グロヴァー・クリーヴランド 第22・24代アメリカ合衆国大統領

グロヴァー・クリーヴランド

Grover Cleveland
(Stephen Grover Cleveland)
生没年(1837年3月18日〜1908年6月24日)
在任期間(1885年3月4日〜1889年3月4日・1893年3月4日〜1897年3月4日)
 
グロヴァー・クリーヴランド大統領の概要
大学進学を断念
 グロヴァー・クリーヴランドはニュー・ジャージー州カルドウェルで生まれた。父リチャード(1804.6.19−1853.10.1)と母アン(1806.2.4−1882.7.19)の9人の子供の5番目であった。父リチャードは長老派教会の牧師であった。クリーヴランドは大学進学を希望していたが、父リチャードが亡くなったために職を探さなければならなくなった。職を転々とした後、法律事務所の見習いとなって法律を学んだ。そして、法曹界に入った。

改革知事
 クリーヴランドはニューヨーク州エリー郡の検事補に選ばれた。また同郡の保安官も務めた。さらに、バッファローの市長に選ばれたクリーヴランドは市政改革に乗り出し名声を得た。それがもとで民主党の州知事候補に指名され、圧倒的票差で当選した。当時、州議会議員であったセオドア・ローズヴェルトと協力して汚職や猟官制度の撤廃に努めた。1884年の大統領選挙で当選し、共和党政権が連続する中で唯一の民主党政権を担った。

史上唯一の返り咲き
 クリーヴランドは大統領としても改革を推進し、既に成立していたペンドルトン公務員法を厳格に施行した。また南北戦争の退役軍人に対して個人年金を支給する法案に対して拒否権を行使した。1888年の大統領選挙で一般投票では対立候補を上回ったものの選挙人数で逆転され落選した。しかし、1892年の大統領選挙に再出馬し返り咲きを果たした。1893年恐慌に対してクリーヴランドは対策を打ち出したが打開策とはならなかった。


グロヴァー・クリーヴランド政権の概要
1884年の大統領選挙

 公職制度改革に対する支持も穏健派のブレイン下院議長の大統領候補指名も1884年の大統領選挙における共和党の敗北を食い止めることはできなかった。民主党の大統領候補であるニュー・ヨーク州知事のクリーヴランドが勝利を収めた。クリーヴランドはブキャナン以来、28年間振りに当選した民主党の大統領である。
 クリーヴランドは保守反動的な民主党員であった。クリーヴランドは、広範囲な社会的、経済的改革を望む労働者や小規模な農民に懐疑的な姿勢を示す共和党員と近い立場にある民主党の保守派の指導者でああった。19世紀後半にアメリカ経済に起きた大規模な変化に直面して、民主党の強固な保守派は伝統的なジェファソン主義者やジャクソン主義者の原理に固執した。新しい時代において、大規模な工場や企業は、本来、小規模な農民や地場産業を保護するための原理の恩恵を受けるようになった。民主党の保守派は南部を支持基盤としていた。彼らは実業者と農園主を代表し、白人の優越性を説くことで多くの貧しい白人の支持を集めた。保守派が説くジェファソン主義やジャクソン主義の原理は多くの北部の民主党員にとっても魅力的であった。クリーヴランドは特に実業志向の哲学を持ち、中央集権化に反感を抱く中西部と北西部の共和党員の間で強い影響力を持っていた。民主党の保守派は、改革を求める農民と労働者から産業革命を擁護する役割を果たした。
 国中のあらゆる地域の穏健派は、クリーヴランドの選出が、南北戦争によって生み出された衝突の真の終わりを告げるものだと期待した。クリーヴランドは彼らの期待が正しいと証明しようとした。南部から大きな支持を受けた民主党の党首としてクリーヴランドは多くの南部人を閣僚も含めた高い公職に就けた。共和党は党派的な敵愾心をあおることを止めようとぜず、民主党員を連邦政府を管理するにはふさわしくないと見なした。クリーヴランドが軍人恩給法案に拒否権を行使したことは共和党に大統領を攻撃する材料を与えた。共和党の敵愾心は、クリーヴランドが南部連合の旗を南部に返すことを認めたことによってさらに燃え上がった。しかし、クリーヴランドの1884年の勝利は、南北戦争後の政治的秩序が民主党の大統領の選出によって覆されないことを証明していた。1884年の大統領選挙とその直後の動きは、近年の選挙が国家的な問題をめぐる大きな対立ではなく猟官制度の管理をめぐる争いだということを示していた。また民主党の勝利は、国民が南北戦争の遺産から関税や通貨、そしてその他の経済的論争に注意を向けるようになっていたことを示していた。

