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昭和天皇の全国巡幸

北海道巡幸
九州巡幸と四国巡幸
参考情報   九州巡幸の県別詳細
 九州巡幸は、中国巡幸直後の昭和二十三年1月に予定されていた。しかし、GHQ内部で天皇制復活を警戒するべきだという意見が強くなり、日本政府に対して宮内府の機構改革を行い、幹部を更迭するよう指令が下された。その結果、もともと病気がちで辞表を提出していた松平宮内府長官に加えて、巡幸を主導していた加藤宮内府次長、大金侍従長の更迭が決定し、巡幸は実質的に不可能になった。  

 さらに事態はそれだけにとどまらなかった。昭和天皇の御退位問題が浮上したのである。 昭和二十一年11月に開廷した東京裁判は、天皇陛下が各地に巡幸する間にも審議が進んでいたが、昭和二十三年1月にようやく天皇陛下に対する免責が確定した。しかし、昭和天皇は戦争責任を道義的に認めて退位すべきだという意見を唱える者が後を絶たず、三淵最高裁長官の失言によって世界中に「8月15日を期して退位の噂がある」というニュースが流れる騒ぎも起こった。

 御退位問題は、連日、新聞紙上や週刊誌を賑わすようになり事態は混迷を深めた。GHQは、昭和天皇の御退位を全面的に否定する見解を発表したがそれでも事態は収まらなかった。東京裁判が昭和二十三年11月に結審を迎えた後、ようやく事態は臨界点を越え自然と下火になっていった。全国巡幸は、昭和天皇御自身もマッカーサーに直接、再開を熱望されたこともあり、供奉員の減員、すべての簡素化などを条件に再開がGHQにより許可された。  

 こうして当初の予定よりも大幅に遅れて開始された九州巡幸は、昭和二十四年5月から6月にかけて福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県、宮崎県、大分県の順で行われている。ただし福岡県のみ往路復路で二回に分けて行われている。日の丸掲揚が許可されるようになったのはこの九州巡幸以降である。昭和二十四年1月1日までは日の丸掲揚が禁止されていたのである。九州巡幸以前の写真で日の丸がほとんど見当たらなかったのはそのためである。

   この九州巡幸は九州を完全に一周し、全行程約2000キロ、立ち寄った場所は二十五日間で約190か所にも及ぶ。特に長崎市の奉迎場で昭和天皇は、広島と同じく原爆の惨禍を受けた長崎市民に特別のメッセージをお読みになり深い慰藉の念を示された。御召列車を沿線でお迎えする国民も多かったので、昭和天皇は、「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示されている。ある時は、昭和天皇が食事中にホームで歓迎している人々にお気付きになり、左手にナプキン、右手にお箸を持たれたままで窓に駆けつけるということもあった。

  九州巡幸の次に行われた四国巡幸は、昭和二十五年3月に香川県、愛媛県、高知県、徳島県の順で行われている。四国巡幸は全行程約1000キロ、全日程十九日におよぶ。愛媛県で昭和天皇は道後温泉に御入湯になったが、それは斉明天皇の御入湯以来、1300年ぶりの御入湯となった。この四国巡幸は、途中、愛媛県興居島で生物採集をされるなど休養日を挟んだのにも拘わらず、昭和天皇は過労のため急性大腸カタルを患われ、巡幸を一日取り止めざるを得なくなったほど過酷なものであった。
御製
高知県

 室戸なるひと夜の宿のたましだをうつくしと見つ岩間岩間に

 うつぼしだのこるもさびし波風のあらき室戸の磯山のへに

 室戸岬うみべのをかに青桐のはやしの枯木たちならびたる

福岡県

 なりはひの栄えゆくべきしるしみえて船はつどへり門司の港に

 よるべなき幼子どももうれしげに遊ぶ声きこゆ松の木の間に

 海の底のつらきにたへて炭ほるといそしむ人ぞたふとかりける

香川県

 あなかなし病忘れて旗ふる人のこころのいかにと思へば

 船ばたに立ちて島をば見つつおもふ病やしなふ人のいかにと

愛媛県

 静かなる潮の干潟の砂ほりてもとめえしかなおほみどりゆむし
お言葉
●「戦後はまだ日も浅く、みんな生活にこまっている。私はそれをなぐさめ、はげましにいくのが目的なんだから、私の旅行のために、むだな費えがあるようでは意味がない」(昭和24年4月9日)

 九州巡幸の下見に出発する入江侍従に対して昭和天皇はこのように訓戒された。GHQも巡幸が「大名行列」となってしまうのを快く思わず、それが一つの原因で巡幸は差し止めになっている。昭和天皇はそうした事情にも配慮されたのであろう。

●「おさみしい?」(昭和24年5月22日)

 佐賀巡幸の際に昭和天皇は、孤児院の洗心寮をご訪問になり、両親の位牌を持った子どもに位牌についてお尋ねになり、お言葉をかけつつ頭を二度ほどなでられた。

●「また来るよ」(昭和24年5月22日)

 同じく洗心寮で、孤児の一人が昭和天皇のお服の端を掴んで離さず自動車の所までついてきた。昭和天皇はその孤児に対してこうおっしゃって笑顔で別れを告げられた。

●「勉強していますか」(昭和24年5月23日)

 佐賀巡幸の際に藤津郡五町田村塩田橋で、昭和天皇は突然御料車から降りられ、そこに並んでいた孤児たちにお声をかけられた。

●「ホウ美しい」(昭和24年5月26日)

