ジェームズ・ポーク 第11代アメリカ合衆国大統領

ジェームズ・ポーク

James Knox Polk

生没年(1795年11月2日〜1849年6月15日)
在任期間(1845年3月4日〜1849年4月4日)
 
ジェームズ・ポーク大統領の概要
ジェームズ・ポーク アイルランド系
 ジェームズ・ポークはノース・カロライナ州メクレンブルグ郡パインヴィル付近で生まれた。父サミュエル(1772.7.5-1827.11.5)と母ジェーン(1776.11.15-1852.1.11)の10人の子供の長子である。父サミュエルは農園主であり、測量や土地投機なども行なっていた。テネシー州の辺境に一家が移転したためにポークは両親から読み書きの手解きを受けた。ノース・カロライナ大学を卒業後、法律を学び法曹界に入った。

ジェームズ・ポーク テネシー政界
 ポークはテネシー州下院議員当選を以って政界に入った。その後、連邦下院議員を務め、議長にも任命されている。その間、一貫してジャクソン大統領を支持した。テネシー州知事を2期務めたが、再々選はかなわなかった。しかし、1844年、政治的妥協の結果、民主党大統領候補指名を獲得し、ホイッグ党の対立候補を破った。

ジェームズ・ポーク 米墨戦争
 大統領としてポークは領土拡大を実現させた。英米の共同管理下に置かれていたオレゴン地方の北緯49度以南を獲得した。さらにテキサス併合をめぐってメキシコと戦火を交え、カリフォルニアを含む広大な土地を合衆国に組み入れた。大統領退任後まもなく病死した。


ジェームズ・ポーク政権の概要

大統領選挙

 タイラーの任期が終わった時、後継者となった民主党の大統領ポークが政権を成功に導くと予測した者はほとんどいなかった。タイラーは大統領制度が後退することを防いだが、ポークは大統領制度をさらに前に進め、その責任を十全に果たしたと言える。ポーク政権の業績はたやすく達成されたわけではない。ポークは両院で交戦的なホイッグ党の少数派と対峙しなければならなかったし、一方で民主党は奴隷制度をめぐって党内で亀裂が生じ始めていた。アメリカの領土を拡大する過程の中で奴隷制度をめぐる争いはポークを大統領に押し上げた。
 ヴァン・ビューレンが1844年の民主党の大統領候補指名を勝ち取ると思われていた。しかし、テキサス併合が大きな問題となった。民主党とホイッグ党がそれぞれ党大会を開催する直前にカルフーン国務長官はテキサスと併合条約を締結した。その結果として民主党のヴァン・ビューレンとホイッグ党のクレイはそれぞれテキサス併合に関する意見を明らかにせざるを得なくなった。クレイとヴァン・ビューレンはそれぞれテキサス併合に関する意見を示した文書を出版することに合意した。テキサス併合により奴隷を保有する領域を拡大することについて北部と南部の間で深刻な意見の不一致があった。
 クレイは、不名誉なこともなく、戦争もなく、連邦全体の同意が得られ、公明正大な条件が実現されなければテキサスを併合すべきではないと述べた。クレイの併合への反対はほとんど議論もなく、北部が支配的になりつつあったホイッグ党に受け入れられた。しかし、ヴァン・ビューレンが、事を急げばメキシコとの戦争になる可能性があるという見解を示すと民主党内で激しい非難の嵐が起きた。ジャクソンは領土拡大を支持しており、そうした立場は南部や西部にとって神聖なものであった。ホイッグ党を打ち負かすために、民主党は奴隷制度を西部に拡大しようとする南部の支持を得ることが絶対に必要であった。ヴァン・ビューレンは実際的な政治家として知られてはいたが、自らが信じる道に従って奴隷制度の拡大に反対した。ヴァン・ビューレンは南部の拡張論者に対抗して指名を獲得できるだけの票を集めることができなかった。ヴァン・ビューレンが大統領候補指名を勝ち取ることが難しくなり、党大会が膠着状態に陥った中、テネシー州知事のポークが南部と北部の妥協の結果、当初の予想に反して大統領候補に選出された。ポークは全国的にはほとんど無名の人物であり、ニュー・ハンプシャー州が8回目の投票で票を投じるまで票を得られなかった。9回目の投票でニュー・ヨーク州がポークの支持に回り、次第にポークに票が集まるようになった。民主党の大統領候補指名を獲得したポークは大統領本選で170人の選挙人を獲得し、クレイを破った。