公職在任法の撤廃

 クリーヴランドの選出は、公職の任命をめぐる大統領と議会の争いに猶予をもたらさなかった。アンドリュー・ジョンソン政権とグラント政権で深く傷付いた大統領の威信はヘイズとガーフィールドによってある程度、回復していた。公職在任法を撤廃させる最後の重要な戦いを行ったのはクリーヴランドである。
クリーヴランドが長年、猟官制度の恩恵にあずかることができなかった忠実な民主党員を公職に任命しようとしたことで戦いは始まった。選挙に貢献した民主党委員は実に88パーセントに達する公職の入れ替えを要求した。クリーヴランド自身は猟官制度の支持者ではなかった。バッファロー市長としてニュー・ヨーク州知事としてクリーヴランドは改革論者としての名声を既に得ていた。クリーヴランドはペンドルトン法を忠実に施行し、新たに確立された公職に関する既定の対象とならない連邦職員の候補者を選定するのに莫大な時間を費やした。クリーヴランドのやり方は多くの優れた任命を生み出し、公職制度改革論者から賞賛を勝ち得た。
 ジャクソン主義的な民主党員を以って自らを任じていたクリーヴランドは猟官制度の利点も理解していた。クリーヴランドは功績のある民主党員を長い間、共和党員が占めてきた官職に就けたいと考えた。改正された公職在任法の規定の下、大統領ができたことは連邦職員を停職させることだけであった。事実上、クリーヴランドは上院が開会中で指名が承認された時しか連邦職員を更迭することができなかった。上院を支配する共和党議員は公職者が停職された理由を調査する権利を議会が持つと主張した。クリーヴランドは、上院の要望に応じて停職に関する情報を提供しないように閣僚に求めた。共和党が支配する上院は、大統領の任免権を制限しようと彼らの要望が叶えられるまでクリーヴランドに協力することを拒んだ。その結果、クリーヴランドが政権初期に停職にした643の公職のうち、3ヶ月の開会中に上院が認めたのは僅かに15のみであった。クリーヴランドは内密の情報を議会に開示することを拒み、どの資料を開示すべきか決定する行政特権を大統領が持つことを示した。それは1860年代以後、低迷していた大統領の権威を回復させる顕著な例であった。
 大統領と議会の間でより大きな論争を巻き起こしたのが、アラバマ州の連邦検事の任命をめぐる争いである。クリーヴランドは現職のジョージ・ダスキン(George M. Duskin)を停職にし、代わりにジョン・バーネット(John D. Burnett)を指名した。上院司法委員会の議長であるジョージ・エドモンズ(George F. Edmunds)は、バーネットの指名を厳しく審査することにした。エドモンズは司法長官にバーネットの指名に関わる書類だけではなくダスキンの停職に関する書類を提出するように求めた。クリーヴランドは上院の要望に応じてバーネットの指名に関する書類を提出するように司法長官に命じた。その一方で、上院の介入なしに大統領が連邦職員を罷免する権限を恒久的に確定しようと考え、クリーヴランドはダスキンの停職に関する書類を提出するのを拒んだ。
 そうしたクリーヴランドの姿勢に対して上院の共和党議員は政権を協調的ではないと非難する決議を以って応じた。議会へ送付した教書の中で大統領は自らの行動を擁護し、憲法に定められた行政府の長としての大統領の責任を議会が侵害しようとしていると非難した。クリーヴランドと上院の衝突はすぐに国民の関心を引いた。この種の以前の戦いでは世論は大統領を支持していた。敗北を悟った上院は面目を保って撤退する方法を探した。この論争が行われている間に、ダスキンの任期が切れた。そのためクリーヴランドがダスキンをわざわざ停職する必要はなくなった。上院はバーネットの指名をすぐに承認した。
 数ヶ月後、公職の任命に対するクリーヴランドの姿勢は正しかったと証明された。共和党と民主党の圧倒的な支持の下、公職在任法を撤廃する法案が通過したのである。クリーヴランドは後年、「したがって、不幸な論争は幸いにも、憲法上の大統領の特権に対する法的な容認の最後の要求の撤廃を伴い、我々を伝統的な憲法の解釈に復帰させた」と記している。公職在任法が撤廃された結果、大統領は上院の助言と同意なしで自由に公職者を更迭することができるようになった。その結果、クリーヴランドは全国の郵便局長のほぼ全員と他の連邦の官吏の約半数を入れ替えた。

