ウッドロウ・ウィルソン 第28代アメリカ合衆国大統領

ウッドロウ・ウィルソン

Woodrow Willson
(Thomas Woodrow Wilson)
生没年(1856年12月29日〜1924年2月3日)
在任期間(1913年3月4日〜1921年3月4日)
 
ウッドロウ・ウィルソン大統領の概要
南北戦争の記憶
 ウッドロウ・ウィルソンはヴァージニア州ストーントンで生まれた。父ジョゼフ(1822.2.28-1903.1.21)と母ジェシー(1826.12.20-1888.4.15)の4人の子供の3番目であった。父ジョゼフは長老派教会の牧師であった。ウィルソンの幼少期の記憶は、南北戦争が始まりそうだという通行人の言葉だったという。南北戦争のためにウィルソンは9才まで学校に通うことができなかった。ウィルソンはカレッジ・オヴ・ニュー・ジャージー(現プリンストン大学)を卒業後、ヴァージニア大学ロー・スクールに進んだ。弁護士として開業後、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院で博士号を取得した。

プリンストン大学学長
 各校で政治学と歴史を教授したウィルソンは母校に戻って教鞭を執った。8年間にわたって学長に在職したが、ニュー・ジャージー州知事選挙に立候補するために辞職した。州知事としてウィルソンは各種の改革を断行し、政治ボスとの対決姿勢を示した。1912年の大統領選挙で民主党候補となり、共和党の分裂のおかげで当選を果たした。

第1次世界大戦
 ウィルソンは大統領としてクレイトン反トラスト法をはじめとする改革的な諸法案を成立させた。第1次世界大戦の勃発に際して、当初は中立政策を堅持したが最終的には参戦に踏み切った。14ヶ条の原則を公表し、戦後の世界構想を明らかにした。パリ講和会議に出席したウィルソンは国際連盟を提案したが、上院の強硬な反対にあって非加盟に終わった。


ウッドロウ・ウィルソン政権の概要
1912年の大統領選挙

 多くの革新主義者が当選することで民主党は再生を果たしていた。新たに選ばれた民主党の革新主義者の1人がウィルソンであった。1912年、46回目の投票で民主党全国党大会はウィルソンを大統領候補に指名した。ブライアンが民主党の保守派をうまく阻むことを期待してウィルソンに全面的な支持を与えることでウィルソンの指名は確定した。1912年の大統領選挙における民主党の勝利は南北戦争以来、3度目の勝利であった。さらに民主党は上下両院で多数派を占めた。
 民主党の勝利は共和党の自壊なしでは起こらなかっただろう。共和党の革新派はタフトに反旗を翻し、ロバート・ラフォレット(Robert LaFollette)を大統領候補に担ぎ出そうとした。ラフォレットが中西部以外の支持を獲得するのに失敗すると革新派の注目はセオドア・ローズヴェルトに向けられた。ローズヴェルトは革新派の7人の州知事の要請によって2月21日に大統領選挙に打って出ることを表明していた。革新主義の遂行のために立候補が必要であるという説得を受けてローズヴェルトは大統領選挙に再出馬しないという約束を反古にしたのである。ローズヴェルトは急進主義に転向し、富裕者の富を公共の権利に委ね、その富の事業への使途は公共の福祉の要求に従って規制すべきであると主張した。さらに国民に発議権と国民投票、裁判所の判決に対する撤回を求める権利を与えるべきだとした。
 1912年の大統領選挙では初めて予備選挙において一般党員の投票が全国党大会への代表の選出に大きな意味を持った。一般の共和党員はローズヴェルトを強く支持した。タフトはローズヴェルトが階級間の憎悪を扇動していると批判した。ローズヴェルトは飼い犬に手を噛まれたと言ってタフトを批判した。タフトと大部分の指導者は大統領候補指名過程の変革に関心を示さなかった。しかし、ローズヴェルトが一般党員の選挙による予備選挙を主要な課題にしたために、既に一般党員の投票による予備選挙を採用していた7つの州に加えて、マサチューセッツ州、ペンシルヴェニア州、イリノイ州、メリーランド州、オハイオ州、そしてサウス・ダコタ州の6つの州が同様の方式を採用した。その結果、一般党員の投票によって代表を選出する13州では、ローズヴェルトが276人の代表を獲得した。それに対してタフトは46人、ラフォレットは36人に過ぎなかった。しかもローズヴェルトはタフトの出身州であるオハイオ州でも圧倒的な票差で勝利した。しかし、1912年においては依然として多くの代表が党の指導者達によって支配されている州の党大会によって選ばれていた。党の指導者達は急進的なローズヴェルトよりも穏健なタフトを支持した。
 共和党全国党大会でローズヴェルトが指名されないことが明らかになると、ローズヴェルトとその支持者は党を離れ、8月5日にシカゴで革新党として再結集した。ローズヴェルトはニュー・ナショナリズムを推進しようとした。ローズヴェルトはハミルトンの原理を信奉し、強力な中央集権国家、経済生活に対する広範な政府介入、特殊権益からの政治の解放を唱えた。そして、州を越える企業の国家的統制、負傷者、病人、無職者、老齢者に対する社会保障、労災補償、労働時間の制限、累進所得税、相続税、公平な投資を促進するための鉄道資産の厳密な査定、州際通商におけるすべての大企業投資の政府による監督、純粋な民主主義を実現するための憲法修正などがローズヴェルトの提唱する政策であった。革新主義の民主政治の理念は、憲法修正を容易にすること、予備選挙を一般的に適用すること、州の裁判所が違憲だと認めた法に対する住民投票、女性の参政権、そして、労働争議に関する裁判所の強制差し止め命令の制限などによって実現されるものであった。ローズヴェルトは民意を阻害したとして司法府を攻撃して保守派を驚かせた。
 ローズヴェルトが革新党を統制する手腕は並外れていた。1912年の大統領選挙は政党の戦いというよりは個人の候補の戦いであった。ローズヴェルトが革新党の党大会で行った演説は大統領候補によって行われた演説の中で類稀なるものであり、実に52分も続く拍手喝采で迎えられた。ローズヴェルトが演説を「我々はハルマゲドンに立っていて、我々は神のために戦う」という言葉で締め括った時、会場の代表達は「リパブリック讃歌」を歌うことで高揚した感情を辛うじて抑えた。
 1912年の大統領選挙は革新主義の勝利であったが、それはローズヴェルトの勝利ではなくウィルソンの勝利であった。タフトとローズヴェルトの間の中道的な候補者としてウィルソンは票を集めた。リンカンと同じくウィルソンは一般投票で過半数を得ることができなかったが容易に選挙に勝利することができた。ウィルソンは約629万票の一般投票と435人の選挙人を獲得した。ローズヴェルトは約413万票の一般投票と88人の選挙人を獲得した。タフトは348万票の一般投票と8人の選挙人を獲得した。そして、社会党のユージン・デブズ(Eugene V. Debs)が約90万票の一般投票を獲得したことは特筆に価する。
1912年の大統領選挙で旋風を巻き起こした革新党は1916年にローズヴェルトが共和党に復帰した時に実質的に消滅した。ラフォレット上院議員とヘンリー・ウォレス(Henry Wallace)元副大統領は一時的に大統領候補として革新党を復活させたが、革新党は1952年の大統領選挙の後、公式に解散した。
 結局、1912年の選挙は共和党の保守派に対するアメリカ国民の拒絶を示した。共和党の保守派が支持するタフトはヴァーモント州とユタ州の僅か2州しか獲得できなかった。革新主義の政策をそれぞれ掲げるウィルソン、ローズヴェルト、そしてデブズが獲得した一般投票は合計で実に75パーセントに達した。ウィルソンは大統領として革新主義的な経済的、社会的政策を推進する機会を得ただけではなくローズヴェルトが構築した大統領のリーダーシップを再構築する機会を得た。
 民主党は綱領で大統領の任期を1期に限るように憲法を修正することを呼びかけた。しかし、ローズヴェルトの選挙運動によって引き起こされた興奮に感銘を受けたウィルソンはこの綱領をすぐに撤回した。ウィルソンは、民主党の革新派は「あらゆる方法で人民の権限を拡大しようとしているが、大統領制度に関して、我々は人民を恐れ信用しておらず、憲法の厳格な規定によって彼らの手足を縛ろうとしている」と語っている。大統領の任期を1期に限る提案への支持を減退させようと、ウィルソンは大統領の権限を縮小する代わりに、大統領職をより民主的なものにすることを決心した。

大統領制度に関する政治理念

 ウィルソンは活力と持続性の欠如を改良するためにアメリカの政治制度を支配する原理と制度を改革したいと長らく望んでいた。1879年に学生だったウィルソンは行政府と立法府を緊密に結び付けることを提唱する論文を発表した。ウィルソンはそうした繋がりが、19世紀後半の政治を支配していた議会の権限を高めることで構築できると信じていた。合衆国はイギリス型の内閣制度を導入するべきだとウィルソンは主張した。特にウィルソンは各省庁の長官が立法過程で主導的な役割を果たすことができるように議席を持つべきだと論じた。ウィルソンの観点では、大統領は南北戦争後、無用な存在となり、イギリス国王のように飾り物になっていた。アメリカの政治制度はあまりにも効果的に権力を分立させ過ぎ、政府が一貫した政策を行うことを困難にしていた。イギリスの首相は強い党内規律の下に置いた政党を通じて議会を支配している。イギリスでは党議拘束が強いために党綱領が忠実に実施され易い。しかし、アメリカでは党議拘束が弱いために党綱領の実施が保証されない。大統領は政党の指導者となり、議会を支配し、国民を主導するべきである。
 ウィルソンは抑制と均衡の政治制度をアメリカ版の国会制度に置き換える発想を捨ててはいなかったが、大統領のリーダーシップに関する考え方は劇的に変わった。ウィルソンは合衆国を率いるリーダーシップは強力な大統領制度にあると論じるようになった。明らかにウィルソンはセオドア・ローズヴェルトの影響を受けていた。ウィルソンは特定の政策についてはローズヴェルトと意見を異にしていたが、ローズヴェルトが大統領のリーダーシップの新しい道を切り開いた点は評価していた。1909年にウィルソンは「セオドア・ローズヴェルトについて我々が何を考えたり、何を思ったりしても、我々は彼を積極的な指導者と認めなければならない。彼は議会によって動かされるのではなく議会を率いた。我々は彼のやり方を認めないにしても、彼が議会を彼に従うようにさせたことは認めなければならない」と言っている。
 ローズヴェルトの成功は、立憲政治の新しい理論は強力な大統領のリーダーシップを必要としているとウィルソンに確信させた。行政府と立法府の間に緊密な関係を築くために憲法を修正する必要はないことをローズヴェルトは示していた。ローズヴェルトは大統領の権限を最大限に活用したが、議会を軽視し過ぎる傾向があったとウィルソンは考えていた。1912年の大統領選挙で、ローズヴェルトが政党の介入がない人民による支配を擁護した時、ローズヴェルトのリーダーシップの行き過ぎをウィルソンは確信した。ウィルソンの考えでは、責任ある民主政治は民衆扇動に陥り易い直接的な人民による支配で達成できるものではなかった。最良の選択は、大統領を強力な政党の指導者にすることによって、大統領と議会の間の障壁を壊すことである。この方法によって、不健全な行政権の拡大から国家を守ってきた原理や組織を侵害することなく、立憲政治の様々な要素をうまく噛み合わせることができる。
 ウィルソンは、初めは憲法修正が時代遅れの政治制度を改善する唯一の方策であると考えていたが、レトリック的大統領制度が20世紀の様々な試練を乗り越える方策であると考えるようになった。ウィルソンは大統領のみが人民全体を代表し、国家の選択を行うというジャクソン主義的な観点を認めた。議会が偏狭で特殊な利害を代表するに過ぎないのに対して大統領は唯一の全国的な声を持っている。「国に全国的な声が1つしかないとすれば、それは大統領の声である」とウィルソンは述べている。ローズヴェルトのヘップバーン法をめぐる争いを見てウィルソンは、もし大統領が国民を主導しようとすれば、政党は大統領に抵抗することはできないと考えた。ウィルソンは『合衆国の立憲政治』の中で次のように述べている。

