関東巡幸と東海巡幸

昭和天皇を待つ人々 昭和二十一年2月、新日本国憲法の草案作成が着々と進んでいた。アメリカによる草案提示は、日本の天皇制を完全に無力化するものであった。また一方で、戦争責任を負って昭和天皇は退位すべきだという論もささやかれていた。「人間宣言」の後に国民はどのように天皇陛下を迎えるのか天皇陛下も側近も全く予測できなかったのである。天皇陛下の存在意義が国民に試されようとしていた。昭和天皇は、全国巡幸に先立って1945年11月に終戦報告のために伊勢神宮に親拝しているが、国民の中に御自ら身を運ばれるという試みは今回が戦後初めてであった。

 昭和二十一年2月19日、三台の御列が皇居を出て神奈川県に向かった。沿道の者は誰も天皇陛下の鹵簿だとは気付いていないようであった。全国巡幸の幕は静かに切って落とされたのである。御料車から降りられた昭和天皇のお召し物は、背広にソフト帽というごくありきたりの服装であり、それはまさに新しい平和国家日本を象徴であった。そうして「人間」になった天皇陛下を国民は親しみを持ちながらも熱狂的に歓迎した。昭和天皇が平和産業転換展御視察を終えられて会場の新宿伊勢丹の玄関からお出ましになろうとした時に、巡幸を聞き知った人々が自然に集まり、期せずして一斉に万歳の声が巻き起こった。  

 関東巡幸はまとめて一度に行われたものではなく、昭和二十一年の2月から12月までの期間に神奈川県、東京都、群馬県、埼玉県、千葉県、茨城県の順で一県ずつ行われた。千葉巡幸の際に御召列車内で一泊するまでは、二日にわたる場合も日帰りで巡幸されている。栃木県だけは、昭和二十二年9月に那須御用邸に滞在しながらの巡幸である。

 実は巡幸中の天皇陛下を写真におさめることは、戦前では全くありえないことであった。一般人が天皇陛下の御写真をとることはおろか、カメラマンでさえも宮内省の許可を得ていなければならなかった。さらに天皇陛下から少なくとも二十メートルの距離をとる必要があったし、背中を写すことも許されなかった。ましてや神である天皇が笑う御写真を撮ることは厳禁されていた。しかし、全国巡幸からそういうことは全くなくなり、神奈川巡幸で昭和電工御視察の際などは、海外の新聞や通信社のカメラマンや米兵が殺到し、天皇陛下のお身体に触れて押したり引っぱったりして写真を撮影する騒ぎにまでなった。

  東海巡幸は、昭和二十一年6月の静岡県、昭和二十一年10月の愛知県、岐阜県と二度に分けられて行われた。岐阜県は飛騨高山地方のみ日程の都合により昭和二十二年11月に持ち越されている。  愛知県巡幸では一つの事件が起きた。昭和二十一年10月22日、愛知県庁の前で一人の男性が群集に袋叩きにあっていた。その男性は、昭和天皇を歓迎するために集った群衆を前に、「天皇は万世一系ではない」と演説を始め、その内容に激怒した群集が襲いかかったというのが事件の実相であった。あやうくその男性は群集に踏み殺されそうになったが、すんでのところで警察に保護された。天皇陛下に対する国民の歓迎の熱狂ぶりが窺い知れる。
御製
栃木県
 
 ざえのなき媼のゑがくすゑものを人のめづるもおもしろきかな

茨城県

 たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて

 水戸の町あけそめにけりほのぼのと常陸ざかひの山もみえきて
お言葉
● 「何年つとめているのか、住宅や生活に不便はないか」 (昭和21年2月19日)

 昭和天皇が全国巡幸を始めるにあたり、庶民第一号として声をかけたのが昭和電工の前場圧縮機係長であった。その際の第一声である。昭和天皇自身が一般国民に親しく質問するのは戦前ではほとんどありえないことであった。

●「寒くはないか」(昭和21年2月20日)

 神奈川巡幸の際に昭和天皇は、鴨居擁援護所にお立ち寄りになり引揚者の子どもをおなぐさめになった。

●「これでいいのだ。もうこういう時代だ」(昭和21年2月20日)

 神奈川巡幸から還御された昭和天皇は、髪の乱れを気にされた皇后陛下に対してこうお答えになった。髪が乱れたのは、巡幸の際に昭和天皇が何度もお帽子をとられて会釈されたからである。