州際通商委員会

 クリーヴランド政権期に州際通商法によって州際通商委員会が設立された。州際通商法が制定されたのは、鉄道が全国的に急速に発展し、1870年代までに最も基本的な州際交通路となったために、その運営を連邦政府が取り締まる必要が出てきたからである。自由競争下において、鉄道会社は利己的経営を行い、高率な運賃を設定し、大企業に有利な差別的運賃制度を採用し、政治家に対して贈賄した。それに対する西部農民の不満が高まっていた。そうした不満に答える形で西部諸州は州内の鉄道交通を公正に規制する法、いわゆるグレンジャー法を制定した。鉄道会社はグレンジャー法を合衆国憲法に違反するとして無効を最高裁に求めた。最高裁は鉄道会社の訴えを斥けてグレンジャー法を合憲と認めた。その結果、鉄道業の営業取り締まりと交通規制が合法であると認められ、連邦政府による交通統制立法の発足に重要な法的根拠となった。
 州際通商委員会は最初の連邦規制機関であり、かつ近代的な行政委員会であり、鉄道運賃を公正に定め差別的措置を禁じ、鉄道会社が大企業に与えてきた優遇措置を終わらせることを目的にした。それは経済の自由な活動に対する最初の連邦による干渉であった。しかし、クリーヴランドはそうした連邦による規制に反対していた。また連邦裁判所は州際通商委員会の命令を審査する権限を主張し、貨物料金を定める権限を州際通商委員会に認めなかった。そのため、セオドア・ローズヴェルト政権によって改められるまで州際通商委員会は執行権を持たず、有効な措置をとることができなかった。

軍人恩給制度改革

 クリーヴランドは南北戦争の退役兵が身体障害のために年金を要求する制度を改革した。退役兵は、地元の連邦議員に年金の請求を行った。連邦議員は軍人恩給法案によって彼らに年金を与えた。クリーヴランドは年金の請求を厳格に審査し、200人以上の請求を却下した。クリーヴランドは大衆に迎合することなく自分の信念に従って、拒否すべきだと考えたことは断固として拒否した。クリーヴランドは放牧業者がネイティヴ・アメリカンから不法に借入していた牧草地の契約を無効とした。また失敗に終わったがブランド=アリソン法で認められた銀貨の自由鋳造を止めさせようとした。旱魃に苦しむ農民を救済するためのテキサス種子法にクリーヴランドは拒否権を行使した。クリーヴランドの考えでは、「人民は政府を支持するけれども、政府は人民を支持するべきではない」と連邦政府が救済に関与することを否定した。

1886年大統領継承法

 ガーフィールドの暗殺と1885年のトマス・ヘンドリックス副大統領の死去に伴って、1886年大統領継承法が制定された。上院仮議長と下院議長の代わりに閣僚が副大統領に続く継承順位に据えられた。継承順位は省が創設された順番に沿って定められた。その結果、国務長官が副大統領の次の継承順位に据えられた。1886年大統領継承法は特別大統領選挙を行うことを定めていない。それまで6人の国務長官経験者が大統領になっているのに対して、議会指導者が大統領になった例は下院議長だったポークが大統領になった例しかない。1947年大統領継承法が定められるまで、副大統領が空席になった事例は5例あるが、1886年大統領継承法が適用されたことは1度もない。

