財務長官アルバート・ギャラティン


アルバート・ギャラティンの経歴については、ジェファソンの項、副大統領/閣僚/最高裁長官、財務長官アルバート・ギャラティンを参照せよ。
 マディソンは、民主共和党の上院議員達から反対を受けたのにも拘らず、ギャラティンを留任させた。マディソン政権下でギャラティンは第1合衆国銀行の特許更新を推進したが実現しなかった。また1812年の戦争が起こると、財政赤字はかつてないほど膨らんだ。そのため、公債の早期償還を目指すギャラティンの財政計画の実現が難しくなった。
 1813年、ギャラティンは財務長官を辞して、ロシア皇帝アレクサンドル1世の米英講和仲介の申し出に応じてサンクト・ペテルスブルグに向かった。しかし、イギリスはロシアの仲介を拒否した後、直接交渉を求めた。その結果、1814年12月、現ベルギーのガンでイギリスとの和平が成った。ギャラティンは、ともに交渉にあたったヘンリー・クレイとジョン・クインシー・アダムズの仲を取り持ちつつ、忍耐強く事にあたった。その後、マディソン大統領は、ギャラティンを駐仏アメリカ公使に任命した。ナポレオン戦争時に被ったアメリカ船舶の損害を補償するようにフランスと交渉したが、実を結ばなかった。しかし、1818年に渡英し、カナダとアメリカの国境を画定する手助けをした。それによって大西洋北西部にアメリカが進出する道が開かれた。
 1824年、帰国してまもなく、ギャラティンはウィリアム・クロフォードとともに共和党の副大統領候補として名を挙げられた。しかし、クロフォードが病で倒れたためにアンドリュー・ジャクソンが代わって大統領候補として有力視されるようになった。ギャラティンはジャクソンを大統領候補として快く思っていなかったので、副大統領候補から外れた。
 ギャラティンはいったん公職から退いたが、1826年、ジョン・クインシー・アダムズ大統領の求めに応じて駐英アメリカ公使を務めた。ギャラティンはイギリスと通商条約の更新とオレゴン地方の共同領有の継続に関する交渉で成功をおさめた。1827年末に帰国した。1831年にニュー・ヨーク国法銀行National Bank of New Yorkの頭取になり、自由貿易と責任をともなった財政を唱えた。さらにギャラティンは『合衆国の通貨と銀行制度に関する考察』(1831)を著し、合衆国銀行の擁護者として名を高めた。1837年の恐慌に際しては、銀行が正貨の支払いを誤って差し控えたことに原因があるとしてギャラティンは、ニュー・ヨークの金融界を危機から救おうと奔走した。
 1839年に頭取から退いた後も、「合衆国独自の銀行と通貨に関する提案」(1841)と題する小冊子を発表し、過剰な投機と浪費、負債に警鐘を鳴らした。また『オレゴン問題』(1846)では、イギリスとの武力衝突は、財政的、社会的な災厄を招くと警告した。さらに米墨戦争について『メキシコとの和平』(1847)でギャラティンは、アメリカの不正な侵略を批判し、アメリカの大国主義と人種主義が共和制の政治的道徳を損なうと主張した。
 こうした活動の傍ら、ギャラティンは学術にも多大な貢献を行っている。ニュー・ヨーク大学の創立を支援し、ネイティヴ・アメリカンの言語、文化、歴史の調査に尽力した。その成果は1836年に「ロッキー山脈西部、およびイギリス領北アメリカとロシア領北アメリカにおけるインディアン諸部族の概要」としてまとめられた。またギャラティンはアメリカ民族学協会の創立にも主導的な役割を果たし、初代会長を務めた。さらにギャラティンはいくつかの論文を発表し、中でも「メキシコ、ユカタン、そして中央アメリカの半文明化されたインディアン領地に関する覚書」(1845)は先駆的な業績として名を留めた。1849年8月12日、88才で亡くなった。新聞はギャラティンを「[民主]共和党最後の長老」と評した。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究