リンドン・ジョンソン 第36代アメリカ合衆国大統領

リンドン・ジョンソン

Lyndon Baines Johnson

生没年(1908年8月27日〜1973年1月22日)
在任期間(1963年11月22日〜1969年1月20日)
 
リンドン・ジョンソン大統領の概要
リンドン・ジョンソン 州議会議員の子
 リンドン・ジョンソンはテキサス州ストーンウォール付近で生まれた。父サム(1877.10.11-1937.10.22)と母レベッカ(1881.7.26-1958.9.12)の5人の子供の最年長であった。父サムは州下院議員を務めた他、農業や綿花を取引していた。テキサス州立サウス・ウェスト師範学校で学んだ。いったん高校教員として働いたが議員秘書になったことがきっかけで政界入りした。

リンドン・ジョンソン 地滑り的勝利のジョンソン
 ジョンソンは連邦下院議員に当選し、12年間在職した。連邦上院選挙の予備選でジョンソンは現職知事を圧倒的な大差で破り、「地滑り的勝利のジョンソン」と呼ばれた。その後、連邦上院議員として12年間在職した。民主党の院内総務に選ばれ、議員の間で大きな影響力を持った。1960年の民主党の大統領候補指名選でケネディに敗れたものの副大統領候補指名を獲得し、本選で当選した。ケネディの暗殺後、昇格して大統領に就任した。

リンドン・ジョンソン 偉大な社会
 ジョンソンはケネディの政策を継承し、公民権法を成立させた。再選後、「偉大な社会」構想を打ち出し、「貧困との戦い」を宣言した。それは、初等・中等教育への助成、黒人の投票権の保障、国別移民数割り当ての廃止、老人医療保険などの関連法案を成立させた。外交面ではトンキン湾事件を契機にベトナムへの介入を深めた。ベトナム戦争が泥沼化するにしたがって国民の支持を失った。