ネイティヴ・アメリカン政策

 1887年2月8日、ドーズ法が成立した。クリーヴランド政権は同法を「インディアンを解放する法」だと賞賛した。同法によって、大統領に、居留地の土地を部族全体ではなくネイティヴ・アメリカン一人ひとりに自作農地として分与する権限が与えられた。同法は、従来、部族による共同土地所有というネイティヴ・アメリカンの慣習を打破し、個人を単位とする土地所有形式によって、ネイティヴ・アメリカンの生活様式を転換し、将来に合衆国市民権を付与することを約束した点で、ネイティヴ・アメリカンにとっても、合衆国政府のネイティヴ・アメリカン政策においても画期的な意義を有した。しかしながら、1887年から1933年の間に部族が所有する土地の半分以上が土地横領者、公売、政府による「剰余土地」の払い下げによって失われた。そもそもネイティヴ・アメリカンの土地所有の概念は個人所有ではなく共同所有であること、そして自作農になることはネイティヴ・アメリカンの望みではなかったことからごく限られた成功しか収めなかった。自作農地を割り当てられたネイティヴ・アメリカンはそれをどう扱えばよいのか分からなかったために多くの者が僅かな賃貸料で土地を貸し出すか、売却するかした。

財政面に関する大統領のリーダーシップの欠如

 グラントの後任者達の業績にも拘わらず、19世紀後半の大統領制度は規模において小さく、権限において制限されていた。 行政府の領域の管理に対する大統領の権限は回復されたが、行政府の領域自体が依然として非常に制限されていた。19世紀末の大統領は行政府の省庁が推進する政策や政府の支出に対してほとんど影響力を持っていなかった。
 財政面では、南北戦争の終わりにより、政府の支出の額と目的の管理は、大統領から議会に戻った。ヘイズとクリーヴランドは、議会が予算法案を使ってその意思を行政府に押し付けようとする試みを拒否権を行使して払い除けようとした。例えば1879年にヘイズは、陸軍予算法案に拒否権を行使した。なぜなら同法案に民主党議員が、執行官が議会選挙の投票所の治安を維持するために南部で軍や武装した市民を使うことを禁じる付加条項を加えたからである。これにより、ヘイズは大統領の権限を侵害する予算付加条項に反対する前例を作った。
 しかし、財政面で拒否権を行使することは防衛的なやり方であった。予算会計法が1921年に成立するまで、課税と支出に対する大統領の権限は無きに等しかった。大統領は、少なくとも平和時は、省庁の支出見積もりが作られる時期について関与しなかったし、そうした見積もりがいつ議会の諸委員会に監査されるか相談を受けることもほとんどなかった。財務長官は予算のまとめ役であり管理者ではなかった。財政面に関する大統領のリーダーシップの欠如は無責任で乱雑な予算を助長した。さらにそうした状況は、支出に関する決定を下す権限を多くの予算委員会に分散させる議会の慣習によって悪化した。

保護関税への攻撃

 19世紀の後半において大統領の公共政策を主導する能力と政権の計画に議会の支持を獲得する能力は制限されていた。この時期には、立法過程において積極的なリーダーシップを発揮する大統領はいなかった。例えば行政府の独立を熱心に擁護したクリーヴランドでさえ立法過程に関して議会に施策を考えるように勧告する以上の責任を大統領が持つとは考えなかった。1880年代に共和党と民主党の衝突の主な原因となった関税のような問題についても、クリーヴランドは議会を自らの意思に沿わせようとはしなかった。
 民主党が1886年の中間選挙で議席を失った後に、民主党の原理に順応して、クリーヴランドは議会に関税を引き下げるように求めた。クリーヴランドは政府の助成と規制は最小限にすべきだと考えていた。保護関税は物価上昇をもたらし消費者にとって不利であるだけではなく、トラストが形成される原因になるとクリーヴランドは信じていた。1887年の一般教書をすべて使ってクリーヴランドは高い関税率に対する攻撃を行った。クリーヴランドは一般教書で、関税問題をもはや保護貿易か、それとも自由貿易かという見解上の差異から取り扱うべきことではなく、アメリカが直面する実情をいかに救済するかという問題であると主張した。輸入関税によって、国民が生活必需品に対して製造業者に多額のお金を払っている点が問題であり、生活必需品とその原材料に対して大幅な関税の削減を断行しなければならないとクリーヴランドは訴えた。クリーヴランドによれば、国民に対して重い負担を強要することは、弁護の余地がない強奪であり、アメリカの公平と正義に対する裏切りであった。それは前例のない一般教書であった。なぜなら一般教書を1つの問題に絞った大統領はこれまでにいなかったからである。