●「あそう、戦争中はまことにご苦労だった」(昭和21年2月20日)

 昭和天皇は、神奈川巡幸の際、先日ナウル島から引き揚げてばかりの松沢元海軍大尉に対し労いのお言葉をかけられた。

●「お家はどこ。焼かれたの」(昭和21年3月1日)

 東京巡幸の際に、昭和天皇は、都立第四高等女学校にお立ち寄りになり、職員生徒たちを労われた。

● 「病気の状況はどうか、苦しいだろうね、痛むか、夜は眠れるか」 (昭和21年3月25日)

 群馬巡幸の際に、昭和天皇は国立高崎病院にお立ち寄りになり、上半身を起こそうとした重病患者を押しとどめられこうおなぐさめになった。

●「朝から晩までの看護で随分つかれるだろうね。体に十分注意して看護につとめるように」(昭和21年3月25日)

 同じく国立高崎病院で看護婦の労苦をおなぐさめになった。

●「大丈夫か」(昭和21年3月25日)

 群馬巡幸の際に昭和天皇は、御料車から降車されようとした。運転手が先に降りるためにドアを開けたところその取手が最敬礼している大澤農業会長の眉間に当たり出血した。驚いた昭和天皇は思わずこうおっしゃって侍医をお呼びになった。

●「あ、危ないよ」(昭和21年3月25日)

 群馬巡幸の際に昭和天皇は前橋の戦災地を御料車から降りられてお歩きになった。群衆に押され一人の子どもが転んだ。その時に昭和天皇は咄嗟にお声をかけられた。

●「とにかく、大変だろうけど頑張ってください」(昭和21年3月28日)

 埼玉巡幸の際に昭和天皇は、麦畑で農作業をする二人の農婦にお声をかけられた。二人の農婦は何を聞かれても答えはならないと事前に注意されていたという。

●「大漁だね」(昭和21年6月7日)

 千葉巡幸の際に銚子港の岸壁にお立ちになった昭和天皇は、漁から帰ってきたばかりの船に向かって呼びかけられた。漁師が「こんなに捕れました」と魚を担ぎあげると、昭和天皇は間髪入れずこうおっしゃって漁師を労われた。

●「かわいそうに。銚子の人はどんなに苦しんだろう」(昭和21年6月6日) 

 千葉巡幸に向かう御召列車の中で入江侍従から銚子の戦災状況について聞いた昭和天皇はこうおっしゃって悲しまれた。

●「戦災の国民を考えれば私は平気だ。十日間くらい風呂に入らなくてもかまわない」(昭和21年6月6日)

 千葉巡幸の際、御宿泊に適当な施設がなかったために、御召列車を貨車引き込み線の「新生駅」に停車させて御宿泊所とした。当時の御召列車には宿泊設備はおろか風呂もついていなかった。それを気にした側近に対して昭和天皇はこうおっしゃったのである。ただ昭和天皇はもともと入浴がお好きではなかったと言われている。

●「よく働くね、しっかりやってくれ。肥料が沢山できれば、食糧も沢山できるのだからね」(昭和21年6月18日)

 静岡巡幸の際に昭和天皇は日本軽金属清水工場をご視察になり、従業員をこう激励された。

●「お茶を作るのは食糧を作るのと同様だ。少しでも増産するように。静岡は茶の名所だから期待している」(昭和21年6月18日)

 静岡巡幸の際に昭和天皇は丸三製茶再製工場をご視察されこう激励された。

●「それは気の毒だったね。お家の者は全部無事」(昭和21年11月18日)

 茨城巡幸の際に昭和天皇は、八千人の児童の奉迎をお受けになり、親しく戦災児童に戦災について状況をご質問された。

●「崩れたね」(昭和21年10月下旬)

 愛知巡幸の際に、歓迎の人垣が押されて崩れたのをご覧になり、昭和天皇はその熱狂ぶりを非常に喜ばれたという。

●「このお芋は、ここでとれましたか」(昭和21年10月23日)

 愛知巡幸の際に昭和天皇は赤池集落にお立ち寄りになり、掘り出されたサツマイモの前にしてこう尋ねられた。

●「これが戦災者、引き揚げ者たちの子どもですか」(昭和21年10月25日)

 岐阜巡幸の際に昭和天皇は引揚者の子どもための厚生寮をご訪問され、園長にこうお尋ねになり、一人の子どもの頭を優しくなでられた。
次へ   昭和天皇の全国巡幸トップ