リンドン・ジョンソン政権の概要
公民権

 ダラスでの悲劇によって大統領職はリンドン・ジョンソンに受け継がれた。ケネディに同行していたジョンソンは暗殺事件が起きた後、ケネディの遺体に付き添ってダラス空港の大統領専用機に乗り込み、ワシントンに向かうように命じた。1963年11月22日14時38分、ジョンソンは大統領専用機の中で大統領就任宣誓を行った。5日後に議会で行った演説の中でジョンソンは「我々は続けようではないか」と述べて、ケネディが推進しようとした政策を続行することを誓った。ジョンソンは1960年の大統領選挙で地理的均衡を保つために副大統領候補に選ばれた。ジョンソンの南部、特にテキサス州やルイジアナ州での活躍は、ニクソンに対する辛勝に大きく貢献した。副大統領になる前、ジョンソンは上院で有能な政治家として知られ、アイゼンハワー政権期に院内総務として大きな影響力を及ぼした。議会政治の権化が大統領制度が求める資質にうまく適合できるかどうかは未知数であった。
 引継ぎの大統領としてのジョンソンの挑戦は、南部の調停役が亡き大統領の座を奪ったという多くのリベラル派の心情によってより困難なものとなった。特にケネディによって平等と公正を獲得する希望を抱いたアフリカ系アメリカ人は「ある日の朝、彼らの将来が南部出身の大統領の手中にあることに気付いて」狼狽した。ケネディの公民権法案の法制化を妨害したのは南部の民主党議員であった。ジョンソンが大統領になった瞬間から報道は、リンドン・ジョンソンがアンドリュー・ジョンソン以来、初めて大統領となった南部人であると伝えた。
 こうした障害にも拘わらず、ジョンソンは着実に権限を掌握していった。実際、ジョンソンは国民を安心させるだけではなく、自身のリーダーシップに信頼を抱かせた。ケネディの暗殺後、ジョンソンは国民の悲しみを道徳的十字軍に転向させることができた。ジョンソンの十字軍はニュー・フロンティアの完遂を超えて拡大された。ジョンソンは、フランクリン・ローズヴェルトの業績に匹敵するだけではなく、それを超えた業績を達成し、最も偉大な大統領になることを目標とした。
 多くの点でジョンソンは近代的大統領制度の求める資質、特に人民を教化する役割に適していなかった。他の国家を作り変えたいと望んだ近代的大統領と違って、ジョンソンは演説によってもたらされる大統領の権威を軽視した。しかし、その他の点でジョンソンは近代的大統領制度に大きな影響を与えた。ジョンソンは、ケネディ政権に進行した大統領制度の権限と独立の強化を続けた。ジョンソン政権が「大統領政治」の頂点を示したのはまず間違いがない。しかし、残念なことにジョンソンの失敗は、1930年代以来初めて、公共の利益のために大統領はいつでも権限を行使するという前提に深刻な疑問をもたらした。
 ジョンソンは自らの最初の仕事は、公民権、減税、医療保険などケネディのニュー・フロンティアの法制化であるとした。議会はそうした政策を即座に法制化した。その中でも代表的なのが1964年公民権法である。ケネディが亡くなった時、公民権法案は上院で否決されていた。しかし、亡きケネディの思い出を利用し、議会政治における卓越した技量と経験で以ってジョンソンは勝利を収めた。
 公民権法は公共施設や連邦事業の契約者を対象にしていたので、大統領に与えられる差別撤廃のための権限は制限されていた。しかし、ジョンソンは差別撤廃のための権限を自由に行使した。政府事業の契約者の間における差別を防止するために作られた連邦契約遵守局を通じて、ジョンソンは積極的差別是正措置政策を推進し、多くの政治的前例を作った。
 上院で多数派の指導者であった時、ジョンソンの最大の強みは個人的説得力であった。同様にジョンソンは大統領として上院の共和党指導者であるエヴェレット・ダークセン(Everett C. Dirksen)を法案を支持するように説得し、さらに他の穏健な共和党議員の支持も得た。しかし、それは政治的代価を伴った。ダークセンは、雇用機会均等委員会の権限を制限し、司法省の差別待遇をとっている実業に対して訴訟を起こす権限を制限する妥協を主張した。こうした妥協は、穏健的な共和党議員の過大な官僚制度と過度な訴訟への嫌悪と南部で確立した人種的分離を根絶させるという公民権法案の主要目的を損なうことなく、実業を連邦機関からの介入から守りたいという希望から応じた結果であった。
 ジョンソンとダークセンが形成した超党派的な連帯は公民権に反対する保守連合の終焉の前兆であった。初めて上院は、公民権法案の成立を阻止しようとする南部の議事妨害に対して討論を即決投票のために打ち切った。議事妨害が終わると議会はすぐに公民権法案を可決し、1964年7月2日、ジョンソンは同法案に署名した。1964年公民権法は、雇用上の差別だけではなく、ホテル、レストラン、その他の公共施設における人種的隔離を禁じ、人種的隔離撤廃の告訴を開始する権限を司法長官に与えた。
 1964年公民権法案の法制化は議会の指導者としての大統領の地位の復活を示していた。さらに重要なことに、同法によって大統領と行政組織は人種差別を禁止する継続的な努力をするようになった。特に司法省、保健教育福祉省、そして雇用機会均等委員会は公民権を執行する仕組みを作ることで裁判所を支援した。こうした処置は効果的であった。例えば、4年以内に、ジョンソン政権は裁判所がそれより以前の14年間で達成したよりも多くの数の南部の学校で差別撤廃を達成した。
 また1965年投票権法は、差別的な読み書き能力の審査を違法とし、連邦政府に有権者登録を推進する権限を与えた。その結果、少数派の投票が著しく増加した。1968年公民権法は、住宅の販売や賃貸に関する差別を禁じ、公民権侵害に対する連邦の刑罰を厳格化した。こうした公民権法に加えて1965年移民法も重要である。ジョンソンはケネディが1963年7月に提案した移民法案を一部取り入れた法案を議会に送り、巧みな政治的技量で成立させた。1965年移民法は、従来の国別の移民割当そのものを廃止し、年間の総移民数を29万人とし、今まで制限がなかった西半球に12万人の上限を課し、東半球に17万人の枠を与え、1国当たりの限度を2万人にすることを認めた。同法は1964年公民権法と1965年投票権法と並んで人種的、民族的差別を否定した画期的な法であった。
 こうした公民権における急激な進歩は、黒人の過激主義や暴力も伴った。キング牧師や全国有色人種向上協会などは非暴力を誓っていたが、好戦的な者も台頭し始めた。1966年、カリフォルニア州オークランドでブラック・パンサーが結成され、白人支配に対する反乱を提唱した。1964年から1968年にかけて国中で暴動が散発し、1967年だけで100以上の都市で暴動が発生し、100人以上が死亡し、数千人が負傷し、1万2,000人以上が逮捕された。
 こうした国内の動乱があったとはいえ、ジョンソンの公民権をめぐる戦いの勝利は民主党内のリベラル派を感嘆させた。しかし、公民権は始まりに過ぎなかった。ジョンソンは「多くの人々は我々が1964年公民権法の勝利の後に休息し、議会に対して気長に構え、官僚制度と国家に息をつかせる余地を残すべきだと感じていた。しかし、休息している時間はない」と記している。

