陸軍長官ジョン・アームストロング


ジョン・アームストロング(1758.11.25-1843.4.1)は、ペンシルヴェニア植民地カーライルで生まれた。父ジョンは測量士として、また七年戦争で活躍したことでペンシルヴェニアの辺境ではよく知られていた人物であった。
 アームストロングはカレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーで2年間学んだ後、1776年に大陸軍に入隊した。ヒュー・マーサー将軍とホレーショ・ゲイツ将軍の下で副官を務め、プリンストンの戦いやトレントンの戦い、サラトガの戦いなどに参戦した。 1783年のニューバーグの陰謀の際には、いわゆるニュー・バーグ檄文を匿名で起草した。
 戦後、アームストトロングはペンシルヴェニア最高行政評議会主事に就任した。邦政府の要職である。1786年のアナポリス会議の代表に選ばれ、翌年には連合会議の代表にも選ばれた。
 1789年、結婚を機にニュー・ヨークに移った。リヴィングストン家の縁戚になることによりアームストロングは2万5000エーカーに及ぶ広大な地所を得た。アームストロングは1800年から1802年と1803年から1804年にかけて連邦上院議員を務めた。外国人・治安諸法を非難するパンフレットを匿名で書いて連邦党を攻撃している。1804年、ジェファソン大統領の駐仏アメリカ公使指名を受けた。アームストロングはアメリカの中立貿易を脅かすフランスの施策に強く反発し、アメリカ政府に報復措置をとるように求めた。
 帰国後、1812年の大統領選挙でマディソンを強く支持した見返りに、准将の辞令を得てニュー・ヨーク港の防備を任された。マディソンはアームストロングの短気な性質を知りながらも、地域間の政治的均衡という観点から陸軍長官に任命した。
 陸軍長官としてアームストロングは多くの参謀将校を新たに採用し職務にあたらせた。しかし、アームとロングのふるまいには、指揮官に断りなく戦地の将校に命令を出したり、指揮官の管轄を頻繁に侵害したりするなど専権的な点が目立った。1813年秋には北部の前線にまで自ら身を運んでいる。こうした行動は、将軍達との間に軋轢を生んだ。しばしば大統領に報告することなく命令を出したのでマディソンとの間にも軋轢が生まれた。ブレーデンズバーグの戦いの敗北とワシントン陥落はそうした軋轢をもはや修復不可能にした。その結果、マディソンが辞職要求を仄めかした時、アームストロングは不快感を示して辞職した。
 その後、アームストロングは公職に就かずに農業と執筆に従事した。『1812年戦争に関する見解』という2巻本を残している。1843年、ニュー・ヨーク州レッド・フックで亡くなった。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究