 長崎巡幸の際に、妙見岳の仁田峠の展望台で阿蘇を望んで昭和天皇は感嘆の声をもらされた。

●「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、また、市民の元気な姿に接することができてうれしく思います。長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを平和日本建設の礎として、世界の平和と文明のために努力しなければならないと思います」(昭和24年5月27日)

 長崎巡幸の際、昭和天皇は奉迎場で多くの長崎市民に向かってお言葉を述べられた。このお言葉に対して長崎市民は満場の万歳で応えた。

●「久しぶりの船で、いい気持ちだ」(昭和24年5月30日)

 熊本巡幸の際、昭和天皇は十五年ぶりに外海を船で渡航され天草を巡られた。

●「開拓事業は困難な仕事だが、食糧増産のためがんばってください」(昭和24年5月30日)

 熊本巡幸の際、昭和天皇は天草の開拓地をご訪問になり開拓団員を励まされた。

●「おお、かわいい……ありがとうね」(昭和24年6月3日)

 鹿児島奉迎場で一連の歓迎を受けられた後、昭和天皇は御料車に向かわれようとした。昭和天皇は一人の振袖姿のアメリカ人少女が捧げる花束を受け取られ何度も握手を交わされた。この少女は進駐軍夫妻の娘であった。

●「裕仁です」(昭和24年6月4日)

 宮崎巡幸の際に都城市の母子寮で、昭和天皇は自らお名前を告げられた。

●「お母さんの言うことをよく聞いてください」(昭和24年6月6日)

 宮崎巡幸の際に昭和天皇は、母子寮をご訪問になり、そこにいた子どもたちにお言葉をかけられた。

●「不便でしょうが、しっかり勉強して、立派な人になって下さいね」(昭和24年6月6日)

 宮崎巡幸の際に昭和天皇は盲学校にお立ち寄りになり、生徒をこう励まされた。昭和天皇の御姿を見ることができない生徒のために、昭和天皇は御自らをお身体を乗り出され、生徒が触れることができるようにされた。

●「あの歌の作詞作曲はだれだろう」(昭和24年6月8日)

 大分巡幸の際に昭和天皇は、小百合愛児園にお立ち寄りになり、園児たちが歌う「天皇をお迎えする歌」を聞かれ、旅館にお帰りになってから側近にご質問された。歌詞の中でも特に「新しい国日本の子どもはみんな朗らかだ」という節がお気に召したという。

●「随分辛いでしょうね。辛抱して下さいよ。御身体を大切にして下さい。そして遺児を立派に育てて下さいね」(昭和24年6月8日)

 大分巡幸の際に昭和天皇は、元陸軍大臣阿南大将の未亡人綾子夫人をわざわざお召しになり労いのお言葉をかけられた。

●「なるべく汽車の中での食事がないように」(昭和24年6月)

 九州巡幸の際に、昭和天皇は御召列車を見送る人垣を気にされて側近に配慮するようにお求めになった。昭和天皇がお食事中に人垣に気が付かれて左手にナプキン、右手にお箸をお持ちになったまま窓の傍まで御身を寄せられ会釈されるという一こまもあった。

●「立派に出来たね。しっかり勉強して下さいね」(昭和25年3月14日)

 香川巡幸の際に昭和天皇は、県立盲学校をご訪問され、点字の奉迎文を一句一句読む生徒を激励された。

●「ああ日の丸を振っているね」(昭和25年3月15日)

 香川巡幸の際に小豆島に渡るため昭和天皇は御召船「はやぶさ丸」に乗船され、途中ハンセン病患者を収容する国立療養所がある島を通過された。島から旗を振る患者たちを双眼鏡でご覧になった昭和天皇はこうおっしゃった。

●「つらいでしょうが国家再建のためにしっかりやってください」(昭和25年3月17日)

 香川巡幸の際に昭和天皇は、紡績工場をご訪問になり従業員を激励された。

●「いろいろ困難もあろうが重要事業だからしっかりやって下さい。組合の健全な発展を望みます」(昭和25年3月17日)

 愛媛巡幸の際に昭和天皇は、ストライキをしていた工場をご訪問になり労働組合員に対してこうおっしゃった。

●「何より県民皆様の熱誠あふれる歓迎を受けて心からうれしく思ったことである。また種々の戦争の災いを受けた気の毒な人たちや、身体の不自由な人びとがそれぞれの更生のため真剣に努力し、またそれらの人に対する施設が整いつつあることはうれしいことである」(昭和25年3月)

 香川巡幸を終えられた昭和天皇は、記者の「香川県を回られて特にご感激の深かったことは?」という質問に対して鈴木行幸主務官を通じこのようにお答えになられた。

●「食べないか?」(昭和25年3月19日)

 四国巡幸の御休養日に昭和天皇は、生物学研究のための採集におでかけになった。その帰り際に、地元の青年団「愛耕会」が集めた標本の中のあめふらしをご覧になり冗談をおっしゃった。

●「準備をしている県民に迷惑がかかることがなければよいが」(昭和25年3月27日)  

 四国巡幸の途中、ご体調を崩された昭和天皇は、侍医の勧めで一日御休養日をとられることになった。そのせいで歓迎を準備していた県民に迷惑がかかることを昭和天皇は憂慮されたのである。幸い昭和天皇は一日でご体調を回復され、巡幸はそのまま続行された。

●「いやあれは私のために祈っているのだから」(昭和25年3月28日)

 四国巡幸の途中、昭和天皇がご体調を崩されたと報じられたため、日本山妙法寺の僧侶たちが平癒祈願をしていた。宿泊先まで太鼓の音が聞こえてきたのでそれを気遣った侍従が太鼓をやめさせようかと進言したところ昭和天皇はこうお答えになった。