ジョン・タイラー 第10代アメリカ合衆国大統領

ジョン・タイラー

John Tyler

生没年(1790年3月29日〜1862年1月18日)
在任期間(1841年4月6日〜1845年4月4日)
 


ジョン・タイラー大統領の概要
農園主の子
 ジョン・タイラーはヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。父ジョン(1747.2.28-1813.1.6)と母メアリ(1761-1797.4)の8人の子供の6番目であある。父ジョンは農園主でヴァージニア州知事も務めた。タイラーはウィリアム・アンド・メアリ大学を17才で卒業後、法律を学んで弁護士になった。

ヴァージニア政界
 父ジョンを見習ってタイラーは政界に進出した。ヴァージニア州下院議員を皮切りに連邦下院議員、ヴァージニア州知事、連邦上院議員を歴任した。1840年の大統領選挙でウィリアム・ハリソンとともにホイッグ党の副大統領候補として選挙を戦い、当選した。

史上初の継承
 ウィリアム・ハリソンが就任後一ヶ月で病死したので、タイラーは副大統領から昇格して大統領に就任した。タイラーは厳格な憲法解釈に基づいて、議会が推進する国内開発事業や合衆国銀行などに関連する諸法案に反対を唱えた。そのため閣僚が異を唱えて辞任しただけではなく、ホイッグ党の支持を失った。一方でテキサス併合に成功している。南部連合結成時にその議院として選出されたが、まもなく亡くなった。


ジョン・タイラー政権の概要
大統領就任

 ジャクソン主義的な大統領制度の強化はハリソンが就任後1ヶ月で死去した時により明白となった。1841年3月4日は史上最も寒い大統領就任日であった。ハリソンの死因は、1841年3月4日の就任式で雨の中、歴代最長の1時間40分に及ぶ就任演説を行い、肺炎を発症したことによる。副大統領のタイラーが大統領として直ちに宣誓し、ハリソンの残りの任期をまっとうすることを表明した。タイラーの大統領就任は、大統領職が空席になった時に副大統領が完全な資格で大統領に就任する権利を持つことを明らかにした。タイラーはハリソンに比べてホイッグ党の政府の原理、特に大統領に関する原理を熱心に信奉していなかった。ホイッグ党の指導者達は、タイラーがジャクソン主義的な大統領制度を解体しようとする試みにあまり協力しようとしないのを知って落胆した。
 タイラーが完全な資格で大統領に就任することができるか否か憲法上の権利は不確定であった。憲法第2条の継承に関する条項は曖昧であり、大統領が死亡、辞職、罷免、もしくは無能力になった場合、「同上」は副大統領に移り属すると規定しているだけである。この規定は、タイラーが副大統領のまま、特別選挙が行われるまで単に大統領の権限を代行しているに過ぎないのか、それともハリソンの残りの任期の間、完全な資格で大統領となるのかという疑問を生じる。
 タイラーはあらゆる意味で自身が大統領であると即座に主張した。ハリソンが亡くなったすぐ後に、議会で議論が継続中であったのにも拘わらず、タイラーは宣誓を行い、10日以内にホワイト・ハウスに移った。大統領としての資格に疑念を残さないために、1841年4月9日、タイラーは選挙で選ばれた大統領と同じく公衆の面前で就任演説を行った。タイラーは自らがハリソンの陰に立つことに甘んじないことを国中に示した。それはまたクレイを代表とするホイッグ党の指導者の従順な召使にはならないという警告であった。タイラーは積極的かつ断固たる行動をとることによって、明確な憲法の規定がない中で、臨時の大統領が選挙で選ばれた大統領と同じ地位を享受できるという前例を打ち立てた。下院ではタイラーを「前大統領の死亡によって大統領職の権限と義務が移り属する副大統領」と通信で公式に呼称する動議が提出されたが、圧倒的な票数で否決された。それは議会がタイラーの主張を黙認したことを示している。大統領であれ、大統領代行であれ大統領の権限と義務を遂行する人物を疎外することによって政治的に得られることはほとんど何もなかった。