行政府の監督

 巧妙な政治的処置と強力な政治的手腕を併せ持ったポークは1840年代後半にアメリカ政界を支配するようになった分離主義的傾向を適切に克服することができた。民主党の大統領候補指名を勝ち取った後、ポークは大統領職を1期で退くことを表明した。しかし、その4年間の任期の間、ポークはジャクソン主義者の大統領の権限の概念を拡大し、行政府の機能を積極的に強化した。ポークは行政府の省庁を緊密かつ日常的に監督した最初の大統領である。ポークは「一般的な原理だけではなく大部分の些細で詳細なことまで政府の義務と働きに十分慣れ親しむことができた」と述べている。ポークはほとんど閣僚の助けを必要としなかった。ポークの観点によれば、過ちを避けるために詳細な事柄を管理することは必要なことであった。詳細な事柄を下僚に任せることによって絶えず過ちに悩まされたことから、ポークは公務を下僚に任せるよりも自身で政府全体の運営を監督することを好んだ。
 ポーク政権まで、大統領の影響力は特に財務省との関係において不在であった。大統領には毎年、議会に提出される省庁の予算見積もりを監督する法的責任はない。その代わりに1789年財務法によって、費用の概算を議会に報告する義務が財務長官に課された。
 ワシントン政権下でハミルトン財務長官はそうした問題について大統領に諮ることさえなかった。ハミルトンやジェファソン政権とマディソン政権で活躍したギャラティン財務長官は、予算の政策決定について主導権を握っていた。ハミルトンやギャラティンの後継者達は、各省庁の予算を受け取って議会に提出するだけであった。例えば1839年、ヴァン・ビューレン政権の財務長官リーヴァイ・ウッドベリー(Levi Woodbury)は、包括的な予算をまとめる責任や他の省庁から受け取った予算の項目を審査する責任を否定した。
 ポークの主要な業績の1つは、予算の政策形成に積極的に関与したことである。ポークは各省庁の予算要求を審査しただけではなく、各長官に予算見積もりを下方修正するように求めた。1846年に米墨戦争が始まった後、関税率を引き下げたウォーカー法の下でポークは財政を緊縮させる必要があった。ポークと民主党は長らく関税を改革する法案を通過させようとしていた。下院議長を務めていた時、ポークは関税を引き下げようとするジャクソンやヴァン・ビューレンの試みを支持した。第1次一般教書でポークは関税率の引き下げと価格に準じて関税率を設定する方式を採用するように議会に求めた。米墨戦争が近付いても関税を改革しようとするポークの努力は衰えなかった。それどころかポークは1846年にウォーカー法を通過させるように議会に働きかけた。ポークは保護主義への攻撃を主要な国内政策の業績と見なし、ジャクソン主義的な経済的正義を実現するものだとした。ジャクソン主義者は領土の拡大を産業化と都市化の脅威を抑える手段と見なしていた。またジャクソン主義者は、保護関税が製造業者に恩恵を施す一方で労働者には不利であり、農業を主体とするアメリカの理想像に有害であると考えた。
 ジャクソンと同じく、ポークは政府支出の制限と公債の抑制に留意した。財政の健全化と大統領の特権を積極的に主張するやり方はポークを予算の効果的な監督者にした。ポークが予算を効果的に監督したことは、戦争が終わった後に、陸軍長官に戦前の水準までに予算を戻すように強制したことで示されている。ポークが打ち立てた先例は、リンカンを除いて19世紀の大統領達には受け継がれなかった。しかし、大統領には各省庁の活動を監督する権限と義務があるというポークの姿勢は、ジャクソン主義者的な大統領制度の概念をアメリカの政治制度により深く根付かせることになった。ホイッグ党の強固な抵抗に直面しながらもポークは、最後の教書の中で、議会が人民の意思を実行するように人民に命じられているのと同じく、大統領も人民の意思を実行するように人民に命じられていると主張した。ポークは、大統領は、議員がそれぞれの地区の人民を代表しているように、人民全体を代表する特別な地位を占めていると論じた。

