鹿児島巡幸
 戦時中、鹿児島県は度重なる空襲の被害を受けた。中でも鹿児島、川内、山川、枕崎、串木野、阿久根、加治木、垂水は市街地の九割程度を失うという甚大な被害を受けた。戦災のみならず、終戦直後に、枕崎台風と阿久根台風という自然災害により大きな被害を受けた。さらに鹿児島港が海外軍民復員引揚げ港に指定され、多くの引揚者を迎えたために、人口は終戦直後と比べて昭和23年時点で20万人以上も増加した。そのため鹿児島県は未曽有の食糧難に陥り、県民の多くはフスマ、コーリャンなど輸入家畜飼料を常食としていた。鹿児島県の危機的状況を打開しようと重成県知事は「鹿児島県経済振興5ヶ年計画」を昭和24年3月に策定し、鹿児島巡幸の際には昭和天皇に計画について奏上している。この計画により鹿児島県は、昭和27年には、生産が戦前の水準を越すほどに復興を遂げた。

 鹿児島巡幸は、6月1日から6月4日にかけて行われている。当初の予定では6月2日は全日御休養日であったが、「せっかく地元民が待っていることだし、ひどい豪雨でもないから是非行こう」との優諚があり、天皇陛下は午前中、姶良郡各地を巡られた。昭和天皇が鹿児島にお入りになるのは14年振りである。天皇陛下の鹿児島駅ご到着の様子を『天皇陛下御巡幸誌』は次のように伝えている。

「濃紺じまの背広に、ソフト帽を右手に持たれた天皇がホームに下り立たれる。出迎えた県市及び一般代表141名に会釈され、傍からさしかける傘に入られつつお召車に乗られる。かたずをのんでいた奉迎市民の中から、期せずして天皇陛下万歳の声が起こった。日の丸の旗と、歓呼のあらしの中をお召車は駅前から桟橋通りへ黒山の人の中をわずかにかき分けるようにして進んで行く。桟橋通りにさしかかると、ついに熱狂した人々がなだれかかり、お召車はしばらく立ち往生する有様である。かくてようやく18時30分、予定より少し遅れてお泊所岩崎谷荘にお着きになった。お泊所下の道路は、群衆で人も車も動けず、しばし歓呼の嵐がとけ止まぬ状況であった」
御製
かくのごと荒野が原に鋤をとる引揚びとをわれはわすれじ

外国につらさしのびて帰りこし人をむかへむまごころをもて

国民とともにこころをいためつつ帰りこぬ人をただ待ちに待つ
お言葉
●「久しぶりの船で、いい気持ちだ」(昭和24年5月30日)

 熊本巡幸の際、昭和天皇は十五年ぶりに外海を船で渡航され天草を巡られた。

●「開拓事業は困難な仕事だが、食糧増産のためがんばってください」(昭和24年5月30日)

 熊本巡幸の際、昭和天皇は天草の開拓地をご訪問になり開拓団員を励まされた。

●「恵風園の所で車を停めてやりたい」(昭和24年5月30日)

 熊本巡幸の際、昭和天皇は御料車の中より恵風園の患者がお出迎えをしているのをご覧になり、こうおっしゃった。
次へ   昭和天皇の全国巡幸トップ