「大統領に国の尊敬と信任を勝ち取らせれば、他のどの人物も大統領を抑制できないし、どのような人物の連合もたやすく大統領を上回ることはできない。大統領の地位は国の関心の的になる。大統領は有権者ではなく人民全体の代表である。大統領が真に演説する時、大統領は特殊な利益について演説しているのではない。もし大統領が国民の考えを正しく解釈し、それを大胆に主張すれば、大統領は誰にも抗し難くなる」

 大統領権限に関するウィルソンの理論は、ローズヴェルトの大統領は人民の世話役という理論よりもさらにアメリカの立憲的な秩序の再考を迫るものであった。大統領としてローズヴェルトは均衡と抑制という立憲的な制度を受け入れ、政府が近代産業化社会の諸問題に取り組めるようにハミルトン主義的なナショナリズムを復活させようとした。人民を介して議会に圧力をかけようとした時でさえ、ローズヴェルトは立法府と行政府のそれぞれの独立を守るように配慮していた。立憲的な秩序の伝統を尊重したことは特に国内政策の面で明らかであった。ヘップバーン法の制定を求めて一般の支持を集める運動は最後の手段として行われ、議会の審議を尊重する形で行われた。
 大統領が国家的な問題に対してより直接的に注意を払うべきだという点ではウィルソンはローズヴェルトに同意していた。しかし、ウィルソンは、もし政府機能における根本的な改革がなければ大統領のリーダーシップは十分に発揮されないと考えていた。そのような改革は通常は分離している各府を統合させるものであった。最も重要な点は、政党の指導者としての大統領の役割を強化することである。19世紀の大半に行われたように大統領の権限を制限するのではなく、大統領が議会の支持を得られるように党組織を改革することが求められた。
 大統領としてウィルソンはローズヴェルトの人民を率いるリーダーシップを完成させようと努め、そうしたリーダーシップを議会と民主党の指導者として適用しようとした。ウィルソンはそうした試みに完全に成功したわけではないが、大統領制度に多くの変化をもたらした。人民に訴えかけるレトリックを稀にしか、しかも特定の立法に対してしか使わなかったローズヴェルトと比べて、ウィルソンは国民に絶えず影響を与え続けることが大統領のリーダーシップの中核を成すと考えた。ウィルソンの演説と公式声明の効果的な使用は新しいレトリックの基準を打ち立てた。今や大統領は国家が向かうべき未来を指し示すことが求められるようになった。
 党内での大統領の地位を強化したいと望んだウィルソンは、大統領候補指名の過程、特に党大会を注意深く吟味した。党幹部会に代わる全国党大会の出現は、ある程度、議会への不適切な依存から大統領を解放した。ウィルソンは、党大会制度は猟官制度に根差した州と地方の党組織に基づいているので、近代産業化時代にはふさわしくないと非難した。20世紀の政治は、全国的で実践的な政党から生ずる目的意識を必要とする。
 大統領制度と政党に関する理解からウィルソンは大統領の優越性の支持者になった。第1次一般教書でウィルソンは、議会に一般党員の投票による予備選挙を法制化するように議会に求めた。そうした予備選挙は世紀転換期に革新主義者によって唱導され、多くの州や地方の選挙で行われていた。ウィルソンが提案した全国的な予備選挙は議会でほとんど何の進展も見られなかったが、その民主主義的な精神は、伝統的な党組織による大統領職の掌握に抵抗する改革者を導いた。
 全国的な予備選挙を行うという提案は、大統領の権威を増大させたいというウィルソンの願いの1つの表れであり、政治制度に変革を生み出す大きな可能性を与えた。ウィルソンは大統領に、国民の声を代表し、世論を議会に伝えるという義務を課した。ローズヴェルトはその役割の価値を示した。そして、ウィルソンはその役割を十分に利用し、大統領は、人民と緊密な関係を持ち、人民のために効果的に話す場合のみ強力でいられるという理論を示した。
 ウィルソンは雄弁家であった。しかし、ウィルソンは大衆を喜ばせるような演説家ではなかった。ウィルソンと大衆の関係はまるで教師と生徒の関係であった。ウィルソンの聴衆の中には、ウィルソンの注意深く練られた言葉の意味を完全に理解することができない者もいたが、演説の道徳的意味を誤解することもなく、ウィルソンの自信を疑うこともなかった。ウィルソンは当時の国民の要望を理解できただけではなく、それを言葉に翻訳することもできた。そうすることでウィルソンは人民に訴えかけるレトリックを大統領のリーダーシップの主要な手段にする正当性を獲得した。

報道関係

 人民と緊密な関係を保とうとするウィルソンの姿勢は、報道と議会に対する大統領の関係に革新をもたらした。ローズヴェルトと違ってウィルソンは記者を信用していなかった。そのためにウィルソンは記者と個人的に親しくなることはなかった。その代わりにウィルソンは公式な定例記者会見を積極的に活用した最初の大統領になった。記者会見は特にウィルソン政権の最初の2年間に頻繁に開催された。報道を信用していなかったからこそ、ウィルソンは公式な定例記者会見を始めたと言える。初めて定例記者会見を開いたのはタフトだが、タフトの記者会見は当初、週に2度行われていたが政権の途中からほとんど行われなくなった。またローズヴェルトの非公式な記者会見は親しい記者達に限られた。ウィルソンの定例記者会見はすべての記者に開かれていた。ローズヴェルトと比べて社交的とは言えなかったウィルソンは、公式な記者会見を記者との関係を築く効果的な場として活用した。ウィルソンは、議会が関税改革を行う法案を可決しようとしなかった時、記者会見で議員が特殊権益に屈していると批判して人民に直接訴えかけた。その結果、上院は世論の圧力に屈して関税改革を行う法案を通過させた。
 ウィルソンの初めての記者会見には100人以上の記者が参加した。大統領は演壇の後ろに立ち、反対側に記者達が立っていた。記者会見の雰囲気は堅苦しいものであった。ローズヴェルトは活発に喋る豊富な情報源であったが、ウィルソンは質問を待ち、質問に対して歯切れよく丁寧にできるだけ少ない言葉で答えるのみであった。記者達の数が多かったために、大統領の許可なく大統領の言葉を引用しないという規則が破られる恐れがあった。ウィルソンはもし規則が守られなければ記者会見を続けるつもりはないと宣告した。記者達は規則の徹底を図るためにホワイト・ハウス記者協会を結成した。ホワイト・ハウス記者協会に認められた記者のみが大統領の記者会見に参加することができる。

議会を主導するリーダーシップ

 しかしながらウィルソンは自らの考えを伝えるのに報道に頼っていたわけではなかったし、そもそも報道を信頼していなかった。ウィルソンが好んだ方法は演説や公式声明であった。ウィルソンは一般教書を議会で読み上げる慣習を復活させた。一般教書を議会で読み上げる慣習は、イギリス国王が議会で演説する形式を想起させるという理由でジェファソンによって廃止されていた。ウィルソンが両院に対して関税改正について演説するというホワイト・ハウスの声明は議員達を驚かせた。シャープ・ウィリアムズ(Sharpe Williams)上院議員は、もともとウィルソンの支持者であったが、ウィルソンの行為について、ジェファソンが打ち立てた慣習を破壊するものだとして非難した。ウィリアムズの非難は受け入れられず、ウィルソンはしばしば議会で演説を行った。大統領が議会で演説を行うことは、アメリカ政治が議会ではなく大統領を中心に行われることを示す重要な象徴となった。
 大統領が議会に姿を現すことで長らく行政府と立法府を隔ててきた壁を取り除くというウィルソンの願いは達成された。ウィルソンの目標は世論を主導することにあったが、大統領と議会の関係を強化する慣行を打ち立てることも同じく重要であった。ウィルソンは選挙で公約した通りに、関税改革を行うために特別会期を招集した。ウィルソンは議会で自ら演説に立つことで議会を主導する決意を示した。ウィルソンの関税改正に関する演説は前例を破るものであったが多くの議員の受け入れるところとなった。ジョン・アダムズ以来、100年以上にわたって大統領が特別会期で演説するようなことはなかった。それは19世紀以来、初めて成功した関税改正の呼びかけとなった。このように議会で演説を行うことに加えて、重要な法案の審議が進んでいる時に議員と面談するために大統領が議会を訪れる慣習ができたことも重要である。関税改正に関する演説を行った翌日、ウィルソンは関税法案を定める責任を負う財政委員会と懇談するために上院議長室を訪れた。グラント以来、連邦議会議事堂で議会の委員会と面談した大統領はいなかった。
 上下両院に対する統制は何よりもウィルソンの議会を主導するリーダーシップに貢献した。民主党員は共和党員のように保守派と革新派に分裂していた。ウィルソンは民主党の革新派と共和党の革新派の連合を利用するのではなく、党内で協調する方策を採った。ウィルソンは包括的な政策を策定するように努め、それを民主党の計画とした。ウィルソンは下院の民主党議員の党幹部会に政権の政策を支持する党議拘束を採用するように説得した。同様の党議拘束が上院にも適用された。上院の党幹部会は関税法案のような重要な法案を党の方策とし、すべての民主党員に支持を訴えかけた。

ニュー・フリーダム

 効果的なリーダーシップのお蔭で、ウィルソンは1912年の大統領選挙でニュー・フリーダムと銘打った主要な政策を議会に認めさせることができた。ニュー・フリーダムという言葉は、ウィルソンが民主党の伝統に深く根ざしていると信じている革新主義をどのように理解しているかを如実に示している。
 ローズヴェルトのニュー・ナショナリズムは、大企業の発展が不可避であることを認め、強力な連邦政府によって大企業の活動を厳しい公的な規制の下に置くという考え方である。それに対して、ウィルソンのニュー・フリーダムは、独占を解消して自由競争を取り戻すことを目指していたが、危険な行政権の中央集権化は不必要だと考えていた。自由なる市民は強大な連邦政府のような後見人を必要としないと考えたウィルソンは、人民の代表である議会を通じて立法による経済的、社会的改革を提案した。ウィルソンは行政権を新しい方向を打ち出すためではなく、アメリカの昔ながらの理想を回復するために行使しようとした。またウィルソンは大企業自体を敵視していたわけではない。自由競争において知性、能率、経済性によって競争に勝ち残る大企業は生き残るに値する企業である。問題なのは、トラストを競争を免れる不正な手段として利用して、産業から効率を奪おうとする大企業である。ウィルソンは「大企業の味方であり同時にトラストの敵」であった。民主党の指導者としてウィルソンは関税改正、銀行制度と通貨制度の改革、そして、公正な競争を回復するための反トラスト政策の導入を約束した。ニュー・フリーダムは本質的に、農民と労働者の支持を受けた中流階級の挑戦であり、社会共同体の搾取、富の寡占、そして、ごく一部の内部者による政治の支配を打破して実業の自由競争を回復しようという試みであった。大統領選挙で行われた一連の演説でウィルソンは以下のように語っている。

