日本の戦後と天皇巡幸

昭和天皇 「今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。爾臣民の衷情も朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運の趨くところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきをしのび、もって万世のために太平を開かんと欲す」という所謂、玉音放送をもって戦争は終結した。終戦に対する全国民の反応は様々であったが、一様に虚脱感に襲われたのは言うまでもない。それは、全国民の心の中から、一丸となって大東亜共栄圏建設ために尽くすという長年教え込まれてきた大義が失われたからであり、同時に絶えまない生命の危機に脅かされずにすむという安堵が芽生えたからである。また多くの全国民は日々の生活に追われながらも、これから日本はいったいどうなるのかという底知れぬ恐怖に息をひそめていた。国の秩序は乱れ、物価は高騰し、国民はその日の炊ぎにも事欠くありさまだった。道徳は頽廃し、不法な闇市が横行した。

 未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには、全国民の真心を喚起することが先決であった。国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむことが日本の復興には不可欠であった。  昭和天皇は全国巡幸の意義について以下のように語られている。  

「この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けた。この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」

 マッカーサーはこの天皇の全国巡幸に全面的な支持を与えている。多くの日本人にとって天皇は戦禍からの救済者であったから、占領統治をスムースに行うためにGHQは天皇の権威を利用しようと考えたのである。全国巡幸は昭和二十一年の神奈川県を皮切りに昭和二十九年の北海道を最後として足かけ八年半にかかって行われ、全行程は三万三千キロ、総日数は百六十五日に及ぶ。  全国巡幸により国民は、天皇陛下を一人の「人間」として身近な存在に感じるようになった。これまで国民にとって、天皇陛下は雲の上の存在であり、現世にいまします神、すなわち現御神であった。大部分の国民は、天皇陛下の御姿を拝するどころか肉声も聞くこともまれであった。戦前にも巡幸は行われているが、それは天皇陛下が臣民の様子を視察する性質のものである。

 昭和二十一年1月の「人間宣言」に引き続いて行われた全国巡幸は、天皇陛下が一人の「人間」として国民の中に立ち入られ親しみを交わす大衆天皇というイメージを全国民に定着させたという点で画期的なものであった。  戦後、皇室は国民に開かれたものとなった。皇室が担う役割は、戦前と戦後で全く違っている。家父長制を基に日本を階層化するための絶対的な模範、それが戦前の皇室が担う役割であった。しかし、戦後はGHQによる民主化指令により、皇室は、大衆の支持を基にした「幸福な家庭」という理想的な模範という役割を割り当てられるようになる。戦後まもなくしてから、従来では全く見られなかった皇室の御写真が公開されるようになり、マスコミはそれらをこぞって紹介した。  特に皇太子明仁殿下(現天皇陛下)と正田美智子様(現皇后陛下)の婚約発表を契機にした所謂「ミッチーブーム」は、従来の皇室のイメージをがらりと変えた。それ以来、マスコミは、「皇室アルバム」を代表とするテレビ番組や週刊誌のグラビアなどで皇室関係記事をたくさん紹介するようになり、皇室は現在のように広く大衆に親しまれる存在になった。昭和天皇の全国巡幸には、そうした広く大衆に親しまれる皇室というイメージの土台を形作った大きな意義がある。

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