ジェームズ・マディソン大統領
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ウィリアム・ジョーンズ海軍長官
ポール・ハミルトン海軍長官
 ポール・ハミルトン(1762.10.16-1816.6.30)は、サウス・カロライナ植民地セント・ポールズ・パリッシュの農園主の子として生まれた。チャールストンの学校で学んでいたが、イギリス軍による攻撃の危険がたかまったのでドチェスターに逃れて学業を続けた。1778年12月、父の急死により学業を断念せざるを得なかった。その後、民兵になったハミルトンはサヴァナの包囲やキャムデンの戦いなどに参加した。
 1785年、セント・ポールズ・パリッシュの徴税人になった。翌年には治安判事に選ばれている。さらに1787年、ハミルトンはサウス・カロライナ邦下院議員に当選した。1789年にはサウス・カロライナ州憲法批准会議に代表として参加している。1794年、サウス・カロライナ州上院議員にも選ばれた。1799年、ハミルトンはサウス・カロライナ州の初代会計監査官に就任し、1804年まで在任した。ハミルトンの財政手腕により州の財政は著しく再建された。そうした業績が評価され、今度はサウス・カロライナ州知事に選出された。州知事としてハミルトンは刑法の見直しや、州の防衛の改善、そして奴隷貿易の禁止などを推進した。
 1809年、マディソン大統領の誘いに応じて海軍長官に就任した。海軍長官としてハミルトンは、士官候補生の教育課程を改良し、補給制度を再編した。また奴隷貿易を徹底的に取り締まるように将校達に命じた。さらにワシントン海軍造船所Washington Navy Yardを拡張し、水雷や閉塞船のような技術革新を推進した。
 1812年戦争においては、大統領の決定に従って、イギリスに対して通商妨害を行なった。そうした作戦に成功を収めた後、通商妨害をさらに拡大しイギリス海軍を撹乱するためにハミルトンはアメリカ艦隊を3つに分けた。それによりアメリカは多くの勝利を得る一方で、イギリスは太平洋岸の封鎖を強めた。
 省内の様々な問題がハミルトンを悩ませた。まず会計記録が曖昧であったために使途が説明できない費用がたくさんあった。また法律で許された限度を超えた数の将校の任命が行なわれ、その中には不適格な者もいた。さらに装備の購入に関する不正取引疑惑が浮上した。ハミルトンに対する批判が高まったために、マディソンの求めに応じて辞職した。辞職後はサウス・カロライナに戻り、1816年、同州ビューフォートで亡くなった。