「失われたかのように見えるもの、彼ら自身の問題を処理するにあたって自由な不断の選択を行使する権利を回復するために政治的支配機構は人民の手に握られなければならない。連邦政府によって人民になされる奉仕はより広範にわたる種類のものでなければならず、独占から人民を保護するだけではなく、人民の生活をより容易にする類のものでなければならない。我々は本質的な経済上の制度を壊そうとしているのではない。政府による諸政策の恩恵をより広い要求にまで及ぼそうとするだけである。そうすれば人民はかつてない政府の援助を享受することになるだろう。我が国における大独占は貨幣の独占である。この独占が存在する限り、我々の古くからの国民的多様性、自由、発展の個人的活力はおよそ問題外である。国民の成長発展と我々の活動力のすべては少数の人々の手にあり、彼らはまさに彼ら自身の限界の故に必然的に真の経済的自由を挫折させ、阻止し、破壊する。これが最大の問題である。今や合衆国に存在する真の困難は、巨大な個人的企業合同の存在ではなく、それはすべての国で危険であるが、真の危険は合同の合同、同一の集団が銀行業、鉄道網、全製造業、大鉱山業、大水力開発業を統制していることであり、合衆国で考えられるいかなる企業合同よりも巨大な利益共同体が一連の重役会議の構成員の間にできあがっていることである。我々がなさねばならないことは、この巨大な利益共同体を解体し、引き離し、穏やかに、しかしはっきりと切り裂くことである。我々が政治の領域でなしつつあることに思いをいたす時、私はこういう具合に、つまり何らかの利益の背後にある人間は常に組織を作って団結し、あらゆる国における危険はこれらの特殊利益が唯一の組織されたものとなり、それに対して一般の利益が未組織のままであるということである。政府のなすべきことは特殊利益に対して一般の利益を組織することである」

 さらに第1 次就任演説の中でウィルソンは、経済的自由を保障するために公正なる規準とフェア・プレイを適用することを主張した。政府は個人的で利己的な目的にしばしば利用され、産業発展の成果によって生じた人々の呻きと苦悶を検討することを怠ってきた。そうした人々の生活を人間的なものにするために良いものを損なうことなく弊害を浄化して正す必要がある。歴史上、類を見ない近代資本主義社会の中で必要とされる新しい自由は、人間の利害、行動、活動力の完全なる調整によって作られるものである。そこで政府の果たすべき役割は、企業と個人の関係の調整をはかり、非人間的な組織のもたらす悪を抑制することであった。そして最終的には政府の介入なしで自由競争を行うことができる状態こそ真の自由であった。

「今や政権交代は行われた。その変化は2年前に連邦議会の下院に民主党が決定的多数を以って支配を得た時に始まる。それは今や完成された。ここに招集される上院では、やはり民主党が多数を占めるだろう。大統領及び副大統領の職も民主党の手に渡された。この変化は何を意味するのであろうか。それは単なる1つの政党の勝利ではなく、それよりはるかに大きなものを意味しているのである。1つの政党の勝利は国民全体がその政党を大きな、そして明確な目的のために役立たせようとしない限り、大きな意義を持つものではない。今日、国民全体が何を民主党に求めているのかは、何人にも明らかなところである。民主党に求められているのは国民それ自体の計画の変化とものの見方における変化に沿うような施策をとることなのである。我々は今まで自らの産業発展の成果を誇りとしてきた。しかし、このために支払われた人間的損失、滅ぼされた命、過重な税金に苦しめられ、衰えた精力などというようなこの成果をもたらした年月を通じて無常過酷な重荷を負い続けてきた男女や子供の恐るべき肉体的、精神的損失を我々はかつて真剣に考えてきたことがなかった。この成果の背後にある呻きと苦しみ、鉱山や工場やその他の戦いを常とするあらゆる家庭から沸き起こり、我々の生活の底に流れる厳粛なる切々たる声は、未だに我々の耳に届かなかった。偉大なる政治組織はそれとともに多くの秘められた事柄を伴い、我々はそれに対して率直かつ恐れを知らぬ目を以って直視し、検討することをあまりにも長い間、怠ってきた。我々の愛した偉大なる政治組織は、あまりにもしばしば私的で利己的な目的のために利用され、そしてこれを利用した人々は民衆を忘れ去ったのであった。遂に我々は、我々の生活全般を見渡す力を許されたのである。我々は良きものとともに悪しきものを見て、健全な活気に満ちたものとともに退廃的なものを見る。この視力を以って、我々は新しい事態に立ち向かおう。我々のなすべきことは、良きものを損なうことなく悪しきものを浄化し、再検討し、修理し、正すことであり、我々の共同生活のすべての道筋を感傷におぼれることなく純化し、かつ人間的なものにすることである。これらが我々のなすべき若干の事柄である。しかし、これらをなすにあたって、他の事柄、古くからの忘れることができない財産及び個人の権利の基本的保障をなおざりにはしない。これこそ新しい日の高邁なる企てである。国民としての我々の生活に関するすべての事項を、すべての人が持つ良心と正義の目の光の下に置くことである。我々が党派の利害にとらわれて、よくこれをなし得るとは考えられない。ありのままの事実に対する無知を以って、あるいは盲目的に事を急いで、これらのことをなし得るとは考えられない。我々は破壊するのではなく修理しよう。我々は我々の経済組織を問題とするにあたって、まったく新しい白紙として考えず、そのあるがままのものに基づいて、可能な限り対処しよう。そして、我々は、浅薄な自己満足や行方も知れない行進に興奮することなく、自己の知恵を常に問い、助言と知識を求める者の精神を以って、一歩一歩そのあるべき姿に近付いて行こう。正義、そして正義のみを我々は常に標榜し続けるだろう。今日は勝利の日ではなく献身の日である。ここにおいて党派の力ではなく、人間の力を糾合せよ。人々の心情は我々に期待するとことが大きい。人々の命は死活の岐路にあり、人々の希望は我々が何をなすかにかかっている。この大いなる信頼に答える者は誰か。この際、その信頼に答えようとする努力を試みないでいることはできるのか。私はすべての正直な人、すべての愛国者、すべての将来に目を向ける人々に呼びかける。彼らの助言と支持さえあれば、神の助けにより、私は彼らの期待を裏切らないであろう」

 ウィルソンの敵も味方も驚いたことに、議会はニュー・フリーダムの諸政策の大半を受け入れた。1913年10月3日にアンダーウッド関税法が成立した。アンダーウッド関税法の関税率は南北戦争以後、最低であった。958品目にわたって関税は減額され、100を超える品目が自由貿易の一覧に加えられ、平均関税率は41パーセントから27パーセントに引き下げられた。鉄鋼、羊毛などの関税は免除された。さらに3,000ドルを超える所得には累進所得税が課された。アンダーウッド関税法は平和時に成功を収め、所得税は潤沢な歳入をもたらした。関税問題におけるウィルソンの勝利は議会が大統領に対して十分な拘束力を持ち得ないことを示した。また12月23日、連邦準備法が成立した。同法により銀行制度と通貨制度が再建された。さらにクレイトン反トラスト法と連邦取引委員会法の成立によって不公正な競争を防止する政府の権限が強化された。
 ウィルソンはカーター・グラス(Carter Glass)下院議員と協力して、中央銀行の役割を果たす12の連邦準備銀行を設立する連邦準備法案を起草した。連邦準備銀行は個人企業でありながら、商業手形や流動資産に対して銀行手形を発行する権限が与えられた。また連邦準備局はそれぞれの地域で地方銀行と結び付いていた。連邦準備制度理事会は大統領が任命する理事からなり連邦準備制度を監督する。連邦準備銀行から金や商業信用に代わる手段として紙幣が発行された。1913年9月、下院は連邦準備法案を可決したが、上院でウィルソンは民間銀行の利益を支持する議員と戦わなければならなかった。しかし、最終的に1913年12月半ば、上院も連邦準備法案を可決した。連邦準備制度は現在も続いており、アメリカ史上、最長の中央銀行制度となっている。連邦準備制度理事会は、7人の理事で構成され、大統領が上院の同意を伴って任命する。理事の任期は14年であり、2年毎に1人ずつ任期を終えるように設定されている。連邦準備法はウィルソンの立法計画における最大の業績であった。
 トラストに対しては既にベンジャミン・ハリソン政権下でシャーマン反トラスト法が制定されていたが、トラストはますます増加していることは衆目に明らかであったので、さらに強力な規制を課す反トラスト法の制定を求める声が強まった。クレイトン反トラスト法は、ヘンリー・クレイトン(Henry DeLamer Clayton)下院議員の名前にちなんでいる。また労働組合や農業組合を反トラスト法の対象外とし、労働争議における弾圧的指令、もしくは強制差し止め命令の発令を裁判所に禁じたこと、さらに団体組織権、団体交渉権、ストライキを行う権利を合法化したことから労働者のマグナ・カルタとして知られている。さらにクレイトン反トラスト法は、大企業の独占的傾向を軽減するために、独占に相当する価格差別、排他的取り決め、重役兼任制度、持株会社などを全面的、もしくは部分的に禁止した。クレイトン反トラスト法は明確に指定した特定の通商慣習を禁止したことで大きな意義があった。しかし、垂直的会社結合を禁止から除外し、合法的に既に取得された権利に影響を及ぼさないように規定して既得権益を認めるなどクレイトン反トラスト法には抜け穴が多く、その所期の目的を十分に達成したとは必ずしも言えないものであった。
 連邦取引委員会法によって連邦取引委員会が設立された。連邦取引委員会は従来の会社監督局を強化したものである。ウィルソンは連邦取引委員会によって、中小企業が大企業と競争できるようになり、独占の芽を摘むことができると考えた。大統領によって任命される準司法機関として連邦取引委員会は、既に他の法で規制されている銀行業や運送業を除く企業の活動を監視し、州際通商における不公正な競争手段を防止するために不法行為を行う個人や会社に対して禁止通達を出すことができ、さらに禁止通達が遵守されるか否かを調査する権限を与えられた。しかし、連邦取引委員会の権限は最高裁の判決によって制限された。
 1916年7月17日、農業預金法が施行され、資本金6,000万ドルの連邦農業信用銀行が設立され、農民に安価な抵当で融資が行われるようになった。8月19日、連邦の被雇用者に対する労働者報酬法が可決された。4つの鉄道労働組合によって全国的な鉄道ストライキが行われる危機にウィルソンは直面した。経営者は譲歩を拒んだが、8時間労働を含め労働組合にとって有利な条項を含むアダムソン法が9月3日に可決され、ストライキは回避された。
 全体としてウィルソンの立法面における成功は著しいものであった。ウィルソンは御し難い政党を規律ある組織に変えた。そうする中でウィルソンは革新主義者が長い間望んでいた計画を法制化した。自由放任主義の原理が支配的なアメリカにおいてはそうした成功は類稀なることであった。しかしながらウィルソンは、自由競争を取り戻そうとしたのであり、貧困者に政府の支援を与えようとしたのでもなければ、労働者の恩恵になるような法を制定しようとしたのでもなかった。