オレゴン問題

 戦争に訴えることなくポークはオレゴン問題で大きな外交的勝利を獲得した。オレゴン地域はロッキー山脈以西の北緯42度から北緯54度40分にわたる地域である。19世紀初期からアメリカとイギリスが領土主張を行ってきた。1827年に両国はオレゴンを共同管理することで合意した。1843年7月、オハイオ州シンシナティでオレゴン会議が開催され、北緯54度40分をアメリカの国境線にすることを求める決議が採択された。1844年、ウィルリム・アレン(William Allen)上院議員は「54度40分か戦いか」という言葉を使ってアメリカのオレゴン獲得に対する野心を表現した。
 「54度40分か戦いか」は領土拡張を推進する民主党とポークの選挙スローガンとなった。大統領に就任したポークは就任演説でアメリカがオレゴン地域全体の領有権を持つと主張した。イギリスは現カナダ領のブリティッシュ・コロンビア州と現アメリカ領のワシントン州に対する領有権を主張した。ポークは妥協案として北緯49度でオレゴン地域を分割する案を提示した。
 駐米イギリス公使が提案を拒否した時、ポークは第1次一般教書で、アメリカはすべてのオレゴン地域の領有権を唱える準備があると述べた。モンロー・ドクトリンを引き合いに出して、ポークはヨーロッパの植民地を北米大陸に作ろうとするいかなる試みにも反対すると主張した。ポークの警告はモンロー・ドクトリンに対するポーク系論として知られる。ポークはモンロー・ドクトリンをアメリカ外交の基本理念として再確認した最初の大統領になった。

「我々の領土上でこれまで居住者のいなかった土地への居住地の急速な拡大、我々の連邦への新しい州の追加、自由の原則の拡大、及び国家として我々の上昇する偉大さはヨーロッパ列強の注目の的となっていて、最近、私たちの前進を抑制するためにこの大陸で『勢力均衡』のヨーロッパ列強の中で方針が提案された。 あるゆる国々とともに良い理解関係を維持するのを心から願ってやまない合衆国は北アメリカ大陸における少しのヨーロッパの干渉も黙認できないし、何かそのような干渉が試みられれば、ありとあらゆる危険を冒してでもそれに抵抗する準備ができている」

 議会は、ポークに1年後、オレゴンの共同占領を終わらせる権限を与える決議を可決した。アメリカとイギリスが衝突するのは必至であった。しかし、イギリス政府はその当時、政争と国内問題に忙殺されていてアメリカと衝突する余裕はなかった。両国は北緯49度を国境線とし、コロンビア川の自由航行を認める条約を締結した。1846年6月6日、ポークは公式にこの提案を受諾した。6月10日、ポークは変更を加えることなく条約を上院に送付した。2日後、上院は条約を批准した。

