陸軍長官ジェームズ・バーバー


ジェームズ・バーバー(1775.6.10-1842.6.7)は、ヴァージニア植民地オレンジ郡の富裕な農園主の子として生まれた。独立戦争中、一家が経済的に困窮したためにバーバーは大学教育を受けることができなかった。その代わりにリッチモンドの弁護士の下で法律を学び、1793年、法曹界に加入した。農園主の娘と結婚し、マディソンのモンペリエの近くにバーバースヴィルを築いた。バーバーズヴィルはジェファソンの設計によるもので適切な管理と進歩的な農業を行なっていたことでよく知られている。
 1798年、ヴァージニア州下院議員に当選した。州議会ではアダムズ政権の外国人・治安諸法を攻撃し、マディソンが起草した1798年のヴァージニア決議の主要な推進者の1人となった。こうしたバーバーの活躍は民主共和党の指導者に次第に認められるようになった。1809年にはヴァージニア州下院議長にも選ばれた。さらに1812年から1815年にかけてヴァージニア州知事を歴任した。この期間は1812年戦争の真っ只中であったが、バーバーは指導力を発揮した。そうした業績が認められて、連邦上院議員に選出された。
 上院でバーバーは第2合衆国銀行特許法案の承認に積極的な役割を果たした。また国内開発事業の推進者であった。マディソンが国内開発事業法案に拒否権を行使すると、それを合憲とするように憲法修正を試みたが失敗に終わった。ミズーリ問題に際しては、奴隷主としての立場からミズーリで奴隷を禁止することに反対した。しかしながら、上院とヴァージニア州でミズーリ妥協が受け入れられるように尽力している。
 1825年、ジョン・クインシー・アダムズ大統領はバーバーを陸軍長官に指名した。バーバーはアダムズの国内開発事業に賛同し、多くの南部人から奴隷制が禁止されると思われていたのにも拘らずパナマ会議を支持した。クリーク族とチェロキー族をジョージア州の侵害から保護したが、それはヴァージニアの州権を支持する支持者を失うことになった。イギリス公使指名を機に陸軍長官を辞した。
 イギリス公使としての在職期間は短期間に終わった。ジャクソンが召還命令を出したためである。公職を歴任するかたわら、バーバーはアルブマール農業協会やヴァージニア農業委員会の長として農業に関する新しい技術や知識の伝播に尽くした。ヴァージニアの公教育制度の整備だけではなく、ジェファソンとともにヴァージニア大学の資金調達にもあたった。また決闘や負債の未払いによる投獄の禁止など社会改革に従事した。
 1831年、国民共和党大会の議長となった。その際にヘンリー・クレイが大統領候補に指名された。さらに1839年12月、ホイッグ党大会の議長を務めた。ウィリアム・ハリソンが大統領候補に指名され、バーバーは選挙運動を積極的に支援した。しかし、その間にバーバーの健康状態が悪化し始め、1842年にバーバーズヴィルで亡くなった。

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