偉大なる社会

 ジョンソンはケネディの計画を超えて「偉大なる社会」を実現しようとした。1964年の選挙でジョンソンと民主党は共和党に対して完全な勝利を収め、偉大なる社会を実現する機会が訪れた。1964年の勝利は、1936年のフランクリン・ローズヴェルト以上の信任が国民からジョンソンに与えられたことを意味していた。ジョンソンは一般投票で61.1パーセントを獲得し、民主党は選挙前よりも下院で37議席、上院で1議席をさらに多く獲得し、上下両院で圧倒的多数を占めた。
 1964年5月22日、ジョンソンはミシガン大学で行った演説で初めて偉大なる社会の構想を発表した。ジョンソンは過去の改革が始まりに過ぎなかったという大胆な見解を示した。

「1世紀の間、我々は大陸に定住しようとし、大陸を征服しようとしてきた。半世紀の間、我々は国民のすべてが豊かさを享受できる体制を創るために無限の創造と倦むことのない努力を求めた。これからの半世紀の間、国民生活を豊かにし向上させるために自分達の富を使う知恵、我がアメリカ文明の質を高める知恵を我々が持つか否かが試される。あなた方の想像力、率先、そして義憤が我々の創る社会で進歩は人々が求めに従うのか、それとも古い価値も新しい構想も放埓な発展の下に埋もれてしまうのかを決定する。それと言うのも、あなた方の時代は、豊かで強力な社会に向かって進む道だけではなく、偉大なる社会に向かう道も開かれているからである。偉大なる社会はすべての人々の豊かさと自由に基づいている。偉大なる社会は、我々が完全に身を捧げた貧困と人種的不公正の終焉を求める。しかし、これは始まりに過ぎない。偉大なる社会は娯楽が、怠惰と緩慢といった恐れられる主義ではなく、建設的で考察するべき歓迎される機会となる場である。偉大なる社会は、都市の住民が身体の必要性と商業の要求に応じるだけではなく、美の要望と社会の熱望に応じる場である。偉大なる社会は絶えず更新される一種の挑戦であり、我々の人生の意味が労働の素晴らしい果実と調和する世界へ我々を導く挑戦である。それ故、今日、私はあなた方に、偉大なる社会の建設を始める3つの地点、都市、地方、そして学校について話そうと思う。今日、アメリカの都市で良い生活をすることはますます困難になっている。その悪弊を列挙すればきりがない。都心部は荒廃し、近郊の良さも失われている。国民には十分な住宅がなく、交通には十分な輸送機関がない。広大な土地は姿を消しつつあり、昔の景観は破壊されている。都市の膨張の最悪の結果は、隣人との一体感、及び自然との交流という貴重で古くから尊重されてきた価値の腐蝕である。我々の社会は都市が偉大になるまで決して偉大であるとは言えない。我々が偉大なる社会の建設に取り組む第2の場所は地方である。強いアメリカ、自由なアメリカだけではなく、美しいアメリカを我々は常に誇りにしてきた。今日、その美しさは危険にさらされている。我々が飲む水、食べる物、呼吸する空気そのものが汚染に脅かされている。偉大なる社会を建設すべき第3の場所はアメリカの教室である、我々はすべての子供達に教室と教師を与えなければならない。貧困が学習の妨げになってはならず、学習は貧困からの脱出法を提供しなければならない。以上が偉大なる社会の3つの中心的課題である」

 特に偉大なる社会の重要な要素である貧困に対する戦いは、貧困者を抑圧してきた構造的欠陥を是正することで貧困を軽減しようとする試みである。貧困に対する戦いについてジョンソンは1964年の一般教書で以下のように語っている。