米墨戦争の勃発

 大統領制度の発展に対するポークの最大の貢献は米墨戦争で最高司令官として行った精力的な活動である。そのことは大統領の行政権の発展に大きく寄与した。ポークは戦争機関として大統領制度が持つ行政的能力を最初に示したと言える。テキサスを併合した後、戦争は不可避であった。メキシコはテキサスを自国の領土だと主張し、アメリカによる併合を敵対行為と見なした。メキシコはアメリカとの国交を断絶した。メキシコからニュー・メキシコとカリフォルニアを確保しようとするポークの方針はさらに領土紛争を悪化させた。ポークはアメリカ国民の自由な発展のためにアメリカ大陸を支配するという明白な運命の概念を支持していた。アメリカはリオ・グランデ川を南西部の国境として主張し、メキシコはニュエセス川を国境として主張した。ポークは、カリフォルニアで反乱が起きるように工作する一方で、アメリカの西部への拡大を実現するために、ジョン・スライデル(John Slidell)をメキシコに派遣し、リオ・グランデ川を国境としてメキシコが認める代わりにアメリカが代償を支払い、さらにメキシコからニュー・メキシコとカリフォルニアを購入する申し出を行った。しかし、スライデルの交渉は失敗した。
 交渉で目指す領土を購入できないことを悟ったポークは武力に訴えることを決意した。ポークはテキサスが正式に併合を承認した後、テキサスを予測されるメキシコの攻撃から守るためにテイラー率いる軍を派遣した。スライデルの受け入れをメキシコ政府が拒否したという知らせを受け取ったポークは、テイラーにニュエセス川を渡り、リオ・グランデ川の左岸を占領するように命じた。これは明らかに戦争行為であった。メキシコ軍はテイラーに対しニュエセス川まで撤退するように要求した。テイラーは要求に応じずマタモロスを封鎖した。3月12日、メキシコ外相は、テキサス併合を戦争の正当な理由と見なし、アメリカが現在のような姿勢を続ける限り戦争は不可避であると警告すると同時にテキサス併合問題について話し合う用意があると通達した。ポークはメキシコ外相の申し出を拒否した。4月25日、ポークは戦争教書の起草を始めた。ポークの戦争教書の草案には、開戦の理由として、スライデルの受け入れ拒否と債務の未払いしか挙げられていなかった。テイラーは宣戦布告前からメキシコ分割作戦を開始していた。5月8日にメキシコ政府の防衛的宣戦布告による行動としてメキシコ軍はパロ・アルトでテイラーの部隊を攻撃した。テイラーは反撃してメキシコ軍を破った。テイラーはメキシコ軍を追撃し、さらにレサカ・デ・ラ・パルマでメキシコ軍を破った。ポークは閣僚と協議して議会に宣戦布告を求めることを決定した。5月11日、ポークは議会に戦争教書を送付し、メキシコがアメリカを侵略し、アメリカ人の血が流されたと主張した。