「国家の諸制度はすべての市民に対して彼を保護する政府を慎重に、かつ経済的に無駄なく維持していくために必要な負担のみを除いて、その個人の勤労と営業のすべての成果を保障するものであるとする制度論からすれば、これ以上の強要は弁護の余地のない強奪であり、アメリカの公平と正義に対する責めるべき裏切り行為であることは明らかである。国民の税金の重荷を担う人々に課せられた不正は、他の不正と同様に有害な結果を増殖するものである。国庫は国民の税金と正当な支出目的へと送達する導管として働くためにのみ存在すべきであるが、それが貿易や国民の用途から不必要に回収された貨幣の溜り場と化し、それによって我が国民の活力を奪い取り、我が国の発展を阻止し、生産的な企業への投資を妨げ、金融混乱の脅威を与え、遂には公然たる略奪の陰謀を招く」

 この一般教書によって国民の関心が関税に向けられた。しかし、大統領はそれ以上のことはほとんど何もしなかった。そのためクリーヴランドの提案はほとんど受け入れられず、関税率は少し引き下げられただけであった。クリーヴランドの保護関税を攻撃する姿勢は1888年の大統領選挙の敗因の1つになった。ベンジャミン・ハリソンは保護関税を支持し、実業の支援を受け、東部と中西部の大きな州、特にニュー・ヨーク州で勝利を収めることができた。

結語(1期目)

 19世紀後半の大統領のリーダーシップを制約する束縛についてウィルソンは1885年に「明らかに支配力と統制力、すべての目標とすべての管理権限の中核と源は議会である」と書いた。クリーヴランドは一部の例外を除いて一般的に議会の優越に挑戦しなかった。しかし、クリーヴランド政権の1期目の終わりまでに、南北戦争後の大統領の権威の低下は食い止められた。上院の行政府に対する介入、特に罷免権に関する介入はヘイズ政権、ガーフィールド政権、そしてクリーヴランド政権で上院が敗北することで緩和された。大統領制度の独立を回復させようとする戦いは、政党の猟官者の地元の利害から公職を隔離することによって開始された公職制度改革の法制化によって前進した。

1892年の大統領選挙

 新しい政治秩序が大統領制度に及ぼした影響が最初に現れたのはクリーヴランドの2期目である。クリーヴランドは1892年の大統領選挙でハリソンを破った。クリーヴランドが大統領に返り咲くことができたのは、企業の近代産業化によって引き起こされた経済秩序の混乱という国家的な問題を軽減することに実業志向の共和党が失敗したためである。共和党が支配する第51回議会は大企業による経済独占に対抗するために1890年、シャーマン反トラスト法を通過させ、銀貨の鋳造を増やすことで通貨膨張論者からの圧力に対応したが、第51回議会は歴史上最も不人気な議会となった。憲法は大統領に法が忠実に執行されるように配慮することを求めている。しかし、シャーマン反トラスト法はクリーヴランド政権とマッキンリー政権を通じてほとんど適用されることはなかった。それは大統領が法の執行に関して広範な自由裁量権を持っていることを示している。シャーマン反トラスト法が頻繁に適用されるようになったのはセオドア・ローズヴェルト政権に入ってからである。

1893年恐慌

 ハリソン政権がクリーヴランド政権1期目の政策を覆そうとしたように、クリーヴランドはハリソン政権で実施された政策を覆そうとした。クリーヴランドの就任1年目からアメリカは景気後退に直面した。クリーヴランドは景気後退の原因がマッキンリー関税法にあると指摘した。しかし、クリーヴランドは議会に関税改革を認めさせることはできなかった。
 1890年の中間選挙で民主党は大差で下院の支配権を取り戻した。それは2年後のクリーヴランドの再選の先触れであった。しかし、1893年恐慌が起こると、今度は共和党が1894年の中間選挙で議会の支配権を取り戻した。総人口6,500万人の中で400万人が失業した。シカゴやオハイオ州マッシロンで暴動が起き、職を失った人々はワシントンに向けて行進した。恐慌の原因は、急速な金準備高の減少、産業の過剰拡大、南部と西部の農産物の不作、そしてヨーロッパの経済不況などが考えられる。
 民主党の政治的敗北にも拘わらず、クリーヴランドはリンカン以後の大統領の中でも最も積極的に大統領の権限を行使して1893年恐慌に対応しようとした。シャーマン銀購入法を撤廃するためにクリーヴランドは特別会期を招集したが、それは金本位制を守るうえで積極的なリーダーシップを発揮したことを示している。クリーヴランドは金本位制を守ることで通貨の健全性が保たれると考えていた。クリーヴランドはシャーマン銀購入法とマッキンリー関税法が恐慌の原因となったと考えていた。シャーマン銀購入法は撤廃されたが、恐慌が改善される様子は見られなかった。金準備高は主に輸入の超過と恐慌の後、ロンドンでアメリカの債券が金に換えられたことによって底を尽いた。金の準備高の減少が止まらなかったために、クリーヴランドは金公債をウォール街の銀行家に金流出を止める協力の見返りに安値で販売した。そうした措置は党内の人民主義者の支持を失わせた。銀貨の自由鋳造を主張する農民と労働者は大統領に裏切られたと感じた。またクリーヴランドの立法過程に対する積極的な介入は党の支持を失わせる結果を伴った。クリーヴランドはウィリアム・ブライアン(William J. Bryan)のような民主党の通貨膨張論者の支持を失っただけではなく、大統領の国内政策に対する積極的な介入をこころよく思わない議会指導者の支持を失った。

