陛下の公的地位が明らかにされた瞬間であった。天皇制は新たなる歩みを記しつつあった。近畿巡幸は、昭和二十二年6月に大阪府、和歌山県、兵庫県、昭和二十六年11月に京都府、滋賀県、奈良県、三重県の二回にわたって行われている。淡路島のみは昭和二十五年3月の四国巡幸の帰途に行われている。巡幸をお迎えする国民の熱狂はエスカレートし、それを見た保守派の議員や地方政治家の同行希望が殺到した。まるでそれは戦勝記念のパレードのようであったという。大阪府庁前で昭和天皇が御料車から降りられて、おひろいで府庁舎に向かったところ、群衆が殺到し、身動きできない状態になった。事態を収拾するためにMPが空砲を撃つとようやく群集は静まったという一こまもあった。京都駅前でもあまりに大勢の人垣のために御料車が立ち往生することがあった。さらに和歌山県では、熱狂した群集が御料車を取り囲んで御輿のように担ごうとまでしたという。 近畿巡幸の中で特筆すべき事件は京大天皇事件である。昭和二十六年11月12日、京都市内を視察し終わった昭和天皇は京都大学をご訪問になった。京都大学では今まで一度も起こらなかったことが起きた。「京大生は天皇を歓迎せず」といったプラカードを持った学生たちが君が代ではなくインターナショナルを歌いだしたのである。五百人の機動隊と警官が構内に突入し二千人以上の学生と小競り合いとなった。降車された天皇陛下は初め学生たちが万歳をしていると勘違いされ、ソフト帽を振ってお応えなさろうとされたが異常に気が付かれた。大学当局はこの事件に関して、京大同学会の解散を命じ学生八名を無期停学処分にした。 一回目の近畿巡幸に引き続いて東北巡幸が行われた。当初は、天皇陛下の静養のために九月に入って涼しくなってから巡幸が行われる予定であったが、天皇御自らが東北巡幸の早期実現を熱望された。さらに東北地方を水害が襲い、そのために延期もやむなしと言われていたこところ、昭和天皇はむしろ水害地を見舞いたいとの熱意を示された。昭和二十二年8月に福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県、山形県の順に巡り、帰途に再度福島県にお立ち寄りになっている。 福島巡幸では摂氏四十度にもなる常磐炭鉱の切羽まで御自ら足を運ばれ坑夫を激励して回られた。鉱業の発展が日本の復興には欠かせないとお考えになっていたからである。常磐炭鉱を視察後、昭和天皇は仙台に移動するために駅に向かわれ、途中で降車され沿道の歓呼にお応えになった。そのため熱狂した群集が殺到し、大阪巡幸の時と同じくMPが威嚇射撃をしてようやく鎮めるという一こまがあった。 宮城県では、二泊目の宿泊先に県立古川高等女学校が選ばれた。特別な宿泊施設があるわけでもなく、昭和天皇は板の間に茣蓙を敷いて御寝になったという。さらに山形県では、昭和天皇は初めて民間営業の村尾旅館に御宿泊され、「宿屋というものは、人を泊めるのになんと具合よく出来ているものか」と感心されたという。 <御製> 京都府 めづらしく晴れわたりたる朝なぎの浦曲にうかぶ天の橋立 文殊なる宿の窓より美しとしばし見わたす天の橋立 滋賀県 をさなき日あつめしからになつかしも信楽焼の狸を見れば 谷かげにのこるもみぢ葉うつくしも虹鱒をどる醒井のさと うるはしく職場たもちて山すその永原村はすくはれにけり 奈良県 古の奈良の都のをとめごも新しき世にはた織りはげむ 大き寺ちまたに立ちていにしへの奈良の都のにほひふかしも 空高く生ひしげりたる吉野杉世のさま見つついく代へぬらむ 三重県 はり紙をまなぶ姿のいとほしもさとりの足らぬ子も励みつつ 色づきしさるとりいばらそよごの実目にうつくしきこの賢島 美しきあごの浦わのあまをみなとりし真たまは世にぞかがやく 福島県 あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしぞ見し 岩手県 さきの旅路今また過ぎてくらぶればゆとりのあるが見えてうれしき たへかぬる暑さなれども稲の穂の育ちを見ればうれしくもあるか 秋田県 水のまがにくるしみぬきしみちのくの山田もる人をあはれと思ふ <お言葉> ●「地方へは今後も続けて行きたいと思っている。