「合衆国とメキシコの現在の関係は、私が議会の考慮の主題として提出するのに相応しい状態である。現在の会期が始まるにおいて私の教書で、1845年3月に両国の外交関係を停止されるに至ったこうした関係の状態と原因、そして、合衆国市民の財産と身柄にメキシコ政府によって行われている長く続く是正されない誤った行動と不正行為を手短に示す。あなた方の前に提示される事実と意見を慎重に考慮する時に、私は、この通達であなた方に知らせるよりも状況に関する私の確信をより良く明かすことはできない。寛大で名誉ある条件でメキシコと平和を樹立する強い願い、そして、我々が最も友好的な国家と恒久的な関係を結ぶのと同じ公正で平等な原理に基づいてメキシコと我々の境界とその他の相違を調整し、規定しようとする我が政府の意思によって私は先の9月、両国の外交関係を再開しようとした。我々の側で、こうした望ましい結果を促進するためにあらゆる方策が採用された。我々がメキシコから被り、20年間以上にわたって積み重なってきた不正行為の声明を簡潔に議会に通達するにあたって、メキシコ人を怒らせるか、平和的結果を遅らせ、挫くようなあらゆる表明は慎重に避けられた。すべての現在の相違を調整する完全な権限を持った合衆国の使節がメキシコに赴いた。しかし、両国の協定によってメキシコの領土において、完全な権限が与えられ、最も友好的な性質が示された証拠があるが、その使命は無益に終わった。メキシコ政府は使節の受け入れを拒んだばかりか、その提案を聞き入れず、長く続く一連の脅迫の後、遂に我が領土に対する侵略を行い、我が同胞市民の血が我が国の領土で流された。現在の会期の初めにおける私の教書で、私はあなた方に、両院とテキサス議会に率直な訴えで、私がニュエセス川からデル・ノルテ川の間に十分な兵力を配置するように命じたことを伝える。メキシコ軍によるテキサス侵略の脅威に備えるために必要であり、そのために軍備が拡張された。テキサスが合衆国議会の厳粛な決議に従って我が連邦に加入しようと決意したためにこの侵略が差し迫っており、その市民と領土を守ることが私の義務である。マタモロスのメキシコ軍は敵対的な姿勢をとり、4月12日、アンプディア将軍は、テイラー将軍に24時間以内に陣営を片付け、ニュエウス川の向こうに撤退するように通告し、もしそうした要求に従わない場合は問題を解決するために武力を行使すると宣告した。しかし、4月24日まで公然とした戦闘行為は行われなかった。その日、メキシコ軍の指揮を引き継いだアリスタ将軍は、テイラー将軍に戦闘行為が開始され、それを追求することを考えていると通告した。63人の兵士と将校からなる竜騎兵部隊が同日、アメリカの陣営から、メキシコ軍が渡河したかどうか、渡河を準備しているかどうか確かめるためにデル・ノルテ川を左岸で遡るように派遣され、メキシコ軍の大部隊と交戦になり、短い交戦の後、16人が死亡し、負傷し、包囲され降伏を余儀なくされた。現在、ここにある危機の可能性を予期して、先の8月に、テイラー将軍に向けて、緊急に応じてテキサスだけではなく、ルイジアナ州、アラバマ州、ミシシッピ州、テネシー州、ケンタッキー州から志願兵を受け入れ、そうした州の各知事に伝達する手紙を送るという侵略に対する予防的な措置をとるように命令が与えられた。テキサスが我々の連邦に統合された直後、先の1月にこうした命令は繰り返され、テイラー将軍はさらに大統領によって、懸念される侵略に対して国家の安全を保障し、侵略を撃退する必要がある場合に民兵を州の行政部に要請する権限が与えられた。3月2日、テイラー将軍に、かなりのメキシコ軍が接近してきた場合、必要だと思う予備軍を召集する与えられた権限を行使するように指示した。戦争が実際に起こり、我々の領土は侵略され、テイラー将軍は私の指示で彼に与えられた権限を遂行し、テキサス州知事に4つの連隊を要請し、2つは騎兵で2つは歩兵であり、さらにルイジアナ州知事にできる限り迅速に4つの歩兵連隊を送るように要請した。我々の権利と我が領土の防衛をさらに証明するものとして、私は議会に戦争が起こったことを認め、行政府の意向で戦争を積極的に行う手段を与え、その結果、平和の回復を促進する迅速な行動をとるように求める。この目的のために私は、もしすぐに解散されなければ、6ヶ月、もしくは12ヶ月を超えない期間で軍務に服する志願兵を公務に就かせるように推奨する。志願兵はその他のどのような市民兵よりも有能であり、彼らの国の召集に応じて、直ちに求められる以上の数が戦地に赴くことは疑いない。私はさらに、我が軍全体を維持し、補給と軍需物資を与える自由な規定が定められるように推奨する。最も活力があり、迅速な措置と大規模で圧倒的な軍の出現が、メキシコとの現在の衝突を迅速に成功裡に終結させる最も確実で効果的な手段として議会に推奨される」