ウィルソン=ゴーマン関税法

 クリーヴランドは関税の引き上げを望んでいたが保護関税の下で既得権益を確保していた共和党員と東部の民主党員の反対により実現しなかった。1894年に成立したウィルソン=ゴーマン関税法案は本質的には保護関税の意味合いが強かった。また関税率を引き下げるというクリーヴランドの公約を満たすものではなかった。クリーヴランドはウィルソン=ゴーマン関税法案が民主党の綱領に反すると非難したが拒否権を行使せず、結局、大統領の署名なしでウィルソン=ゴーマン関税法は成立した。ウィルソン=ゴーマン関税法は4,000ドルを超える所得に2パーセントの所得税を課す条項を含んでいたが、最高裁はその条項を違憲と判定した。それによって連邦所得税制度を合法的にするためには1913年の憲法修正第16条の成立を待たなければならなくなった。

プルマン・ストライキの鎮圧

 さらにクリーヴランドは、1894年に労働者がプルマン寝台車会社に対して起こしたプルマン・ストライキをめぐる処置で民主党内の支持を失った。プルマン・ストライキをめぐる処置でクリーヴランドはこれまで考えられてきた国内問題に対する大統領の権限の枠を超える権限を行使した。プルマン車両工場の労働者は賃金カットに抗議してストライキを行った。アメリカ鉄道労働組合はストライキを支持した。その一方で経営者側は調停を拒否して実力で対決する構えを見せた。
 シカゴの連邦巡回裁判所は労働組合の執行部に、列車妨害と郵便物の滞貨を中止させるために強制差し止め命令を出したが、暴徒は郵便列車を脱線させ、操車場を占拠した。そこでクリーヴランドは、民主党のイリノイ州知事であるジョン・オールトゲルト(John P. Altgeld)に諮ることなく、合衆国の資産を守り、郵便輸送に対する障害を取り除くために連邦軍をシカゴに派遣した。連邦の介入に対してオールトゲルトは電報で怒りをクリーヴランドに伝え、連邦軍の即時撤退を要求した。クリーヴランドはオールトゲルトの電報に対して、危機の際には法への服従を復活させ、生命と財産を守ることが議論よりも優先すると答えた。

「連邦軍のシカゴ派遣は、郵便業務妨害の排除を求める郵政省の要求、連邦裁判所の令状が通常の手段では執行できない旨の合衆国法務官による申し出、及び州際通商に関する共同謀議が存在することが法的に有効な形で証明されたことに基づき、厳格に合衆国憲法と法に従って行われた。明確に連邦の権限の範疇に属するこうした状況に対処するために、連邦軍のシカゴ市内駐屯は適切であるだけではなく、必要と見なされる。またそうすることで、同市の治安維持にあたる地方当局の明白な任務を妨害する意図はなかった」