ことに戦災者や引揚者、遺族は戦争の犠牲者で、一番気の毒に思っているので、できるだけ激励したいと思う。しかし、これらの人々が元気に働いてくれるのを見て嬉しい」(昭和22年5月1日) 新憲法発布の際の記者会見で述べられたお言葉。 ●「明るい気持ちでしっかりやろうね」(昭和22年6月5日) 大阪巡幸の際に昭和天皇は、戦災で苦しむ人のための施設である博愛社をご訪問され、戦争未亡人をこう激励された。 ●「熱烈な歓迎を受けて、誠にうれしかったが、ケガ人が出はしないかと心配だった。あまり一ヶ所に混雑しない方が皆によく会えてよいと思う」(昭和22年6月) 記者会見の席上でのお言葉。⇒K066-3074と組み合わせる ●「君はいけるだろう、飲んでごらん」(昭和22年6月12日) 兵庫巡幸の際、灘の酒造会社をご視察された際に、利き酒をするように勧められた昭和天皇は隣にいた松平宮内府長官にそれを譲ろうとされた。 ●「この夏は東北を廻らねばならぬ」(昭和22年夏) 大阪、和歌山、兵庫巡幸を終えた昭和天皇は、酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近の言葉を斥けられた。 ●「国民はみな汗を流して働いている。自分のからだは心配に及ばない」(昭和22年夏) 大阪、和歌山、兵庫巡幸を終えた昭和天皇は、体調を心配して酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近の言葉を斥けられた。 ●「地方の人達にはなるべく自由に迎えるように、学童たちをどうしてもならばせるときは日陰をえらぶように」(昭和22年夏) 東北巡幸を前に、酷暑による国民の労苦を思われた昭和天皇のお言葉は各地方官庁に伝えられた。 ●「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物を着たって当たり前だが、日本は敗けて、今みんな着る物も無くてこまっているじゃあないか。洋服なんかつくる気になれない」(昭和22年夏) 東北巡幸を前に、洋服の新調を提案する入江侍従に昭和天皇はこうお答えになり提案を斥けられた。 ●「国管の対象にならない小さいやまの労働者の厚生策はどうなっているか、やまの大小によって労務者の待遇、取扱いなどに差別をつけるようなことのないようにせよ」(昭和22年7月12日) 福島巡幸の際に常磐炭坑をご視察される予定になっていた昭和天皇は、石炭の生産状況について担当大臣に説明をお求めになり、炭坑労働者の福利厚生に注意を払うように促された。 ●「石炭は大切だから、どうか増産のためにがんばってください」(昭和22年8月5日) 福島巡幸の際に常磐炭坑をご視察になった天皇陛下は出迎えた労働組合幹部の一人である三森鉄一郎氏にお声をかけられた。 ●「苦しいだろうが再建日本のためにお互いやろうね」(昭和22年8月7日) 岩手巡幸の際に昭和天皇は戦災者と戦死者遺族を前にして激励された。お互いというのは国民のみならず天皇ご自身も指されているお言葉である。 ●「皆に会うのがうれしいので疲れを覚えない。子どもたちの元気で無邪気な顔を見ると楽しい気がする。身体の調子もかえっていいくらいだから安心してほしい」(昭和22年8月) ●「殊にひどかった秋田県には是非行って状況を視察激励してやりたい」(昭和22年夏) 東北を水害が襲ったとお聞ききになると昭和天皇はこうおっしゃって東北巡幸の早期実現を側近に促された。 ●「石油は大切なものであるから、よく勉強して頑張ってほしい」(昭和22年8月13日) 秋田巡幸の際に昭和天皇は日本石油秋田製油所をご視察され、佐々木社長にこう述べられた。 ●「天候の不順や肥料の不足で難儀だろうが、食糧増産にどうかがんばってもらいたいものだね」(昭和22年8月16日) 山形巡幸の二日目に昭和天皇は荻野村開墾地をご訪問され、昭和集落の人々に励ましのお言葉をかけられた。 ●「宿屋というものは、人をとめるのになんと工合よくできているものか」(昭和22年8月16日) 山形巡幸の際に村尾旅館に御宿泊された昭和天皇は、物珍しそうに旅館内をご覧になりこうおっしゃた。昭和天皇は、それまでの巡幸では知事公舎や名士の邸宅、学校などを御宿泊所とされていたので、民間旅館に御宿泊されたのは村尾旅館が初めてであった。 ●「斎藤、病気はどうか」(昭和22年8月16日) 山形巡幸の際に昭和天皇は、御宿泊先である村尾旅館に歌人の斉藤茂吉氏と結城哀草果氏を招き、短歌についてご歓談された。斉藤茂吉氏は前年に三か月にわたり病臥していたので昭和天皇は斉藤茂吉氏の体調を気遣われたのであろう。 甲信越北陸巡幸と中国巡幸 全国巡幸は、近畿巡幸と東北巡幸に続いて年内に甲信越北陸と中国巡幸が行われ最高潮を迎えた。冷戦の顕在化という国際情勢の変化により、GHQは日本の保守層に対する態度を軟化させつつあったが、皇室への圧力は依然として変わらないままであった。GHQが宮家の数を減らすように指令したことはその一例である。GHQ内部では、日本占領を円滑に行うために天皇制を政治的に利用しようという意見と、軍国主義思想の基になるような天皇制復活を警戒するべきだという意見二つに分かれていた。巡幸を実施すること自体については両者とも異存はなく、特に後者は国民に石もて迎えられ天皇陛下が権威を失墜させるのではという憶測に基づき賛意を示していた。しかし、各地で天皇陛下をお迎えする国民のお祭り騒ぎを見るにつけ、GHQ内部では天皇制復活を警戒するべきだという意見が強くなっていた。 甲信越北陸巡幸は、昭和二十二年10月から11月にかけて、長野県、新潟県、山梨県、福井県、石川県、富山県の順で行われている。長野のみは往路復路で二回に分けて行われている。 往路で長野県に立ち寄ることになったのは、水害のため上越線が不通になり、信越線を使用しなければならなかったからである。一日で新潟県に向かうことは無理であったために軽井沢で一泊し、長野県から巡幸を開始することになった。 この巡幸では、各新聞の報道の過熱ぶりが目立った。柏崎での休養日に昭和天皇は御宿泊所であった飯塚邸の裏山で散策をお忍びで楽しまれた。それに気が付いたカメラマンたちが、雨傘を手にゴム長を履いて山道を散策される昭和天皇をカメラにおさめようと後を追い、あまりに夢中になったために泥田に落ちたり、転倒したりする者が相次いだ。 北陸では巡幸日程の前半は雨に祟られた。昭和天皇御自身、靴を泥に塗れさせ、全身から雨垂れを滴らせることがしばしばあった。新聞各紙の報道は、ますます過熱し、記者たちが締切時間に追われている様子をご覧になった昭和天皇が、彼らの車を先に行かせるようにと指示される一幕もあった。 甲信越北陸巡幸から一カ月も経たないうちに中国巡幸が開始された。中国巡行は、昭和二十二年11月から12月にかけて鳥取、島根、山口、広島、岡山の順で行われている。特に広島では、五万人もの市民が集まった奉迎場で、昭和天皇は初めてメッセージをお読みになった。昭和天皇は、原爆による惨禍を受けた広島市民への格別の配慮をお示しになったのである。 中国巡幸ではGHQ民生局のポール・J・ケントが巡幸のお目付け役として同行している。ケントは天皇制復活を警戒していた一人である。中国巡幸最終日にケントを激怒させた、いわゆる日の丸事件が起きた。中国地方から還幸途中に御召列車が兵庫県を通過した時に予期せぬ事態が起こった。沿線の大勢の人々が御召列車に向かって日の丸を振ったのである。当時、GHQの指令により日の丸の掲揚は厳禁されていた。その禁則が破られるのを目の当たりにしてケントは巡幸の中止をGHQの民政局に具申した。 <御製> 長野県 浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人たふとくもあるか 石川県 月かげはひろくさやけし雲はれし秋の今宵のうなばらの上に⇒これは和倉温泉の歌で10月28日 富山県 立山の空に聳ゆるををしさにならへとぞ思ふみよのすがたも 鳥取県 わが国の紙見てぞおもふ寒き日にいそしむ人のからきつとめを 島根県 老人をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし 広島県 ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり <お言葉> ●「一生懸命勉強してね。