 民主党員は米墨戦争を熱狂的に支持した。そして、南部と西部のホイッグ党員も戦争を支持した。しかし、ポークの主張に対して疑念を抱く議員もいた。ウェブスター上院議員は、宣戦布告は違憲であり、不必要であり、不公正であると唱えた。ウェブスターは多くの北部のホイッグ党員と同じく、戦争を武力による領土拡大と奴隷制度の拡大をもたらす手段と見なしていた。この頃、下院議員であったリンカンもその中の1人であり戦争に批判的であった。リンカンはアメリカ人が銃撃を受け殺害されたという報告について疑念を示した。リンカンは、アメリカ人の血が実際にどこで流されたか示すようにポークに求めた。マサチューセッツ州議会は、米墨戦争が奴隷制度擁護派を強化するための戦争であり、自由州に対する戦争であって、違憲であるので即刻中断するべきであり、アメリカ国内の奴隷制度を撤廃するためにあらゆる努力をなすべきだと決議した。
 5月13日、ポークの戦争教書に応じて、議会は大統領に1,000万ドルの予算と5万人の兵士を徴募する権限を与えた。ポークは戦時に最高司令官に就いた2番目の大統領である。戦時に最高司令官に就いた最初の大統領はマディソンであったが、最高司令官としてほとんど何も権限を行使しなかった。ポークは最高司令官としての大統領の権限を最大限まで拡大したわけではなかった。それは南北戦争においてリンカンによって成し遂げられた。しかしながら、ポークは軍事的経験なしで大統領が将軍を指揮できるという先例を打ち立てた。ポークは陸軍と海軍の戦略を決定し、士官を任命し、補給の問題に関心を払った。さらに軍の予算に配慮し、戦闘を行うために閣僚を主要な調整機関とした。ポークは、陸軍長官と海軍長官に詳細なことまですべての事項に注意を払うように求め、重要な決断を下す前に大統領に諮るように促した。ポークはすべての軍事的問題の最終的な決定権は大統領にあると主張した。こうした意味で米墨戦争は初めての大統領の戦争であった。
 メキシコ軍はアメリカ軍よりも数で優っており、地理にも明るかったが、アメリカ軍は優れた軍事技術を駆使して戦闘に勝利した。米墨戦争は2段階の局面で戦われた戦争であった。第1段階は辺境でメキシコを包囲してカリフォルニアを奪取する作戦である。第2段階は、メキシコ政府がポークの領土要求を認めなかったために行われたメキシコ中心部に対する攻撃とメキシコ政府が領土割譲に応じるまで首都を占領した作戦である。当初、ポークはたやすくメキシコ政府の戦意を挫くことができると考えていた。そのために中心部に攻め込まずに辺境部を攻撃する戦略が採用された。同時にアメリカ海軍は西海岸の都市を掌握し、メキシコ湾を封鎖する戦略を採用した。メキシコはすぐに戦いに疲れてアメリカの要求に応じるだろうとポーク政権は目論んだ。
 1846年5月、パロ・アルトとレサカ・デ・ラ・パルマでメキシコ軍を打ち破った後、テイラーは南進し、5月にマタモロス、7月にカマルゴ、9月にメキシコ北東部のモンテレーの要塞、そして11月にサルティロと次々に勝利を収めた。その一方で、カリフォルニアではアメリカ人入植民がベア・フラッグ反乱を起した。さらにジョン・スロート(John D. Sloat)率いるアメリカ軍は、モンテレーとサン・フランシスコを攻略した。スティーヴン・カーニー(Stephen Kearny)率いるアメリカ軍はカンザス州リヴェンワース要塞から出征してニュー・メキシコの要地であるサンタ・フェを抵抗にあうことなく占領し、合衆国と同様の憲法を適用した民政を布いた。カーニーはさらにカリフォルニアに西進した。ロバート・ストックトン(Robert Stockton)が指揮するアメリカ海軍とメキシコ支配に対するアメリカ人の反乱に助けられてカーニーはメキシコ軍と戦った。1847年1月のサン・ガブリエルでの勝利でカリフォルニアはアメリカの手に落ちた。
 カリフォルニアは実質的にアメリカの手中にあり、アメリカ軍はほとんどの戦いで勝利したのにも拘わらず、条約の締結によってメキシコ政府にアメリカの征服の成果を認めさせることができなかったので、ポークは戦略を再検討した。条約の締結が正式に行われるまで軍事的な領土占領は国際法上、違法な行為であった。条約の締結をメキシコに強制するために、メキシコ中心部への攻撃に戦略が転換された。ウィンフィールド・スコットはポークに内陸に侵攻する許可を求めて認められた。スコット率いるアメリカ軍は1847年3月に大規模な水陸両用上陸作戦を行ってヴェラ・クルスを占領し、4月、セルロ・ゴルドの戦いでメキシコ軍を破り、8月に激戦の末、チュルブスコの戦いに勝利を収め、9月にメキシコ・シティを占領した。