大統領と議会の対立

 タイラーが大統領に就任することで直面した困難は継承にまつわる憲法的な疑念を超えるものであった。タイラーの大統領昇任は政治的行き詰まりを生み出した。タイラーは、元民主党員であり、ホイッグ党の指導者が唱導するナショナリスト的な観点と意見を異にする一派を代表していた。アメリカの政党政治でよく見られる慣習として、タイラーの指名は南部の州権を重視する一派への妥協策であった。この場合はそうした妥協策が裏目に出た。タイラーはハリソンの死後、積極的に大統領の権限を行使し、州権を尊重し、ホイッグ党の指導者が推進するアメリカ体制の実現を脅かした。タイラーはヴァージニア決議で示された州権の原理を主張し、連邦政府が僭取した権限を剥奪することが自らの使命であると信じていた。
 多くのホイッグ党の国内政策に反対したために、タイラーはジャクソンを除いてこれまでの大統領よりも数多くの拒否権を行使した。1841年、タイラーはジャクソンが葬った第2合衆国銀行に似た2つの連続する法案に対して拒否権を行使した。タイラーが2回目の拒否権を行使した後、ホイッグ党の指導者の怒りは爆発した。それは大統領選挙で勝利した後も、自らの政策を実現できないホイッグ党の苛立ちを示していた。タイラーの人形が国中で焼かれ、暗殺を仄めかす手紙が何百通も届いた。閣僚はウェブスター国務長官を除く全員が辞職した。民主共和党の時代のように国務長官が大統領の後継者となることを想定してウェブスターはさらに1年半、タイラーと協調しようとした。もしウェブスターが、タイラーによる新しい閣僚の指名を阻む企みを支持するように求めるクレイの圧力に抵抗していなかったら、タイラー自身が辞任を余儀なくされたかもしれない。
 銀行問題をめぐる争いはタイラーとホイッグ党の指導者の間の争いの始まりにすぎなかった。1842年の関税法案に対するタイラーの拒否権の行使によって、史上初めての大統領弾劾の試みがなされることになった。タイラーの拒否権は覆され、史上初めて大統領の拒否権が覆された例となった。タイラーの積極的な拒否権の行使は、大統領は議会に従属するべきだというホイッグ党の理念と相反する行為であった。クレイは、単純過半数で大統領の拒否権を覆すことができるように憲法を修正するように提案している。こうした対立によってタイラーはホイッグ党を放逐された。そのため引き継ぎの大統領ではなく、自ら選挙で勝利して任期を獲得したいというタイラーの願いは打ち砕かれた。

ドアの乱

 タイラーは州権を尊重していたが、ロード・アイランド州で起きたドアの乱に介入した。ロード・アイランド州は独立以来、植民地時代に授与された特許状を憲法として採用していた。その特許状によって約5,000人の土地所有者が参政権を独占していた。そうした状況に不満を抱いた人々は州議会を無視して1841年10月に憲法制定会議を開催し、白人成人男子に選挙権を拡大する憲法を採択した。新しい憲法は人民投票にかけられ圧倒的な多数で批准された。1842年4月、トマス・ドア(Thomas Dorr)が知事に選出され、新政府を樹立した。その一方で従来の特許状に基づく旧政府はドアの新政府を反乱分子であると宣告し、民兵を召集し、全州を戒厳令下に置いた。
 タイラーは新旧両政府からの訴えを聞いて、旧政府が合法的な政府であり、必要であれば武力を行使してでも支持すると声明した。新政府側は州武器庫の奪取を目指して蜂起したが失敗した。ドアは反逆罪で有罪となった。旧政府は勝利を収めたが、さらなる内乱の発生を恐れて憲法修正会議を開催し、選挙権の拡大を認めた。
 
ウェブスター=アシュバートン条約

 タイラー政権はウェブスター=アシュバートン条約を締結し、メイン州とカナダのニュー・ブランズウィック州の現在の境界を定めた。それによりアルーストゥック戦争が起きた原因が解決された。約768万エーカーの係争地域のうち約448万エーカーをアメリカは獲得した。またウェブスター=アシュバートン条約によって東海岸からロッキー山脈に至るまでの国境線が調整された。さらに同条約は、暴力犯罪や通貨偽造などについて逃亡犯罪人の引渡しについて規定し、奴隷貿易の抑圧に協力することを取り決めた。

テキサス併合

 1844年4月、アメリカとテキサスは併合条約を結んだ。しかし、奴隷制度の拡大に反対するホイッグ党議員が中心となって上院でテキサス併合条約の批准を阻んだ。またホイッグ党が支配する北部の州議会は、外国の併合は違憲であり、連邦の自由の権利に対する侵害であるという決議を採択した。それに対して民主党の支配下にある各州議会はテキサス併合を求める請願を連邦議会に行った。その中でもサウス・カロライナ州の過激派は、もし併合が失敗すれば、南部諸州は連邦から脱退してテキサス共和国と合体すべきであると主張した。
 条約の批准に失敗したタイラーは議会に両院共同決議を求めることを考えついた。条約の批准には上院の3分の2の賛成が必要であるが、両院共同決議は両院の単純過半数のみで可決される点に目をつけたのである。その結果、議会は両院共同決議でテキサス併合を認めた。タイラーは任期が終了する3日前に両院共同決議に署名した。これは国際条約が条約の批准ではなく両院共同決議で発効した最初の例である。しかし、タイラーのこうした措置は違憲性の疑いがあることは確かである。タイラーは任期の最後の日に、特使をテキサス共和国大統領に派遣して、テキサス共和国の同意が得られれば連邦加入を認めると通告した。テキサスはタイラーの申し出に即座に同意した。

結語

 タイラーは初めて副大統領から大統領に昇格することで継承の先例を確立した。また拒否権を行使して議会を主導するホイッグ党と対立した。それは憲法上、大統領が議会の意思に抵抗できることを示した。しかし、タイラーはホイッグ党の支持を失ったために大統領候補指名さえ得ることができなかった。
歴代アメリカ合衆国大統領研究