「今日、この政権は只今、アメリカの貧困に対する無条件の戦いを宣言する。私は議会とすべてのアメリカ人がこの試みに私と共に参加してくれるように求める。それは短くたやすい戦いではなく、1つの武器や戦略では十分でないが、我々は戦争に勝つまで休息しないだろう。我々はこの戦いに敗れる余裕はない。今日、失業した若者に1,000ドル投資すれば、若者の人生の期間で4万ドル以上になって戻ってくる。貧困は国家の問題であり、全国的な組織と支持の改善を必要とする。しかし、この攻撃を有効にするためには、州と地方の水準で組織されなければならず、州と地方の努力によって支持され、指示されなければならない。貧困に対する戦いはここワシントンのみでは勝利できない。畑で、あらゆる家庭で、裁判所からホワイト・ハウスに至るまであらゆる役所で勝利しなければならない」

 大統領選挙で勝利して2期目に突入したジョンソンは、高齢者医療保険制度、連邦による学校に対する補助金支給、失業者への職業斡旋の強化、貧困家庭の児童に対する就学前教育の拡充などを矢継ぎ早に実現した。ジョンソンの偉大なる社会の構想は広範な立法提案を伴った。ジョンソンの立法提案は第89議会に提出された。議会は熱心にジョンソンの要請に応じた。1965年だけでも議会は80に及ぶジョンソンの立法提案を法制化し、否決したのは僅かに3例のみであった。こうした新しい法の中には、公的医療保険制度、貧困に対する戦い、運輸省の設立、住宅土地開発省の設立、1965年投票権法、高齢者法、初等中等教育法、高等教育法、公正住宅法、公正労働基準法、大気汚染規制法など重要な法が含まれる。1965年から1966年にかけて議会は130にのぼる政府事業を制定した。連邦から州政府や地方政府への補助金は、保健、福祉分野を中心に爆発的に増加した。偉大なる社会に関連する立法提案で成功を収めたのは、ジョンソンが法の行政細目を決定する自由裁量権を効果的に利用したからである。つまり、ジョンソンは、議員と交渉するうえで選挙区の企業に連邦の事業を請け負わせ、地方政府に補助金を与える権限を有効に活用したのである。
 ジョンソンの経済機会局はニュー・ディールの先例を手本とし、社会保障政策に関与した。経済機会局は職業訓練、住宅支援、教育拡充、食料衣料助成、基本的な医療などを提供した。職業部隊は16歳から21歳の不利な立場にある青少年に職業訓練を提供した。アメリカに奉仕するボランティアは、国内版の平和部隊であり、国内貧窮地域の生活向上を目的としてボランティアを派遣した。勤労学生事業は、大学に通うために働く低収入の家族の学生に仕事を斡旋した。労働経験事業は、貧困家庭の児童に保育やその他の支援を提供した。共同体行動事業は、不利な立場にある就学前児童を支援し、不利な立場にある高校生を指導し、高齢者のボランティアを児童保護施設の子供と友達にさせ、貧困者に対する法的支援を行った。貧困に対する戦いは、教育改革を伴い、連邦資金が学校施設、教師、学生のための資金として州や地方に拠出された。さらに住宅土地開発省は、建築計画や公共インフラの改善によってアメリカの都市の再生を目指した。経済機会局や住宅土地開発省は、社会保障に関連する重要な機関であるが、福祉国家の拡大に関するジョンソンの主要な業績は高齢者を対象とした医療保険と貧困者、身体障害者、母子家庭を対象とした医療補助である。