公職制度改革の後退

 ニュー・フリーダムは、経済に関する政府の憲法上の権限について限定的な見解に固執する保守的な司法府によって激しく傷付けられた。さらにウィルソン自身の政権運営も革新主義的な計画の実行を妨げた。大統領になる前、ウィルソンは連邦職員の採用、昇進、罷免に関する成果競争主義を支持していた。ウィルソンは全国公職制度改革連盟の副代表であった。
 ウィルソンは近代社会の変化によって増大する仕事の量と複雑さに対して政府運営を改善するために継続性のある公職制度を提唱していた。ウィルソンは猟官制度が政府運営の効率性を損ない、アメリカでの行政科学の発達を妨げていると主張した。アメリカの行政は他国にこらべて遅れていて、連邦政府の効率性が劣っていることで民主的政府そのものが損なわれている。銀行家や商人は税関や郵便局における汚職と非効率に苦しんでいたが、政府はほとんど何も対応できなかった。大規模な移民、産業化、技術革新、市場独占、好不況を繰り返す経済的変動などから生じる数々の困難な問題についても政府はほとんど何も対応できなかった。アメリカの行政科学の発展を促すためにフランスやドイツの研究を参考にしてアメリカに適応できるようにしなければならない。
ウィルソンは成果競争主義によって採用、免職、昇進を行う専門的な公職制度の導入を目指した。複雑化した社会に対応するために、個々の分野で専門知識を備えた行政官を確保することが必要だとウィルソンは考えた。そして、統治と能力の均衡は、政治と行政の間に明確な境界線を設けることによって達成されるべきものであった。「今、認めるべき最も重要なことは、公職制度改革論者がこれまで盛んに主張してきたこと、すなわち行政は政治の領域外にあるということである。行政の問題は政治の問題ではない。行政の課題を設定するのは政治だが、政治が行政を操作することは許されるべきではない」とウィルソンは述べた。ウィルソンは、行政と政治を峻別することで、政治の腐敗は行政に及ぶことなく、行政は個別的な問題を政治的圧力から自由に処理することができると考えていた。
 大統領としてウィルソンは革新主義者を公職に任命することを約束した。しかし、大統領を支持する革新主義者は、ウィルソンの官職任命が旧態依然とした猟官制度に支配されているのを知って失望した。ウィルソンの官職任命は、猟官制度への攻撃は党内の統一を損ない、立法計画の推進を阻害するという信念に基づいていた。伝統的な猟官制度を採用するように求める党内の圧力は強かった。1897年にクリーヴランドが退任して以来、16年間、民主党員は公職から離れていた。問題は、議会と強い関係を持つアルバート・バーレソン(Albert S. Burleson)がウィルソンの官職任命政策に反対したことによって起きた。政権開始当初にウィルソンはバーレソンに職業政治家の同意なしで任命を行うべきだと伝えた。バーレソンは、もしそうした政策を追求すれば政権自体が失敗に終わると警告した。ウィルソンが推進しようとしている改革も頓挫する。こうした些細な官職任命は政権にとって大きな意義があるわけではなく瑣末事である。しかし、まさにこうした些細な官職任命は議員達にとって大きな意味を持つ。もし大統領が議員達の要望を受け入れなければ、議員達は地元で困難な立場に置かれる。
 最終的にウィルソンはバーレンソンの説得を受け入れた。官職任命に関して政党の指導者と協調するという決定は、ウィルソン政権の初期の決定的な転換点の1つであった。しかし、ウィルソンの官職任命政策は、議会に法制化を求めた革新主義的な改革を実行する行政府の能力を弱めた。革新主義への献身や能力に基づいて選ばれた公職者に比べて、猟官者は、ニュー・フリーダムに基づく政策を進んで実行することもなく、その能力にも欠けていた。猟官制度を受け入れるという大統領の決定は、政権内の理想主義者に対する職業政治家の勝利であった。
 ウィルソンのニュー・フリーダムは人種差別の問題に取り組むこともなかった。実際、1912年の民主党の勝利は、人種隔離政策を推進する南部人を政府に招き入れる結果をもたらした。ウィルソンも連邦職員の人種隔離を強化しようとする閣僚を支持していた。確かにローズヴェルトもタフトも人種的な公正の擁護者というわけではなかったが、ウィルソンと民主党は、連邦政府の省庁で人種隔離を行う政策を積極的に推進した。

宣教師外交


 1901年から1909年にかけてローズヴェルトは外交政策に対する大統領の影響力を拡大させ、議会の影響力を縮小させた。ウィルソンは、アメリカ大統領の役割はこれまでの歴史の中で主に国内に限られてきたが、今や世界に影響を及ぼし得る人物として行動しなければならないと考えた。ウィルソンの外交政策に対する取り組みはローズヴェルトと同じく野心的であったが幾分か理想主義的であった。ローズヴェルトの外交政策における主導は革新主義の原理と現実的な政治が混合したものであり、アメリカの戦略的、経済的利益を積極的に追求したものであった。ウィルソンとブライアン国務長官はローズヴェルトと同じく活発に外交政策を展開したが、ローズヴェルトと比べて利他主義的であり国益に固執することがなかった。

カリブ海政策

 しかし、ウィルソンはカリブ海諸国に対してタフト政権のドル外交を実質的に継承した。ニカラグア運河建設の独占権を取得し、2つの小さな島と海軍基地を99年間借り上げる条約をニカラグアと結んだ。無政府状態に陥っていたハイチに海兵隊を派遣して占領した。既にアメリカの財政管理下にあったサント・ドミンゴにも海兵隊は派遣され占領が行われた。その一方で中国におけるドル外交、アメリカの銀行による中国への借款の参加をウィルソンは破棄した。

メキシコ政策

 ウィルソンの理想主義はメキシコへの介入を行う妨げとはならなかった。ウィルソン政権は、1913年2月にメキシコ大統領のフランシスコ・マデロ(Francisco I. Madero)を殺害して政権の座に就いたヴィクトリアーノ・ウエルタ(Victoriano Huerta)の政府を承認することを拒否した。タフト政権はメキシコの権益に関する譲歩を引き出すためにウエルタ政権の外交的承認を延期した。しかしながらウィルソンはタフトの外交をドル外交として否定し、承認の代価としてアメリカの権益の確保ではなくメキシコ政府の改革を要求した。イギリス外務省のウィリアム・タイレル(William Tyrell)は帰国する前に、「あなたのメキシコ政策を説明するように私は求められるでしょう。メキシコ政策について教えて下さい」とウィルソンに聞いた。それに答えてウィルソンは、「私は南米の共和国に善良な人物を選出するように伝えるつもりです」と言った。そうした言葉はウィルソンの外交政策に対する姿勢をよく表している。
 メキシコ政府の改革を願ってウィルソンはすべての外国政府を承認するという歴史的な大統領の慣行を否認し、メキシコに承認に関する厳しい試練を課した。ウィルソンにとってそうした試練は合理的で名誉あるものであったが、ラテン・アメリカ諸国からすれば内政干渉であった。
 イギリスとその他のヨーロッパ列強をウエルタ政権に軍事的、経済的支援を与えないように説得することでウィルソンは外交的勝利を勝ち取った。しかし、ウィルソンはそれだけでは満足しなかった。1914年、ウィルソンはメキシコに対する派兵を求めて両院合同会議の開催を呼びかけた。ウィルソンによれば、9人の貨物船の船員を誤って逮捕したことを悔いていることを示すために号砲を発することを拒否したメキシコ大統領を懲罰するために派兵は必要であった。貨物船の船員はすぐに釈放され、メキシコ大統領は謝罪の意を明らかにしたが、それだけでは損なわれたアメリカの威信を回復するのに十分ではなかった。ウィルソンの訴えかけに応じて下院はすぐに武力行使を認めたが、上院はそうした些細な出来事が軍事行動をとる十分な理由となるか否か決めかねた。上院の承認を待たずにウィルソンは海兵隊にヴェラ・クルスに上陸するように命じた。ウィルソンの目的が果たされるまでヴェラ・クルスの占領は7ヶ月続いた。ヴェラ・クルスの占領はヴェヌスティアーノ・カランサ(Venustiano Carranza)による反革命を支援する目的もあった。こうした軍事行動は、たとえ主権国家を相手にする場合でも大統領が十分な議会の承認を待たずに軍事行動を行うことができることを示した。
 アメリカは、アルゼンチン、ブラジル、チリの協力を得てメキシコに公正な選挙を行わせるように説得しようとした。アメリカはカランサを正当な大統領として承認したものの、カランサがアメリカの助言を受け入れようとしないのを知ったウィルソンは、パンチョ・ヴィリャ(Pacho Villa)を支持するようになった。ヴィリャの背信行為によってメキシコの内戦はさらに3年間続くことになる。メキシコ人はウィルソンの介入に怒った。
 ヴィリャはカランサよりもアメリカに従順ではなく、メキシコにあるアメリカ人が所有する会社に財政支援を強要した。ヴィリャへの支持は撤回された。怒ったヴィリャはニュー・メキシコ州コロンバスを襲撃して17人のアメリカ人を殺害した。ヴィリャはその2ヶ月前にも17人のアメリカ人鉱山技師を殺害していた。1916年3月15日、ウィルソンはヴィリャを懲罰するために遠征軍を派遣した。カランサはアメリカの意図を理解していたがアメリカ軍の規模に警戒感を抱き、アメリカ軍を撤退させるように要求した。カランサの文書が侮辱的であったので小競り合いが散発し、最後通牒が交わされたが、最終的にウィルソンとカランサは合意に達した。1917年1月26日、ウィルソンはアメリカ軍に撤退を命じた。結局、ヴィリャは捕らえられなかった。アメリカ政府の意思に抵抗したカランサはメキシコ人に英雄として称えられた。その結果、1917年3月11日、新憲法の下で、カランサはメキシコ大統領に選出された。2日後、ウィルソン政権はカランサ政権を承認した。
 メキシコとの衝突は、ウィルソンが国際問題に関して主導的な役割を果たそうと決意したことを示している。しかし、介入は善意に基づくものであったにしろ、ローズヴェルトの外交政策が引き起こした中南米の人々の怒りを宥めるどころか助長した。ウィルソンはメキシコ人民が独立を達成する道を切り開く手助けをしたと言えるが、しばしば間違った方法で介入し、米墨関係を悪化させた。
 外交政策におけるウィルソンの試練は、大統領が初めて全世界の戦いに関する行政権を行使することを求めた第1次世界大戦の最中と直後に訪れた。多くの点でウィルソンの行動は模範的であった。しかし、ウィルソンがメキシコ政策で示した理想主義は、平和を永続させる戦後の計画の追求における挫折の前兆となった。

石井=ランシング協定

 さらにウィルソンは、中国問題で日本を牽制する立場をとった。第1次世界大戦が勃発し、西欧列強が戦争に忙殺される中、日本政府は中国に対華21ヶ条要求を行った。ウィルソン政権は中華民国を主要国の中で最も早く承認するなど中国に対する保護意識を持っていた。当初、ブライアン国務長官は対華21ヶ条に対して第1次ブライアン・ノートで山東省、南満州、東部内蒙古の日本の特殊権益を認めた。しかし、ウィルソン自身が介入した結果、第2次ブライアン・ノートでは、門戸開放政策に反する要求を一切受け入れないと通達した。ウィルソンは、イギリス、フランス、ロシアと共同で日本に抗議を行うことも検討していた。
 しかし、第1次世界大戦に参戦したアメリカはヨーロッパ戦線に集中するために日本との摩擦を避けなければならなくなった。そこでロバート・ランシング(Robert Lansing)国務長官と石井菊次郎特使の間で石井=ランシング協定が結ばれた。ウィルソンはランシングに協定に門戸開放政策を盛り込むように指示した。その結果、石井=ランシング協定は、アメリカは中国で日本が特殊権益を有することを認め、両国は中国の独立と領土保全を侵害するいかなる目的も有していないことを保証し、中国の門戸開放、通商の機会平等を支持すると取り決められた。この協定によって中国問題をめぐって悪化した日米関係は好転した。