 プルマン・ストライキに対するクリーヴランドの介入は、南北戦争期にリンカンによって打ち立てられた前例を再確認するものであり、正式な戦争と国内の反乱の文脈を超えた大統領の非常時大権の概念を拡大させた。クリーヴランドの連邦軍の投入は重要な意味を持っていた。なぜならクリーヴランドはその行動に際して明確な法的権限を持っていなかったし、州や地方当局に対して強制力も持っていなかったからである。クリーヴランドはストライキを弾圧する意思は持っていなかったが、この問題を法と秩序の問題と単純に考えたのである。オールトゲルトはストライキを支持するつもりはなかったが連邦の介入に反対したことで反逆者の汚名を受け、公的生活から追放された。
 プルマン・ストライキはデブズに関する事件を伴った。ユージン・デブズ(Eugene V. Debs)はプルマン・ストライキに同調してアメリカ鉄道労働組合を率いてストライキを行った。連邦裁判所は、アメリカ鉄道労働組合にストライキの停止を求める命令を発し、その命令に違反したとしてデブズに6ヶ月の禁固刑を科した。1895年、連邦政府はデブズとその他のストライキの指導者はストライキによって郵便運送を妨害した罪で告発した。最高裁は、憲法第2条に規定されている一般的な行政権の下、大統領は合衆国の平和を守るためにあらゆる手段を取ることが認められているという判決を下した。またストライキを規制するために強制的差し止め命令を使うことが法的に正当な行為として認められた。しかし、陪審審理もなくデブズを裁判所の命令で収監し、ストライキに包括的な差し止め命令を使ったことは広く批判された。プルマン・ストライキの鎮圧の成功に対してクリーヴランドは政治的に高い代償を払うことになった。民主党内の保守派は大統領を賞賛したが、労働者達はクリーヴランドと民主党に背を向けた。

ハワイ問題

 クリーヴランドは、ハワイ併合を否定し、ハワイに独立自決の道を与えようとした。1892年、ハワイを支配していた君主制がアメリカの実業家に指嗾された一団によって打倒された。新政府がすぐに樹立され、合衆国に併合を求めた。ベンジャミン・ハリソンは併合条約に調印し、上院に送付したが、退任するまでに条約は表決にかけられなかった。1893年、クリーヴランドは併合条約を撤回した。クリーヴランドはアメリカの帝国主義に疑念を抱いていた。クリーヴランドは、ハワイの君主制を打倒するのを手助けしたアメリカ人の行動が合法か否か調査したいと考えた。調査の結果、ハワイの君主制に対する革命はアメリカ人によって周到に計画されたものであったとクリーヴランドは確信した。1894年、ハワイの革命家達は憲法制定会議を開き、共和国を樹立した。クリーヴランドはハワイ共和国を承認しなかった。

国際紛争の仲裁

 クリーヴランドはイギリスとヴェネズエラの国境紛争を解決しようと試みた。ヴェネズエラはイギリス領ギアナとの境界問題で1870年代半ばから1880年代後半にかけてモンロー・ドクトリンを信奉するアメリカに介入を求めた。当初、アメリカは介入に乗り気ではなく、イギリスも仲裁に応ずることを拒否していたが、1895年12月17日の一般教書でクリーヴランドは、モンロー主義に基づいてイギリスに仲裁に応じるように求めた。イギリスの領土搾取に対してあらゆる手段で抵抗するのがアメリカの義務であるとクリーヴランドは訴えた。イギリスはクリーヴランドの呼びかけを拒否した。さらにリチャード・オルニー(Richard Olney)国務長官は、イギリスにアメリカが南北アメリカ大陸の主権者であると主張し、軍事介入の可能性を示唆した。イギリスは回答期限までに回答を行わなかったが、イギリスとの軍事衝突を望まなかったクリーヴランドは特別教書で議会に国境画定のための調査委員会の設立を求めた。イギリス国内でもアメリカと妥協すべきだという声が高まり、結局、イギリスは国際的な仲裁裁判で紛争を解決することに合意した。その結果、1899年に問題は解決された。

結語(2期目)

 民主党が全国党大会でブライアンを大統領候補に指名し、金と同じく銀を通貨の基盤に置く案を選挙運動の主要な問題に据えた時、プルマン・ストライキの鎮圧で関係が悪化していた民主党と労働者の間の溝はさらに深まった。クリーヴランドは自身のリーダーシップが党大会によって否認されたことに怒った。金本位制の擁護を綱領とする共和党が選挙に勝利したことを知ってクリーヴランドは満足したのを隠そうともしなかった。ブライアンは、敗因はクリーヴランドの実業寄りの政策にあると非難したが、農民を主体とした選挙運動が現実味のある政策を提供することができなかったのが主な敗因である。
歴代アメリカ合衆国大統領研究