行政制度改革

 ジョンソンの政治過程の支配は大統領制度に継続的な影響を与えた。その影響の中にはケネディ政権から続いているものもあった。偉大なる社会の計画は大統領の構想に新しい意味を与えた。大統領の構想に即座に反応する政策形成の場としてホワイト・ハウスがさらに重要性を増した。同時に省庁の官僚や予算局の専門的な政策分析官の政策形成に対する影響力は減少した。さらにジョンソンは政党を超えた個人的な統治上の提携を形成した。ジョンソンのリーダーシップは大統領としての交渉力、巧みな策略に依拠していた。
 アイゼンハワー政権以来、大統領は行政制度改革を支配し、改革の試みは近代的大統領制度の人事制度と噛み合っていた。さらに議会による度重なる大統領への再編権限の授与はさらに行政制度改革の主導権を大統領に与えた。1964年、ジョンソンは10人から構成されるダン・プライス(Don K. Price)を長とする政府再編に関する特別調査委員会を設立した。予算局からの支援を受け、プライスは1964年11月6日に報告書を提出した。報告では、多くの省庁再編、大統領府の改善、政府高官の改革が提唱された。プライス特別調査委員会は、改革の主題に、近代的な手法を用いた政策評価を行う能力を大統領府に備えるという革新的な理念を導入した。しかし、ジョンソンがプライス特別調査委員会の提言を受け入れたかどうかは明らかではない。
 1966年の一般教書でジョンソンは、偉大なる社会は、変化の必要性に対応できない行政組織の配置をなくす必要があると述べた。9月、ジョンソンは、ベン・ハイネマン(Ben Heineman)を長とする政府組織に関する特別調査委員会を設置した。ハイネマン特別調査委員会はプライス特別調査委員会よりもホワイト・ハウスと協力を深めて調査を進め、偉大なる社会政策の編成という特別の任務を担った。ハイネマン特別調査委員会は、行政制度改革に、省庁の再編において関連する活動を大きな1つの複合体、超省庁に統合するという新しい理念を付け加えた。さらにハイネマン特別調査委員会は、公共政策にに対するプライス特別調査委員会の関心を拡大して、大統領府に公共政策を調整する役割を担う組織を創設するように提言した。ハイネマン特別調査委員会の提言の幾つかは1967年機会平等法に組み込まれたが、その主要な提言はヴェトナム戦争の影響によってジョンソン政権が弱体化した時になされた。プライス特別調査委員会とハイネマン特別調査委員会の影響はジョンソン政権を超えて存続し、ニクソン政権の行政制度改革に組み込まれた。
 大統領の政策形成における個人化はジョンソン政権で拡大しただけではなく組織化された。ジョゼフ・カリファノ(Joseph Califano, Jr.)内政担当ホワイト・ハウス首席補佐官は、政府役人と学識経験者からなる大統領に国内政策に関して提言する責任を負った特別調査委員会の創設を監督した。特別調査委員会は、貧困、環境、都市計画、教育補助などを含む国内政策のあらゆる分野にわたる報告と提言をまとめた。ジョンソン政権は特別調査委員会を政治的圧力から守るように多大な注意を払い、その進行を秘密にした。さらに特別調査委員会の構成員は、提言が議会や政党の指導者に受け入れられるかどうか心配する必要はないと指示された。
 特別調査委員会の幾つかの提案は公共政策となった。実際、特別調査委員会は偉大なる社会政策の中核を形成した。政策形成過程をホワイト・ハウスの監督下に置くことで、ジョンソンは伝統的な組織上の制約から解放された。特別調査委員会を使う手法は、既存の省庁の消極性や保守主義とジョンソンが見なすものを回避するのに役立った。カリファノが創設した特別調査委員会は、ニクソンが創設した国内政策会議の先駆となった。ジョンソンが導入したこうした立法計画を進める方法の変化は、大統領制度の重要な組織的変化であり、従来の過程では、国家が直面している重要な問題に対処する新しい革新的な方法を生み出すことはできないというジョンソンの信念に基づいていた。
 ジョンソン政権の初期は、「大統領政治」の歴史的頂点の1つであった。ホワイト・ハウスと大統領府は、フランクリン・ローズヴェルト政権以来、政策形成においてますます活動的になった。ジョンソンの下で、政策に関する責任は大統領に前例のない程、集中した。主要な国内政策の刷新はホワイト・ハウス内で考案され、大統領の政治的手腕と議会連絡を担当する職員によって議会を通して促進され、大統領の指示に応じるように刷新された省庁によって管理された。ジョンソンは政党を超えた個人的な影響力による政治的連合を築いた。ジョンソンのリーダーシップと政策の成功は、大統領の政治的手腕、交渉力に依存していた。
 すぐにジョンソンはあまりに手を広げ過ぎたことが分かった。皮肉なことに、大統領制度の個人化によってジョンソンの凋落がもたらされた。ジョンソンは政府の内部で働きかける有能な才能を持っていたが、大統領職に必要とされるようなやり方で世論を喚起することができなかった。ジョンソンは国内政策を最終的にうまく実行するのに必要な人民の安定した支持基盤を築くことができなかった。ジョンソン自身も大統領としての最大の欠点は、すべての国民を結集させる能力の不足にあるとした。
 セオドア・ローズヴェルトとウィルソンから始まって、近代的大統領制度は、大統領は人民の意思の道具であり形成者であるという理論に基づいてきた。しかしながらジョンソンは、国家の長期的な利益になるように願った政策を追求する際に人民を主導するリーダーシップを発揮しようとしない傾向があった。ジョンソンの途方も無い抱負は、近代的大統領制度の政治的負担を増大させた。ジョンソンが政治過程を明らかに支配していたので、もし偉大なる社会が失敗に終われば、議会ではなく大統領が批判されるのは自明の理であった。