ウィルモット修正条項

 ポークは戦争を進める一方で議会に200万ドルの秘密支出を求めた。サンタ・アナ(Santa Anna)に賄賂の前金を支払ってカリフォルニアを譲渡させるためであった。200万ドルの支出を認める法案に、買収によって獲得した領土で奴隷制度を禁じるウィルモット修正条項を加えることが提案された。北部の諸州の州議会はウィルモット修正条項を支持する決議案を可決した。多くの北部人は奴隷制度が存在していない領土に奴隷制度を導入することに反対した。それに対して南部人は、ウィルモット修正条項を奴隷制度に対する不当な介入だと見なした。
 ポークは、ミズーリ妥協に基づいて北緯36度30分で新たに獲得された領土で奴隷制度を禁止する地域と奴隷制度を認める地域を分けるように提案した。しかし、ポークの提案を受け入れる者は少なかった。結局、ウィルモット修正条項は下院を通過したものの、上院を通過しなかったが、ウィルモット修正条項をめぐる議論で奴隷制度に関する新しい理論が現れた。1つは奴隷制度廃止論者が支持する理論で、連邦議会はその権限が及ぶ領域で奴隷制度を廃止する道義的義務を有するという理論である。もう1つは奴隷制度擁護派が支持する理論で、連邦議会は新たに獲得された領土や準州で奴隷制度を禁止する権限を持たず、奴隷制度を保護する義務を有するという理論である。

党派的行動と議会の抵抗

 ポークの最高司令官としての行動はまったく過ちがなかったわけではないし、党派心に無縁でもなかった。ポークは戦争がテイラーという英雄を生み出したことに当惑した。テイラーはホイッグ党員であり、1848年の大統領選で民主党の有力な対抗馬になることが予測された。テイラーは盛んに各種の新聞に手紙を送ったので、ポークはテイラーが人気取りをしているのではないかと疑った。党派心に支配されたポークは、ブエナ・ヴィスタの戦いで勝利を収めたテイラーの栄誉を称えて礼砲を放つ命令を軍隊に与えることを拒絶した。ポークは民主党の上院議員トマス・ベントン(Thomas Hart Benton)がテイラーに代わって戦場の指揮権を得ることができるように中将の地位を与えようとした。ベントンの軍事経験が乏しかったために、上院は大統領の提案を拒んだ。そこでポークは陸軍のトップであるスコットに目をつけた。スコットもテイラーと同じくホイッグ党員であったが、テイラーと違って人気者になる性質を備えていないように思われた。テイラーが兵力と兵糧の補給がないためにモントレーに足止めされていた一方で、スコットは海軍の支援を受けてヴェラ・クルスからメキシコ・シティに向けて進撃を開始することができた。スコットは政治的な理由で任命された将校に妨害され、現地で食糧を調達し、敵から奪い取った弾薬で戦うことを余儀なくされながらも目的を十分に果たした。
 ポークと将軍達の間の問題は、ジャクソン主義的な大統領制度と新たに組織された党組織の緊密な関係に起因していた。党派的な行動は1830年代から1840年代にかけて大統領の政治に深く埋め込まれていたので、そうした行動は戦時でさえも控えられることはなかった。スコットとテイラーは正規軍の軍人であったのでポークが彼らに対してできることはほとんどなかった。しかし、民兵の部隊の士官には民主党員が任命された。民兵を召集するという決定は、自由な政府に矛盾すると見なされていた大規模な常備軍に反対する民主党の原理に沿っていた。民兵への依存はしばしばポークを悩ませた。最終的にポークは自らの過ちを認識し、1846年12月、正規軍の規模の拡大を求めた。1847年2月に議会がポークの要請を認めるまで、主要な軍事行動は差し止められた。
 党派心に基づく行動はあったものの、ポークは米墨戦争をうまく主導した。ポークが自ら考案した戦略は1848年までに決定的な勝利を収めていた。その結果、アメリカはニュー・メキシコとカリフォルニアを獲得した。したがってポークは主要な戦争目的を達成し、ジェファソンを除いて、広大な領土を合衆国にもたらした大統領になった。大統領が最高司令官として戦略を立案し、その遂行を監督することができると示すことによって、ポークは大統領が合衆国の軍事作戦に責任を持つという原則を確立した。しかし、最高司令官としてのポークに対する挑戦がまったくなかったわけではない。ポークは、ニュー・メキシコとカリフォルニアにおける民政を承認することで不当に行政権を拡大したと批判された。また下院は戦争の長期化に懸念を示し、米墨戦争は憲法に違反して開始されたと宣言し、メキシコからの速やかな撤退を求める決議を採択した。