条約締結権

 1920年、ミズーリ州対ホランド事件で、大統領が上院の同意で条約を締結する権限が確認された。ウィルソンは、数種の渡り鳥を保護するためにイギリスと条約を結んだ。その後、渡り鳥法が制定され、条約が発効した。渡り鳥法は条約の規定に含まれる鳥類の殺害、捕獲、販売を禁じた。ミズーリ州は農務長官の管理下にある猟区管理者が渡り鳥法を執行しないように求めて告訴した。ミズーリ州は、渡り鳥法は、憲法修正第10条で保障されている権利に介入し、州の主権を侵害しているので違憲であると主張した。ミズーリ州の主張は斥けられ、連邦地方裁判所は渡り鳥法を合憲だと認めた。そのためにミズーリ州は最高裁に上訴した。もし法が憲法修正第10条で認められた州の権利に対する介入であり違憲であれば、大統領の条約締結権の下、条約を発効させるための法を制定する権限を議会は持つのかが問題となった。最高裁は、たとえ法が州の権利に対する介入であっても、大統領の条約締結権の下、立法を通じて条約を発効させる権限を持つと結論付けた。

第1次世界大戦

 1914年6月18日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者がサラエヴォでセルビア人の青年に暗殺された。7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告し、オーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったドイツも戦線に加わった。さらにドイツは、セルビアを支援するロシアに宣戦布告、ついでロシアの同盟国にも宣戦布告した。第1次世界大戦の勃発である。陣営は、オーストリア=ハンガリーとドイツを中心とする中央同盟国とロシア、イギリス、フランスを中心とする連合国に分かれた。
 ウィルソンは8月4日に中立を宣言し、19日付の上院に宛てた教書で「合衆国は名実ともに中立でなければならない。我々は行動においてはむろんのこと思想においても公正でなければならない」と述べた。ヨーロッパの紛争には介入しないというのがアメリカの伝統的な外交方針だったからである。またアメリカでは戦争はすぐに終わるだろうという楽観的な見方が支配的であった。ウィルソンは、アメリカは武装中立のまま平和を回復する努力をするべきだという考えを打ち出した。しかし、ウィルソンは交戦国への武器弾薬の輸出と、民間銀行による連合国に対する信用供与を認めた。
 楽観的な見方とは裏腹に戦争は長期化する様子を見せ始め、イギリスは圧倒的な海軍力を背景に海上封鎖を行った。ドイツは報復措置として潜水艦で商船を攻撃した。その一方でアメリカは交戦国に武器弾薬をはじめ様々な物資を販売して巨額の利益を得た。アメリカ国民は連合国側に明らかに好意的であった。参戦までにアメリカの連合国に対する輸出は激増し、連合国に対する融資は20億ドルを超えた。それに対してドイツとの通商、金融関係はイギリス海軍が効果的に封鎖を行ったこともあって縮小した。
 ドイツの潜水艦の商船攻撃により多数のアメリカ人の命が公海上で奪われた。1915年2月10日、ウィルソンは危険にさらされた財産、失われた人命に対する厳重な責任を追及するとドイツ政府に通告した。しかし、5月1日、アメリカのタンカーであるガルフライト号は警告なしで魚雷攻撃を受けて撃沈された。ドイツは補償を行うことを約束したが商船に対する攻撃を止めなかった。そして、5月7日、ドイツはアイルランド沖でルシタニア号を撃沈し、1,100名以上の民間人が犠牲になった。犠牲者の中には128人のアメリカ人が含まれていた。中立に関する国際法によれば、公海上で捕獲された商船は湾内に誘導するか、撃沈する場合は乗客と乗組員を下船させることになっていた。ドイツの行為は明らかな国際法の侵害であった。とはいえドイツの潜水艦は攻撃に対して脆弱で反撃で破壊される危険を冒してまで武装商船に対して前もって警告することは不可能であった。ウィルソンは、ドイツにさらなる行動はアメリカの参戦を招くと警告した。その一方でウィルソンは「アメリカの例は特殊な例でなくてはならない。戦わないから平和というだけではなく、平和は世界を癒し高める力となるが、戦いはそうではないからである。誇り高きが故に戦わないという人がいる。国もまったく正しいが故に、武力によって他国にその正しさを納得させる必要がない国がある」と述べている。ドイツはウィルソンの警告に対して協調することに同意し、ウィルソンは外交手段を使って交戦国の間で和平交渉を実現させようと試みた。ウィルソンは、ハウス=グレイ覚書を承認し、アメリカが参戦に至ることなく休戦をもたらす方策を探った。しかし、覚書では、講和実現を強制するためにアメリカの参戦の可能性も示唆されていた。ヨーロッパでは依然としてドイツが広大な地域を占領下に置き、講和に応じる様子はまったくなかった。

1916年の大統領選挙

 ウィルソンと議会は協力して軍備の増強を行ったが、1916年の大統領選挙でウィルソンは中立を守ると明言することはなかったが中立政策を堅持する姿勢を示した。ウィルソンは民主党が「彼は我々を戦争から守った」というスローガンを採択したことを知って驚いた。しかし、ウィルソンは国民に、戦争を回避する唯一の方法は軍備拡張を推進することで誰にもアメリカに攻撃する気にさせないことだと訴えた。その一方でウィルソンは「私の力では合衆国の名誉と平和の双方を維持することができなくなる時がいつか来るかもしれない。不可能な矛盾することを私に強要しないで欲しい」と述べている。ウィルソンは1916年末までにアメリカが連合国側について軍事介入しなければドイツが戦争に勝利するだろうと確信していた。そして、ドイツが強大化すれば西半球、特にカリブ海域でアメリカの権益を脅かすことが予測された。
 1916年の大統領選挙でウィルソンは共和党のチャールズ・ヒューズ(Charles Evans Hughes)を辛うじて破った。ウィルソンはヒューズに全国の一般投票で優っていたが、カリフォルニア州では苦戦した。カリフォルニア州では最初、ヒューズが優勢であり、ヒューズが勝利を収めると予測された。最終的にウィルソンが約3,000票差でヒューズを下した。その結果、ウィルソンはヒューズの255人に対して277人の選挙人を獲得した。

第1次世界大戦参戦

 1916年12月、ウィルソンは交戦国に戦争目的を明らかにするように求めた。交戦国から十分な回答を得られたなかったので、1917年1月22 日、ウィルソンは上院で「勝利は敗者に課せられた平和、敗北者に押し付けられた勝者の条件を意味する。いずれか一方の勝利は屈辱と強制の下で耐え難き犠牲を払って受け入れられ、苦痛、憤懣、苦い思い出を残すことになり、平和条約はそういうものの上に、しかも永久ではなあくあたかも砂上にあるかのごとく一時的に存在する。平等なものの間の平和のみが永続し得る」と演説し、交戦国に、勝利なき平和を受け入れるように求め、恒久的な平和の基礎として、被統治者の同意に基づく政府の形成、海上の自由、軍縮、国際機構の創設を訴えた。しかし、その試みは失敗した。さらに1917年1月31日、ドイツはイギリスを追い込もうと翌日以降、イギリス周辺と地中海でドイツの指定する戦闘区域内で敵国や中立国を問わずすべての商船に対する無制限潜水艦作戦の再開をアメリカに通告した。それを受けて2月3日、ウィルソンは、商船に対する潜水艦攻撃を止めない限りアメリカは国交を断絶せざるを得ないという声明に基づき、ドイツとの国交断絶を通告した。
 ウィルソンは国交断絶に至っても宣戦布告をすぐに求めようとしなかった。ウィルソンはアメリカが参戦することで講和条件を温情的にする強力な第三者の立場を失い、達成すべき平和の基準がなくなることを恐れていた。宣戦布告を求める代わりにウィルソンはアメリカ商船を自衛のために武装させ、合法的な場合に防衛のための手段を用いることを認めるように議会に求めた。ウィルソンは、そうした権限は憲法によって大統領に与えられているので法によって特別に授権される必要はないと論じた。ウィルソンは憲法上の必要というより政治的利点のために議会に承認を求めたのである。しかし、議会は討論を引き延ばし、休会に入るまで結論を出すことはなかった。
 こうした事態に追い討ちをかけたのがツィンメルマン電報であった。それはドイツがメキシコに送った暗号電報である。イギリスが傍受のうえ解読してアメリカにその内容を伝えた。アメリカがドイツに宣戦布告した場合、メキシコにアメリカに対して宣戦布告することを求める内容であった。もしメキシコがドイツの提言を受け入れれば、ドイツは、メキシコが米墨戦争で喪失した領土を回復する手助けをすると申し入れた。さらに日本にハワイを与えるという条件でアメリカを攻撃するように説得するという内容も含まれていた。ツィンメルマン電報は公表され、国民のドイツに対する敵意が非常に高まった。ウィルソンは「我々がドイツに向かって立ち上がる時には国民全体が我々と行動をともにするばかりではなく、喜んで最後までついてくるという確信がなければならない」と考えていたが、遂にその時が訪れたのである。第1次世界大戦でアメリカ大統領は初めて全世界に影響する事柄を決定する権限を行使するように求められた。3月末までにウィルソンは連合国側に立って参戦する決意を固め、4月2日に戦争教書を議会の特別会期に送付した。ウィルソンの戦争教書は、ピューリタン的独善性と政治的実践主義が混合した価値観を反映している。

「現在のドイツの通商に対する潜水艦戦は、人類に対する戦争である。それはすべての国々に対する戦争である。アメリカの船が沈められ続けている。我々がそれを知ってひどく動揺するようなやり方でアメリカ人の命が奪われている。それだけではなく、他の中立または友好国の船と人々が同じように沈められ波間にのまれている。そこには何の区別もない。全人類に対する挑戦なのである。各国はその挑戦にどう立ち向かうべきか決断を下さなければならない。我々は決して屈服する道を選択することはない。また我が国と我が国民の最も神聖な権利が無視され、侵害されることを許すこともない。我々が現在、反対している不法行為は決してありふれたものではない。それは人類のまさしくその根幹を断ち切るような行為に他ならない。我が国の戦争目的は利己的で専制的な国家に対して世界中の人々の営みの中で平和と正義の原則を擁護し、平和と正義という原則の遵守を確実にするという目的と行動において、真に自由で自ら決定することのできる世界の諸国民の間に協調体制を打ち立てることである。我々は敵対目的の挑戦を受けなければならない。なぜなら我々は、そのような手法に従うような政府とは友人になることはできず、我々からすれば何の意味もないことをやりおおせようと常に好機をうかがっている組織的権力が存在する状況下では、世界の民主的な政府の安全が保障されないと知っているからである。我々は今、自由の真の敵との戦いの挑戦を受けようとしている。そして必要であれば、この国の全力を尽くしていかがわしい主張と権力を抑制し無効にしなければならない。いかがわしい主張を隠すこともない事実を目の当たりにしたからには、我々はドイツ国民を含む諸国民の解放のために、世界の究極の平和のために喜んで戦う。我々は、大国であれ小国であれ、諸国の権利のために、あらゆる場所の人々が生活と服従の仕方を選ぶ人権のために我々は喜んで戦う。世界を民主主義のために安全にしなければならない。世界の平和は政治的自由の試練を経た基礎の上におかれなければならない。我々は自己本位な目的で奉仕しているわけではない。我々は征服も領土も望まない。我々は補償も我々が自らの意思で行った犠牲に対する物質的代償も求めない。我々は人類の権利の擁護者の1人に過ぎない。我々は諸国が信念と自由を以って、自由な人々の権利を安全に保つことを本意とする。この偉大な平和を希求するアメリカ人を、文明自体が危機に瀕している中、あらゆる戦争の中でも最も過酷で悲惨な戦争へと導き入れることは恐ろしいことである、しかし、権利は平和よりも貴重であり、我々は自らが最も大切にしてきたことのために戦うであろう。すなわち、民主主義のために、権力に屈服させられてきた人々が自らの意見を政治に反映させる権利を得るために、小国の権利と自由のために、すべての国家に平和と安全をもたらし、自由な世界を作り出せる自由な人々が協力し合うことが可能な普遍的な正義の支配をもたらすために。かかる事業のために、我々は、我々の生命と財産、及び我々が持ち得るすべてを捧げるだろう。アメリカ合衆国の誕生と幸福を生み出した諸原則のために、そして、最も大切にしてきた平和のために、その血と力のすべてを捧げる特権を与えられたこの瞬間が遂に到来したと決意する人々の誇りを以って我々は全力で戦うだろう。神よ、アメリカを助け給え。アメリカ合衆国にこれ以外の選択肢は存在しないのである」