最高裁判事指名

 1968年、ジョンソンはエイブ・フォータス(Abe Fortas)最高裁判事を最高裁長官に指名した。ジョンソンの親友であり助言者であったフォータスの指名は、フォータスのリベラルな判決に反感を抱く保守派から強い抵抗にあった。上院司法委員会で行われた公聴会でフォータスはジョンソンとの関係や私企業から受け取っている高額な講演料などについて厳しい質問を浴びせられた。共和党の上院議員はフォータスの指名に対して議事妨害を行った。その結果、フォータスは指名を撤回した。フォータスの指名をめぐる争いは大統領の判事指名が政治的な争いの犠牲となる最初の顕著な例であった。

ヴェトナム戦争

 東南アジアでの戦争は、ジョンソンの欠点と大統領政治の困難な側面を示していた。ジョンソンはケネディと同じくドミノ理論を継承し、ヴェトナムの共産化を阻止することがアメリカの国際的な威信に繋がると確信していた。そして、ソ連の膨張主義を封じ込めることができると信じていた。1965年にジョンソンは共産主義者の南ヴェトナムに対する侵攻はアメリカ軍の大規模な展開によってのみ阻止され得ると結論付けた。ジョンソンの政治的連合を形成する能力によって、戦争のアメリカ化が維持された。初めは議会からも人民からもほとんど抵抗を受けることなく、アメリカ軍は1964年の2万3,000人から翌年には18万1,000人、翌々年には38万9,000人、そして1967年には50万人に増員された。
 東南アジアでの戦争は、前例のない様相で大統領の戦争と化した。少なくともトルーマンは国際連合の指示に従うという名目の下で朝鮮に出兵していた。しかし、ヴェトナムへの出兵は、合衆国の介入を正当化する根拠は何もなかった。議会も宣戦布告を行っていなかった。議会が可決したのはトンキン湾決議のみである。北ヴェトナムの沖合でアメリカの駆逐艦が攻撃された事件の後、トンキン湾決議は1964年8月7日に採択された。実はトンキン湾決議が採択される前に、ジョンソンは国民に向かって北ヴェトナムに対して報復として空爆を行うように命じたと伝えた。

「大統領と最高司令官として、トンキン湾内の公海上でアメリカの艦船に対する新たな敵対行動により、合衆国軍に報復行動をとるように命じなければならなくなったとアメリカ国民に報告するのは私の責務である。駆逐艦マドックス号への最初の攻撃は8月2日に行われたが、今日、多くの敵船が魚雷で合衆国駆逐艦攻撃することにより、そうした攻撃が繰り返されることになった。最初の攻撃が行われた後に駆逐艦と支援航空機がすぐに行動した。少なくとも2隻の攻撃艇を撃沈したと我々は思っている。合衆国の損失はない。この交戦における指揮官と乗組員の仕事振りはアメリカ海軍の最も素晴らしい伝統を成している。しかし、アメリカ軍に対して繰り返される暴力行為には、警戒的な防衛のみならず、積極的な報復で以って応じなければならない。私があなた方に今夜話したように報復は続けている。ガンボートと敵対的な作戦で使われている北ヴェトナムの支援施設に対して今、空軍の軍事行動を実行中である。より広い意味では、我が軍に直接向けられたこの新たな攻撃行動は、合衆国の我々全員に、東南アジアの平和と安全のために戦う重要性を再び思い知らせた。南ヴェトナムの平和な村々に対するテロ行為による攻撃は、公海上でのアメリカ合衆国に対する公然たる攻撃とつながっている。南ヴェトナムの国民と政府に全力で協力しようというすべてのアメリカ人の決意は、怒りにより倍増させられた。だが我々の反応は今のところ、制限的なものであるし適切なものである。我々アメリカ人は、他の者は忘れているように見えるが、紛争が拡大する危険を知っている。我々はさらに戦争を拡大させることを望んではいない。最後に今日、私は合衆国議会の指導者と会談し、東南アジアの自由を支持するために、平和を守るためにすべてのあらゆる方法をとるという決意の下に我が政府が団結していることを明らかにする決議を即座に議会が通過させるように私は要請していると伝えた」