講和交渉

 メキシコ・シティが陥落した後、ポークは独りで占領政策を決定した。ポークは軍にメキシコの関税収入を押収するように命じた。それにより50万ドル以上の収入がもたらされ、占領政策の費用に充当された。講和交渉でもポークは単独で行動した。上院の承認なしでメキシコと秘密裡に交渉する使節が送られた。ポークは要求する土地とその支払額について単独で使節に指示を送った。1847年9月、ニコラス・トリスト(Nicholas Trist)はメキシコにリオ・グランデ川を境界として認め、サン・フランシスコを含む領域を割譲するように求めた。しかし、メキシコ側は交渉に乗り気ではなく、戦闘が再開された。メキシコ・シティが陥落した後、メキシコ側はトリストに以前の条件で講和を締結したいと申し入れた。さらなる譲歩をメキシコから引き出せると考えたポークはトリストを召還しようとした。トリストは召還を拒み、メキシコと講和条約を結んだ。ポークはその講和条約の内容に不満であった。占領をさらに長引かせることでもっと良い条件の講和条約をメキシコに結ばせることをポークは計画していたからである。ポーク政権が従来の戦争目的を達成した今、ホイッグ党が支配する議会で戦争に対する支持を取り付けることは難しく思われた。もし議会の支持を取り付けることができなければ戦争を遂行する予算が得られない。さらにホイッグ党が次の大統領選挙で勝利すれば、メキシコから奪ったすべての領土を失ってしまう可能性もあった。そのためポークは講和条約を上院に提出し、承認を求めた。講和条約は38票対14票で承認された。こうした講和条約におけるポークの思惑は、大統領の外交権限が議会によって制限され得ることを示した。
 1848年2月2日の締結されたグアダルーペ・イダルゴ条約の結果、ニュー・メキシコとカリフォルニアをアメリカは1,500万ドルで購入し、アメリカ市民がメキシコ政府に求めた損害賠償300万ドルを支払うことになった。メキシコ政府は、アメリカのテキサス併合と国境をリオ・グランデ川にすることを容認した。アメリカは3億2,000万エーカーを獲得した。それはルイジアナ購入以来、最大の領土拡張であった。メキシコの領域は約半分に縮小した。アメリカに対するメキシコ人の怒りはその後、長く引き続いた。米墨戦争は南北戦争勃発の遠因となった。メキシコとの戦争によって新たに得た領土で奴隷制度を認めるか否かは国家的な激しい議論を招き、南部奴隷州と北部自由州との間に存在していた地域間の分裂をますます拡大させた。

結語

 ポークはジャクソニアン・デモクラシーの時代において、奴隷制度に悩まずに済んだ最後の大統領である。テキサス併合と米墨戦争の結果、アメリカの南西部は著しく拡大し、その地域における奴隷制度が問題となるのは火を見るよりも明らかであった。大部分の北部人は新しい領土に奴隷制度を拡大することに反対していた。一方で、南部の白人は、北部の自由土地主義を強硬な奴隷制度廃止論と区別しようとせず、新たな領土で奴隷制度を禁止する試みを、既存の奴隷制度に対する脅威と見なすようになった。
 ポークが成功したのは、政権の中枢に自ら立ち、統一と調和を生み出すようにすべての閣僚を指導したからである。そうした統一は、オレゴン問題の解決、関税率の引き下げ、独立した財務省の再建、カリフォルニアの獲得というポークの4つの目標を達成しようとする弛まない努力によって形成された。ポークは1期の在任期間でそのすべての目標を達成した。
歴代アメリカ合衆国大統領研究