非常時大権

 ウィルソンの戦争教書が送付されてから4日後、ヨーロッパの紛争に対して中立を守る伝統から脱却することを促すウィルソンの演説を受けて議会は宣戦布告に踏み切った。「世界を民主主義のために安全にする」ための戦いは大統領に新しい戦争権限を与えた。総力戦を行うためには兵器の大量生産が必要であった。また大規模な軍隊の動員とその合衆国から遠く離れた地での配置が必要であった。2,400万人が兵籍に登録され、270万人以上が徴兵された。大統領は産業を組織し統制する責任や大規模な軍隊を維持するのに必要な物資を充足するために、運送業と通信業を調整する責任を負うようになった。鉄道が国有化された。アメリカ軍、連合軍、そしてアメリカ国民一般に食料を供給するために食糧庁が設立された。食糧庁の目的は海外にいる軍隊や市民が十分な食糧を入手できるように、アメリカの生産を促進し、消費を抑制することであった。主要産物の価格を固定し、食糧配給者に免許を与え、購入物を統合し、輸出を監督し、退蔵と暴利獲得を禁止し、生産を促進する権限が与えられた。穀類売買の統合会社が設立され、小麦価格は1ブッシェル当たり2ドル20セントに固定され、肉の供給と販売が組織化され、砂糖の供給が抑えられた。こうした食糧庁の努力により、1918年にはパンの原料、食肉、砂糖など平常の3倍の量を輸出することができた。商業海運を管理するために海運局が設けられた。政府の経済計画と戦時の補給を監督するために国家防衛会議が設立された。国家防衛会議の下、戦争産業局と戦争労働局は、製造業者と労働組合に協調するように働きかけた。燃料統制も行われ、ガソリンを使用しない日が制定され、石炭節約のために特に必要がない製造工場が閉鎖された。戦争工業委員会は政府及び連合軍のために購入物を調達した。労働管理局は経営者と労働者の関係を調整し、工場における紛争を調停し、特定の工業における時間と賃金を規定し、公共の利益に反するストライキを禁止した。戦争金融会社が正式に認可され、有価証券の流通や戦争物資の生産に携わる産業に対する融資の引き受けを監督した。大統領の伝統的な最高司令官としての義務に加えてこのような責任がさらに加えられた。しかし、ウィルソン政権は配給制度を採用することなく、消費財の生産も差し止められなかった。また1914年から1919年にかけて4つの歳入法が可決され、個人の所得税率の引き上げ、兵器製造業者への特別税、遺産税、過剰利得税、戦争利得税、輸送税、その他の物品税が導入された。
 戦時経済と社会的統制をアメリカ社会に課さなければならないために、南北戦争以来、かつて見なかった程度にまで立憲政治の限界は引き伸ばされた。南北戦争後の大統領の権限に対する反動を知っていたウィルソンは可能である時はいつでも議会から明確な権限の委任を求めた。しかし、ウィルソンはすべてにわたって法定の権限に従ったわけではなかった。例えば、大統領に商船を武装する権限を与える法案を議会が通さなかったのにも拘わらず、ウィルソンは商船の武装を認めた。ウィルソンは憲法上、最高司令官として大統領がそうする権限を持っていると信じていた。しかし、大統領に就任した時からウィルソンは大統領の権限を十分に行使するためには、戦時に憲法で示されている教義と歴史的先例に基づいて行政権限が拡大されたとしても、議会の支持が不可欠であると信じていた。
 宣戦布告に引き続く議会の大統領への権限の委任の最も顕著な例は食品及び燃料統制法である。同法は、大統領に、必需品の輸入、製造、貯蔵、採掘、そして配布を免許によって規制する権限を与えた。それは実質的に大統領に国民経済を規制する権限を与えたに等しかった。そのような権限の委任は前例がまったくなかったので、多くの議員は独裁制の前兆だと非難した。そうした非難を和らげるために上院は、戦争遂行を監視する超党派の委員会を設置する条項を付け加えた。
 ウィルソンは上院による修正を激しく非難した。両院協議会で上院の修正案が否決されることを期待してウィルソンは食品及び燃料統制法を提出したアズベリー・レヴァー(Asbury F. Lever)下院議員に手紙で、委員会を設立することによって立法府が行政府の権限を侵害しようとしていると訴えた。ウィルソンはリンカン政権期に設立された戦争指導合同委員会の悪しき前例に倣おうとしていると警告した。それはウィルソンによれば、リンカンの戦争遂行を絶えず阻害した原因であった。断固とした姿勢を示すことで、そして、議会指導者を説得することでウィルソンは何とか上院による修正を削除させることができた。1917年8月10日、食品及び燃料統制法は大統領の署名によって成立した。これはウィルソンが議会に対するリーダーシップを発揮した成果である。その結果、ウィルソンは議会の広範な権限の委任に基づいて非常時大権を行使することができた。
 ウィルソンが第1次世界大戦中に握った非常時大権は著しいものであった。議会から非常時大権を得たウィルソンは猟官制度を使うように求める要望に応じるのを止め、行政管理の詳細に通じた人物を公職に任命するようになった。ウィルソンの非常時大権を行使するために有能な補佐官が多く採用された。その中には後に大統領になるフーヴァーも含まれていた。補佐官は各分野で大統領の非常時大権を代行した。同様にウィルソンは軍事的な問題についてはヨーロッパ遠征軍の司令官であるジョン・パーシング(John J. Pershing)に一任していた。高度に政治的、外交的な問題が関与する時のみ大統領はパーシングの作戦に介入した。
 ウィルソンの非常時大権は副産物として抑圧も生み出した。ウィルソンは広報委員会を設立した。広報委員会は7万5,000人にのぼる演説者を利用して、戦争は、世界支配を企む野蛮なドイツ人に対して自由と民主主義を守るための十字軍であるというプロパガンダを国民に対して展開した。大部分のアメリカ人は戦争を支持した。しかし、少数の者は戦争に反対していた。ドイツ系とアイルランド系のアメリカ人は、連合国の大義に疑念を抱いていた。革新主義の運動家は、アメリカの民主主義が総力戦の残忍性によって損なわれていると考えた。広報委員会と愛国主義者の団体は、戦争に反対する者を抑圧しようとした。軍事公債を購入することを拒否した人々はしばしば罵倒され、攻撃された。ドイツに関連する名前を持つ人々は外国系市民として嘲りの対象となった。ドイツ語を教えることを禁じる教育委員会もあった。
 ウィルソンの革新主義の原理はこうした抑圧を妨げることはなかった。ウィルソンの観点では、戦争は、「世界を民主主義のために安全にする」道義的十字軍であったので、戦争に反対する者に対して不寛容であった。ウィルソンは1917年諜報活動取締法に署名した。同法は、敵を支援したり徴兵を妨害したりした者に1万ドルの罰金と20年の禁固を課した。またウィルソンは、反逆に相当すると思われる郵便物を禁止する権限を郵政長官に与えた。さらに1918年5月、ウィルソンは議会に1918年治安法を通過させるように促した。同法は、軍事公債の購入を阻害することを何か言っただけでも有罪とした。また同法は、政府、憲法、そして軍服に対して侮蔑的な言葉を言ったり、印刷したり、書いたりすることを不法とした。防諜法と治安法に違反したとして3,000人以上が告発された。社会党のデブズは、アメリカは民主主義ではないと訴え、徴兵に抵抗する運動を行ったので10年の禁固刑を科された。また同じく社会党のチャールズ・シェンク(Charles T. Schenck)は徴兵された者に向けて徴兵に抵抗するパンフレットの発行を認めた嫌疑で逮捕された。最高裁はシェンク対合衆国事件でシェンクが有罪であると全会一致で認め、実質的な悪弊をもたらす危険がある言動を連邦議会は防止する権限を持つと主張した。ウィルソンは不忠誠と疑われた者に対する最高裁の弾圧政策を全面的に支持した。
 さらに東欧、南欧、東南欧からの移民はマルクス主義や無政府主義を持ち込んだとして治安法の取締りの対象となった1919年から1920年に起きた一連のウィルソン政権の高官に対する郵便爆弾や暴力的脅迫に対処するためにアレグザンダー・パルマー(Alexander M. Palmer)司法長官は家宅捜査令状なしで集会場や個人住宅の強制捜査を行い、労働運動家の摘発に乗り出した。この個人の自由に対する襲撃は「パルマーの襲撃」と呼ばれ、4,000人以上の労働活動家が逮捕された。パルマー司法長官は、起訴も裁判もなしに逮捕された人々を行政措置によって国外追放処分にした。逮捕された人々は外部からの接触を断たれ、弁護士と相談することも許されず、国外退去処分に従う他なかった。ウィルソンは司法省のこうした措置を支持した。
 参戦にあたってまずアメリカはイギリスと協力して駆逐艦を護衛船隊として送り出してドイツの潜水艦の攻撃から連合国や中立国の船舶を守った。その結果、船舶の損失は劇的に減少し、新造船が損失を上回るようになった。アメリカは軍隊と補給物資を安全にヨーロッパに送り出すことができるようになった。1917年末までにフランスに約18万人のアメリカ軍が上陸したが、まだ事実上は戦闘を行っていなかった。パーシングは十分な訓練を施した後にヨーロッパに軍隊を派遣するように主張したが、訓練は十分ではなくヨーロッパ到着後も軍事教練を行わなければならなかった。セオドア・ローズヴェルトは騎馬ライフル銃兵を組織して参戦する計画を立てた。フランスは計画を歓迎し、ウィルソンもローズヴェルトの要望に応じようとしたが、軍部の反対によって断念した。パーシング率いるヨーロッパ遠征軍は連合軍の指揮から独立して行動することを主張したが、しばしば訓練という名目で英仏両軍に組み込まれた。
 戦争遂行全般を指示する責任を負ったウィルソンは有能な補佐官に細々とした実務を委ねたが、それはウィルソンの政治手法に適していた。またそれは近代戦争の性格にも適していた。20世紀までに戦争遂行は、19世紀のポーク、リンカン、そしてマッキンリーのように大統領が直接、戦略を展開するには大規模で複雑過ぎるようになっていた。アメリカが総力戦を戦えるように効果的な任命を行い、道義的リーダーシップを発揮することが最高司令官として大統領が貢献できることであった。また第1次世界大戦では連合軍の戦略に概ね従えばよかったという状況から、ウィルソンはリンカンとフランクリン・ローズヴェルトと異なって重要な戦略的決断を迫られるようなことはなかった。
 自らの才能と影響力を活かして恒久的な平和のための仕組みを作るというウィルソンの試みは国外で部分的な成功を収めたが、国内では失敗に終わることになる。戦時中、ウィルソンが最高司令官としての権限を主張するのに慎重だった1つの理由は講和交渉の場で主導権を握る機会を失わないためであった。戦争の最初から最後まで、ウィルソンが望んでいたことは国際連盟の導入による平和であり、「世界を民主主義のために安全にする」ことであった。そして、アメリカを新しい世界秩序の国際的指導者の地位に引き上げることであった。さらに連合国との通商関係を防衛し、イギリス帝国の最恵国貿易体制を解体し、国際関係の将来を決定する講和会議への参加資格を得ることであった。