立派な日本人になってください」(昭和22年10月7日) 長野県巡幸の際に昭和天皇は二キロ余りをお歩きになり浅間山中腹の開墾地に向かわれた。出迎えた人々の中の三人の小学生にこうお声をかけられた。 ●「肥料が少なくて困ろうが頑張ってネ」(昭和22年10月9日) 新潟巡幸の際に、北蒲原郡加治村で収穫作業をご視察され、新米をお手にとられ農夫を激励された。 ●「手料理ありがとう」(昭和22年10月12日) 新潟巡幸の際に御宿泊になった飯塚邸の息女に天皇陛下はおもてなしの礼を述べられた。 ●「皆んな明るい気持ちで元気にやってネ」(昭和22年10月12日) 長野巡幸で奉迎を受けられた際、天皇陛下は、戦災孤児をご覧になってお声をかけられた。 ●「この付近に戦争中むだな穴を掘ったというが、どこか」(昭和22年10月中旬) 長野巡幸の際に、天皇陛下は展望台で松代大本営跡の所在についてご質問された。 ●「苦しいでしょうが、どうか明るい生活を送ってね」(昭和22年10月15日) 山梨巡幸の際に昭和天皇は、甲府にある荒蓆敷の部屋をご訪問され、戦災者を励まされた。 ●「今度は日程の都合で行くことが出来ないのは残念である。遠い所をよく来てくれた」(昭和22年10月) 福井巡幸の際に昭和天皇は、遠い海岸地方から奉迎場にはるばるやってきた人々に謝意を示された。 ●「この付近にも、こんな立派なものができるのか」(昭和22年10月28日) 石川巡幸の際に昭和天皇は奥原農業共同作業所にお立ち寄りになり、試作品の南京豆を指さされお尋ねになった。 ●「患者の前で病歴を詳しく説明することは、以後止めにするよう、関係方面へ注意して置いて欲しい」(昭和22年10月下旬) 石川巡幸の際に昭和天皇は、患者の病歴をいちいち詳しく述べる院長に対して後にこうご訓戒された。患者が気の毒だというお考えからである。 ●「なにかやりたいらしいから、顔を出したほうがよくはないか」(昭和22年10月30日) 富山県庁に御宿泊された昭和天皇は、県庁前広場に集まってくる群衆をご覧になって挨拶をするために顔を出すべきかどうか側近に諮られた。 ●「体が不自由でしょうが、がんばってください」(昭和22年10月30日) 富山巡幸の際に昭和天皇は堀川小学校で出迎えた傷痍者の一人にお声をかけられた。 ●「そう、大変だったね。でも、よく帰ってきたね」(昭和22年11月28日) 鳥取巡幸の際に昭和天皇は、東伯郡旭村村立授産場で紙をすいている引揚者の一人に親しくお声をかけられた。 ●「大変でしょうね。この小さな子どもを世話するのは」(昭和22年11月28日) 鳥取巡幸の際に昭和天皇は育児院をご訪問され、保母の一人にお声をかけられた。 ●「子どもたちを元気で育ててね。元気でね」(昭和22年11月29日) 島根巡幸の際に安来町にお立ち寄りになった昭和天皇は戦争未亡人を町長から紹介され、こうおっしゃって労られた。 ●「そんなにせんでもよい」(昭和22年11月下旬) 島根巡幸の際に昭和天皇は、松江の女学校をご視察されたが、突然一人の女性記者が前方に飛び出し、天皇陛下に声をかけるという珍事があった。それを引き戻した人々に対しおっしゃったお言葉。 ●「子どもを亡くして気の毒である。しかし、よく働いているそうで感心である。今後も充分気をつけて」(昭和22年11月下旬) 島根巡幸の際に昭和天皇は、農作に勤しむ老夫婦を特にお召しになり労わりのお言葉を述べられた。 ●「この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このような涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあろうが、努力を続けて貰いたい」(昭和22年11月30日) 島根巡幸の際に昭和天皇は、侍従を通じて島根巡幸のご感想を述べられた。 ●「心配ない。奉迎の人達を思えば、何としても日程の変更はしたくない」(昭和22年12月1日) 山口巡幸の際にご体調を崩された昭和天皇は、周囲の反対を押し切って巡幸を続行された。 ●「熱烈な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う、皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」(昭和22年12月7日) 広島市民奉迎場にお立ち寄りになった昭和天皇は、五万の市民を前にこう述べられて広島市民を激励された。 