 ジョンソンがとった措置は明らかに議会の承認なしに行われている。またアメリカ軍は、南ヴェトナム軍による北ヴェトナム攻撃に協力していたうえに、北ヴェトナム領内での隠密作戦の計画を練っていた。そうした事実をジョンソン政権は議会から隠蔽し、アメリカ軍は南ヴェトナムの作戦に一切関与していないと答えた。トンキン湾決議によって大統領に、アメリカ軍に対する攻撃を撃退するのに必要なすべての手段をとる権限が与えられた。ジョンソンは、トルーマンが朝鮮戦争に議会の支持を求めなかったために政治的過ちを犯したと考え、議会の支持を取り付けようとしたのである。しかし、トンキン湾決議は宣戦布告に相当するものではなかった。ジョンソンはトンキン湾決議を自らの政治的弱点を守る便利な道具と見なし、ヴェトナムで軍を展開するのに必要なすべての憲法上の権限を与えるものだと考えていた。後年、記者会見で、トンキン湾決議はヴェトナム戦争を行う正当な根拠となったのかという質問がなされた。それに対してジョンソンは議会の支持は政治的に望ましいが、憲法上、必要はなかったと答えた。最高司令官として大統領は既に共産主義の攻撃を抑止する権限が与えられていたとジョンソンは主張した。議会はトンキン湾事件に関してほとんど何も調査を行おうとしなかったし、危機を引き起こした秘密の活動を監視しようとしなかった。また軍事的措置を定義しようともしなかったし、限界を定めようともしなかった。トンキン湾決議は、議会が責任を放棄した例であり、議会が大統領の権限拡大を抑制し得なかった例である。
 実はトンキン湾事件はアメリカの自作自演であった。1971年にニュー・ヨーク・タイムズ紙がこのトンキン湾事件の真相を暴露した。北ヴェトナム沿岸でアメリカ艦船は、中央情報局が支援するゲリラによる北ヴェトナム襲撃のために電子的な偵察を行っていたのである。ジョンソン政権はそうした作戦をもちろん知っていたが、議会に公海上で通常の哨戒活動を行っている時に攻撃を受けたと伝えたのである。8月2日、北ヴェトナムはトンキン湾内の島に対して行われたゲリラの攻撃に反応して攻撃を行った。ジョンソン政権は、さらなる攻撃を引き起こすためにアメリカの駆逐艦に11マイル以内の領海に故意に侵入するように命令した。その結果、トンキン湾決議の主な理由となった8月4日の攻撃が引き起こされたのである。アメリカはトンキン湾事件を捏造することでヴェトナム戦争を本格的に拡大させる引き金を自ら弾いたのである。
 しかし、ジョンソンはトンキン湾決議で獲得した権限をすぐに行使しようとはしなかった。大統領選挙が終わり、次の任期が始まるまで積極的な行動を控えようと考えたためである。1965年2月7日、ジョンソン政権にとって武力行使開始に好都合な事件が起きた。北ヴェトナム政府の支援を受けた南ヴェトナム解放戦線がアメリカ軍の施設を攻撃したのである。ジョンソン政権はその報復として大規模な北爆を開始した。1965年3月までに爆撃は日常的に繰り返されるようになった。さらに海兵隊3万5,000人が派遣され、ローリング・サンダー作戦が開始された。こうした作戦は当初、空爆による大量破壊によって北ヴェトナムの戦意を挫く、政治的、心理的効果を狙ったものであったが、次第に北から南への輸送路を遮断して南ヴェトナム解放戦線の戦闘能力を低下させるという方向に重点が移った。
 アメリカは南ヴェトナムの防衛で停滞するようになった。アメリカ軍はイア・ドラングの戦いで北ヴェトナム軍に勝利したが、そうした正面攻撃による勝利は稀であった。北ヴェトナム軍はアメリカ軍に正面攻撃を挑むことはほとんどなく、南ヴェトナム解放戦線を利用してアメリカ軍を損耗させる作戦をとったからである。北ヴェトナム軍はラオスとカンボジアを経由するホー・チ・ミン・ルートを通じて南ヴェトナム解放戦線に補給を行った。ホー・チ・ミン・ルートは密林を通っていたためにアメリカは補給路を断つことができなかった。しかし、ジョンソンはアメリカ軍の増強によって南ヴェトナム解放戦線の南ヴェトナム掌握を防止し、北ヴェトナムを平和交渉の場に着かせることができると信じていた。ジョンソンが最も避けたかったことはヴェトナムが北ヴェトナムの手で再統一されることであった。
 