平和14ヶ条

 参戦後まもなく、ウィルソンは、連合国が民族自決の原則を踏みにじり、勝戦国が敗戦国の領土を分割する内容の秘密条約を結んでいることを知った。その一方、ロシアで政権を奪取した共産主義者は、無併合、無賠償、民族自決を原則とする講和を呼びかけた。ウィルソンはそうした共産主義者の唱える戦後国際秩序に対抗し、ヨーロッパの旧秩序を塗り替えるためにアメリカ主導の戦後国際秩序を提唱する必要があった。1918年1月8日、ウィルソンは、秘密外交の禁止、公開自由の原則、貿易自由化、軍備縮小、植民地問題の解決、ロシア、ベルギー、フランスの領土回復、民族自決、世界平和のための国際組織設立などからなる以下のような平和14ヶ条を発表した。

「我々がこの戦争に参加したのは、我々を深く傷付けた権利の侵害が生じたからであり、それが是正され、その再発に対して世界が決定的に安全にならない限り、我が国民自身の生活が耐え難いものになっているからである。それ故、この戦争で我々が要求することは、決して我々だけに特殊なことではない。我々の要求は、世界が生きるのにふさわしく、安全なものになること、そして特に、我々自身と同様、自らの生活を営み、自らの制度を決定し、また暴力と利己的な侵略に対して正義と公正な扱いを世界の他の国民によって保障されることを願う平和を愛好するすべての国民にとって、世界が安全なものとなることである。他の国民に正義がもたらされない限り、我々にも正義がもたらされないことを我々は明確に認識している。それ故、世界平和の計画が我々の計画であり、その計画、唯一可能な計画とは、我々の考えによれば、以下の通りである。1、講和条約は、公の場で締結され、公開されなければならず、またその後はいかなる種類の秘密の国際協定も結ばれてはならず、外交は常に公然と公衆の目前で行われなければならない。2、戦時、平時を問わず、領海外の公海上で絶対的な航行自由を確立すること。ただし、国際協約の実施のために、公海の全部、もしくは一部が国際的な行動によって閉鎖される場合を除く。3、可能な限り、あらゆる経済的障壁を撤廃し、かつ平和に同意し、平和維持のために協力するすべての国家間で平等な通商条件を確立すること。4、国家の軍備を国内の安全を充足する最低限度まで削減するために適切な保障を相互に与え合うこと。5、すべての植民地に関する要求を偏見にとらわれることなく、絶対的に公平に調停すること。そうした調停を行うにあたって、植民地の主権に関するすべての問題を決定する際に、関係する住民の利益が主権国の資格を持つと決定された政府の公正な要求と対等の比重を持たなければならないという原則が厳格に守られなければならない。6、ロシアの全領土から軍隊は撤退しなければならず、またロシアに関するすべての問題の解決は、世界の他のすべての諸国の最善で完全に自由な協力の下、自国の政治的発展と国策に関する自主的な決定を行うための束縛がなく妨害されない機会をロシアに与え、ロシア自身が選ぶ制度で自由諸国の仲間入りをすることを心から歓迎することを保証するような形式でなされなければならない。さらに単なる歓迎以上に、ロシアが必要とし、自ら願望するあらゆる種類の援助も保証しなければならない。7、全世界が同意することであるが、ベルギーから軍隊を撤退させ、同国がすべての自由国家とともに享受している主権を制限する試みを何もせず、同国を復興させなければならない。諸国が相互の関係を調整するために自ら進んで規定し、決定した法に対する信頼を諸国間で回復させるにあたって、この1つの行動程、有用な行動は他にない。この回復行動なしには、国際法の全体構造と有効性が恒久的に損なわれる。8、フランスの全領土が解放され、侵略された地域が再復されなければならず、また1871年にアルザス・ロレーヌに関して、プロイセンがフランスに行った不正は約50年間にわたって世界の平和を不安定にしてきたので、万人の利益のために平和を再度確保するために是正されなければならない。9、イタリア国境の再調整は明白に識別される民族的分割線に沿って行われなければならない。10、我々はオーストリア=ハンガリーの国際的地位が確保され保障されることを望むが、同国の諸民族は自治的発達のために最も自由な機会を与えられなければならない。11、ルーマニア、セルビア、モンテネグロから軍隊は撤退し、それらの諸国の占領された領土を再復しなければならない。セルビアは海への自由で安全な通路を与えられるべきであり、バルカン諸国の相互関係は、忠誠心と歴史的に確立されている民族の分割線に沿って、友好的協議によって決定されるべきであり、またバルカン諸国の政治的、経済的独立と領土保全に関する国際的な保障が取り決められなければならない。12、現オスマン帝国のトルコ人居住地域は安全な主権を保障されなければならないが、現在、トルコ人の支配下にある他の諸民族は明確な生命の安全と自治的発達のための不可侵の機会を保障されなければならず、ダータネルス海峡は、国際的保障の下で、すべての諸国の船舶と通商のための自由な通路として恒久的に開放されなければならない。13、独立したポーランド国家が樹立されなければならず、この国家は明らかにポーランド人が居住する地域を含み、海への自由で安全な通路を保障され、また国際協約によって、その政治的、経済的独立と領土保全が保障されなければならない。14、大国か小国かを問わず、政治的独立と領土保全の相互的保障を与え合うことを目的として、明確に規定された協約の下、諸国の全体的な連合組織が結成されなければならない」

シベリア出兵

 平和14ヶ条が公表されてから2ヶ月後、レーニン政権はドイツと単独講和した。その結果、ドイツは西部戦線に兵力を集中させることができるようになった。連合国はイデオロギー的脅威だけではなく軍事的脅威に対抗しなければならなかった。イギリスとフランスはソ連に対する軍事干渉をアメリカに呼びかけたがウィルソンは消極的であった。しかし、チェコスロヴァキア軍団事件を契機にチェコスロヴァキアの独立運動に好意的であったウィルソンは、チェコスロヴァキア軍団の救出を名目にシベリア出兵を決断した。ウィルソンは日本に共同出兵を呼びかけた。さらに連合国の軍事物資を守るために北ロシアへの出兵も宣告した。アメリカは1万4,000人の部隊を派遣し、反ソ連勢力に援助を行った。しかし、そうした努力は実らず、ウィルソン政権は1919年2月に北ロシアから、12月にシベリアからの撤退を決定した。シベリアからの撤退の後、ウィルソン政権はソ連不承認の方針を貫いた。

ヨーロッパ遠征隊


 西部戦線に集中できるようになったドイツはアメリカ軍が本格的に攻勢に加わる前に決着をつけようと積極的な攻勢に出た。ドイツ軍は207個師団を西部戦線に投入し、連合軍は173個師団を配置した。そのうちアメリカ軍は9個師団のみであった。1918年3月21日、ドイツ軍はアラスからラ・フェールのイギリス戦線に攻撃を開始した。1週間も経たない間にドイツ軍は25マイルから40マイルも前進した。ドイツ軍はマルヌを奪回し、パリを砲撃の射程範囲内に収めた。連合軍はウィルソンにさらに多くのアメリカ軍をヨーロッパに送るように要請した。アメリカ軍はシャトー・ティエリーでドイツ軍のパリ侵攻を遅らせ、ベロー・ウッドの戦いで甚大な損害を出しながらもドイツ軍の攻勢に反撃した。7月15日にドイツの1918年の攻勢の最後の主要な戦いとなる第2次マルヌの戦いが開始された。アメリカ軍はソアソン反撃に加わり、戦いの潮流を変えた。連合軍は第2次マルヌの戦いでドイツ軍を撃退した。
 第2次マルヌの戦いの後、パーシングは独立アメリカ軍を結成する計画に連合国の承認を得た。連合軍はソンムの南で反撃に成功し、ドイツ戦線に深く侵入することができた。ドイツの勝算は急激に失われた。パーシングはヴェルダンの南にある塹壕線突出部にあたるサン・ミエルを攻略する計画を立てた。サン・ミエルは鉄道の接続点であり、ブリーエイ鉄鋼地帯を抑える要所であった。連合軍はサン・ミエルを占領することに成功した。サン・ミエルの戦いは連合軍の大きな勝利の1つであり、パーシングは50万を超える歩兵を指揮した。さらにムーズ=アルゴンヌの戦いでパーシングは100万人以上の米仏連合部隊を指揮した。サン・ミエルの戦いとムーズ・アルゴンヌの戦いの勝利によって、ドイツ軍によって占領されていた広大なフランス領が奪回された。
 パーシングはムーズ=アルゴンヌの戦いの後、戦闘を継続し、無条件降伏を要求できるところまでドイツを追い詰めようとした。パーシングはあと数週間あれば完全にドイツを壊滅できると信じていた。しかし、ベルリンで革命が発生し、ドイツ皇帝は失脚した。新たに樹立された政府は戦争終結を求めた。4年以上も続く戦争に疲弊していた連合国はドイツの申し出を歓迎した。第1次世界大戦の停戦協定は1918年11月11日に調印された。アメリカ軍の従軍は僅かに19ヶ月間に過ぎなかったが、死傷者数は30万人を超えた。5万3,000人が戦死し、6万3,000人が戦争に関連する病気や事故で死亡した。第1次世界大戦の結果、アメリカは世界の主要な列強としての地位を不動のものにした。特に化学産業は戦争中に著しく発展した。
 停戦協定の期間は僅かに60日間であった。講和条約を締結するには60日間で十分であると考えられたためである。しかし、講和会議は10週間にわたって開催されず、講和条約の調印までさらに6ヶ月かかった。その間、停戦協定は自動的に更新された。講和条約が締結されるまで連合国はドイツに対する封鎖を解除せず、封鎖によって苦しい生活を余儀なくされたドイツ国民に拭い難い敵意を植え付けることになった。