九州巡幸と四国巡幸 九州巡幸は、中国巡幸直後の昭和二十三年1月に予定されていた。しかし、GHQ内部で天皇制復活を警戒するべきだという意見が強くなり、日本政府に対して宮内府の機構改革を行い、幹部を更迭するよう指令が下された。その結果、もともと病気がちで辞表を提出していた松平宮内府長官に加えて、巡幸を主導していた加藤宮内府次長、大金侍従長の更迭が決定し、巡幸は実質的に不可能になった。さらに事態はそれだけにとどまらなかった。昭和天皇の御退位問題が浮上したのである。 昭和二十一年11月に開廷した東京裁判は、天皇陛下が各地に巡幸する間にも審議が進んでいたが、昭和二十三年1月にようやく天皇陛下に対する免責が確定した。しかし、昭和天皇は戦争責任を道義的に認めて退位すべきだという意見を唱える者が後を絶たず、三淵最高裁長官の失言によって世界中に「8月15日を期して退位の噂がある」というニュースが流れる騒ぎも起こった。 御退位問題は、連日、新聞紙上や週刊誌を賑わすようになり事態は混迷を深めた。GHQは、昭和天皇の御退位を全面的に否定する見解を発表したがそれでも事態は収まらなかった。東京裁判が昭和二十三年11月に結審を迎えた後、ようやく事態は臨界点を越え自然と下火になっていった。全国巡幸は、昭和天皇御自身もマッカーサーに直接、再開を熱望されたこともあり、供奉員の減員、すべての簡素化などを条件に再開がGHQにより許可された。 こうして当初の予定よりも大幅に遅れて開始された九州巡幸は、昭和二十四年5月から6月にかけて福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県、宮崎県、大分県の順で行われている。ただし福岡県のみ往路復路で二回に分けて行われている。日の丸掲揚が許可されるようになったのはこの九州巡幸以降である。昭和二十四年1月1日までは日の丸掲揚が禁止されていたのである。九州巡幸以前の写真で日の丸がほとんど見当たらなかったのはそのためである。 この九州巡幸は九州を完全に一周し、全行程約2000キロ、立ち寄った場所は二十五日間で約190か所にも及ぶ。特に長崎市の奉迎場で昭和天皇は、広島と同じく原爆の惨禍を受けた長崎市民に特別のメッセージをお読みになり深い慰藉の念を示された。御召列車を沿線でお迎えする国民も多かったので、昭和天皇は、「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示されている。ある時は、昭和天皇が食事中にホームで歓迎している人々にお気付きになり、左手にナプキン、右手にお箸を持たれたままで窓に駆けつけるということもあった。 九州巡幸の次に行われた四国巡幸は、昭和二十五年3月に香川県、愛媛県、高知県、徳島県の順で行われている。四国巡幸は全行程約1000キロ、全日程十九日におよぶ。愛媛県で昭和天皇は道後温泉に御入湯になったが、それは斉明天皇の御入湯以来、1300年ぶりの御入湯となった。この四国巡幸は、途中、愛媛県興居島で生物採集をされるなど休養日を挟んだのにも拘わらず、昭和天皇は過労のため急性大腸カタルを患われ、巡幸を一日取り止めざるを得なくなったほど過酷なものであった。 <御製> 高知県 室戸なるひと夜の宿のたましだをうつくしと見つ岩間岩間に うつぼしだのこるもさびし波風のあらき室戸の磯山のへに 室戸岬うみべのをかに青桐のはやしの枯木たちならびたる 福岡県 なりはひの栄えゆくべきしるしみえて船はつどへり門司の港に よるべなき幼子どももうれしげに遊ぶ声きこゆ松の木の間に 海の底のつらきにたへて炭ほるといそしむ人ぞたふとかりける 香川県 あなかなし病忘れて旗ふる人のこころのいかにと思へば 船ばたに立ちて島をば見つつおもふ病やしなふ人のいかにと 愛媛県 静かなる潮の干潟の砂ほりてもとめえしかなおほみどりゆむし <お言葉> ●「戦後はまだ日も浅く、みんな生活にこまっている。