副大統領ダニエル・トンプキンズ


ダニエル・トンプキンズ(1774.6.21-1825.6.11)は、ニュー・ヨーク植民地フォックス・メドウ(現スカーズデール)の農家に生まれた。1795年、コロンビア大学を卒業した後、1797年にニュー・ヨークの法曹界に加入した。1800年、連邦破産管財人になったことを皮切りに、翌年にはニュー・ヨーク州憲法改正会議の代表に選ばれた。そして1803年、ニュー・ヨーク州議会議員に選出された。さらに翌年、ニュー・ヨーク州最高裁判事に指名された。
 1807年、ニュー・ヨーク州知事選挙に出馬し当選した。その後、3度再選され、副大統領に就任するまで計10年間在職した。州知事としてトンプキンズは公立学校に対する支出を増額し、精神障害者の扱いを人道的にするように改め、ネイティヴ・アメリカンの領地への不法侵入を防止した。さらに死刑を殺人罪と反逆罪のみに適用するように変更し、州内の奴隷制廃止の明確な日取りを10年後の1827年に定めた。またトンプキンズは強固な民主共和党員として出港禁止法や1812年戦争を一貫して支持した。さらに数百万ドルを借り入れて、兵士達の給与や補給品の支払いなどにあてた。ニュー・イングランド諸州の政治的指導者の中で1812年戦争を一貫して支持した者はあまり多くなかったので、そうした姿勢はトンプキンズの名声を高めた。1814年秋、マディソン大統領はトンプキンズに国務長官就任を打診した。しかし、トンプキンズは州知事の職に留まってマディソンの打診を受け入れなかった。
 1816年の大統領選挙でトンプキンズは民主共和党の候補指名を望んだ。しかし、マディソン大統領がモンローを後援しただけではなく、トンプキンズの知名度がニュー・ヨーク以外では低かったために候補指名獲得を断念せざるを得なかった。その代わりに副大統領候補指名を受け入れた。
 副大統領に当選したトンプキンズであったが、ニュー・ヨーク州知事時代の不適切な財政管理に対して批判を浴びた。1812年戦争時の州の会計記録とトンプキンズの個人記録が明確に分けられていなかったために、精査の結果、12万ドルをトンプキンズが州に借りている形になった。こうした混乱の原因は、トンプキンズは公庫に資金がなかったためにしばしば手形を発行していたからである。
 この負債問題と健康上の理由により、トンプキンズは1820年の大統領選で再選されたが、副大統領としての職務をほとんど果たすことができなかった。ワシントンで行なわれた大統領の就任式も欠席し、ニュー・ヨークで副大統領就任の宣誓を行なっている。1823年にトンプキンズの要請で上院は上院議長代行を選んだ。それ以後、任期終了までトンプキンズは副大統領の役目である上院議長職を務めることはなかった。退任後間もなくしてトンプキンズはスタテン島の自宅で亡くなった。
 トンプキンズの死後、ニュー・ヨーク州のほうがトンプキンズに借金をしていたことが判明した。その結果、トンプキンズの子孫が9万2000ドルの支払いを受けた。1827年、トンプキンズが10年前に署名した奴隷制を廃止する法律が発効した。その業績を記念して、ニュー・ヨーク市内の広場にトンプキンズの名前が冠せられた。

ジェームズ・モンロー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究