最高裁長官ジョン・ジェイ


 最高裁長官職は1789年9月24日に成立した裁判所法に基づき設けられた。最高裁長官の年俸は4000ドルであった。
 ジョン・ジェイ(1745.12.12-1829.5.17)はニュー・ヨークの富裕な商家に生まれた。1764年にキングズ・カレッジ(現コロンビア大学)を卒業後、弁護士事務所で働いた。1768年、法曹界に加入を認められた。1774年、ニュー・ヨークの通信連絡委員会の一員に選ばれる。さらに第1回、第2回大陸会議にニュー・ヨーク植民地代表として参加した。ジェイは穏健派の立場を保ち、独立を宣言することに反対していた。しかし、独立宣言の公表とイギリス軍のニュー・ヨーク侵攻を受けて、独立戦争遂行に積極的に協力するようになった。植民地の中でスパイ活動を摘発する諜報組織をジェイは作った。それを題材にして、後にジェームズ・クーパーは小説『密偵The Spy』を書いた。
 またジェイはニュー・ヨーク邦憲法制定会議に参加し、意見対立の調停に手腕を発揮した。新たな邦憲法の下、ニュー・ヨーク邦はジェイをニュー・ヨーク邦最高裁長官に選んだ。その後、ジェイは大陸会議議長も務めている。
 1779年、ジェイはスペインと外交交渉を行うために旅立った。その当時、スペインはフランスの同盟国としてイギリスと交戦していたが、未だにアメリカの独立を認めていなかった。アメリカはスペインから戦費や武器弾薬のさらなる援助を取り付けたものの、ミシシッピの自由航行権を得ることはできなかった。ジェイはスペインを去って、パリで対英交渉を続けていたベンジャミン・フランクリンと合流した。フランス外相がロンドンに密使を派遣したことを聞きつけたジェイは、フランスがアメリカに無断でイギリスと和平交渉を進めようとしているのではないかという疑念を抱いた。そこで、フランスからのいかなる申し出にも応じないようにイギリスに通告した。その後、オランダからパリに到着したジョン・アダムズとともに和平交渉を進めた。
 公使着任を断りアメリカに帰ったジェイを、連合会議は外務長官に任命した。外務長官としてジェイは、ヨーロッパ各国と通商条約締結交渉を行った。特にイギリスに関しては懸案事項が山積みであった。イギリスは、アメリカが平和条約の条項を十分に履行していないことを理由に、北西部領地に未だに軍を駐留させていた。この問題は後にジェイ条約が結ばれるまで根本的に解決しなかった。さらにアメリカがミシシッピ川の自由航行権を断念する代わりに貿易特権をスペインから獲得する交渉を行ったが実を結ぶことはなかった。
 合衆国憲法制定会議にジェイ自身は参加しなかったが、ハミルトンとマディソンとともに『ザ・フェデラリスト』を発表し、憲法批准を後押しした。合衆国憲法の下で国務省が創設された後も引き続き外交問題を担当し、ジェファソンが着任するまで臨時長官を務めた。また1789年9月24日に定められた裁判所法に基づき、初代最高裁長官に就任した。
 1792年のヘイバーン事件では、退役軍人による恩給請求の審査を行うことを拒否した。恩給請求の審査は、司法府に属する職分の範疇を越えていると最高裁は判断した。
 1793年のチザム対ジョージア事件では、合衆国憲法の下、ある州の市民は他の州を告訴できるという判決を下し、州に対する連邦司法権の優越を示唆した。ジョージア州は法廷に代表を送ることを拒否しただけではなく、判決を強制執行しようとする者は誰であろうと絞首刑にすると脅迫さえした。結局、この判決は後に憲法修正11条により覆された。
 ジェイはワシントンの求めに応じて外交問題に関しても助言を行った。1794年の中立宣言の最初の草稿を書いた。さらに対英関係の悪化に際しては、イギリスに特使として赴き、ジェイ条約をとりまとめた。その結果、ハミルトンの金融制度を擁護し、フランスの民主政に対してイギリスの君主政を支持するためにアメリカの国益を故意に損ねたという民主共和派の激しい批判にジェイはさらされた。
1795年、ニュー・ヨーク州知事に選出されたことを契機にジェイは最高裁長官を辞した。1800年の大統領選挙に際には、ジェファソンの勝利を阻むためにニュー・ヨーク州の選挙人選出方式を変更するようにというハミルトンの提案を断っている。これはジェイの高潔さを示す好例である。1800年の民主共和派の勝利を見たジェイは、三期目の知事選挙に出馬することを断念した。またアダムズによって最高裁長官に再び指名されたが、それも断って完全に公職から退いた。

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