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昭和天皇の全国巡幸

鹿児島巡幸
熊本巡幸
 昭和24年5月29日、福岡県の大牟田駅を出発した御召列車は午後3時7分、熊本駅に到着した。群衆で溢れかえった沿道を天皇陛下は熊本駅から県庁へオープンカーで向かわれた。県庁三階の知事室の窓から天皇陛下が玉顔をお出しになると熱狂した群衆が前へ前へと詰めかけ大混乱となった。国立熊本病院にお立ち寄りになった後、熊本城内の展望所から、4万人以上が家を失い3分の1以上が焦土と化した熊本市街の復興状況をご覧になった。終戦直後、熊本県下の失業者は、復員軍人、引揚者を迎えて5万人にも達し、さらに生活困窮者は県人口の1割を越える20万人にも及んでいた。熊本復興はまだ道半ばであった。この熊本巡幸初日の様子を入江侍従は日記に次のように記している。

「熊本大学校庭の奉迎場、それより熊本日々の物産陳列所、ここは検分の時には大したこともないと思ったが、いよいよこの時になると恐るべき大群衆で、お立ちの時には供奉車に乗れそうもないので我々は早く供奉車の所に行っていた。お立ちの時には果たして大混乱になったが、それでも要するに御料車が過ぎて了えば何でもないので何のことなく済んだ」  

 天皇陛下は、熊本市内を巡られた後、御宿泊所の知事公舎に入られた。翌5月30日は、熊本製糸を皮切りに熊本市内各所と菊池郡合志村、下益郡隈庄村などをご視察の後、三角港から天草に向かわれた。5月31日は天草各地を回られ、一路八代に向かわれた。途中、赤崎沖で鯛網漁をご覧になった。天皇陛下が鯛網漁をご覧になる様子を入江侍従は、「大君はあをきうしほにはねをどる天草の鯛をすくひましにき」と詠んでいる。

 6月1日は熊本巡幸最終日で、八代郡昭和村の日本農友会実習所をご視察になった後、八代駅から御召列車で水俣駅に向かわれた。水俣では後に日本窒素肥料水俣工場をご視察になった。この工場は言うまでもなく水俣病の原因を生んだ工場である。しかし、当時は、熊本大学の調査によると既に水俣病発症者はいたものの、公式には認定されていなかった。天皇陛下は水俣工場をご視察後、水俣駅に戻られ午後2時31分に鹿児島県出水駅に向けてご出発になられた。
御製
高原にみやまきりしまうつくしくむらがり咲きて小鳥とぶなり
お言葉
●「お母さんのいうことをきいてえらくなるんですよ」(昭和24年5月24日)

 長崎巡幸の際、昭和天皇は大黒町引き揚げ者住宅をご視察され子供たちにお声をかけられた。

●「石炭は日本再建の基礎産業だからしっかりやって貰いたい」(昭和24年5月24日)

 長崎巡幸の際、天皇陛下は潜竜炭鉱をご視察され、県下炭鉱代表者を激励された。

●「よく出来ましたね。だがこれを取る時期は11月ではないですか。少し早いようですね」(昭和24年5月25日)

 高島真珠養殖場をご視察になった昭和天皇は、高島社長にこうお尋ねになった。

●「どの位収穫がありますか。色々困難なことがあったでしょうがよく奮起されましたね。日本再建のために努力して下さい」(昭和24年5月25日)

 元大村飛行場跡開墾地前で昭和天皇は開拓民たちをお励ましになった。 

●「どうかイエスの御旨に従って立派な人になることを希望します」(昭和24年5月25日)

 聖母騎士団をご訪問になった昭和天皇は子どもたちにお言葉を賜った。

●「大村湾には赤潮が発生するか」(昭和24年5月25日)

 高島真珠養殖場で昭和天皇は斎藤県水産試験場長にご下問された。

●「施術して何年ぐらいしたら立派な珠になるかね」(昭和24年5月25日)

 高島真珠養殖場で母貝のむきみ作業をご覧になった天皇陛下はこうお尋ねになった。

●「これはおとなしいか」(昭和24年5月25日)

 県立種馬育成場で天皇陛下はこうお尋ねになられながら牛を愛でられた。昭和天皇は馬のみならず牛も愛でられた。牛を題にした御製もある。

●「食糧増産のためしっかりやって下さい」(昭和24年5月27日)

 昭和天皇は魚市場ごご覧になり励ましのお言葉を述べられた。

●「しっかり立派な船を造って下さい」(昭和24年5月27日)

 三菱造船をご視察された天皇陛下は激励のお言葉を述べられた。

●「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、また、市民の元気な姿に接することができてうれしく思います。長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを平和日本建設の礎として、世界の平和と文明のために努力しなければならないと思います」(昭和24年5月27日)

 長崎巡幸の際、昭和天皇は奉迎場で多くの長崎市民に向かってお言葉を述べられた。このお言葉に対して長崎市民は満場の万歳で応えた。