ヴェトナム情勢の悪化
 
 1968年までにヴェトナムの軍事情勢は悪化し、ジョンソンの政治的立場は困難な状況下に置かれた。アメリカ軍の地上軍の大量投入、北爆、索敵撃滅作戦など様々な手段がとられたが戦況は変わらなかった。ジョンソンは国内からの批判や反戦ムード、アメリカ軍の失態などにより窮地に立たされた。さらに1968年1月末からの旧正月(テト)に南ヴェトナム全土で解放戦線が一斉蜂起した。いわゆるテト攻勢である。サイゴンのアメリカ大使館でさえ一時的に解放戦線によって占拠された。この状況はアメリカ全土に報道され、ジョンソン政権のヴェトナム政策に対して国民に強い不信感を持たせることになった。特にテト攻勢の際に逮捕された解放戦線将校の公開処刑シーンの放映は全世界に衝撃を与えた。アメリカ軍司令官はテト攻勢で圧倒的な勝利を収めたと宣言したが、その勝利を確実なものとするためにさらに20万6,000人の増派を求めた。しかし、増派のためには州兵や予備役の召集も必要となり、アメリカ国民の反戦感情を高めることが予想されたのでジョンソン政権は要求を拒んだ。
 1968年3月には、ソンミ事件が起きた。それは、ソンミ村の住人をアメリカ軍が虐殺した事件である。ゲリラと一般人の区別をすることは非常に難しく、アメリカ軍は、どこから襲われるか分からない恐怖に怯えていた。その過剰反応が、婦女子や老人も差別無く虐殺するという事件を引き起こしたのである。さらにアメリカ軍は核兵器以外のありとあらゆる兵器を使用している。特に枯葉剤の投下は有名である。これは生態系の破壊を目的にしたものでゲリラが潜伏できるジャングルを根本的に壊滅させようと考えたのである。枯葉剤は、ヴェトナムにおける奇形児の増加やアメリカ軍兵士の癌による死亡率の増加など戦後も深刻な後遺症を残すことになった。また枯葉剤の使用は化学兵器の使用を禁止する国際法に違反していた。
 またジョンソン政権の楽観的な姿勢に対して、戦死者は増大し、1967年末には1万人近くもの戦死者を数えた。ヴェトナムの戦場で国防総省は、アメリカ人の記者にほとんど何の制限も課さず、兵士達に自由に取材させた。ヴェトナム戦争は情報統制がほとんど行われず「お茶の間の戦争」と呼ばれた程、生々しい戦場の様子が報道されていた。このことは国民の反戦ムードを高める大きな原因となった。1967年にはヴェトナム派兵に反対する人の割合が賛成する人の割合を上回った。1968年2月、CBSのウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)はニュースでヴェトナム戦争でアメリカは勝利しないと宣言した。ジョンソンは側近に「もし私がクロンカイトを失えば、私はアメリカ中部を失う」と語った。

結語

 1968年3月31日、テレビを通じてジョンソン大統領は、北ヴェトナムに対して北爆の部分的停止と和平交渉をよびかけるとともに、大統領選挙に出馬しないことを表明し、国民と世界を驚かせた。しかし、大統領制度が大幅な権限を持っているというジョンソンの信念は失われなかった。ヴェトナムの軍事情勢が悪化した中でもジョンソンは偉大なる社会の実現を諦めなかった。実際、ジョンソンは軍事と民生、すなわちヴェトナム戦争と偉大なる社会を同時に充実させる政策を提言した。しかし、そうした政策は経済にインフレの重荷を負わせることになった。またヴェトナム戦争は行政権の濫用や市民的自由の侵害を招き、1960年代後半から1970年代初頭にかけてアメリカに分裂と暴力的抗議行動をもたらした。さらにヴェトナム戦争はアメリカ政治の再編を促した。民主党は反戦運動や公民権を求める抗議運動で分裂して弱体化した。その一方で、共和党は伝統的に民主党支持を貫いてきた「堅固な南部」を取り込むことに成功した。
歴代アメリカ合衆国大統領研究