私はそれをなぐさめ、はげましにいくのが目的なんだから、私の旅行のために、むだな費えがあるようでは意味がない」(昭和24年4月9日) 九州巡幸の下見に出発する入江侍従に対して昭和天皇はこのように訓戒された。GHQも巡幸が「大名行列」となってしまうのを快く思わず、それが一つの原因で巡幸は差し止めになっている。昭和天皇はそうした事情にも配慮されたのであろう。 ●「おさみしい?」(昭和24年5月22日) 佐賀巡幸の際に昭和天皇は、孤児院の洗心寮をご訪問になり、両親の位牌を持った子どもに位牌についてお尋ねになり、お言葉をかけつつ頭を二度ほどなでられた。 ●「また来るよ」(昭和24年5月22日) 同じく洗心寮で、孤児の一人が昭和天皇のお服の端を掴んで離さず自動車の所までついてきた。昭和天皇はその孤児に対してこうおっしゃって笑顔で別れを告げられた。 ●「勉強していますか」(昭和24年5月23日) 佐賀巡幸の際に藤津郡五町田村塩田橋で、昭和天皇は突然御料車から降りられ、そこに並んでいた孤児たちにお声をかけられた。 ●「ホウ美しい」(昭和24年5月26日) 長崎巡幸の際に、妙見岳の仁田峠の展望台で阿蘇を望んで昭和天皇は感嘆の声をもらされた。 ●「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、また、市民の元気な姿に接することができてうれしく思います。長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを平和日本建設の礎として、世界の平和と文明のために努力しなければならないと思います」(昭和24年5月27日) 長崎巡幸の際、昭和天皇は奉迎場で多くの長崎市民に向かってお言葉を述べられた。このお言葉に対して長崎市民は満場の万歳で応えた。 ●「久しぶりの船で、いい気持ちだ」(昭和24年5月30日) 熊本巡幸の際、昭和天皇は十五年ぶりに外海を船で渡航され天草を巡られた。 ●「開拓事業は困難な仕事だが、食糧増産のためがんばってください」(昭和24年5月30日) 熊本巡幸の際、昭和天皇は天草の開拓地をご訪問になり開拓団員を励まされた。 ●「おお、かわいい……ありがとうね」(昭和24年6月3日) 鹿児島奉迎場で一連の歓迎を受けられた後、昭和天皇は御料車に向かわれようとした。昭和天皇は一人の振袖姿のアメリカ人少女が捧げる花束を受け取られ何度も握手を交わされた。この少女は進駐軍夫妻の娘であった。 ●「裕仁です」(昭和24年6月4日) 宮崎巡幸の際に都城市の母子寮で、昭和天皇は自らお名前を告げられた。 ●「お母さんの言うことをよく聞いてください」(昭和24年6月6日) 宮崎巡幸の際に昭和天皇は、母子寮をご訪問になり、そこにいた子どもたちにお言葉をかけられた。 ●「不便でしょうが、しっかり勉強して、立派な人になって下さいね」(昭和24年6月6日) 宮崎巡幸の際に昭和天皇は盲学校にお立ち寄りになり、生徒をこう励まされた。昭和天皇の御姿を見ることができない生徒のために、昭和天皇は御自らをお身体を乗り出され、生徒が触れることができるようにされた。 ●「あの歌の作詞作曲はだれだろう」(昭和24年6月8日) 大分巡幸の際に昭和天皇は、小百合愛児園にお立ち寄りになり、園児たちが歌う「天皇をお迎えする歌」を聞かれ、旅館にお帰りになってから側近にご質問された。歌詞の中でも特に「新しい国日本の子どもはみんな朗らかだ」という節がお気に召したという。 ●「随分辛いでしょうね。辛抱して下さいよ。御身体を大切にして下さい。そして遺児を立派に育てて下さいね」(昭和24年6月8日) 大分巡幸の際に昭和天皇は、元陸軍大臣阿南大将の未亡人綾子夫人をわざわざお召しになり労いのお言葉をかけられた。 ●「なるべく汽車の中での食事がないように」(昭和24年6月) 九州巡幸の際に、昭和天皇は御召列車を見送る人垣を気にされて側近に配慮するようにお求めになった。昭和天皇がお食事中に人垣に気が付かれて左手にナプキン、右手にお箸をお持ちになったまま窓の傍まで御身を寄せられ会釈されるという一こまもあった。 ●「立派に出来たね。しっかり勉強して下さいね」(昭和25年3月14日) 香川巡幸の際に昭和天皇は、県立盲学校をご訪問され、点字の奉迎文を一句一句読む生徒を激励された。 ●「ああ日の丸を振っているね」(昭和25年3月15日) 香川巡幸の際に小豆島に渡るため昭和天皇は御召船「はやぶさ丸」に乗船され、途中ハンセン病患者を収容する国立療養所がある島を通過された。島から旗を振る患者たちを双眼鏡でご覧になった昭和天皇はこうおっしゃった。 ●「つらいでしょうが国家再建のためにしっかりやってください」(昭和25年3月17日) 香川巡幸の際に昭和天皇は、紡績工場をご訪問になり従業員を激励された。 ●「いろいろ困難もあろうが重要事業だからしっかりやって下さい。組合の健全な発展を望みます」(昭和25年3月17日) 愛媛巡幸の際に昭和天皇は、ストライキをしていた工場をご訪問になり労働組合員に対してこうおっしゃった。 ●「何より県民皆様の熱誠あふれる歓迎を受けて心からうれしく思ったことである。また種々の戦争の災いを受けた気の毒な人たちや、身体の不自由な人びとがそれぞれの更生のため真剣に努力し、またそれらの人に対する施設が整いつつあることはうれしいことである」(昭和25年3月) 香川巡幸を終えられた昭和天皇は、記者の「香川県を回られて特にご感激の深かったことは?」という質問に対して鈴木行幸主務官を通じこのようにお答えになられた。 ●「食べないか?」(昭和25年3月19日) 四国巡幸の御休養日に昭和天皇は、生物学研究のための採集におでかけになった。その帰り際に、地元の青年団「愛耕会」が集めた標本の中のあめふらしをご覧になり冗談をおっしゃった。 ●「準備をしている県民に迷惑がかかることがなければよいが」(昭和25年3月27日) 四国巡幸の途中、ご体調を崩された昭和天皇は、侍医の勧めで一日御休養日をとられることになった。そのせいで歓迎を準備していた県民に迷惑がかかることを昭和天皇は憂慮されたのである。幸い昭和天皇は一日でご体調を回復され、巡幸はそのまま続行された。 ●「いやあれは私のために祈っているのだから」(昭和25年3月28日) 四国巡幸の途中、昭和天皇がご体調を崩されたと報じられたため、日本山妙法寺の僧侶たちが平癒祈願をしていた。宿泊先まで太鼓の音が聞こえてきたのでそれを気遣った侍従が太鼓をやめさせようかと進言したところ昭和天皇はこうお答えになった。 北海道巡幸 昭和天皇はかねてより北海道巡幸の早期実現を望まれていた。しかし、警備に万全を尽くせないという理由で巡幸実施は見送られていた。血のメーデー事件、吹田事件、大須事件といった騒擾が相次ぎ、各地で労働争議が頻発していた。昭和二十九年になってようやく情勢が沈静化し、朝鮮戦争の休戦、駐日米軍の拡充、自衛隊の発足など好条件が重なって十分に安全が確保できるようになり北海道巡幸実施が決定した。北海道巡幸は、昭和二十九年8月7日、青森港から御召船「洞爺丸」で函館港に入り、十七日間で函館、大沼、長万部、室蘭、登別、苫小牧、夕張、岩見沢、旭川、上川、北見、美幌、網走、弟子屈、阿寒湖、釧路、帯広、富良野、小樽、千歳を巡った。昭和天皇は道内すべてを巡ることを希望したが、日程の都合により稚内地方と根室地方は外された。この北海道巡幸では、御不予の時を除いて、ほぼ全行程にわたり皇后陛下が昭和天皇に同行されている。 函館港では、七十隻の汽船と二百隻のイカ釣舟が満艦飾で歓迎の意を表し、二十一発の花火が打ちあげられた。昭和天皇御到着の様子は、その当時放映が始まったばかりのテレビに映し出された。多くの人々が街頭に据え付けられたテレビで昭和天皇御到着の様子を視聴した。 今回の巡幸の道筋から外れた道北の人々が昭和天皇の御姿を一目見ようと旭川に一斉に押し寄せた。そのため旭川は十五万人の人出となり、旭川行きの列車は超満員、臨時バスまで出る騒ぎとなった。全国巡幸は佳境を過ぎたとはいえ、依然として多くの国民を熱狂させたのである。 北海道各地を巡った後、8月22日に昭和天皇は札幌に戻られ、国体会場で開会の辞を賜った。翌23日が北海道巡幸の最終日で、昭和天皇は最後の視察先である月寒種羊場を御視察後、一路千歳に向かわれた。帰路は千歳から羽田まで飛行機である。これが昭和天皇にとって初めての空の旅であった。 足かけ八年半、全行程三万三千キロ、総日数百六十五日に及ぶ昭和天皇の全国巡幸はここに旅の終わりを結んだのである。 