司法長官ウィリアム・ピンクニー


ウィリアム・ピンクニー(1764.3.17-1822.2.25)は、メリーランド植民地アナポリスで生まれた。キング・ウィリアム校で学んでいたが、独立戦争が勃発して王党派であった父の財産が差し押さえられたために学業を断念せざるを得なかった。
 1783年、後に連邦最高裁判事となるサミュエル・チェイスの法律事務所で事務員として働き始めた。1786年にはメリーランドの法曹界に加入を認められた。1788年4月に開かれたメリーランド邦憲法批准会議に参加し、合衆国憲法批准に反対票を投じた。1788年から1792年にかけてメリーランド州議会議員を務めた。1790年に連邦下院議員に当選したが、被選挙資格の問題があり、着任することができなかった。
1792年、行政評議会の一員に選ばれた。さらに2年後、アナポリスの市長に選ばれた。1795年に州議会に戻った。翌年、ワシントン大統領はジェイ条約の下、フランス革命戦争の間、損害を受けた両国の船舶の補償について交渉する使節団の1人にピンクニーを選んだ。その結果、アメリカは675万ドルの補償を得た。ピンクニーのイギリス滞在は8年に及んだ。
 1804年4月にピンクニーは帰国した。1805年から1806年にかけてメリーランド州検事総長を務めた。1806年1月、「我々の中立権に関するボルティモア商人の嘆願書」と題する一文を連邦議会に提出した。それはイギリスによってアメリカ船舶の通商が被害を受けていることを訴える内容であった。同年、そうした問題の解決を図るためにジェファソン大統領はピンクニーにイギリス行きを命じた。ピンクニーはモンローとともにイギリスと通商条約を締結したが、主に強制徴用問題が解決されていなかったためにジェファソン大統領はそれを廃案にした。
 駐英アメリカ公使としてピンクニーは1807年から1811年の間、アメリカの出港禁止法の撤廃と引き換えにヨーロッパ諸港を封鎖する枢密院令をイギリスに解かせようとしたがほとんど成果をあげることはできなかった。
 帰国後にピンクニーは司法長官に任命された。司法長官としてピンクニーは1812年戦争を支持した。司法長官を退任した後も、オーロラ号裁判やネレイド号裁判など多くの訴訟を弁護士として手掛けた。
 退任後、1814年のブレーデンズバーグの戦いの際に、メリーランド州民兵の将校を務めていたピンクニーは腕に重傷を負っている。1815年から翌年にかけて連邦下院議員を務めたが、駐露アメリカ公使任命にともなって退任した。駐露アメリカ公使に加えて駐ナポリ特使も務めた。1818年に帰国した後、1819年から1822年にかけて連邦上院議員を務めた。この間、1819年のマカロック対メリーランド事件と1821年のコーエンズ対ヴァージニア事件に携わっている。マカロック対メリーランド事件では3日間に及ぶ演説を行った。演説でピンクニーは、合衆国銀行は連邦政府機関であり、州の課税の対象とはならないと弁護した。さらにコーエンズ対ヴァージニア事件では、連邦最高裁は州最高裁の最終判決を再審理する権利を有すると主張した。
 こうした裁判におけるピンクニーの主張は州に対する連邦の優越を裏付けるものだと解釈できるが、ピンクニーは必ずしもその立場をとっていたわけではなかった。1820年2月15日、ミズーリを自由州として連邦に加盟することを許すタルマッジ修正が討議された際に、州権擁護の立場から反対を唱えている。奴隷制の悪弊を認めながらもピンクニーはミズーリが自らの運命を決定する権利を奪うべきではないと主張した。ピンクニーの主張はミズーリ妥協が成立する大きな契機となった。1822年2月16日夜、ワシントンで昏倒し、同月25日に亡くなった。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究