パリ講和会議

 アメリカ人は第1次世界大戦の停戦協定を歓迎した。アメリカ人にとってそれは民主主義の勝利であり、世界、そして国内に平和が訪れることを意味した。ウィルソンは戦争の勝利を平和的世界秩序に変換させることを目指してパリ講和会議に向けて出発した。ヨーロッパの戦場で命を落としたアメリカ軍兵士のためにパリ講和会議に参加することが大統領の責務であるとウィルソンは考えていた。パリは大統領を救世主と見なし、史上最大の群衆で迎えた。ウィルソンはパリの他、ロンドンやローマでも同様に熱狂的な歓迎を受けた。そうした熱狂的な歓迎にも拘わらず、ウィルソンは講和交渉が思い通りにならないことを悟った。連合国はすべての戦争を終わらせることに同意し、平和を維持するための国際機関の創設について積極的な姿勢を示したが、戦後の領土問題や経済に関する取り決めなどについては調停が不可能な程、分裂していた。また連合国はウィルソンが提唱した平和14ヶ条を受け入れなかった。
 フランスは膨大な賠償と広大な領土割譲によってドイツが再びフランスに脅威を与えないように弱体化させようと目論んだ。イギリスもドイツに多額の賠償を求めた。イタリアも消滅したオーストリア帝国から広大な領土割譲を要求した。その一方でウィルソンは、敗戦した中央同盟国に寛大な条件を含む計画を連合国に受け入れるように説得しようとした。ウィルソンのそうした試みは、大統領が国際社会でリーダーシップを発揮できる可能性を示した。
 ウィルソンは、連合軍の極端な要求を撤回させるように努力した。ウィルソンはイタリアへのフィウメ割譲を否定した。イタリアはこの決定に不満を抱いて講和会議を脱退した。ウィルソンは、山東省を日本に割譲することに反対した。連合国がドイツに戦争の全費用を賠償させることに異を唱えた。ドイツから全ライン地方を分離させようとするフランスの意向を抑えた。ポーランドの東プロシアに対する要求に反対した。
 しかし、ウィルソンはフランスやイギリスが主張するドイツに対する賠償問題について妥協しなければならなかった。日本がドイツの山東半島の権益を獲得することにも同意せざるを得なかった。ウィルソンは、ヨーロッパにおける長年の嫌悪、恐怖、疑念、野望を完全に取り除くことは無理だと悟った。その結果、ドイツには、戦争犯罪を認めること、全植民地とアルザス・ロレーヌ地方を放棄すること、軍隊を武装解除すること、150億ドルの即時支払いの賠償金を支払うこと、経済制度を一時的に連合国の支配下に置くことなど厳しい条件が課され、その禍根は第2次世界大戦の遠因となった。
 国際連盟は1919年6月に締結されたヴェルサイユ条約に含まれている。ウィルソンは連盟規約を作成する特別委員会の議長を務めた。国際連盟によって将来の戦争を予防することがウィルソンの期待であった。そして、国際法と世論に訴えない限り、平和は強制できないと考えていた。国際連盟の目的は国際間の協力を推進し、国際平和と安全の達成であった。すべての国家に加盟の道が開かれ、会議ではすべての加盟国が投票権を与えられた。加盟国は、相互に外部からの侵略に反対するだけではなく、領土の安全と既存の政治的独立を尊重し、平和の脅威となる紛争の調査と仲裁を委託し、国際連盟によって裁定を受けた国と戦争を行わず、国際連盟を無視して戦争に訴える国に対して経済的、軍事的制裁を行うことを誓った。戦後処理で特に重要だったのは、旧ドイツの植民地が連合国で戦利品として分配されることなく、国際連盟による信託統治に委ねられたことである。そうした仕組みはウィルソンが提唱した。
 国際連盟が第2次世界大戦を防止できなかったことは歴史が証明しているが、アメリカが加盟していれば悲劇は防止できただろうか。答えは否である。そもそも第1次世界大戦の戦後処理によって戦争の根本的な原因となった敵対的な同盟関係や通商関係は解消されず、ヨーロッパの経済統一も行われなかった。それ故、第1次世界大戦の戦後処理の失敗によって第2次世界大戦勃発の種が蒔かれたことは確かである。
 
ヴェルサイユ条約批准をめぐる争い

 ウィルソンは自らの勝利をまったく疑わずに条約批准を実現する戦いを開始した。自らの信じる大義に人民の支持を集めようとウィルソンは卓越した能力を示した。しかし、国際連盟をめぐる戦いの最中、ウィルソンはニュー・フリーダムを法制化するのに成功した手段を用いるのを潔しとしなかった。国内問題に関してウィルソンは慎重に議会の支持を取り付けられるように働きかけ、上下両院の民主党の議会指導者と協調するように努めた。しかし、外交問題に関してウィルソンは単独行動をとりがちであった。事実、ウィルソンは講和会議の場に上院の指導者を伴おうとしなかった。大統領の憲法上の責任と政党の指導者としての義務が何であれ、ウィルソンは外交政策における主導権は何の制限もなく大統領に属すると信じていた。外交政策の策定に関するウィルソンの見解はローズヴェルトの見解、そしてハミルトンがパシフィカスの筆名で発表した論説で主張した見解と似通っていた。ハミルトンと同じくウィルソンは、外交政策における大統領の大幅な特権を認め、大統領には「実質的に外交政策を絶対的に管理する権限がある」と主張した。
 国際連盟をめぐるウィルソンと上院の衝突は避けられないことであった。それは同盟に加わることを忌避する伝統的な孤立主義に根差していた。上院は、集団安全保障を規定した条項について、アメリカの主権、特にアメリカの単独行動が制限される可能性に懸念を表明した。外交政策において大統領が大幅な特権を持つというウィルソンの理念は上院との衝突をさらに悪化させた。ウィルソンの影響力の限界は1918年の中間選挙の際に明らかになった。平和14ヶ条が発表されるやいなや、ウィルソンの単独行動に不信感を強めた議会はウィルソンの外交政策に挑戦し始めた。共和党に復帰していたセオドア・ローズヴェルトは上院にウィルソンの平和14ヶ条を拒絶するように促した。1918年10月25日、ローズヴェルトは共和党の指導者に「タイプライターを打って平和について会談するのではなく、銃の撃鉄を起こして平和を命じよう」という電報を送った。
 評判を落とそうとする共和党の策略に当惑したウィルソンは自身の政策に国民の支持を集めようとした。ローズヴェルトの電報が公開された後、ウィルソンは有権者に来るべき選挙で民主党が上下両院で多数党となれるように投票するように呼びかけた。しかし、戦争の期間中、多くの共和党員が大統領を支持した一方で、多くの民主党員が大統領に反対した。そのためウィルソンは1918年の選挙で、政権の政策に反対する南部の5つの州の民主党の現職議員を敗北させようと予備選挙に介入した。1910年のタフトの試みのように、こうした介入は概ね党内で秘かに行われたが、ウィルソンは特定の議員に反対する公開書簡を書いた。ウィルソンは政権の戦争に関する措置に反対する民主党議員を何人か敗北させることができた。しかし、そうした追放運動は、両院で民主党が多数派を獲得できなければ戦争をうまく遂行することができないという大統領の主張に疑問を投げかけた。
 戦争中に行われた1918年の中間選挙で共和党は上下両院で多数党となった。ローズヴェルトは選挙の直後に「我々の味方も我々の敵もウィルソン氏自身も、この時点でウィルソン氏がアメリカ国民のために何でも話すという権威がないことを理解すべきである。彼のリーダーシップはアメリカ国民によって強く否定された」と宣言した。1918年の中間選挙における敗北は、議会と国外でのウィルソンの威信を低下させ、議会との関係と講和交渉を困難にさせた。ウィルソンはヴェルサイユで自身の計画の一部を何とか通すことができたが、国内では失敗した。ヘンリー・ロッジ(Henry Cabot Lodge)上院外交委員長を中心とする共和党保守派は、外国の安全保障のために軍事力の行使を求められるような条項はアメリカの主権の侵害であるとしてヴェルサイユ条約の批准に激しく反対した。ロッジは条約締結を阻むために遅延戦術をとり、審議を2ヶ月も続けた。ロッジの議会工作は成功した。その一方、共和党の革新主義者は、国際連盟が西欧列強や日本の植民地主義を容認している点を批判し、ヴェルサイユ条約の批准を拒否した。ロッジはアメリカの行動の自由を確保するために、集団安全保障にアメリカが関与する際の議会の宣戦布告権限やモンロー・ドクトリンに関して14の留保条項を提案した。1919年8月19日、ウィルソンは上院外交委員会でヴェルサイユ条約に関して証言を行った。ウィルソンは声明を読み上げ、3時間半にわたって質問に答えたが上院外交委員会の姿勢を変えることはできなかった。またウィルソンも留保条項の受け入れを拒否した。
 ロッジと妥協することを望まなかったウィルソンは1919年9月3日、ワシントンを離れ西部に遊説旅行に出掛けた。ミシシッピ川以東の州をほぼすべて回る総行程約1万マイルにのぼる大掛かりな遊説旅行であった。9月25日にコロラド州プエブロに到着するまでに、ウィルソンは37回の主要な演説と無数の短い演説を行った。ウィルソンはプエブロで以下のような演説を行った。

「あなた方は『国際連盟は戦争に対する絶対的な防止策となるのか』と言うかもしれない。答えは否である。私は人間の判断の過ちや人間の感情の激しさに対する絶対的な防止策などないと思う。しかし、私はあなた方に問う。もし戦争に対する絶対的な保険がなければ、あなた方はまったく保険などいらないのか。あなた方は何も望まないのか。あなた方は戦争が再び起こらない可能性がないということを望むだけではなく、戦争が再び起こる可能性も望んでいるのか。皆さん、公正なる手順は独りでにそうなるわけではない。この条約の手順は公正であるが、世界の列強の団結力による支持を必要とする。そして、条約はそうした支持を得るであろう。重要な問題という霧が晴れたならば、人類は真剣に、そして面と向かって真実を見るであろうと私は信じている。アメリカ人が常に手を差し伸べるものが1つある。そして、その1つのものとは公正、自由、そして平和という真実である。我々はその真実を受け入れ、それに導かれるであろう。そして、真実は、我々と我々を通じて世界を、かつて夢見たこともないような静寂と平和の牧野に導くであろう」

 ウィルソンは、上院に条約の批准を強いることが可能となるように世論が盛り上がることを期待した。遊説旅行を始める前からウィルソンは体調の不調を訴えていたが、遊説旅行の過密な行程により卒中を起こし、残りの日程を断念せざるを得なくなった。
 遊説旅行はウィルソンの影響力を高めるどころか低下させただけであった。もしウィルソンが体調を崩さなかったら遊説旅行は成功していたかもしれない。1918年の選挙以来、世論は大統領に背を向け続けていた。しかし、ウィルソンの失敗は規定の結論ではなかった。体調を崩す前、ウィルソンは多くの熱狂的な聴衆を引き付けた。条約に反対する者はウィルソンの影響力を恐れていた。国際連盟に関するウィルソンの失敗は、たとえ大統領が世紀転換以来、著しい影響力を獲得してきたとしても、未だに議会や世論の変動に制約され得ることを示した。それと同時にレトリック的大統領制度の限界を示した。ローズヴェルトやウィルソンの時代を経たアメリカ国民は、大統領がレトリックを駆使して世論を喚起しようと努めることを不適切だと考えなくなっていた。しかし、大統領のすべてのレトリックが功を奏するかは保証されていなかった。
 ウィルソンが卒中で倒れたことはウィルソン夫人と医師によって17ヶ月間、内密にされた。閣僚と報道は、大統領は神経衰弱を患っただけだという説明を受けた。副大統領でさえ、ウィルソンの本当の病状を知らされなかった。ウィルソンの病状を知っているのは4、5人のごく限られた人数の人々のみであった。ウィルソン夫人は各省庁からもたらされる書類の中から自らの判断で重要だと思うことを大統領に伝え、実質的に首席補佐官のような役割を果たした。2ヶ月の間、ウィルソンは妻と医師が差し出す書類に署名する以上のことはほとんど何もできなかった。この間、大統領の職務は実質的に停止させられた。ランシング国務長官が憲法に基づいて大統領の不能力の場合、その職務は副大統領に移譲されると主張した時、ウィルソン夫人は反対した。ウィルソンは職務を放棄するつもりはなかったし、トマス・マーシャル(Thomas Riley Marshall)副大統領も職務を引き継ぐつもりはなかった。その後、ウィルソンは手紙を口述し、閣僚と数分間会談し、貴賓を迎えることができる程には回復した。
 11月、ロッジの留保条項を含むヴェルサイユ条約の批准が上院で審議されたが、留保条項に反対するウィルソンを支持する民主党議員と国際連盟自体に反対する議員によって批准は否決された。さらにロッジの留保条項を省いたヴェルサイユ条約の批准の是非が審議されたが、留保条項を支持する議員によって否決された。1920年3月にもヴェルサイユ条約の批准の是非が問われたが結局、否決された。それはアメリカが国際政治の覇権国家としての歩みから一歩後退した瞬間であった。 

結語

 改革への肩入れは自身の信念や政党によって制限されたが、ウィルソンは大統領制度に大きな変化をもたらした。僅か20年程前に影響力がほとんどないと思われていた大統領職は、今やアメリカの政治制度に比類ない影響を及ぼすようになった。セオドア・ローズヴェルトとウィルソンを通じて大統領の権威は完全に回復された。
歴代アメリカ合衆国大統領研究