全国巡幸はこうして幕を下ろしたが、まだ一箇所のみ昭和天皇が御訪問になっていない場所があった。沖縄である。当時はまだ沖縄はアメリカの占領統治下にあった。沖縄が本土復帰を果たすのは昭和四十七年年5月15日になってからである。 復帰後三年経った昭和五十年には皇太子殿下(現天皇陛下)と皇太子妃殿下(現皇后陛下)が、沖縄国際海洋博の開会式に出席するために沖縄を訪れになられた。ひめゆりの塔に亮殿下が花束を捧げ、その前で説明に聞き入っていると、突然二人の闖入者が火炎瓶と爆竹を投げつけた。幸い怪我人はなかったが、この事件が起こったために、昭和天皇が毎年毎年沖縄巡幸を希望されていたのにも拘わらず、警備上の理由で巡幸が見送られることになった。しかし、度重なる昭和天皇の御懇望と知事や県民からの数多くの陳情により1987年に沖縄県での沖縄巡幸が実現する運びとなった。残念なことにこの計画は実現することはなかった。昭和天皇が病に伏され昭和六十四年1月9日に崩御されたからである。昭和天皇は、沖縄巡幸への思いを次のようにお詠みになっている。 思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを <御製> みづうみの面にうつりて小草はむ牛のすがたのうごくともなし⇒湖とはトウフツ湖で8月13日網走である。 ひさかたの雲居貫く蝦夷富士のみえてうれしき空のはつたび 松島も地図さながらに見えにけりしづかに移る旅の空より 浜の辺にひとりおくれてくれなゐに咲くがうつくしはまなすの花 なりはひにはげむ人人ををしかり暑さ寒さに堪へしのびつつ えぞ松の高き梢にまつはれるうすももいろのみやままたたび 水底をのぞきて見ればひまもなし敷物なせるみどりの毬藻 うれしくも晴れわたりたる円山の広場にきそふ若人のむれ <お言葉> ●「いろいろ苦しいこともありましょうが、どうか力を落さず国家のため尽くすよう希望します。なほ、ここに来られない方にも伝えて下さい」(昭和29年8月11日) 北海道巡幸の際に昭和天皇は旭川の奉迎場で遺族席に足をお運びになり遺族を励まされた。 ●「綺麗だな」(昭和29年8月13日) 北海道巡幸の際に昭和天皇は小清水海岸を歩き、エゾカクラナデシコを見つけ思わずこう呟いた。 ●「皇后が来られなくて残念でした」(昭和29年8月14日) 北海道巡幸の際にご体調を崩された皇后陛下を残してお一人で札友内小学校をご訪問になった昭和天皇はこうおっしゃって皇后陛下の不在を謝罪された。 ●「もうパンは飽きた」(昭和29年8月15日) 北海道巡幸の際、昭和天皇は洋食が続くのに閉口された際のお言葉。8月15日から和食に改められたが、皇后陛下が御不予のためにお粥しか召し上がることがおできになれないとお聞きになると、昭和天皇もお粥で通された。 ●「北海道は一番開発の余地があると聞いていますから、合理的・科学的にしっかり開発してください」(昭和29年8月21日) 北海道巡幸の際に昭和天皇は、道庁で知事の奏上をお受けになったが、その中でも泥炭地開発に特にご興味を示され、こうおっしゃった。 ●「本日ここに全国各地から選ばれた諸君の元気あふれる姿に接することは私の深く喜びとするところであります。諸君は本大会の使命に鑑み、明るく正しい日ごろ訓練した力を遺憾なく発揮するとともに、今後ますます心身の育成に努め、国運の進展のため貢献されることを望んでやみません」(昭和29年8月22日) 札幌で開催された第九回国民体育大会開会式に臨御された昭和天皇はこうおっしゃった。北海道巡幸の日程は国体の開催にあわせて設定されたのである。 ●「こういう人たちの苦労によって、北海道が開拓されたということがよくわかった」(昭和29年8月22日) 北海道大学で昭和天皇は、高倉新一郎教授から「松浦武四郎と北海道」について奏上をお受けになり、ご感想を述べられた。 ●「顧みれば、昭和21年以来全国各地を回り、直接地方の人たちに会い生活の実情に触れ、相ともに励ましあって国家再建のため尽くしたいと念願してきたが、今回の北海道旅行によって一応その目的を達成出来て満足に思っている」(昭和29年8月23日) 北海道巡幸を終えられ還御される前に昭和天皇は全国巡幸についてご感想を述べられた。 |